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ビルマ・ミッチナの従軍慰安婦の尋問調書(その1-1)


この間問題になっていた、ビルマ・ミッチナの従軍慰安婦の尋問調書について整理したいと思います。

ビルマ・ミッチナの従軍慰安婦の尋問調書にはいくつかのバージョンがあるようです。『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』政府調査文書(アジア女性基金1997年刊)には2つの調書が収録されています。


1つは、
文書A.
ATIS Research Reports No. 120 Amenities in the Japanese Armed Force, Nov. 15, 1945,
連合軍通訳翻訳部(ATIS)調査報告第120号 日本軍における各種アメニティー 1945年11月15日
の b. BURMA  の項


もう1つは
文書B.
UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION
Psychological Warfare Team
Report No. 49: Japanese POW Interrogation on Prostitution.
米軍情報部心理作戦班
売春についての捕虜尋問報告No.49 です。


古森義久氏が一部引用した、
文書C.
A  JAPANESE  ARMY  BROTHEL  IN THE  FORWARD  AREA.
は、文書Bと同じO.W.I米軍情報部の文書だが、文書Bを最終報告とすれば、その中間報告のようなものとおもわれます。


そして、文書Cと文書Aのの記述内容については、古森氏が引用した部分しか重ね合わせることができませんが、今のところ全く同じものといえます。


つまり、ひとつの推測として、米軍情報部心理作戦班の文書を、連合軍通訳翻訳部(ATIS)がタイプしなおしてファイリングしたことなどが考えられます。


以上のことは、専門研究者の考証の結果を待ちたいと思います。文書Aをアップしたいと思っています。


「美しい壺日本」
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-date-20070521.html が紹介した、
Stiffmuscleさんの翻訳を土台にして、私の勝手な意訳を加えてみました。文責は私にあります。(漸次修正を施しますので、おかしな点はご指摘願います)


(以下 引用)
~~~~~~~~~~~~~~
アジア女性基金-歴史の教訓とする事業
http://www.awf.or.jp/program/index.html
『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第5巻p.177-179。
*日本語簡訳はp.113-115(いずれもAcrobat Readerのページ表示)


【文書Aの表題】
ATIS Research Reports No. 120 Amenities in the Japanese Armed Force, Nov. 15, 1945,
連合軍通訳翻訳部(ATIS)調査報告第120号 日本軍における各種アメニティー 1945年11月15日


b. BURMA
b. ビルマ

(1) A prisoner of war, a civilian brothel owner captured with his wife and twenty army prostitutes near WAINGMAW on 10 August, 1944 stated:
(1) 捕虜、1944年8月10日ワイモウ付近で、その妻および従軍売春婦20名とともに捕獲された売春宿経営(民間人)の供述:




※)米軍が撮影した写真中の年配の日本人女性は、楼主の妻だと思われます。雲南・ビルマ最前線における慰安婦達―死者は語る
www.awf.or.jp/program/pdf/p061_088.pdf より


【応募した業者】
“Prisoner of war, his wife and sister-in-law had made some money as restaurant keepers in KEIJO, KOREA, but their trade declining. They looked for an opportunity to make more money and applied to Army Headquarters in KEIJO for permission to take “comfort girls” from KOREA to BURMA. According to prisoner of war, the suggestion originated from Army Headquarters and was passed to a number of similar Japanese ‘business men’ in KOREA.
捕虜、その妻、および義理の姉妹は、朝鮮の京城にて食堂経営者としてそれなりに稼いでいたが、客足は減ってきていた。彼らはより多く稼ぐ機会を得ようと、京城の陸軍司令部に応募して、「慰安婦」を京城からビルマへ連れて行く許可を求めた。捕虜によると(応募して許可を求めるようにという)示唆は、もともと陸軍司令部から出たもので、同じような多数の日本人「業者」にもそれは伝えられていた。

【慰安婦の徴募と軍の支援】
“Prisoner of war purchased 22 Korean girls, paying their families from 300 to 1000 yen according to the personality, looks, and age of the girl. These 22 girls were of ages from 19 to 31. They became the sole property of prisoner of war and the Army made no profit from them. Headquarters, Korean Army gave him a letter addressed to all military headquarters of the Japanese Army, requesting them to furnish any assistance he might require, ransport, rations, medical attention, etc.
捕虜は朝鮮人女性22名を買った、女性の性格、容姿、年齢に応じて300~1000円を彼女の家族に支払った。これら22名の女性の年齢は19~31歳であった。女性たちはこの捕虜の占有財産となり、陸軍は彼女たちから儲けを得なかった。朝鮮の日本軍司令部は、(経由地)全ての陸軍司令部宛てた書簡を捕虜に与え、移送、食糧、医療など、捕虜が必要とした場合の援助は全て提供するよう要請した。

(※)慰安婦の徴募が虚偽の説明によって行われたことは、文書Bに詳しい


【釜山からラングーンへ】
“Leaving his sister-in-law to carry on the restaurant, prisoners of war and his wife, with their 22 girls, embarked at FUSAN on 10 July 1942 in a group of 703 girls, all Korean, and some 90 Japanese men and women, all of them of the same base sort as himself. They sailed on a 4000 ton passenger ship in a convoy of seven ships. Free passage tickets were provided by Army headquarters, but prisoner of war paid for all meals during the voyage. They called at FORMOSA, where 22 other girls bound for SINGAPORE were taken on board, and at SINGAPORE they transferred to another ship, arriving at RANGOON on 20 August 1942.
食堂を続けるために義理の姉妹を残して、捕虜とその妻は22名の女性を連れ、全員が朝鮮人からなる女性703名、および全員が捕虜と同じ類の者たちからなる日本人男女およそ90名の団体の一員として、1942年7月11日に釜山を出航した。7隻からなる船団の中で、一行は4000トンの旅客船に乗って航行した。陸軍司令部からは無料乗船券が提供されたが、航海中の食事は捕虜が全額支払った。台湾に寄港した際、シンガポールへ向かう女性22名が新たに乗船した。その後シンガポールに寄港した際に、一行は別の船に乗り換え、1942年8月20日にラングーンに到着した。


【ラングーンから任地配属】
“At RANGOON they were divided into groups of 20 to 30 girls in each and dispersed to various parts of BURMA, each group being attached to various regiments, units of formation, so that each had its own brothel (s).
ラングーンで、一行は20~30名ずつのグループに分けられ、ビルマ各地へ分散配置された。各グループがさまざまな連隊、部隊、もしくは中隊に配属された結果、各グループがそれぞれの売春宿を持つこととなった。 

※) 部隊側側から見れば、駐屯地ごとにそれぞれ慰安所を持つことになった。




占領国ビルマに設置された軍慰安所



【ミッチナの慰安所】
“Prisoner of war’s group was attached to 114 Infantry Regiment. They spent some months at GOUNGOO, MEIKTILA, and at MAYMYO, following their trade, and then arrived at MYITKYINA (about January 1943). There were already two brothels established in MYITKYINA, so altogether there were three brothels with 63 girls in all: prisoner of war’s house, known as KYOEI, with 22 Korean girls; the KINSUI house with 20 Korean girls; and the MOMOYA house with 21 Chinese girls, who had been purchased from CANTON on the same conditions as the Koreans. There were Japanese girls in houses in the rear areas, as for example at MAYMYO where they formed two of the eight houses there, but none in the forward areas.
捕虜のグループは歩兵第114連隊に配属された。タウングー、メイクテーラ、およびメイミョーで数ヶ月を過ごした後、同業者のあとを追って(1943年1月ごろ)ミッチナに到着した。すでにミッチナには売春宿2軒が設置されていたので、売春宿は3軒、女性は総計63名ということになった。内訳は、捕虜の売春宿であったキョウエイが朝鮮人女性22名、キンスイが朝鮮人女性20名、そしてモモヤが中国人女性21名であった。この中国人女性たちは、韓国人女性たちと同じようなやり方で広東で購入された。また、たとえばメイミョーでは8軒の慰安所のうち2軒が日本人慰安婦で成り立っていたように、後方地域の慰安所には日本人女性がいたが、(ミッチナのような)前線地域には日本人慰安婦はいなかった。

(つづく)