露天風呂。混浴風呂。阿知賀のみんなと行って、あわよくば誰か…なんてことを考えなかったわけじゃない。
ガラガラと戸を開く音が聞こえた時に、岩の影に隠れてしまったのは…理由は分からない。罪悪感、羞恥心、スケベ心?
もしあの時飛び出していたら、俺は、知らなくて済んだんだろうか。
湯気の向こうに二人の影。柔らかいシルエットは女性のもので、薄い靄の向こうでも、特徴的な色合いの髪。
そんな二人を判定できる極めつけは……やっぱり、声だろう。
「おねーちゃん! 見て、貸切だよ!」
「うん…すっごくあったかそうなお風呂…」
元気な声の妹と、落ち着いた声の姉。温泉に縁深い二人がここに来たことに、なんだか少し笑いそうになる。
しっかし…見えそうで、見えないってのがいいよな。心の瞳で未来を見てみようってなもんだ。
ここで二人の行動が分かれるのも面白い。妹のほうは髪まできっちり洗いだして、姉の方は軽く体を洗うと温泉へと体を沈ませる。
いや…距離的に細部は全然見えないんだけど。岩が遠すぎるぜ…
「ねー、おねーちゃん」
「ふあー…なあに…?」
キュッ、と。水栓の閉まる音が、酷く大きく温泉に響いく。
冷たい、冷たい音を立てて。
「――京太郎くんのこと、好きなんだよね」
固くて冷たい声が、温泉を叩くように響いて、消えた。
二人がどんな顔をしてるかなんて、俺からは窺うことはできない。ただ、笑いあっている雰囲気じゃない事だけは分かる。
出ることもできず、俺はただ岩の影から二人の会話を聞くだけしかできなくて。
張りつめる空気を変えることも、千切れそうな絆を結びとめることもできなくて。
「……」
「おねーちゃん、京太郎くんにジュースお酌したり、スリッパ整えたりしてたよね」
「…いつものクセだよ」
…俺も、そう思ってた。思おうとしてた。
昨日の晩に隣でジュースの瓶を傾けてくれたことも、浴衣の裾を押さえながらスリッパを足元に運んでくれたことも。
「嘘だよね。それ、おねーちゃんの仕事じゃないもん」
黒い髪を濡らしたままで伏せた顔。上げることなく紡がれる言葉は、なぜか、明るい色を帯びていて。
「なんだかおねーちゃん、積極的になったねー」
「……うん」
「あは、おねーちゃん」
「なに…?」
息が、止まる。
洗面器に並々注がれた水がひっくり返る。そうなると当然、入っていたものは、落ちるに決まってる。
そう――姉の真上から、冷水が音を立てて落ちるのは当然のことで。
「……なに積極的になってるの?」
「おねーちゃんはいつもみたいに、引きこもって何もしなくていいんだよ」
「指を咥えて見てればいいの。昔、麻雀教室の時だってそうだったんでしょ?」
「水でも被って反省してね…それじゃ、私、もう出るから」
唾を飲むことも、息を呑むこともできなくて。
ただ、妹のほうが迷いなく出口へと歩いていくのを、湯煙越しに見つめる事しかできなかった。
一人残された姉のほうも俯いて、前髪からはポタポタと水を落としている。
俺の中にはもう、岩から出るとか、そんな考えは全くなくて。ただここから出て行ってほしい、その思いだけが積もり積もっていく。
「……なにが」
不意に、嫌になるほどの静けさを破る声が聞こえた。
「自分に自信が無いから…そんなこと、するんだよね…」
「私には勝てないから、陰険で、馬鹿みたいなことして…」
「……つまんない子」
「でも…あんなのでも、妹だもん…」
ゆっくりと上がったその顔は。
「いいよ…アプローチでもなんでもすれば…」
「その後で、ゆっくり貰うから…くすっ」
湯煙の中で、確かに笑っていた。
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