エントリータイトルの「歴史ロンダリング」とは何だ!
分かりにくい言葉を使うな!
と、ある方からお叱りをいただきました。
そこで説明申し上げたいと思います。
私としましてはこれ、「マネーロンダリング」からの連想なのです。
wikipwdiaではこれ、「資金洗浄」といっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%87%E9%87%91%E6%B4%97%E6%B5%84
(一部引用)
むずかしく考えなければ要するに、
『汚れたお金』を、安心して使える『きれいなお金』にしようとする努力です。
そうした努力に似たことが、ここ15年ほど私たちの国日本で進められています。
「歴史というものは事実を教えればいいというものではない」。「学校で教える歴史は元気がでるようなものにしよう」。「歴史から反省するなんてとんでもない自虐的だ」・・・・
最初は、「太平洋戦争を反省しつつ、その中の否定できない人間像を見つめよう」だった、新しい歴史教科書をつくる会も、次第に変わってきて、今ではそのメンバーの中から、「大東亜戦争を否定するような反日的意見は許さない」という合唱さえ起こっています。
そうして、日本の近現代史を美しいものに塗り替えようとしています。
どのような歴史観をもつかは人それぞれです。人生の何が大事かで、歴史観は変わります。ですから、一つの国にさまざまな歴史観があるということは、多様な人生観をお互いに尊重しあっているという、優れた国の証(あかし)です。
ところが、「歴史は美しくあらねばならぬ」を主張する人々のなかには、何か取りつかれたように、目に付くものあらゆるものを浄化しはじめた方々がいます。
いろんなことがあります。学校の卒業式に押しかけて、どの教師とどの父兄が「君が代」を歌はなかったかと執拗に調べあげたり、などなど。
その一貫として進行しているのが、歴史史料の洗い直しです。
歴史史料の洗い直し自体は良いことです。これまで常識と思われていた解釈を、新しい史料とつき合わせて再検討する。それは、とてもよいことです。しかし、一部の方がやっている歴史浄化運動の方法は少し違います。
古い史料解釈を批判する手続きを省くため、古い史料の存在記録自体をなかったことにしてしまいます。それには、『新発見!』、と叫んで持ち出せばいいのです。
これまでは反省材料となるいわば『汚れた史料』だったものを、日本人として誇れるいわば『きれいな史料』として、出し直すということです。
『汚れた史料』を『きれいな史料』に変えてしまう。
おなじモノなのに或る特殊な手続きで変えてしまう。そのテクニックを私は、『マネーロンダリング』になぞらえて『歴史ロンダリング』と呼ぶことにしたのです。
(つづく)
古森さんとのコメント応酬で、資料の出典を白状させたようですね。