かたかた。
暗がりの中、うずくまって身体を震わせる小柄な少女の姿があった。
茶髪のてっぺんにはぴょこんとアホ毛が立っていて、顔立ちは幼く穏和そうな雰囲気が伝わってくる。
普通、こんな時間ともなれば布団に潜って夢でも見ているのが適当と思われるような――まあ、此処もユメには違いないのだが――年端もいかない少女。彼女の名前は、チェルシーといった。
「やだ……やだよっ……」
口をついて出る言葉は忌避。
これから始まり、幾度となく繰り広げられるだろう光景への嫌悪。
赤色の光景が脳裏を過ぎる。
錆の匂いが鼻腔を充し、じっとりと身体が濡れる感覚を思い出し、吐き気を催してしまう。
いやだ。いやだ、もうあんなものをみるのはいやだ。
どうしてこんなことになってしまったのか――問いかけても、当然答えてくれる者などない。
チェルシーは臆病な少女である。
その物腰や外見からも想像できる通り、些細なことで泣いてしまうほどに弱い人物である。
競争や奪い合い、まして殺し合いなどもってのほか。
十人に聞けば十人がそう答えるだろう彼女。
けれども、彼女がこの事態へこれほどまでの恐慌を示している理由は、単に恐怖から来るものではなかった。
覚えているからだ。
どれだけ時間が経っても、思い出してしまうからだ。
目を合わせる恐怖。
手をつないでしまった過ち。
狼。赤くそまって、死んでいった獣。
赤頭巾(チェルシー)はすべて覚えている。
あの醜悪な感触も、斧を振り下ろす勢いも、滴り落ちる雫の不気味さも。
噎せ返るようなヒトの香りと、飛び散ったヒトだったものと、それを作り出した自分の姿を。
「たすけて、先生……だめ、これ、やだよ……!」
透明な雫がこぼれて落ちる。
服が汚れるのも顧みずに座り込んだ地面に、ぽたぽたと落ちてシミを作っていく。
声を押し殺すだけで精一杯だった。
大声をあげて泣いたら、きっとオオカミが来てしまう。
あの時のように、やさしい顔をしてやってくる。
そして、きっとまた。
いや、今度はひょっとして――
「っく、ひっく、えぐっ……」
〝今度は、自分がたべられてしまうかもしれない〟。
想像してしまった。
あの赤色に、自分が倒れている姿。
おばあさんではなく、自分が食べられてしまう光景。
自分が弱いことなんて、自分が一番知っている。
もしちゃんと向かい合ってオオカミと戦ったら、どっちが勝つかは自明。
間違いなく、死ぬ。
無様に、無価値に、どこまでも哀れに。
身体の震えをいっそう強くしながら、チェルシーは――自分の傍らにあるものをみた。
「…………」
あのチェシャ猫が消えたあと、いつの間にか置かれていたそれ。
何故、と思う。
二回もこれを見なければいけないなんて、神様は意地悪だと悪態のひとつもつきたくなる。
斧だった。
あのとき、オオカミの身体を破った凶器(どうぐ)がそこにはあった。
一瞬の逡巡の後、ゆっくりとそれを手に取ってみる。
もしかしたら、と期待した。
もしかしたら、なんともないかもしれない。
これはユメなんだから。
きっと大丈夫、きっと大丈夫。
そう言い聞かせて持ち上げた瞬間、ダメだと気付いた。
消えない。
頭にこびりついた、あの憧憬が消えない。
色濃く浮かび上がって、嘲笑いながら告げる。
これは、あの時のものだと。
オオカミを殺した、すべての始まりの一本だと。
「…………なんで」
ぺたり。
もう一度尻餅をついてへたり込み、表情を俯かせる。
「先生に会えて、みんなと出会って」
あの新しいおうちで、暮らす時間は楽しかった。
そりゃたまには喧嘩だってしたし、泣いたこともあったけど、楽しかった。
友達と遊んだり、日々のことを手帳に書いたりして、過ごした時間はあまりにも穏やかで。
――わたしのしたことを、わすれさせてしまうくらい、甘かった。
「やり直せるかもって、おもったのに!」
そんな淡い期待さえも踏みにじられて、チェルシーは恐怖も忘れて叫ぶ。
こんなユメ、こんなセカイ、壊れてしまえばいい。
破滅願望すら抱えながら、いよいよ大声で泣いてしまおうかと思った、丁度その時だった。
「――そこに、誰かいるのか?」
「っ……!」
男の声が、自分しかいないと思っていた暗い森のなかに聞こえた。
鼓膜を声が叩くと、昂ぶった感情は冷水でも浴びせかけられたように冷めていく。
チェルシーといえど、ここで何をすべきかくらいは理解している。
チェシャ猫が語った通りだ。
セカイのカギを引き出し、ユメから覚めること。
そしてその為に、他のアリスを殺さなければならない。
誰だって自分がかわいい。
だから、カギが欲しい。
終わらないユメから覚めたい。
思わず手が斧を握り、ハッとなって取り落とす。
フラッシュバックする光景。
もはや、チェルシーに抵抗の手段はなかった。
瞳から大粒の涙を流しながら、彼女は自分に訪れる結末を覚悟する。
「……落ち着いてくれ。こんなナリをしてるけど、俺は君の味方だ」
――しかし、その想像は裏切られた。
恐る恐る閉じた瞼を開けて目の前に立つ人物を見つめる。
一目みた感想は、怖そうだと感じた。
顔に刻まれた引っ掻き傷が、浮かべた微笑みとあまりにもミスマッチだったから。
が、男はチェルシーの怯えを解いてやろうと両手を挙げて、危害を加える意思がないことを示している。
「……あなた、だれ……ですか……?」
「鷹岡明っていうんだ。これでも軍人あがりだからね、腕っ節には自信がある。君はなんていうんだ?」
「……チェルシー、です」
小太りな体型からは少々想像できないが、こんな状況なのにちっとも怖がっていない辺り、強い人なのかもしれない。
武器も持っているようには見えないし、何よりその笑顔がありがたかった。
緊張が抜けて、ほっと胸を撫で下ろす。
よかった、オオカミなんかじゃ、なかったんだ。
「えっと、鷹岡さんも……わたしと同じ、〝アリス〟なんですよね」
「らしい、ねえ。あの猫が言うには、だけどさ。
――おっと、でも安心してくれ。俺はチェルシーを殺したりなんかしない」
鷹岡は朗らかに笑う。
人相は少し怖いけれど、いい人そうだとチェルシーは思った。
彼ならきっと大丈夫。――ああ、この感覚には覚えがない。
恋慕などとは勿論違う、本能に刻み込まれた信用の形。
自分にはなかったもの。
なんだろうと頭を悩ませていると、その答えは鷹岡自身によって齎された。
「一緒にカギを見つけ出そうぜ。
大船に乗ったつもりで……そう、俺を〝父ちゃん〟と思って任せとけ」
父ちゃん。
父親。
お父さん。
彼にしてみれば違いなく、チェルシーを安心させるためのものだったのだろうが、彼女にとって父親とは、否応なしにあの赤い悲劇を想起させるもの。
頭がくらくらする。こめかみを抑え、目を見開いて押し寄せる恐れに耐える。
尋常ならざる様子を感じ取った鷹岡の顔色が変わった。
彼とて察しが付いたらしい。
この世には、必ずしも父親と安心が結びつかない子供もいる。
例えば虐待。
目の前の少女もそうだったのかもしれないと考えれば、自分の何気なくいつものように口にした常套句が思わぬ地雷を踏みつけてしまったのだと理解するまでそう時間はかからなかった。
然れど、そこは元・凄腕教官の鷹岡。
今まで幾人もの優秀な人材を輩出させ、作り上げてきた男にとってさほど致命的なミスでもない。
「……チェルシー。チェルシーは、俺が怖いか?」
「え……?」
「怖くないだろ? 〝父親〟ってのは、そういうもんなんだぜ」
ウインクして、鷹岡は教師が生徒に語らうような調子で続ける。
「自分の不安とかやるせなさとか、全部委ねられる存在が本当の父親ってやつなんだ。
チェルシーに何があったのかは分からないが、じゃあ俺のことを父ちゃんだと思えばいい」
「鷹岡さん……」
「な、大船に乗ったつもりで任せとけって。父ちゃんがお前をしっかり導いてやるぞ!」
チェルシーにとって、頼れる大人という人物は一人だった。
施設へ誘ってくれた先生。
ここにいるかも解らない、優しくて穏やかでちょっとかわいい人。
鷹岡は彼とはまったく違うタイプだったけれど、頼れると感じた。
怖がっていた心がほどけていく。
――いつの間にか、震えは止まっていた。
「鷹岡さん……は。
私をたすけて、くれるんですか?
悪いオオカミから、守ってくれるんですか……?」
「勿論だ。父ちゃんは力持ちだからな、例えばその斧だって――おっと。チェルシーじゃひょっとしてこれ、扱うのはムスカしいんじゃないか? 重たいしなあ。どうだろう、父ちゃんのと交換するってのは」
その通りだった。
チェルシーは非力だ。
本来、重いものを持つことからして難しいくらい。
火事場の馬鹿力で予期せぬパフォーマンスを発揮することはできるにしろ、普段から使えなくては護身の意味を成すまい。
それに――やっぱり、これはいやだ。
どうしても、いやな思い出をよみがえらせてしまうから。
「よかったら、そうしてくれるとうれしいです」
「よし分かった。じゃあチェルシーには、これをあげよう」
鷹岡が差し出したのは、凡そチェルシーに不似合いな代物だった。
黒光りする、テレビや漫画の世界でしか見たことないような武器。
――銃。動揺するチェルシーの傍らの斧を拾い上げながら、鷹岡は言う。
「大丈夫。安全装置を外して引き金を弾くだけだ」
「で、でも……私、こんなの使えるかな……」
「自分の身を守る備えも必要だぞ?
父ちゃんが正々堂々戦うから、隙をついてチェルシーが撃つんだ」
――――時間が、止まった気がした。
なにかがおかしい。
なにか、おかしなところがあった。
じりじりと、ざわざわと心がざわついてやかましい。
「さあ、カギを探しに行こう。
心配するなよ、チェルシーはサポートだけしてくれればいいんだ。
他のアリスを、そいつで殺(と)ってくれ」
「え――」
「? 何を不思議そうな顔してるんだよ。
あの猫も言ってただろ? 〝カギを手に入れたけりゃ、アリスを殺せ〟ってな。
それともなんだ? チェルシーは、この悪夢からとっとと覚めたくないのか?」
鷹岡が、笑いながらそんなことを口にする。
帰りたい。それはチェルシーもずっと思っていることだ。
こんなところから出られなくなるなんて嫌だし、早くみんなと会いたい。
でも――その為に誰かを殺すなんて、チェルシーには到底頷ける話ではなかった。
「で、でも……おかしいよ……そんなこと、するなんて……」
「じゃあどうするんだ。二人で協力して生き残る。生きてユメから覚める。まごうことなき最善策だ」
「だ、だめだよ……もっと、なにか別の――」
はあ、と。
鷹岡は溜息をついた。
その姿を視認した一瞬後、チェルシーの頬を強い衝撃が襲った。
ぱんっ。渇いた音が鳴って、頬がじんじんと痛みを訴え、身体は地面を転がる。
叩かれた。そう理解すると、途端に恐怖が己を支配する。
「ダメじゃないか、チェルシー。
父ちゃんの言うことを聞かないなんて、悪い子め」
「こ……来ないで……来たら……っ!?」
「安全装置を外さないとダメだって言ったろ?」
今度は爪先が、腹へ入った。
かはっと肺の中の空気を吐き出し悶えるチェルシーの小さな手を、鷹岡の足が踏みつける。
「い、痛い……やめて……っ」
「チェルシーが悪いんだぞ? 父ちゃんの言うことを聞かないから、こうなるんだ。
何ならここで指をへし折ったっていいが、どうする」
「っ……」
「ああ、いや。
殺しちまってもいいなあ。父ちゃんだって自分がかわいいしな」
ここで、ようやくチェルシーは気付いた。
鷹岡明という人間が、どういうモノであるのか。
彼は――オオカミなんかより、ずっとずっと質の悪い悪魔だ。
オオカミの獰猛さを持ちながら魔女の悪辣さを持つ、悪意の塊。
年幼い子供にぶつけるには酷が過ぎる異常者。
故に解る。
彼の自分を殺すという発言は、断じて虚仮の類ではない。
本気で言っているのだ。
使えないなら殺して、また別のアリスに同じことを頼めばいい。
一人や二人死んでも、なんら困らない。
「や、やるから……」
「何をだ?」
「鷹岡さんのこと、手伝うから……だから、殺さないで……いたいことしないでっ……!」
にこり。
チェルシーの哀願を聞き、満足げに微笑み鷹岡は足をどける。
完了だ。恐怖でもって支配し、人格さえも歪めて手駒とする――こうも上手くいくとは。
「そうか、分かった。もう反抗しちゃダメだぞ」
「ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」
鷹岡明の目的は、最初から一つだ。
このセカイを脱する為、カギを手に入れる。
いや、それだけではない。
あのチェシャ猫は笑いながら彼に言った。
〝お前の最も殺したいヤツも、どうやら迷い込んでるみたいだぜ〟――と。
鷹岡には、それが誰のことであるのかすぐに理解できた。
潮田渚。小癪な手段に訴えて自分を破り、破滅させた憎んでも憎みきれない糞餓鬼だ。
許せない。その手足を引き千切って苦悶に泣き叫び、許しを乞うのが見たい。
自分が受けた非人道的仕打ちの報いを、この悪夢の中で受けてもらおう。
楽しみだ。楽しみで楽しみで仕方がない。
爪を立てて顔を掻く。
血が出るのも、塞がりかけていた傷口が開くのも気にしない。
痒い。
しかしこの痒さともじきにおさらばだ。
今度はあの小奇麗な顔が歪むのを思い浮かべて愉悦に浸って生きていこう。
(という訳でだ……しっかり働いてくれよォ? チェルシー)
私怨と生への欲望。
罪悪の塊に見初められた少女は、虚ろな瞳で思う。
このセカイに、救いなどないのだと。
ユメも現実も、どこもかしも残酷だ。
祈るしかない。もう後戻りのきかない罪禍を背負っていても、奇跡を信じて。
(だれか、わたしを――)
たすけて。
悲痛な叫びは誰の心に届くこともなく。
非業の少女は、囚われる。
【A-2/森/一日目/深夜】
【チェルシー@Alice mare】
[状態]:右頬に軽度の腫れ、腹部にダメージ(小)、恐慌状態
[装備]:ベレッタM84(13/13)@現実
[道具]:ベレッタ予備弾薬(39/39)
[思考-状況]
基本:かえりたい。
1:鷹岡さんに従うしかない。たすけてほしい。
2:先生にあいたい。
[備考]
ゲーム開始直後からの参戦です
【鷹岡明@暗殺教室】
[状態]:健康
[装備]:斧@Alice mare
[道具]:なし
[思考-状況]
基本:他のアリスを殺して〝セカイのカギ〟を手に入れる。
1:チェルシーを利用。しかし使えないようなら切り捨てる
2:潮田渚は必ずこの手で殺す。
[備考]
夏期講習編開始前からの参戦です
※チェシャ猫から「潮田渚」の存在を伝えられました
最終更新:2013年12月26日 13:27