――ムカつくやつだったな。
越前リョーマは、チェシャ猫の去った空間で独りそんなことを思った。
自分の言いたいことしか喋らなくて、こっちの話は全部はぐらかすばかり。
結局、リョーマの知りたいことはひとつも教えてもらえなかった。
知りたいことと言っても、大した話ではない。
知り合いがいるかいないか、ちょっと訊ねておこうと思っただけだ。
たとえば、井の中の蛙だった自分に大海を知らせてくれた、あの部長。
父親の背中ばかり追い掛けていた己に、柱になれと言った男。
彼なら、どんなことがあっても真面目に、正しく在ることだろう。
そう――ユメのなかだなんて、荒唐無稽な事態であっても。
「意味わかんないよね」
つくづく、そう思う。
これまでにだって、(彼が異常と感じているかは疑わしいところではあるが)事件や非常時なんていくらでもあった。
でも、流石のリョーマといえどもユメのなかでのサバイバルとは、面食らった。
意味わかんない。
その言葉に、リョーマのなかに渦巻く感情の全てが凝縮されていたといえよう。
ぽりぽり頭を掻きながら、チェシャ猫の言葉を再度脳裏に反復させる。
アリス。
セカイのカギ。
帰れるのは一人だけだから、他のアリスを殺せ。
何度も反芻して、考えてみた。
中でもリョーマの心に一際強く引っ掛かっていたのが、去り際のチェシャ猫が口にした台詞だ。
要領を得ない――もとい、要領を得る気がない。
そういう物腰に苛立ちを募らせるリョーマに冷静さを取り戻させるほどの重みが、その一言にはあった。
〝お前さんの好きなテニス。
下手すりゃ、二度とできなくなるかもしれねえぜ――〟。
テニス、それは越前リョーマという人物の歩んできた十数年を語る上で外すことのできないスポーツだ。
たかが遊びと切り捨てるのは簡単。
しかし、リョーマにとってはその限りではない。
テニスが引き合わせた出会いも。
テニスが導いた成長も。
両手の指では数え切れないくらい多くて、色濃い。
それが、二度と出来なくなる。
覚めないユメに永遠に囚われるというのは――つまりそういうこと。
一生ラケットは握れない。
青学の柱となれ。
自分に新たな道を提示した誓いも、未だ果たせたとは言い難いのにも関わらず。
あまりにも理不尽に。
あまりにも手前勝手に。
――大好きな、テニスが奪い去られようとしている。
「…………」
沈黙。
表情にこそ出さないものの、胸に立ち込めるものがあった。
気分的には、曇天の空を見ているようなそれに近い。
鉛の如く重く垂れ込んだ、灰色の雨雲。
これが〝不安〟と呼ばれる感情であることに、ついぞリョーマは気付かない。
気付かないけれど、気付かないなりに、少年は考える。
考えて、考えた。
時計がないから、どのくらいそうしていたかは定かではない。
ただひとつ確かなことは、これこそ正しい答えなのだと胸を張って言える解は、最初から胸の中にあった。
それをすぐに選び取れなかったのは、やはり。
越前リョーマの、〝弱さ〟なのだろう。
「やっぱ、一つだよね」
迷うべくもなし。
考えなくても分かることだ。
あの猫が何を思ってあんなことを言ったのかは知らないし興味もない。
でも。柱(おれ)が出す結論は、これ。
これしか、ない。
「両方やればいいんだ。……簡単じゃん」
テニスはやめない。
だけども、そんな理由で人を殺したりなんかしない。
血に汚れた手でラケットを握って、ボールを打つなんて、そんなのちっとも楽しくない。
覚悟の決まったリョーマは、今も何処かで自分達を嘲笑っているだろうチェシャ猫へと宣言する。
――殺し合うことの、否定を。
「悪いけど、俺はあんたの思い通りにはなんないよ。
あんたみたいないけすかないヤツに遊ばれるなんて、ムカつくし」
なら、最善策は一つだ。
どうにかしてセカイのカギを、誰も殺さずに見つけ出す。
それで出口をこじ開けて、あの猫に捨て台詞の一つでもくれてやりながら、ユメから覚める。
それでいい。最高にスカっとしそうだ。
悪魔ならぬ、案内人の誘惑を蹴飛ばして、リョーマは自分の正道(みち)を選び取った。
生意気な少年は、生意気な猫に屈しない。
生意気にも――セカイの道理に、逆らい足掻く。
それが吉と出るか凶と出るかは、いざ知れず。
結論を出し、迷いを振り切って。
リョーマは夜闇に屹然と聳えるコンクリートの建物を見上げた。
細部の作りこそ違うものの、真っ当に生きていれば誰もが一度は通う筈の、学校がそこにある。
「……薄気味悪」
なのに、どうも足が伸びない。
見てくれは何も変わったところなし。
仮に深夜だったとしても、普段の彼なら躊躇なく踏み込んだろう。
リョーマすらも気味悪いと思わせたのは、ひとえに校舎全体が醸す雰囲気。
単なる不気味さとはちがう――まるで、これそのものがひとつの巨大な生き物であるかのよう。
当然ながら、わざわざ進んで胃袋に入っていこうなどとは思わないわけで。
けれども、仕方ない。
セカイのカギなるものがどのくらいの大きさをしているのかは不明だが、虱潰しに探すより他ないのが現状だ。
気乗りしないからといって、先延ばしにするのが得策とは言い難い。
足を踏み入れる。
校舎の中は、真冬かと思うほど冷たかった。
廊下に貼られた掲示物の数々が、何気ないものであるが故の生々しさを放っている。
リョーマは止まらず進む。
何故だか、直感があった。
このユメはひたすらにロクでもない最悪なものだけれど、此処を訪れる上でだけは、ユメの中こそ最も適当だと。
事実、彼の予想は間違っていない。
此処は沢山のユメが繋がってできた模造品の〝鳴神学園〟。
本物は、あらゆる怪異と情念の渦巻く悪霊の坩堝だ。
仮にリョーマであったとしても、無事に抜け出られる可能性は低いといえるほど。
とりあえず、やることやって早く出よう。
廊下の電気を惜しげもなく点灯させて、リョーマは進んでいく。
――その足が、突然止まった。
「……誰かいる?」
視線が向かうのは、廊下の向こう側。
そこに、人影が見える。
この距離では性別までは分からないが、こちらの様子を窺っているようだ。
近付いてみる。
相手は逃げない。
どうやら怯えているわけではなく、むしろ逆、好奇心に近いものが見え隠れしている。
「おーい、そこのアンタ」
「むっ。アンタじゃないよ。わたしにはレティって名前があるもん!」
代名詞で呼ばれたことが不服だったのか、その少女は不満げに頬を膨らませると自らの名を名乗った。
レティ。髪や瞳の色からも推測できる通り、彼女は外国人であるらしい。
年は、リョーマとそう離れてはいないだろう。
同い年か少し下くらい。
年上の可能性もあるにはあったが、礼儀だなんだと細かいことを気にするのは性分ではない。
「レティ、ね。
じゃあ質問だけど、レティも俺と同じ――〝アリス〟ってやつなわけ?」
「そうみたい。……わたし、あんまりよくわかんないけど」
ふむ。
見たところどこから見ても人畜無害そうだし、剣呑な雰囲気も感じられない。
テニスプレイヤーとして数多くの戦場(しあい)をくぐり抜けてきた彼には、ある程度人の戦意を見抜く目が備わっている。
一流の武闘家たちでもなければ身につけられない其れを、越前リョーマは持っている。
その観察眼からしても、眼前の少女に戦おうとか、カギの為に皆殺しにしてやろうとか、そういうのは感じられなかった。
……なんというか、ひたすらに無邪気というか。
天真爛漫、なんて言葉が似合うように思える。
「あなた、おなまえはなんていうの?」
「越前リョーマ。日本人だよ」
「にほんじん! 確か先生がまえに、にほんの〝しのび〟がどうとか言ってた気がする!!
ねえねえ、リョーマもできるの!? えーと、んーと……そうだ、〝かげぶんしん〟ってやつ!!」
「あのね、そういうのは漫画の中の話であって――
……いや、やってやれないことはないかな。知り合いに出来るやつもいるし」
「わっ、すごいすごーい!」
一人のいたいけな少女に、間違った日本人のイメージが植えつけられた瞬間であった。
誤解がないように言っておくが、そんなことが出来るのは忍者かテニスプレイヤーだけである。
「……ところでさ。レティ、さっきまではここ電気点いてなかったけど、よくそうしていられたね」
人並み以上に肝が据わっているリョーマでも、怖いとは思わなかったが薄気味悪さを禁じ得なかった闇夜の校舎。
電気のひとつも点けずに平気でいられたということが、なんとなく気になった。
別に深い意味があっての問いかけではなかったものの、返ってきた返答はごく意外なもの。
「へいきだよ? だってさっきまでは、リックがいたから」
「…………リック?」
リック。
Rick。
〝いたから〟という言い回しから察するに、玩具などの類でなく、生命を持った存在のことを指しているようだ。
レティに冗談を云っている様子はない。
……しかし、だとすれば妙な話である。
「ふーん……で、そのリックってやつはどこにいったの?」
「わかんない。でも、今はいないよ」
「そりゃ見ればわかるけどさ」
校舎の中に物音は聞こえないし、此処に来るまでの間も誰とも会わなかった。
何だかオカルトめいたものを感じるが、彼女の気の知れた人物が居るというなら好都合。
一人より二人、二人より三人だ。
「一応聞いとくけど、レティも帰りたい?」
「うんっ。このユメ、なんだかおかしいし。いつものと、ちがうから」
「……いつもの?」
「ユメのなかで、リックがいないのなんてはじめてなの。
いつもはあの子が遊んでくれるのに、いまはいなくなっちゃった」
レティ、リック。
二つの人名を記憶野に刻みながら、リョーマは漠然と思った。
――不思議なやつだな、と。
少なくとも、男女をひっくるめて自分の周りにはいなかったタイプだ。
月並みな言い方になるが、まるで童話の中の人物と話しているような気分にさせられる。
悪い気はしないし、事実彼女に他意はないのだろうが。
自分よりもよっぽど〝アリス〟の渾名が似合うのは違いない。
「ねえ、リョーマはわたしとあそんでくれる?」
少女は問う。
大きな瞳に期待の光を灯して。
そんな場合じゃないだろうと思わないでもなかったが、どの道リックとやらと顔合わせもしておきたい。
それに。一目見た時から気になってはいたのだ。
「いいけど……じゃあ、〝それ〟貸してよ」
「これ?」
レティが手に持っていたのは――大方、〝リック〟から護身用の備えとして持っているよう言いつけられたのかもしれない――、リョーマにとって極々見慣れた、それでいて最も親しんだ道具。
テニスラケットだった。
自分が使っていたものと異なりこそすれど、ボールを打つ上でなら問題はない。
幸い、此処は学校だ。
探せばボールくらいあったっておかしくはあるまい。
「? どこいくのー?」
「ついてきなよ」
刺すような冷気を感じながら、レティを先導して歩く。
ついてくるのを時折確認しつつ、たどり着いたのは体育館。
設備はかなりのものだ。
普通の学校のそれよりも広いし、小奇麗でもある。
ラインも薄れているわけではなく、この分なら〝あれ〟をするにも申し分ない。
器具室の扉を開き、埃を被った籠の中に詰められた黄色い球体を一つ、取り出す。
言わずもがな、テニスボールだ。
この学校のテニス部は廃っているのか、少々古いのが玉に瑕だが。
「レティは、テニスって知ってる?」
「てにす?」
「知らないか。――じゃあ教えてあげる。見てて」
ふう。軽く息を吐いて、慣れた動作に入る。
前足に重心を置いて、両手は前に、ラケットとボールを添え。
身体に力は入れず極力リラックスした状態を作り出す。
両手を大きく左右に広げて。
肩より上に手の平全体で押し上げるようにして、トスをあげる。
ラケットは振り子のように下ろし、大きく後ろにもっていき、流れを止めないようにして肘を肩まで上げ。
ラケットも上を向くように。
そしたら、しっかり腕を伸ばして打ちにいく。
左足からラケットまで、真っ直ぐ一本の線になる。
線の一番上が衝撃点――うん、最高の当たりだ。
小気味良い音を立てて、黄色の打球がラインを描き百数十にもなる速度で走る。
いつしか、身体を包んでいた薄ら寒い感覚は消えていた。
いつもの――コート上に立つ時の高鳴りが、戻ってきていた。
「……すごいすごい! リョーマって、テニス……だっけ。じょうずなのね!」
「別に。こんくらい、練習すれば誰にでも出来るよ。
もっと凄いことできる人もいっぱいいる。――ま、追い越すけどね」
そうだ。
追い越さなきゃならないものも、果たさなければならないことも、沢山ある。
こんなユメなんかに、足を止められて堪るものか。
ただ一度ラケットを振るい、ボールを打っただけなのに。
その当たり前な感情は、当たり前にリョーマの中へと戻ってきた。
彼が自覚しているかは疑わしいが、存外チェシャ猫の言葉は彼の内心に響いていたらしい。
でも、もう大丈夫。
ちゃんと思い出した。
越前リョーマは――まだ歩ける。
「けどわたし、足遅いよ? それでも、できる?」
「まあ、なんとかなるんじゃない?」
「じゃあおしえて! わたしもやってみたい!」
じゃあ、まずは基本から。
リョーマはラケットの握り方から教えていく。
元々快活な性格なだけあってか、レティの飲み込みは思ったよりも早い。
人に教えるなんて、柄ではないが――たまには、悪くないか。
そんなことを、越前リョーマはふと思うのだった。
少年は前を向き。
少女は、ふたりになった。
【F-4/鳴神学園・体育館/一日目/深夜】
【越前リョーマ@テニスの王子様】
[状態]:健康
[装備]:テニスラケット@現実
[道具]:不明1、テニスボール@現実
[思考-状況]
基本:誰も殺さずに、生きてここを出る
1:レティにテニスを教えてみる。
2:あの猫には一泡吹かせてやりたい。
[備考]
【レティ(リック)@Alice mare】
[状態]:健康、ご機嫌、〝レティ〟
[装備]:なし
[道具]:不明1
[思考-状況]
基本:ユメからさめたい。
1:リョーマとあそぶ。にほんじんはすごい。
2:アレンたちもいるのかな?
[備考]
クローゼットを開ける前からの参戦です
× ×
――そして。
そんな二人の様子を、見つめる者があった。
静謐な雰囲気を湛え、醸すのはレティによく似た、どこか現実離れしたそれ。
瞳は二人へ合わせられ、本来ある筈もなかったイフの邂逅を思うことありげにぼんやり見ている。
彼は、レティのよく知る人物。
彼女たちが先生と呼び信頼を寄せる男。
明確な固有名詞は不要だ。
〝先生〟と。ただそれだけで、彼を語るには事足りる。
「……君は――」
ぽつり。
聞こえないように呟いた。
彼は知っている。
あの少女が抱えるセカイを、炎に彩られた記憶を、リックの真実を。
知った上で、だからこそ手を差し伸べない。
いま自分がどう出たところで、無駄だとわかっているから。
自分では、ダメなのだ。
こうなってしまった以上、新たなる風が吹くことに期待をすることが最善なのだ。
「……その子を頼んだよ、越前リョーマくん。
救われないグレーテルに、夜明けの光を見せてあげてくれ」
そうとだけ言って、彼は誰にも気付かれぬまま体育館を後にする。
何をしたいのか、自分でもわからない。
いや、わかっている。
何をすべきかなんて、最初から。
――男は独りで歩く。
夜の冷たさが、何故だか妙に心地よかった。
【先生@Alice mare】
[状態]:健康
[装備]:なし
[道具]:不明1
[思考-状況]
基本:???
[備考]
002:Shyster |
時系列順 |
004:蜃気楼 |
Open the Nightmare |
レティ(リック) |
007:兄 |
Open the Nightmare |
越前リョーマ |
007:兄 |
Open the Nightmare |
先生 |
:[[]] |
最終更新:2014年01月02日 13:56