覆水盆に返らず

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覆水盆に返らず」(2014/08/09 (土) 18:55:18) の最新版変更点

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<p>露天風呂。混浴風呂。阿知賀のみんなと行って、あわよくば誰か…なんてことを考えなかったわけじゃない。</p> <p> </p> <p>ガラガラと戸を開く音が聞こえた時に、岩の影に隠れてしまったのは…理由は分からない。罪悪感、羞恥心、スケベ心?</p> <p> </p> <p>もしあの時飛び出していたら、俺は、知らなくて済んだんだろうか。</p> <p> </p> <p> </p> <p>湯気の向こうに二人の影。柔らかいシルエットは女性のもので、薄い靄の向こうでも、特徴的な色合いの髪。</p> <p> </p> <p>そんな二人を判定できる極めつけは……やっぱり、声だろう。</p> <p> </p> <p>「おねーちゃん! 見て、貸切だよ!」</p> <p> </p> <p>「うん…すっごくあったかそうなお風呂…」</p> <p> </p> <p>元気な声の妹と、落ち着いた声の姉。温泉に縁深い二人がここに来たことに、なんだか少し笑いそうになる。</p> <p> </p> <p>しっかし…見えそうで、見えないってのがいいよな。心の瞳で未来を見てみようってなもんだ。</p> <p> </p> <p>ここで二人の行動が分かれるのも面白い。妹のほうは髪まできっちり洗いだして、姉の方は軽く体を洗うと温泉へと体を沈ませる。</p> <p> </p> <p>いや…距離的に細部は全然見えないんだけど。岩が遠すぎるぜ…</p> <p> </p> <p>「ねー、おねーちゃん」</p> <p> </p> <p>「ふあー…なあに…?」</p> <p> </p> <p>キュッ、と。水栓の閉まる音が、酷く大きく温泉に響いく。</p> <p> </p> <p>冷たい、冷たい音を立てて。</p> <p> </p> <p>「――京太郎くんのこと、好きなんだよね」</p> <p> </p> <p>固くて冷たい声が、温泉を叩くように響いて、消えた。</p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> <p>二人がどんな顔をしてるかなんて、俺からは窺うことはできない。ただ、笑いあっている雰囲気じゃない事だけは分かる。</p> <p> </p> <p>出ることもできず、俺はただ岩の影から二人の会話を聞くだけしかできなくて。</p> <p> </p> <p>張りつめる空気を変えることも、千切れそうな絆を結びとめることもできなくて。</p> <p> </p> <p>「……」</p> <p> </p> <p>「おねーちゃん、京太郎くんにジュースお酌したり、スリッパ整えたりしてたよね」</p> <p> </p> <p>「…いつものクセだよ」</p> <p> </p> <p>…俺も、そう思ってた。思おうとしてた。</p> <p> </p> <p>昨日の晩に隣でジュースの瓶を傾けてくれたことも、浴衣の裾を押さえながらスリッパを足元に運んでくれたことも。</p> <p> </p> <p>「嘘だよね。それ、おねーちゃんの仕事じゃないもん」</p> <p> </p> <p>黒い髪を濡らしたままで伏せた顔。上げることなく紡がれる言葉は、なぜか、明るい色を帯びていて。</p> <p> </p> <p>「なんだかおねーちゃん、積極的になったねー」</p> <p> </p> <p>「……うん」</p> <p> </p> <p>「あは、おねーちゃん」</p> <p> </p> <p>「なに…?」</p> <p> </p> <p>息が、止まる。</p> <p> </p> <p>洗面器に並々注がれた水がひっくり返る。そうなると当然、入っていたものは、落ちるに決まってる。</p> <p> </p> <p>そう――姉の真上から、冷水が音を立てて落ちるのは当然のことで。</p> <p> </p> <p>「……なに積極的になってるの?」</p> <p> </p> <p>「おねーちゃんはいつもみたいに、引きこもって何もしなくていいんだよ」</p> <p> </p> <p>「指を咥えて見てればいいの。昔、麻雀教室の時だってそうだったんでしょ?」</p> <p> </p> <p>「水でも被って反省してね…それじゃ、私、もう出るから」</p> <p> </p> <p>唾を飲むことも、息を呑むこともできなくて。</p> <p> </p> <p>ただ、妹のほうが迷いなく出口へと歩いていくのを、湯煙越しに見つめる事しかできなかった。</p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> <p>一人残された姉のほうも俯いて、前髪からはポタポタと水を落としている。</p> <p> </p> <p>俺の中にはもう、岩から出るとか、そんな考えは全くなくて。ただここから出て行ってほしい、その思いだけが積もり積もっていく。</p> <p> </p> <p>「……なにが」</p> <p> </p> <p>不意に、嫌になるほどの静けさを破る声が聞こえた。</p> <p> </p> <p>「自分に自信が無いから…そんなこと、するんだよね…」</p> <p> </p> <p>「私には勝てないから、陰険で、馬鹿みたいなことして…」</p> <p> </p> <p>「……つまんない子」</p> <p> </p> <p>「でも…あんなのでも、妹だもん…」</p> <p> </p> <p>ゆっくりと上がったその顔は。</p> <p> </p> <p>「いいよ…アプローチでもなんでもすれば…」</p> <p> </p> <p>「その後で、ゆっくり貰うから…くすっ」</p> <p> </p> <p>湯煙の中で、確かに笑っていた。</p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> <p>空から一滴の雨粒が落ちる。その一粒が雨雲の堰を切ったように、水音はすぐに轟音になっていく。</p> <p> </p> <p>「…須賀君、どうする? 走って帰ってもいいけど」</p> <p>                          </p> <p>「そしたらもっと濡れちゃいませんか…風邪、引いちゃいますよ?」</p> <p> </p> <p>「今更って気もするけどね。髪の毛、もうグッショグショだもの」</p> <p> </p> <p>そう言って髪を撫でる部長の姿はどこか艶やかで。見れば見るほど冷えた体が熱を帯びそうで、そっと目を逸らした。</p> <p> </p> <p>「あーあ…須賀君、髪留めとかゴムとか持ってない? 髪が首や背中にかかるとすっごい気持ち悪いのよ」</p> <p> </p> <p>「んなこと言われても」</p> <p> </p> <p>言わんとすることは分かる。俺も水を吸った前髪が重くて、今すぐ切りたいくらいだけど…それを部長にいう訳にはいかないよなあ。</p> <p> </p> <p>「仕方ないわねえ…よっと」</p> <p> </p> <p>「もしかして、ずっと手で掻き上げとくつもりですか?」</p> <p> </p> <p>「だってこれしか無いじゃない? ねー、腕疲れるから、代わりに持っててくれない?」</p> <p> </p> <p>「女の子がそんな簡単に髪を触らせていいんすかね」</p> <p> </p> <p>ぽたぽたと落ちる滴が木陰を濡らす。重そうな髪は、その陰から白い首筋を覗かせて。</p> <p> </p> <p>今にも触れそうなくらい近くで、手にその熱を感じながら。</p> <p> </p> <p>「雨…止まないっすね」</p> <p> </p> <p>「そうね。もう少し時間掛かるかも…」</p> <p> </p> <p>髪の毛が重くて、手が少しだけ、肌に触れる。</p> <p> </p> <p>じっと俺を見つめる部長の瞳。無邪気に歪む口元から出る楽しげなハミングが、雨音の中で響いていた。</p>
<p>露天風呂。混浴風呂。阿知賀のみんなと行って、あわよくば誰か…なんてことを考えなかったわけじゃない。</p> <p> </p> <p>ガラガラと戸を開く音が聞こえた時に、岩の影に隠れてしまったのは…理由は分からない。罪悪感、羞恥心、スケベ心?</p> <p> </p> <p>もしあの時飛び出していたら、俺は、知らなくて済んだんだろうか。</p> <p> </p> <p> </p> <p>湯気の向こうに二人の影。柔らかいシルエットは女性のもので、薄い靄の向こうでも、特徴的な色合いの髪。</p> <p> </p> <p>そんな二人を判定できる極めつけは……やっぱり、声だろう。</p> <p> </p> <p>「おねーちゃん! 見て、貸切だよ!」</p> <p> </p> <p>「うん…すっごくあったかそうなお風呂…」</p> <p> </p> <p>元気な声の妹と、落ち着いた声の姉。温泉に縁深い二人がここに来たことに、なんだか少し笑いそうになる。</p> <p> </p> <p>しっかし…見えそうで、見えないってのがいいよな。心の瞳で未来を見てみようってなもんだ。</p> <p> </p> <p>ここで二人の行動が分かれるのも面白い。妹のほうは髪まできっちり洗いだして、姉の方は軽く体を洗うと温泉へと体を沈ませる。</p> <p> </p> <p>いや…距離的に細部は全然見えないんだけど。岩が遠すぎるぜ…</p> <p> </p> <p>「ねー、おねーちゃん」</p> <p> </p> <p>「ふあー…なあに…?」</p> <p> </p> <p>キュッ、と。水栓の閉まる音が、酷く大きく温泉に響いく。</p> <p> </p> <p>冷たい、冷たい音を立てて。</p> <p> </p> <p>「――京太郎くんのこと、好きなんだよね」</p> <p> </p> <p>固くて冷たい声が、温泉を叩くように響いて、消えた。</p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> <p>二人がどんな顔をしてるかなんて、俺からは窺うことはできない。ただ、笑いあっている雰囲気じゃない事だけは分かる。</p> <p> </p> <p>出ることもできず、俺はただ岩の影から二人の会話を聞くだけしかできなくて。</p> <p> </p> <p>張りつめる空気を変えることも、千切れそうな絆を結びとめることもできなくて。</p> <p> </p> <p>「……」</p> <p> </p> <p>「おねーちゃん、京太郎くんにジュースお酌したり、スリッパ整えたりしてたよね」</p> <p> </p> <p>「…いつものクセだよ」</p> <p> </p> <p>…俺も、そう思ってた。思おうとしてた。</p> <p> </p> <p>昨日の晩に隣でジュースの瓶を傾けてくれたことも、浴衣の裾を押さえながらスリッパを足元に運んでくれたことも。</p> <p> </p> <p>「嘘だよね。それ、おねーちゃんの仕事じゃないもん」</p> <p> </p> <p>黒い髪を濡らしたままで伏せた顔。上げることなく紡がれる言葉は、なぜか、明るい色を帯びていて。</p> <p> </p> <p>「なんだかおねーちゃん、積極的になったねー」</p> <p> </p> <p>「……うん」</p> <p> </p> <p>「あは、おねーちゃん」</p> <p> </p> <p>「なに…?」</p> <p> </p> <p>息が、止まる。</p> <p> </p> <p>洗面器に並々注がれた水がひっくり返る。そうなると当然、入っていたものは、落ちるに決まってる。</p> <p> </p> <p>そう――姉の真上から、冷水が音を立てて落ちるのは当然のことで。</p> <p> </p> <p>「……なに積極的になってるの?」</p> <p> </p> <p>「おねーちゃんはいつもみたいに、引きこもって何もしなくていいんだよ」</p> <p> </p> <p>「指を咥えて見てればいいの。昔、麻雀教室の時だってそうだったんでしょ?」</p> <p> </p> <p>「水でも被って反省してね…それじゃ、私、もう出るから」</p> <p> </p> <p>唾を飲むことも、息を呑むこともできなくて。</p> <p> </p> <p>ただ、妹のほうが迷いなく出口へと歩いていくのを、湯煙越しに見つめる事しかできなかった。</p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> <p>一人残された姉のほうも俯いて、前髪からはポタポタと水を落としている。</p> <p> </p> <p>俺の中にはもう、岩から出るとか、そんな考えは全くなくて。ただここから出て行ってほしい、その思いだけが積もり積もっていく。</p> <p> </p> <p>「……なにが」</p> <p> </p> <p>不意に、嫌になるほどの静けさを破る声が聞こえた。</p> <p> </p> <p>「自分に自信が無いから…そんなこと、するんだよね…」</p> <p> </p> <p>「私には勝てないから、陰険で、馬鹿みたいなことして…」</p> <p> </p> <p>「……つまんない子」</p> <p> </p> <p>「でも…あんなのでも、妹だもん…」</p> <p> </p> <p>ゆっくりと上がったその顔は。</p> <p> </p> <p>「いいよ…アプローチでもなんでもすれば…」</p> <p> </p> <p>「その後で、ゆっくり貰うから…くすっ」</p> <p> </p> <p>湯煙の中で、確かに笑っていた。</p> <p> </p> <p> </p>

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