かつん。
 かつん。かつん。かつん。
 渇いた音が、伽藍堂のセカイに反響して溶けて消える。
 ここは何処なのだろう。
 何処でもあって何処でもない。
 言うなれば、己の心象奥深くに眠る記憶や価値観、そういったあらゆる要素を継ぎ接ぎにした心の中。
 謂わば、ユメのセカイ。
 何処までも続いている、覚めれば終わってしまうほど儚く切ない地平線が広がっている。
 見覚えのある、けれど決定的に違うと解る光景を、何を思うでもなく歩く、歩く。
 不思議と、〝こんなこと〟になっていることへの恐怖や不安の感情はなかった。
 さもこれがレム睡眠下で見る夢中の景色であるかのように、端的な事実として受け入れている。
 間違ってはいないだろう。
 これでいい。これで正しい。
 無味乾燥とした雑念の排斥場を、ぐしゃぐしゃと地面を踏み締め死んだように歩く。
 どれくらいの時間が経過したろうか。
 疲れはない。
 これは夢だから。
 夢の中でなら誰だってヒーローになれて、誰だって主役を張れる。
 ヒロイズムが芽生える。セカイがご都合主義のデウス・エクス・マキナに歪められるのだ。
 事実。
 今ならきっとなんだって出来て、なんにだってなれる自信があった。
 不可能だと諦めてしまったことも、自分が狂おしく嫌悪した存在へと成り代わることも、なんだって。
 なんだって想いの侭に改変して、果てしなく続く幻想を彩ってやれる気がした。

 「よう、〝アリス〟。今宵は来客の多いことだねぇ。まあ、俺としちゃあ大歓迎なんだがよ」

 そんな気持ちを踏み躙るような軽薄さで、万人に悉く嫌悪を植え付ける嘲笑を湛えたチェシャ猫が立ち塞がる。
 猫は喋らない。猫は二足で歩かない。猫はこんなに破綻してなどいない。
 〝アリス〟とチェシャ猫は呼んだ。
 ちがう。僕/俺/私はそんな名前ではない。

 「いいや、おまえたちは〝アリス〟だよ。そういうことに、なってるんだ」

 呵々と猫が嗤う。
 確信をもって断言できることがひとつあった。
 其れは、自分はこんな存在を知らないということ。
 フードを纏い、まるで猫がヒトの猿真似をしているかのよう。
 あまりに非現実的で、だからこそ極限のリアリティを孕ませて夢魔はそこにいる。

 「はっきり言うぜ。おまえらの行き先には、もうバッドエンドしか残ってねえ。
  理不尽だと嘆くのも、自暴自棄になって暴れるのも自由だ。俺には、関係のないことだしな」

 チェシャ猫の語り口は、悪辣な語り部じみている。
 肝心な箇所を濁し、話の全体像を掴み取らせない陽炎の話術。
 ――いや、そういう風に説明してしまえるものではないか。
 元々、きっと存在の根元に至るまで、こうなのだろう。
 だって此奴はユメのセカイの案内人で。
 不思議の国の住人宛ら、曖昧希薄な虚像体(ナーサリーライム)なのだから。

 「けど、あれだろ? おまえら、どうせ出たい出たいと思ってんだろ?
  無理もねえわな、ニンゲンってのはそんなもんだ――」

 けたけた。一定しない情緒を喜悦に染めて、解らないねえと猫が嘲る。
 都合の悪い現実から逃げる為にユメを見るのに。
 いざユメから出られないとなると途端に現実に返せと喚く。
 どっちなんだ。結局、どっちでも納得できないのだろう。

 「――だったら、だ。
  〝カギ〟を探してみな。それで一人くらいなら抜け出せる」

 ユメから帰るための小さなカギ。
 曰く、セカイのカギ。
 けれどこのイレギュラーなセカイに限って言えば、一個人のセカイをこじ開けるそれとは訳が違う。
 沢山の迷子(アリス)のセカイがつながり、一個のコロニーを形成している時点で異常過ぎる現象なのだ。
 そのつながりを断ち切り、セカイに穴を開けてユメから覚ます、大きな力が必要となる。

 「探してみな、って言うと語弊があるかな。
  正確には〝引き出してみろ〟ってのが正しい。
  普段はどっかに隠れてんだよ――いや、そもそも存在自体してないのかね?
  悪い、そこんとこは俺にもちとわからねえ。まあ、どうでもいいことだ」

 だって私は、おまえらじゃねえし。
 アリスを堕落へ導く案内人。
 すべてを知っていながら、彼にもこのセカイを崩す力はない。
 あくまで、案内人でしかないからだ。
 面白可笑しく暗躍するしたことは幾度かあれど、所詮は籠の中の鳥、悖い塀の中の猫。
 チェシャ猫も。
 世界と異なる〝セカイ〟へ迷い込んだアリスたちも。
 シロウサギすらも。
 誰も彼も、物語の主役を、悪役を担うにはちっぽけすぎる存在だった。
 それを承知した上で、チェシャ猫は彼らを焚きつける。
 悩めるアリスに道標を示し、ユメからの出口を提示する。


 けれど。猫の誘う光明は――

 「だから、アリスをぶっ殺してカギを引き出せよ。それで帰れるぜ、〝おまえだけは〟」

 ――絶望の極点だ。
 己と他者を天秤にかけ、己が優るなら蹴落とせと云っている。
 得意だろ、そういうの。
 今更キレイゴト語んなよ、にあってねえぜ、アリス。
 否と叫びたい。
 でも、叫べない。
 だってこれはユメだから。
 覚めれば何もかも元通りになるマボロシだから。
 なら、それなら――。
 そう思ってしまう自分に気付かされる。
 当たり前だ。ここは自己の心理を投影したセカイ。
 どんなに目を背けても、事実が消えることはない。

 「ヒハハハッ、まあ頑張れよ。頑張って、カワイーカワイー自分を守るこった」

 待て、と声が出る。 
 チェシャ猫を引きとめようと伸ばした手は、虚しく空を掻いた。
 だれもいない。
 ただ、そこにはひとつ、〝アイテム〟がある。
 ごくり。
 生唾を嚥下して、拾い上げて持った瞬間、これがどういうものかを理解した。
 他の誰かを蹴落とすための、便利な道具。
 ――信じられない。
 茫然と見上げた空に色はない。
 一面の曇天が包み込み、雨でも振りそうな様相を呈している。

 「――――、」

 こうして。
 始まりとしてはあまりにつまらなく、あっけなく、そして不条理に。
 ナイトメアは大きく牙を剥いて、アリスたちは閉じ込められる。
 これはユメ。覚めないユメ。
 だがしかし、覚めてしまえば何もかもなかったことになる幻影。
 数多のこころは交差して、誰の思い通りでもなく、撒かれた火種が拡大し、そして。

















 ――――さめないゆめのたたかいが、はじまった。














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最終更新:2013年12月25日 19:15