さよならメリーさん
http://www.k2.dion.ne.jp/~dambala/top/merry.html
がくわしいのでした。
第2章です。
第二章 進駐軍慰安所
http://www.k2.dion.ne.jp/~dambala/top/c-2.pdf
生々しい記述が興味深いが、その中に
>そもそも、日本政府による慰安施設の準備は、河辺虎四郎ら日本代表が出発する以前に命令されており、この資料を以て特殊慰安施設がアメリカから強制されたものであると証明することはできない。しかし、アメリカ側がこのような施設の要求をしたことを完全に否定することもできないのである
とある。
両論ある問題であるだけに、APがなんと言ってるかは正確に伝える必要がある。古森さんは古森さんの見解を、古森さんの見解として述べればいいと思います。
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さてRAAのことは各自ソースを読んでいただくこととして、
興味深い「新円切り替え」と「パンパンガール」についての個所を引用します。
終戦後の混乱を象徴するできごとに「新円切り替え」がある。
当時、日本経済は激しいインフレに見舞われていた。事態を解決するには紙幣の流通量を減らすしかない。政府は予告なしで「預金封鎖」を行った。つまり銀行に預けていた現金が引き出せなくなったのだ。そのうえ五円札以上の紙幣(五円、一〇円、二〇円、一〇〇円、二〇〇円、一、〇〇〇円)を強制的に預金させた。旧紙幣はわずか一二日後にまったく使用できなくなった。そして旧紙幣に印紙を貼った新円のみが流通することになったのである。旧円と新円の交換はわずか一一日間しか行うことが出来なかった。預金封鎖は二年五ヶ月後に解除されたが、インフレの進行により預金の額は四分の一程度に目減りしていた。
新円切り替えは慰安婦たちに深刻な打撃を与えた。なぜか。旧紙幣は印紙を右肩に貼りさえすれば新円として使うことが出来た。しかしその印紙は隣組で配っていたのである。慰安婦の多くは住所不定だ。つまり町内会や隣組に参加していなかったため、印紙を手にすることが出来なかったのだ。RAAの娼館が閉鎖されたのは、新円切り替えがはじまったのと同じ昭和二十一年三月である。大金は稼いだものの、彼女らが持っていたのは旧円。つまり使うことの出来ない金だった。いまさら親元に帰ることもできず、戻るべき施設もない。おまけに政府はなんの保証もしてくれなかった。RAA施設で来る日も来る日も兵隊の相手をさせられた女たちは、体よく街へ放り出されてしまった。文字通り使い捨てである。
彼女たちの頼りは、施設にいたとき米兵がくれたチップの軍票(B円 *注6)だけだった。どうしてこんな目に……。女たちは外国兵の姿を求め、夜の新橋や有楽町に現れるようになった。街角に立つ女たちは「パンパン」と呼ばれた(*注7)。彼女らの典型的なファションは、素足にサンダル履き、占領軍放出品の毛布を染めてつくったスカートで、真っ赤な口紅とマニキュアだけが妙に眩しかったという。少しでも目立って客を引けるようにとビールで髪を染める者、炭火でパーマをかける者もいた。
五島勉・著『黒い春』によると進駐軍慰安婦の数は閉鎖命令当時で五万五千人。このうち一万~一万五千がパンパンや和娼、あるいはキャバレーに流れていったとされる。当時街には失業者がひしめいていた。男でさえ仕事のあてはなく、おまけに前述の「男性優先の就職制度」の壁が立ちはだかっていた。売春は立派な生活の手段だった。娼婦の数は急増し、日本全国でパンパンの数は一五万人にものぼった。ある調査によると、占領軍からパンパンにつぎ込まれたア
メリカの通貨(ドル紙幣と軍票)は年間二億ドルをくだらなかったという。
よっぱらいのアメリカ兵とパンパンガール
まぶしいような公園の雑草のうえで
犬のように交尾をしている
子供たちが集まった三人五人十人
アメリカ兵がむきだしのお尻を動かすと
パンパンガールが笑った
アメリカ兵も笑った
子供たちは石になった(*注8)
↑ネットから拾ってきました。現在、作者を捜査中
軍票で支払われた、戦争中の従軍慰安婦のことを類推する。
「さよならメリーさん」の作者です。
<開港百五十周年記念・語られなかった『ヨコハマ正史』>
書名「消えた横浜娼婦たち---港のマリーの時代を巡って」
著者 檀原照和
版元 データハウス
定価 ¥1,700-(税別)
↓
http://www.amazon.co.jp/dp/4781700160/