『獅子ノ乙女宵闇情歌』(ししのおとめよやみのこいうた)1


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part1>>239


 『獅子ノ乙女宵闇情歌』(ししのおとめよやみのこいうた)


 「遠慮なんてしなくていいって」
そんな台詞が乾いた空気を揺らすのはもう何度目だったか。喋った方も、聞かされた方も、そんな瑣末な事はもちろんいちいち覚えていない。
今日もそんなおさだまりの一言のあと、向かい合った少年少女のあいだの空気が一瞬にこわばる。
新兵訓練所の屋外、対人格闘術の訓練の一齣だ。
 いつものように――少年が夢中で突進する。その先の相手、細身の少女をめがけて踏み込みながら、振りかぶった拳を突き込んだ。
その刹那だった。鞭のようにしなった少女の手がその拳をはじき、手首を巻くように掴んでいた。
同時に少年の内懐に入りざま肩に担ぎ上げ、その身を宙に跳ね上げる。
次の瞬間、少年は息をつく暇もなく背中から土の上に逆落しに叩きつけられていた。
 「うごぁっ!」
少年の肺の中の空気が呻きと共に吐き出される僅かの時間に、少年の上に乗った少女の膝と襟を持った外腕がそれぞれ腹と喉を押さえて動きを制していた。
いつの間に抜刀したのか、一方の手に握られた木製の短刀が肋骨の隙間を通るように正確に心臓に擬せられている。
抵抗不可能――。まさに少年の生死は完璧に少女に握られた状態になっていた。
 「いてて…クソッ…!まいったまいった」
 たまらず少年が声を上げた。
黒髪の、少し気性の荒さを感じさせる精悍な顔立ちだった。痛い目に遭いながらも眼がギラギラと光っている。
その少年、エレン・イェーガーは少々悔しそうに少女を押しのけ、起き上がる。
 「この技の要諦は。いいか?エレン」
エレンから離れた少女が静かに口を開いた。その声音は静かだったがどことなく威がこもっている。
青い湖水のような双眸をエレンに向け、金髪の少女――アニ・レオンハートは淡々と続ける。
獅子の心胆、をその名に持つ彼女の口調は事務的で冷静だった。
 「奇襲を捌いて投げるだけで終わりじゃあない。投げたあと、反撃を許さず止めを刺す事にある。
  本当は脳天から落とすんだ。ナイフで一突きはダメ押し…いいか?」
 「一回でわかるかよ…」
唇を尖らせたエレンは、しかしどこか嬉しそうだった。
 「ま、しっかし毎度すげえ技術だよな。ちゃっちゃとモノにして見せるぜ」
 「フン…じゃ、ライナーとやってみな」
 「ああ。自分よりでかいヤツのほうが練習にゃいいからな」
エレンはそう言ってぴょこんと立ち上がると、傍らで一連の組み手を見ていた巨漢の方に寄っていった。
その背を見送ったアニは膝の草を払って立ち上がり、そして視線をめぐらせた。
周囲は同じように取っ組み合う同年代の少年少女の怒号や拳足の応酬でたいそうな熱気だった。
もっとも、今のエレンを制したアニの動きほど水際立ったキレを見せているのはほんの数人ほどだ。
だらだらと適当に流している者や、ふざけているのか滑稽な構えでダンスを演じている者が大半だった。
時おり、眼を光らせながらその間を見て回る教官の叱声が飛んでいる。
それはいつもと変わらない光景――。
ここ新兵訓練所に入所した時から、この対人格闘術の訓練の時間はどこか怠惰の空気が漂っている。
 それもそのはず。
対人格闘術など、人類を圧倒的に凌駕する体格をもつ人類の天敵、『巨人』に対しては何の役にも立たないのだから。
この世界のあらゆる戦術理論、軍組織の編成と兵士養成のカリキュラムは、ほとんど全てが巨人に対抗する、その一点を目的としている。
ゆえに兵士は巨人を殺す唯一の戦闘術――立体機動装置と双刀による三次元的高速機動白兵戦技、これを最も重要な技術として訓練される。
対人格闘などおまけにすぎない。実際、訓練兵の能力評価項目でも対人格闘術の重要度は低い――点数にならないのだ。
そんな技に秀でるアニも、熱心に習得に励むエレンも、要するに異端者と言って差し支えないのだった。


 アニはエレンとライナー・ブラウンが取っ組み合うのをぼんやり眺めていた。 
 「…すげえ技術、か…」
彼女が格闘技術に秀でているのは、ものごころついた時から父に叩き込まれた、ただそれだけが理由だ。
巨人が天敵として存在するのに、こんな技術など何の意味も無いことはおさな心に分かりきっていたが、それでもアニは父親に逆らえなかった。
言われるままミットに蹴りを叩きつけ、突きをぶち込み、巌のような体躯の父と取っ組み合った。
アニの体格が小柄なのは、幼時からあまりに過酷な運動を強いられたからかもしれない。
そんな過酷な時間と経験を経てアニの中にはその無意味な技術が骨の髄まで身についていた。
格闘技術とは要するに人体破壊の理論だ。整然と体系化された技術は習得過程で学ぶ者の思考方法の形成や性格に影響を与えずにはおかない。
アニは合理的で理論的な思考を身につけるとともに、無意味さへの不満や父親へ反抗できなかった自分への嫌悪などを同時に抱え込んで成長してしまった。
澱のように堆積したそれはアニの心を重くさせ、口を閉ざさせ、他者との協調性を乏しくさせていた。
 ところが。
アニの唇がわずかにゆがむ。
もう結構経ったが、どのくらい前だったか―?
『教えてやってもいいけど?』『遠慮なんてしなくていいって』なんて、どうしてそんな台詞がこの自分の口から出たものだろう?
そんな台詞を言ってしまった結果として、自分はエレン・イェーガーというあの必死な目をした男にこの技術を教えている。
本当に、どういうわけなのやら…自分でもわけがわからない。

 「おい、どうだ?アニ!」
その声でアニは我に返った。
見ると芝生の上で汗みずくの男ふたりがこちらを見上げている。
エレンがライナーの喉を押さえ、膝を鳩尾にのせていた。草やら土が所々に張り付いており、どうやらお互い何べんか反復していた様子だ。
一見して先ほどアニがエレンに示した形になっているようだったが――。
 「は…」
アニは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。いつもの台詞が口をついて出た。
 「全然駄目。まったくなっていない」
そして物覚えの良いとは言えない弟子?たちの方に踏み出してゆく。
――自分は今、笑っているのだろうか。
アニはそんな事を思っていた。




  夕刻。兵舎の食堂は賑やかだった。
この訓練所には食事と同期の仲間たちとの会話以外に娯楽など無きに等しいのだから無理もない。
みな制服を脱いだ部屋着でテーブルでくつろいでいる。
もっとも支給される食事自体はたいしたものではない。パンと、豆や野菜が入ったスープ程度のものだった。
それでも兵士は食事だけは保証されているというのは人類の有史以来の不文律と言えようか。
 アニは隅のテーブルで、周りの喧騒を少々うざったく思いながらパンをちぎっていた。
固めのパンをスープに少し浸して口に運んでいると、向かいに座ったおさげの少女が話しかけてきた。
 「アニ、少し変わったね」
 「…何?急に」
ミーナ・カロライナだった。豊かな黒髪を左右でまとめている。あまり他者に関わらないアニの数少ない話し相手だった。
 「最初の頃、怖い感じだったよ、アニは。でも最近はちょっとだけ」
 「ちょっとだけ…何?」
とげとげしいアニの反応にもミーナは慣れているのか、あまり意に介さない。
 「本当にちょっとだけ、カドが取れた感じがする」
 「…っ」
その返答はアニには、パンを吹き出しそうになる程度には意外だった。
アニは他者に無頓着なせいかその他者からどう見られているか意識しない。
ところがやはり他者はこちらを観察していて、そして親しければ会話の端にその変化をこのように指摘してくるものなのだ。
それは彼女が過去において持たなかった友人関係というものの端緒なのだが、そんな心の襞に疎い(というか注意を向けようとしなかった)
アニには新鮮なおどろきだった。
 「私が…変わった?」
 「うん。だいいち、前は気安くこんなこと言えなかったと思う」
どうして?どこが?どんな風に?
アニの中にはそんな疑問が浮かんでは消えたが、言葉にならない。
会話の成立が困難になりかけたとき、向かい合う少女たちのテーブルに、どん、と音がなった。
エレン・イェーガーの、手をついた音だった。


 エレンという男の物言いはいつも直裁的で、断定的だ。
 「アニ、ちょっといいか?」
そしていつも真顔だ。彼の目はまっすぐアニに据えられている。
 「昼間の技とは別に、蹴り技の事なんだが」
アニはつい、その視線を受けてたってしまう――というより、なぜか彼女はエレンを無碍にはできない。あらわした態度はそれとは真逆だったが―。
 「めんどくさい…」
 「前聞いた体重を乗せるとか、膝のスナップとか…わからんところが山積みなんだよ」
 「また課外授業?たいしたやる気ね」
 「評価試験だって近いだろ?ちゃんとやることやっとかないとな」
訓練兵たちはいまや訓練課程の終了を間近に控えている。その最後に、各科目の試験が待っている。
ただ、エレンは試験に限らず技術的なことで疑問があると、すぐにその技術に長けた者に質問し指導を求めることがしばしばだった。
それは立体機動も座学も対人格闘も例外はない。彼の兵士としての向上心は半端なものではなかった――そら恐ろしいほどに。
直接の理由を彼は滅多に語らないが、同期の訓練兵たちはなんとなく察してはいた。
ただ、ミカサにだけはそんな相談を持ちかけないところに彼の複雑な心境を読み取れるかも知れない。
もちろんそれはアニには関係の無いことだったが。
ともあれ、エレンはうざったげなアニの態度に少し鼻白んだようだ。
 「なんだよ、遠慮なんてしなくていいんだろ?」
 「…確かに、そうは言ったけど」
 「えっと、エレンいいの?ミカサがこっち見てるよ?ちょっと怖い顔してるよ?」
すかさずミーナのちゃちゃが入る。
確かに、離れたテーブルに座すミカサ・アッカーマンの視線が、矢のようにこちらに注がれていた。その眼はエレンの唇と、アニとミーナの表情を捉えている。
壁の内側の人類とは人種の違う「東洋人」の血を引くミカサの表情は全般的に変化に乏しい。
真っ黒なハイライトのない瞳が何とも言えぬ威圧感を放っている。いや、はっきり言うなら怖い。
唇の動きからエレンが何を言っているか読み取ってさえいるかも知れない、ミーナにはそんな疑念すら浮かんだ。
あの天才肌の少女が幼なじみのエレンに向けるある一種狂おしいほど逸脱した強い想いは、今期の訓練兵たちにはおおむね共通認識となっている。
エレンはそんな認識からの冷やかしに、当たり前のように反発した。
 「なんであいつが出てくんだよ!俺は必要だから言ってるんだ」
 「つまりアニが必要ってことぉ?ミカサよりもぉ?」
必要以上にムキになるオトコノコなど、年頃の少女にとってはいいおもちゃだ。ミーナはにやにやしながら突っ込んだ。
 「…引っ込んでてくれよ、頼むから」
しかめっ面で歯をむき出すエレンの貌は、アニには他人事ではない。
自分に話が回ってくる可能性を嗅ぎとったアニは、さっさと会話を終わらせることにした。
 「わかった、エレン。ミットを持って行くよ、それでいいんだろ?」
 「ああ。すまねえな、アニ。場所はいつもんとこで頼む」


 少年の背を見送ったミーナは、少し考えて、
 「アニがちょっと丸くなったの、…エレンのせいだったりする?」
真顔でアニに質問した。少女特有の論理飛躍は、しかし合理的なアニには不意打ちだ。
 「…っ?!」
アニはたまらず含んだスープをひとしずく吹きこぼしてしまう。そんな反応はミーナには満足なものだったようだ。
 「ま、理由はどうあれ、必要とされるって気持ちがいいもんね。それとも…」
下目遣いに、口元を拭うアニの眼を覗き込む。
 「ドキドキしちゃってるとか?」
どん!今度はアニがテーブルを叩いていた。顔をそらしながら立ち上がっている。
 「…!…どうでもいい…!」
アニはそれだけ言うと、スープもパンも残したまま足早に席を立ってしまった。
 「あー…怒っちゃったー…。」
――こういう会話、慣れてないんだろうな、やっぱり。
ミーナに苦笑がこぼれる。
年頃の少女たちなら半ば必然的に話題とするであろう、ちょっと気になる男の子の話。それに関する冗談、雑談、ホンネと建前。
アニとはやはり、そんなおしゃべりはまだ無理のようだった。
――でもアニはそんなところが可愛いんだけど。
ミーナはそんなことを思いながら、友人の残り物と食器を片付け始めた。
 さて、その皿に残ったスープとパンのかけらにはミカサとは別種の、さらに怖い視線が注がれていたのだが――その後の顛末は別の物語である。



 兵舎の裏手、倉庫の脇はちょうどいい広さの空地になっていた。月のあかりがあたりを陰翳濃く塗り分けている。
ここは教官たちのいる建家からも遠く、音を立てても聞き取られにくい。
要するに、エレンの昼間の訓練の復習の場としては格好の立地となっていたのだった。
 「しぃっ!」
鋭い呼気のあとに鈍い重い音があがる。
アニの外腿に携えた革のミットに、エレンが蹴りを叩きつけていた。すでに結構な本数をこなしたのか、エレンの額に汗が光っている。
おたがい、上着にズボンと革靴の部屋着だった。
 「…力みすぎ。動作の起こりでは力を抜いて。入れるのはインパクトの一瞬だけ」
細かい注意がアニから飛ぶ。応えるようにエレンが蹴りを返す。習ったとおり蹴り足を変え、左右の構えを変え、蹴りの質を変える。
アニの教えでは――それは彼女の父が伝承してきた教えだったが――あまり高い蹴りを打たない。
敵手にキャッチされてしまったら金的を蹴り上げられたり軸足を捌かれてテイクダウンされてしまうので、
中段下段の前蹴りや回し蹴りが中心だ。狙うのは肝臓や水月、金的、膝関節などだ。
アニとその父が修めている技術はかつて人類社会で競技化され高度化細分化した格闘技術よりはるかに荒っぽい。
失伝によりもはや再現不可能な技術や理合も多いのだ。しかし制圧と殺傷を目的とした即効的で合理的な面を残したものと言えた。


 こうした稽古をしているとよくあることだが、おたがい次第に乗ってくるとだんだん予定していなかった他の技もやり始める。
エレンも例外ではなく、熱くなった身体の沸くまま、アニに蹴り以外の技もついでに教えてくれと言い出していた。
いつのまにやら、脛や膝を蹴ってからそのまま足の甲を踏みつけ、手技や組みにゆく技術の稽古になっていた。
アニはミットを放り出し、向かい合う受けに回ったエレンに手本を示してゆく。
間合、お互いの体格、どの足でどの足を踏んだか、などの状況によって様々に展開されるアニの技は多彩なものだった。
指を弾くように使った目打ち。平拳や親指を立てての喉突き。顎への肘打ちや掌打。頸動脈への手刀。眼を塞ぐような平手のフェイントからの様々な変化――。
ひとつの動作を起点に、アニの細身のしなやかな身体は受け手のエレンを翻弄するように自在に踊る。
 ――まただ。なぜ自分はこんな事をしているのか。適当に蹴らせて、切り上げればよかったのに――
アニは拳足を鞭のようにうねらせながら考えていた。思考とは別に動く身体はエレンに技をかけては離れる事を繰り返している。
だが胸のうちにはさっきのミーナの言葉がずっとひっかかっていた。
 『必要とされるって気持ちがいいもんね』
――無意味な、少なくとも私は無意味と思っている、役に立たない技術を。エレンは。
  この男の過去はライナーからうっすらと聞いた。エレンは巨人に復讐するために兵士になった。なろうとしている。
  いや。その精神はすでに筋金の入った兵士、戦士なのだ。
  だから、エレンはその責務としてこんな無意味な技術も欲しがるんだ。
  エレンが私に関わるのは、私が技術を持っているから、だ――
 だがアニはそんな自らに言い聞かせるような思考の根本原因には意識を向けなかった。
合理的な彼女は心の何処かでわかっていたのだ。
…リスクは回避する、と。
だが、現実にはそんな理屈と行動は乖離し、アニはエレンの稽古に付き合ってしまっている。いまだ未熟な若年ゆえに。

 「ちょ、ちょっと待てアニ!そんないっぱい覚えられないだろうが!」
 「…ん…ああ」
言われてアニは動きを止めた。
白い肌はさすがに上気していた。頬がほんのり紅い。ひとすじ張り付いた汗に濡れた髪をかきあげた。
 ぞくり。
アニの何気ない動作に、エレンは背筋に何かが走ったのを自覚していた。それがなんなのかは――彼にはわからない。
型を示しながら動いているうちに――いつの間にか、汗とは別な何かをアニはまとっていた。その何かが、エレンの胸に靄のようにかかっている。
エレンはそれが本能的に怖くなって、
 「アニ、今日はそろそ…」
と言いかけた。が――。アニの声がかぶさった。
 「…じゃあ最後に、…組み手、でも…するか?」
アニの青い双眸がエレンに向けられている。月のあかりが微かに宿って、潤んだようにおぼろに光っていた。
 「い、いや…」
いつもは明快なはずのエレンのたどたどしい声が闇をさまよっている。
そんな声が、アニの中の何かに、こつりと当たる。
アニの内側をぐるぐると往来していたわけの分からない思考が、ふっと止まった。
唇が、動きそうになった。瞬間、アニは自分が何と言うか、わかっていた。
 「遠慮なんてしなくていいって」
しかし――何故そう言ったのかは、やはりわからなかった。





 向かい合ったエレンとアニの距離はおおよそ3メートル。
半歩ふみ出せば、ひと跳ねで突きを打ち込める間合い。一歩ふみ出せば、身を沈めざまタックルに行ける間合い。
ライトコンタクトの取り決めではあったが――対峙する二人の空気は重い。
アニは前足を軽く浮かせ、後ろ足で立って両拳を頭の脇に構えている。左を前にしたオーソドックスの構えだ。
対してエレンは利き腕の右手を前にしかかとを浮かせてリズムを取っている。右利きのサウスポースタイルという攻撃的な構えだった。
おたがいゆっくり右に左に廻るうち、縮まる距離にあわせてアニも前傾気味の構えに移ってゆく。
立合いの緊張が先刻ふたりの胸を騒がせた何かを鎮めている。
 小柄で軽量なアニに、エレンが圧力をかけて前に出てきた。慎重に図った摺り足が微妙な拍子と間を割る。
その一歩は出るか出ないか、回るか下がるか――お互いの思考の綾が交錯する絶妙のタイミングを盗んでいた。それはアニの意の虚をついた。
――エレン、やる!
思えば最初の「授業」よりもうだいぶ経っている。
相手の研鑽の成果にアニも瞠目したその瞬間、エレンの右手がぴくりと動く。一瞬のフェイントから、奥足の下段廻しがアニの左の内腿を叩いた。
 「ぐっ!」
アニが思わず呻くほどの、早く重い見事なインロー。闇夜とはいえ、エレンの稽古の成果はアニに反応を許さなかった。
技はまだ粗いが、攻撃に重要なのはいつ何処で何処をどう打つかだ。そして敵の息の根を止めずにはおかない、あくなき攻撃精神。
そんな闘争の「髄」を、エレンは本能的に知っている。
それはアニの知らないエレンの幼時――ミカサとともに賊を手にかけたときから、エレンの裡に宿ったものだ。
だからエレンは下がらない。一度攻勢に回ると、あくまで獰猛に喰らいつく。
続いてリーチにも僅かに勝るエレンは、アニの突きが届かない絶好の間から鋭い右ジャブを放っていた。
その矢のような拳をアニは内側に身を沈ませて入身することでかろうじて躱していた――
同時にその眼にエレンの既にタメの効いた左拳をはっきり認識していた。膝も選択肢に入っているはずだ。
それを無効化するため、アニはエレンの胸に頭を押し当てるように組み付いていた。同時に踏み出されていたエレンの右足の膝裏を刈る。
残った足で地を蹴り、肩をつけて体重を預け、エレンの重心を崩して押しこむ――胴タックルが見事に決まった。
 アニの身体がエレンの身体を芝生の上に押し倒した。
エレンの背を地につけた瞬間、アニの下半身は地を蹴ってエレンの足を飛び越えている。
もがくエレンの身体の左脇側部、腕や首への関節技や馬乗りを狙えるポジションを、アニはあっさり制していた。
相手の左腕を両足に挟みこみ、もう一方の腕の手首を掴んで動きを殺そうとする。
暴れるエレンの喉もとに下腕部を押し付けて呼吸を邪魔しながら、胸を合わせる――。
 「うっ…」
エレンが呻いていた。そう、今まさに弾力のあるアニの足が腕に巻き付き、胸の上には何か柔らかいものが押し当てられているのだ。
およそ取っ組み合っているとは思えないような、なんとも言えない感覚。言うまでもない、アニの胸のふくらみの感覚だった。
普段見ている兵士の制服姿からではあるのか無いのかわからなかったし、べつにどうでもいい物だった。
それがどうやら確かに存在するということが実感できたが――力が出ない。
アニの胸だけではない。腕も、おなかも、内ももも、全てが柔らかい。少女のみずみずしい弾力が、エレンの身体の上に載っている。
 アニの胸は波打っていた。
無心に攻防を応酬した立ち技の局面とは違って――流れでテイクダウンしたのだが――エレンの力が抜けていっている。
触れ合っている内もも、腕、そして胸にはっきりエレンの戸惑いを感じる。それは同時に自分の中にもあった。
アニの肉体が真綿に包んだワイヤーなら、エレンの肉体は生ゴムで覆った鉄板さながらだった。
質の違う鍛えられた肉の、その奥にある鼓動が布越しに伝わってくる――。
 『ドキドキしちゃってるとか?』
先刻のミーナの台詞が唐突にアニの脳裏を打った。
 ――違う!
アニは否定の文言を浮かべながら、眼前のエレンの右腕を取りにゆく。
肘を押さえながら手首を取り、腕がらみを狙った。その意図はエレンも察していた。
萎えかける右腕に力を入れ、アニの手を手首から振り払おうとする。同時にアニの足に挟まれている左腕を引き抜こうと捻転させた。

 「…っ!」
アニの尻が僅かに跳ねた。もがくエレンの上腕部が、足の付根のあたりで暴れたのだ。
そこから背を駆け上った痺れにも似た妙な感覚に、アニのエレンの両腕に対するロックがゆるむ。
すかさずエレンは足で地を蹴り、身体を反りあげた。右手首からアニの手をほどくとその肩を押してはねのけようとする。
その手は体勢を変えようとしたアニの、まさに胸乳の上に押し付けられた。
布地の下にはっきりわかる、手の中の丸いやわらかいふくらみ。その下の大きな動悸がエレンの手のひらに伝わった。
 「う…」
 「あ」
予期せぬ接触に二人の時間が止まったかも知れない。
一瞬の停止から、アニはその胸に置かれたエレンの手首を取って腰を浮かせた。それを軸に低く素早く身体を一転させる。
両足の間にエレンの腕を挟みこみ、片足をその胸の上に投げ出し、一方をエレンの首に巻く。
両腕でエレンの手首を掴み取り、後ろに背を伸ばし――そのまま地に倒れこんでエレンの腕を伸ばしきれば、腕拉ぎ十字固めの完成となったが――。
さすがにエレンも反応した。
肩を起こしたエレンは伸ばした左手とアニに抱え込まれた右手でクラッチしていた。
浅くブリッジしながら、持って行かれそうになる右腕を必死で守る。伸ばされれば即、終わりだ。
アニはエレンの手首を掴む手をずらし、下腕の内側に深く抱え込んだ。内ももを締め、全身でエレンのクラッチを切ろうと力を込めようとした。
 唐突に、アニは気づいた。
自分の足の間のエレンの上腕のこわばり。うねり。エレンの肘のあたりが、自分の胸のふくらみの間に挟み込まれている。
――熱い。
アニの頬に血がのぼっていた。それは力を込めているからだけではない、何か胸の底からやってくる温度。
――でも、不快じゃない。
膝の裏がふるえる。込めていたはずの力が、まるで溶けるように抜けかけた。
 「おおおっ!」
エレンが低く吠えた。緩んだアニの肉体を押しやるようにブリッジし、下半身を反転させる。アニの体が後ろに転がった。
体勢が反転し、先ほどとは上下逆の体勢になった。
腕はいぜん逆さまになったアニに掴まれたままだったが、エレンは中腰で立つ。体重をかけて、腕十字の体勢を押しつぶすためだ。
首に巻き付いていたアニの足はずれている。三角絞めや再度の腕十字を警戒しながら、腕を体ごとアニの側に押し込もうとした。
上手くいけばサイドを取れるはず――。
 ふわり。
何かかぐわしい空気が舞い上がり、エレンを包んだ。それはアニの汗の匂い。そして髪の香り。
取っ組み合っている真っ最中に、場違いな香りだった。
それはたちまちエレンを狼狽させた。
くらんだ視線の先に、アニと眼が合う。闇に青い目がうっすら光って――かすかに潤んでいるようにも見えた。
白磁の肌は夜目にもあらわに上気している。きっと自分も同じだろう。アニに触れた部分から、なんとも言えない感触が、腹の底に伝わってくる。
ふと、自分たちのとっている体勢の事が浮かんだ。腕を取り合う妙な体勢で身を絡めあい、息を荒らげている二人。見ようによっては滑稽だが――。
――こいつ、こんなに綺麗だったっけ。…畜生、なんでこんなに、ドキドキするんだよ!
もうやめだ、今日はもう寝る、そうエレンは叫びだしそうになった。

 アニはもちろんそんなエレンの内心は知らない。
むしろエレンの端々の対応に舌を巻いている。
最初の訓練時の喧嘩屋然とした荒い動きから、闘争心はそのままに技術が着実に身についている。
それはアニの指導によるものも大きい。本当に真剣に戦ったら、今ではどうなるかちょっとわからない。
――私がエレンを強くした。
そんな想念がふっと浮かんだ。無駄だと思っていた自分の技が、他者の中で実を結びつつある――それは無駄で無意味なことなのだろうか?
そしてそれは――。
――嬉しい、かもしれない。
今までアニの中にはなかった感情だった。アニはそんな思考にたどり着いた自分に驚いた。
 『アニがちょっと丸くなったの、…エレンのせいだったりする?』
ミーナの言葉が浮かんできた。やっぱり見ている者は見ているのだ。
アニはもう否定の言葉を浮かべることはできなかった。
 「…やるようになったね、エレン」
そんな賛辞は照れ隠しか、自分への言い訳か――そのどちらでもあるのだろう。
 「お…おかげさんでな…!感謝、してるぜ…」
エレンの返答もあるいは照れ隠しだったかも知れない。
だがアニはその声を聞いたとたん、顔が熱くなるのを止められなかった。
こらえかねたように、アニは弾けるように動いた。
 下からの腕十字は捨て、体重を掛けるエレンの動きに乗って腕を引き、前にのめらせる。
同時にエレンの片足をたぐるようにその股下にもぐった。
アニは一瞬四つん這いになったエレンの足の間を潜りぬけ、瞬時に体を起こすとがら空きの背中に飛びかかった。
エレンが手をついて起き上がろうとしたときには、アニはその背後に密着していた。
バックポジション。アニの足がエレンの腰に絡みつき、腕がエレンの首に巻きついた。エレンはうつ伏せに地面に潰れてしまう。
 エレンの背中一面にやわらかなアニの肉が押し付けられた。鍛えられた腹筋も、控えめなふくらみも――。
耳にアニの吐息がかかり、触れ合う髪から少女の香りがエレンの鼻孔に流れこんでくる。
うつぶせたエレンの身体の芯にかっと熱が生まれ、甘やかな痺れのようなものが広がっていく。
エレンの身体が緩んだその一瞬をアニは見逃さなかった。
アニの胸と腹が反り、エレンの上体を引き伸ばす。蛇のように首を制した腕が深く食い込んでゆく。
頸動脈を締め上げるそれは、完璧な裸絞めだった。

 『ドキドキしちゃってるとか?』
アニの脳裏に、またその声がした。
――そうだな…ドキドキ、してるよ。
  最初に見た時から、エレン・イェーガーと言う男は真っ直ぐで、必死で、ひたむきだった。
  私とは違う。私は熱くなれない、こんなくだらない世界で。
  だからかも知れない。だからこそ…気になった。
  そうだ。ずっと気になっていた。
  エレンが欲しいのは私の技術だけだ。それはわかっている。でも…。
  上手く言えない。でも、これが…好きって事なのかもしれない。
アニは全身にエレンを感じていた。持てる力の全てでその首を締め上げる。
そう、獅子が獲物を仕留めるときのように。
 もう逃げられない。 
呻くこともできないエレンはアニの腕を力なくタップし、負けを認めた。



 いつしか月は雲に呑まれていた。
漆黒の闇の中、二人は草の上にひとかたまりになって転がっていた。
うつ伏せのエレンの首に腕を廻したまま、アニはその背にからだを預けていた。脚のロックは解かれ、エレンの脚の間に流れている。
密着した背と胸の間を互いの脈打つ鼓動の音が行ったり来たりしていた。
どのくらいそのままでいただろうか。
 「お…おい…タップしただろ、…離れろよ」
エレンが腫れ物にさわるような、おずおずとした声をあげた。
 「…」
アニは答えない。その沈黙が、エレンには重い。
同時に、甘い。もうエレンは自分の胸にかかった靄がなんなのかはっきりわかっていた。
アニの双眸によって。上気した白磁の肌によって。そのしなやかな筋肉の感触によって。汗のにおいによって。やわらかなふくらみによって。
いままで同期の仲間、格闘術の先達くらいにしか思っていなかったアニの、少女の部分によって――
エレンは欲情していたのだ。
彼がうつぶせから動かない、いや動けないのもそのせいだった。
自分の身体を持ち上げるほど――肉棒を充血させていたのだから。
 アニはエレンの汗の匂いを呼吸していた。
自分の汗が温度が、エレンに染みこんでゆくのが心地良かった。
――自分はこの男を好きになっていたのだ。
身体の火照りは疼きに変わっていた。
 「エレン」
自然に口が開いた。口を開いて言葉がどんな音を立てるのかわからなかったが、アニは語りだした。
 「…あんたは私が必要?」
 「な、何言ってんだよ…」
 「答えて」
 「そ、そりゃ…格闘術…教えてくれるし…仲間、だし…」
狼狽したエレンはアニの意図に考えが及ばない。
 「私も…必要かもしれない」
アニの「必要」は、エレンのそれともちろん意味は違う。
一言ごとに自分が変わってゆく感覚が、アニを揺さぶっていた。
次に何を言うかも決めず口を開く。
 「でも私は目標があって…それはあんたと同じ所を向いていない」
 「あ、ああ…憲兵団に行くんだろ…?」
アニの目指す内地で王を守護する憲兵団は壁外で巨人と戦うことはない。
それは大抵の成績優秀者の目標であった。何故なら戦死の可能性から圧倒的に遠ざかることができるのだから。
彼女のその目標は、壁外で活動し時として巨人と戦わねばならない調査兵団を目指すエレンとは対極にあるのだった。
そして互いの目標は絶対に覆らない。
それは未来の暗示でもあった。訓練所を卒業すれば、一度別れて二度と合わない――そんな永訣の定めの。
その定めがわかっているから、いまアニの心は激しく動いているのかも知れない。
 火照った身体と昂ぶった心が、ふだん冷静だったはずのアニの自制を吹き飛ばしていた。
 「…一回だけ。今までの授業料、ってことで…あ、あんたを…好きにさせて」
顔じゅう真っ赤にして、アニはその台詞を吐ききった。闇夜の中、背中越しででもなければ最初の一文字も発音できなかっただろう。
 「う…あ…?」
 「いや、…する」
エレンはアニが何を言っているのか、音は拾っても意味には思いが及ばない。
考えがまとまる前に――アニの腕が首から離れ、地面と身体のあいだに潜り込んできた。
 「な、おい、アニ!?」
 「…遠慮なんて、しない」


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