2015年6月13日現在、イラスト化されているもののみ記載します。
空中艦船 | 飛行機械 | 地上兵器 | その他 |
局地迎撃機スペルヴィア | 決戦戦車ヴィルヴェルヴンター 快速自走砲ディーディーダ |
コンセプトデザイン:にとじん氏
第三紀世代
乗員 | 1名 |
動力 | 皇104式機械心臓 |
出力 | 2000St/p |
最大速度 |
240km/h |
稼働限界 | 10分 30分(燃料増槽) |
武装 |
機首57㎜モーターカノン (換装武装) |
職人ごとのオーダーメイド
にとじん氏デザイン。
この世界では珍しいトラクター式(前にプロペラが付いている)。山がちな国土で防空戦を行うことだけに特化した異様な機体で、ガル・逆ガルの主翼の他に多数の安定翼を備え、尋常でない旋回性を持つ。
機首の57ミリモーターカノンは帝国のグランビアを思わせるバ火力の印象を受ける。速度も高く、非の打ち所がないように見えるが、戦闘時間が恐ろしく短い上に機体設計図がなく全て職人による手作りというトンデモ設定。
<背景>
スペルヴィアが開発・量産されたのはパルエ歴589年、帝国が皇国征伐に本腰を入れて艦隊を派遣したころである。
皇国と帝国は本来、標高1万メートルを超えるパスターテ山脈によって遮られ、以降パルエ歴580年代に至るまで一切の相互干渉を受けずに存在してきた。しかし、帝国領北部での地震の調査として派遣された偵察艦隊が、パスターテ山脈を貫通し皇国東南領に侵入できる洞穴を発見し、そこで両国が建国以来初のファーストコンタクト(駆逐艦同士の砲撃戦)を果たす。
帝国との初戦闘で空中を高速で移動でき重武装された戦闘機の存在を認識した皇国は、それまで空中戦力の主流だったククウィー部隊のみでは対処は不可能と判断し、機械化された空中兵器の開発に乗り出す。しかし、皇国内の鉄資源流通の大多数を占める洞穴を抑えられたために金属を用いた兵器の開発は困難を極めた。そこで加工職人の一人が提案した「生物の甲殻や骨を用いて機体を作る」という案に頼らざるを得なくなった。
発案者として国産戦闘機開発を任された職人の名はガンヂ・ペネテロ・スペルヴィア。彼は多数の狩人を雇って生物の素材を確保し、稼働機関を載せていない状態の実寸モデルをわずか2週間で作成。空力テストなどを経て、当時生活水運搬用の重機に使用されていた機械心臓(エンヂン)を搭載しテスト飛行に成功した。皇国聖府から職人の家名を与えられ、皇武83型局地迎撃機「スペルヴィア」はパルエに産声を上げた。
スペルヴィアの特徴は、見た目でもわかる大小様々な飛行翼の数である。山脈に囲まれた皇国国内の気流は要所要所で変わっており、本機は国内全域の気流に対応し、山脈間の狭い空間を高機動力で飛行することを求められた結果、それぞれが差異のある気流に特化した仕様となっている。
次にスペルヴィア前部に搭載された機械心臓から伸びる3重反転プロペラと大口径モーターカノンであるが、プロペラは本来反転機構を採用していなかった。これはテスト飛行時、旋回時の出力が足らず山脈に衝突しかける事件があったためである。機械心臓の出力向上にも失敗した結果。反転機構を取り入れたが、それでも旋回時の出力向上は期待値に至らなかった。そこで開発プロジェクトに加わっていた職人の一人で開発者ガンヂの息子であったドナテロ・ウハス・スペルヴィアは、機械心臓内部の中心機構を改造し、出力を随時一定に保ち且つトルクパワーを瞬間的に解放することでスペルヴィアは「速度をほぼ落とさずに旋回できる」ようになった。また、構造として機体フレームに生物の骨格を、装甲には軽量化するために生物の甲殻を限界まで削り出したものを使用しており、金属的なイメージの強い兵器としてはあり得ない、旋回時に機体の翼や胴体後部がしなる現象が確認されている。
(なおこの技術力の出所について、ドナテロ本人も北西遺跡群で発見したとしか発言せず、いまだにこの技術の安全性を疑問視する声が多い)
これによりスペルヴィアは国内空域で無敵の強さを誇る皇国軍のフラッグファイターとして認められたが、機械心臓の高燃費による戦闘可動時間の短さと構造の複雑さと皇国の工業力不足による20機のみの量産、そして極め付けに部品の一つ一つが職人のオーダーメイドという、兵器として致命的なデメリットを複数も抱えた名機とも迷機ともどっちともとれる機体になった。
本機は国内防衛の要として重用され、皇国聖府に認められた20人の兵士に与えられ、山脈洞穴奪取作戦、第一次~第七次マンタルヘイム要塞戦、エグゼグラン湖遭遇戦、聖都防空戦など国内のほぼすべての作戦に参加し、最大キルレート28:1(途中補給アリ)を記録。帝国パイロットの間で「山岳の悪魔」と呼ばれるようになった。
整備性の悪さから復旧不可能となった機体もあり、パルエ歴644年の二国間不可侵休戦協定「雪原協定」が結ばれるまで出撃可能な状態で残っていたのは4機のみであり、そのうち一機は賠償対象として帝国に提供された。
全幅 | 全長 | 全高 | 自重 | 全装備自重 |
14.2m | 10.56m | 4.13m | 3012kg | 3118㎏ |
第三紀世代
乗員 | 6,651人 |
全長 | 275.23m |
機関出力 | 240,000stp |
最大速度 | 27.08ノット |
航続距離 | |
武装 | 44口径160cm積層式3連装砲 2基(艦首側集中配置) 35口径30cm対艦連装砲 9基(艦尾側集中配置) 20口径20cm対空連装砲 11基 対空機雷散布口 6門 60口径15㎜単装対空機銃 15基 17口径18㎜単装対空散弾機銃 15基 20口径22㎜連装対空機関砲 10基 対艦バリスタ砲台 10基 (艦載兵装) ハーピー級早期哨戒艦 1隻 艦載戦闘機セズレ=テルス 5機 甲冑鳥ククウィー 20羽 |
皇国軍の奇蹟の結晶。
パルエ歴500年代未明。サン=テルスタリ皇国北西部に位置する旧文明遺跡群の枯渇海域にて、一つの遺跡が発掘された。その巨体から聖都までの移送が不可能とが判断され、現地での解析が進められた結果、旧文明時代に建造された艦船であることが判明された。そして最大の発見として、その遺跡艦船に搭載されていた機関が「生きていた」ことである。この発見の折、皇国聖府は当初の機関の接収・内政運用化の方針通り遺跡を分割して運送することに決定。およそ8年の歳月をかけて聖都に運ぶ。(なおあまりの科学力の違いで内政運用に転用できなかったため地下に放置)
パルエ歴589年、帝国とのファーストコンタクト、そして帝国の強大な軍事力を目の当たりにした皇国は軍事力の近代化を図るも、皇国の技術力は世界基準と比べて劣っており、一から新造しての新兵器開発は難色を示した。帝国の侵攻をいち早くとどめることを優先した聖府は、遥か昔、内政用に搬入した旧文明遺跡の存在に着目し、軍事転用する方針に変更した。国内の職人および国家分裂の際に国内に流れてきた元パンノニア共和国技術者を総動員し、遺跡となった船体に考え付く限りの武装を施したのである。その折に主砲として採用されたのは、遺跡群から発掘された超大口径砲塔である。破格の砲口系をもったこの兵器は当時の技術力による改修が不可能であったため、一度砲撃すると基幹部の破損により砲撃不能に陥るものの、その160cmという最強の名にふさわしい高威力の砲撃に着目した職人たちはその砲塔を遺跡船に「ポン付け」したのである。
大口径遺跡砲に始まり、近代化政策で誕生した数々の艦載兵装を搭載され、パルエ歴595年の初冬、皇国初の純粋な軍事艦船テルスタリ=メルガードは誕生したのである。だが、その誕生には理想とされた姿とかけ離れたデメリットの数々が露呈したのである。初めに艦の装甲。当時のパルエの技術力で再現は不可能とされた未知の金属で構成された装甲は、剛性と軟性をかけ備えた耐弾・耐爆・耐気流性を持っていたが、年月による風化は耐えられず、艦体の約67%が腐食し、充分な防御力を発揮できないでいた。そして搭載されている出力機関は、断定されてはいないが永久機関に近い構成であり、高出力に見合った高熱量を持ち、屋外での運用時に艦の周囲3kmにおいて気温が最大3℃上昇するという事象が確認されている。さらに搭載されている兵装の弾薬費や運用費などの高出費も重なり、易々と出撃できずそして存在するだけで金喰い蟲というレッテルを張られてしまったのである。
この解決案として名乗りを上げたのは開戦直前に開設された治安安全省の広報組合である。それは艦をオブジェとした国営公園を設営し、外国客からの観光費を貯金し運用費に充てるというものだった。荒唐無稽であったものの、代用できる案が提出されなかったため、広報組合の案を採用し、聖都近辺に「メルガード平和公園」という名称で、密かにメルガードの専用地下ドッグが開発されたのであった
(開発予定地には帝国軍の初聖都空襲時に被害を受け、国民が在住できなくなった区画を戦時再興の名目で接収し、改造した)
メルガードの運用にも制限を設け、聖都近辺に敵国の勢力が現れたときに機関始動、聖都から目視できる距離に到達した時に離陸するものであった。
メルガードの初出撃は600年代半ばの第一次聖都上空防衛戦。その際に虎の子の160cm砲6門を一斉射し、襲来した帝国艦隊の20%をその斉射で無力化するも自身も砲塔部損壊により戦闘力低下、そしてメルガード直下の聖都城外街の一区画が一斉射時の余波で壊滅的悲劇を受けるという苦々しいデビュー戦を飾った。
二回目の出撃。これがメルガードの対帝国戦役における最後の出撃となる。
第二次聖都上空防衛線。戦力差1:3という皇国軍劣勢の情勢において、主砲の斉射を封じ、多数の砲門による応射により防衛を遂行していたメルガードは戦場の乱れの中、敵旗艦を含めた中央艦隊への単艦による強襲を敢行。超至近距離(敵旗艦との相対距離約3km)からの主砲斉射を行おうとした瞬間、艦の直上から急降下してきた敵戦闘機の攻撃により(目撃者の証言から『機体下部に無誘導爆弾を懸架したグランビアによる急降下爆撃』という説が主流)主砲搭が大爆発。爆発の余波が艦内にも広がりメルガードは大破、制御を失ったメルガードは敵主力艦隊直下の大地に墜落するという窮地に立たされるも、残った砲と対空兵装、援護に来た地上部隊との連携により対空砲座として機能し、戦闘終了までに重巡を含めた約7隻の帝国軍艦船を無力化、旗艦であるグレーヒェン級戦艦を含めた約20隻以上の艦船に被害を与えたという戦果を挙げたのであった。
その後のメルガードの足跡は数々の歴史書に記述が無く、第二次聖都上空防衛戦の直後、墜落座標からメルガードの船体が一部の乗組員を残して消失していたという事実のみが記されている。皇国聖府が秘密裏に回収し、秘密ドッグにおいて修理を受けているという説や、自立稼働して旧兵器の支配領域に移住したという説などの信ぴょう性の無い噂が実しやかに語られ続けているが、世界初の人間の制御下に置かれた旧兵器が存在したという事実は、当時の戦いを経験した当事者達によって後世に語られていくのであった。
コンセプトデザイン:にとじん氏
第三紀世代
乗員 | 9~10人 |
全長 | 8.23m |
自重 | 120t |
全高 | 2.9m |
最大速度 | (平地)18km/h (坂道)25km/h |
武装 | 155㎜破城砲 1門 30㎜速射砲 2門 13㎜連装機銃 1門 |
一両で3個中隊を足止めした山道の動く要塞
パルエ歴620年代後半。聖都防衛の要であるマンタルヘイム渓谷要塞を迂回し、フル湖経由で聖都進撃を画作していた帝国軍の動向を察知した皇国軍は早急に西側に防衛線を構築しなければならなくなった。しかし、30年以上にわたって皇国の地形を研究した帝国は現存する地上兵器を現地に最適化させることで行軍速度を向上、各物資集積所に待機していた既存の皇国地上兵器では展開を完了する前に西部領地の20%を占領される可能性が高かった。そこで皇国は聖都防衛用に開発中だった試作戦車の先行開発した3両を別途ロールアウトし、これを西部要所に続く主だった道に配置することで、正規部隊の展開完了するまでの時間稼ぎに当てることにした。配備するにあたってその兵器に与えられた名は皇武18型試製破城装甲車ヴィルヴェルヴンターである。
ヴィルヴェルヴンターは3両存在したが、一号機と呼ばれる1両と二号機、三号機と呼ばれる2両とで内装された機構が違ってる。元は対神種対抗用の大口径砲を砲塔化したところは3両平等だが、一号機は自車による砲弾装填装置と砲弾庫を有していなかった。(メルガードと同じく当初は打ち切り運用を想定していた)そのため、装填用・弾薬運搬用・弾道測距用の支援車両計3両が同行しなければ短期間の戦闘も困難であった。その点を憂慮した軍部が職人に依頼し、簡略ながら装填装置と弾薬庫を配備した車両が二号機と三号機である。(うち三号機には当時国内最新技術であった砲身内ライフリングが試験目的で施されていた)
武装は主砲として国内地上兵器において最大火力を誇る155㎜砲に、車体として流用した駆逐戦車ディーディーダに配備されていた30㎜砲をそのまま運用している。また対歩兵用として13㎜連装機銃を有している。155㎜砲を運用するにあたって、懸念されたのは森林部においての取り回しの悪さであった。そこで職人が考えたのは「砲身を砲塔内に格納することで長砲身を維持したまま閉所での砲塔旋回を可能にする」というものであった。この案は大々的に賛同され、実用されたが、砲塔内の乗員から砲身から放射される熱が排出されずサウナ地獄になるという不満が指摘されたが職人は「我慢しろ」と直筆の手紙を3両の砲塔内に張り付けたという事件は皇国内では有名である。
武装面以外で目を引く部分と言えば、独特な砲塔の形状と戦車としては異質な3本並列配置された履帯である。
砲塔の形状は、素材として老衰したタムタムの遺骸の装甲を積層して利用したことで極度の曲線を有し、カタログスペック以上の防弾・防爆装甲を実現した。次に並列された3本の履帯だが、中央の履帯は他二本の履帯の半分以下の長さで前部のみに配置されており、これは悪路および対戦車塹壕を走破する際に無類の強さを発揮するとともに、中央の履帯のみを回しほかの履帯をロックした状態で本社直下の地面を掘り起こし、即席のトーチカを構築することを目的としているものである。なお、休戦協定がなされるまで唯一生存した2号機はこの中央履帯を用いて帝国の歩行櫓ヌタへのラムアタックを敢行、両足を捥いで無力化という戦果を挙げている
。
ヴィルヴェルヴンターの最大の逸話として最も多く挙げられるのは、エグゼグラン湖遭遇戦の発端となったアッチオ霊山の防衛戦であろう。エグゼグラン湖に皇国唯一の航空母艦が停留しているという情報を確認するため、帝国は自走砲および対装甲戦力を有した3個中隊をエグゼグラン湖手前にあるアッチオ霊山へと派遣した。しかし、アッチオ霊山にて2号機の標高1000m以上の環境下での運用試験を実施していた皇国軍第27評価試験小隊がその動きを感知。ククウィーによる聖都への連絡をしても援軍が来るのは10日後という状況において、小隊は霊山越えに使われる唯一の山道に2号機を配置し、本車全体を敵火力に晒すことで遅滞戦術を実施したのである。
作戦開始して10時間後に帝国軍と遭遇し交戦開始。山道の幅いっぱいを使い、敵から見て傾斜した車体位置をとることで防御性能の向上とともに車体の30㎜副砲の使用も可能にすることで主砲の装填時間をカバーし、約7日と17時間の間、救援情報を聞いたカナン率いる狩猟部族のククウィー騎乗兵30騎が敵背後から奇襲する形でアッチオ霊山防衛戦は終焉を迎え、長期間防衛を続けた2号機の戦果は自走砲2、砲火力保有車両5、対戦車兵12、軽量歩兵16、戦闘機1という大戦果であったものの、直後に勃発したエグゼグラン湖遭遇戦によりこの戦果は情報の波に呑まれ、第27評価試験小隊が聖府から勲章を授与されたのは、戦争終了後となるパルエ歴647年であり、授与されたのは当時生存していた9人のうち病没や人事異動の先で戦死した者を除いた2名のみであった。
コンセプトデザイン:にとじん氏
乗員 | 2人 |
全長 | 8.23m |
自重 | 1.2t |
全高 | 1.7m |
速度 | 前進速度30km/h 後進速度25km/h |
武装 | <初期生産型(パルエ歴590年~640年)> 25口径5cm砲 1門 <後期生産型(パルエ歴645年~691年)> タイプA ・20口径3cm砲 2門 タイプB ・20口径3cm砲 1門 ・8.5㎜3連射式機関砲 1門 タイプC ・100口径1cm固定式狙撃砲 1門 タイプD ・非武装(路装装置、耕運機等インフラ整備) |
連邦兵「こんなの戦車じゃないわ!ただの棺桶よ!」皇国兵「うん、知ってる」――――陸軍意見交換会の一幕
パルエ歴590年代。マンタルヘイム洞窟における遭遇戦に端を発する帝国と皇国の戦争において、帝国側は事前情報として、皇国には近代化された軍備が整っておらず、侵攻は順調に進むと思われていた。否、確信されていた。しかし、皇国内に侵攻した帝国軍に情報収集していた密偵からある一方が届く。
「最大速度30kmを超え、口径50㎜の砲を搭載した近代戦車を、皇国が量産に成功した。」
この一報に、拮抗した戦いを想定せず、軽度の機甲兵装のみを運用していた前線部隊は焦燥を隠せずにいた。数日後には、その謎の戦車が配備されたとされる陣地に攻撃が始まり、帝国兵たちは未知の兵器に多大なる好奇心と恐怖を抱えていた。総攻撃の合図が鳴り、突撃する帝国兵の前に、その兵器が姿を現した!
帝国兵「・・・・・・・・・・・は?」
この皇国初となる陸上運用機甲兵器――――快速自走砲ディーディーダは、期待の純国産近代兵器として開発され、運用される前にその形状から国内からも失望され、「希代のエンターテイメント兵器」とジョークに使われる戦車として後世に伝えられることとなった。
この車両の特徴は、隠そうとしても隠せないその形状である。一言で言い表せば「履帯一本に砲撃装置をつけただけ」と言える、もうこの時点で各国兵士から「意味が分からない」という声が聞こえてくるようだが、この形状に至った理由は、帝国侵攻を察知した上層部が職人に対し「歩兵支援用の火器を搭載し、ククウィー騎兵に追従できる速度で走行し、一両一週間で整備可能となる機動兵器」という国の工業力度外視した無理難題な注文を押し付け、職人が命を削る思いでその要望に応えた結果であった。この車両、利点よりも害悪な点を挙げることが容易なことで有名で、その中でも一番の問題は「単体履帯のために自力旋回不可能」という点である。この時点で計画凍結ものなのだがそこは皇国。乗員が手動で外から左右を押して無理やり旋回させるという方式をとりこの問題の解決案とした。唯一の利点は職人のたまものと言える整備性の良好性と、材質に甲殻生物の甲殻を用いた軽量硬質な装甲であり、傾斜を加えれば確率で対車両兵器からの被害を軽減できることである。
戦争が続くうちに様々なタイプが登場し、最大で250両も量産されたこの奇想天外な兵器は、当初こそは唯一の機甲兵器として前線で運用されたが、連邦からライセンス生産されたダッカーや、帝国軍から鹵獲した兵器の性能を評価した皇国前線兵士たちからその存在を疑問視され、運用される場は減少していき、終戦時には敗色濃厚だったマンタルヘイム要塞においてその快速性を無力化され対戦車トーチカとして運用されていた。
戦後も壊滅した軍事力を埋め合わせするべく生産は続けられたが、世界が戦争から離れていくことに気づいた101代皇王ウルスラによってパルエ歴648年に自走砲ディーディーダの生産を凍結、軍歴からも抹消された。しかし、そこで彼らの運命は終わらなかった。
兵器としての役割がなくなったディーディーダは、機関部や装備の改装を受け、インフラ整備車両として各国に輸出される道をたどった。その整備性の良さと部品の簡易化による安価によってこの車両は再評価され、オービッタ時代に突入したパルエにおいても、新しい戦場でその価値を見出している。