カノッサ大湿原は今までの戦場とはまるで違うということを、各国軍兵士たちは身を持って知っている。
天を貫かんと生え茂る樹木。得体の知れない小さな先住者。ジメジメとした風。何より最悪なのは、灰色の泥泉。
砂漠や荒野、市街地などの“固い”戦地しか知らない者たちは、大いに戸惑った。
残酷なことに、カノッサの特殊な環境に順応できなかった者たちに待つのは、死だ。
「……」
ドブ臭い。
羽虫がずっと耳元を飛び回る。戦闘服は大量の汗によって湿り黒ずむ。誰もが灰色の泥だらけであり、兵士も車両もその点では仲間だ。
帝国第七機甲師団の軽戦車ダック210たちと、愉快なおともたちは湿気の多い、蒸し暑さの中を汗だくで耐えている。
我らが潜むのは湿地上。
泥の中から幹を自在に伸ばす植物群の一部だ。
湿地に沈まぬよう、大きなソリをダック210に履かせ、日光を遮る──それと飛行機械から隠れる──ために天幕を張っていた。
ダック210には灰色の泥が塗りたくられ、奇怪な植物を付け足し、風景に完全に溶け込むことに勤めている。
「来ますかね、中佐」
「そうでないと困るぞ、曹長。210の足では機動戦は不可能だ」
「湿地上なら13、14はでるんですがね」
「安心しろ。敵は来るさ」
「敵が来るのに安心なんて出来ません」
「まったくだな。軍曹、どう思う」
軍曹は、首に噛み付く吸血蟲をたたきつぶす。
吸血蟲の吸っていた血が、軍曹の首筋を垂れた。カノッサでは幾らでも血が流れるのだ。
「湿地上の仮設橋を吹っ飛ばしたんです。直しにきますよ。護衛付きで。いつものことだ。あとは、等間隔で展開している210で一両ずつ喰えばよいかと」
「よし。無線機のご機嫌はどうだ」
「元気ですよ」
軍曹は無線機の周波数を変え、ピーガーピーガーと口喧しい無線に手を乗せる。
無線を扱うものは耳が良くなければならない。
幸い、帝国には聴音機が大量に配備されており、耳の良い人間は多い。
耳の訓練は必須科目だ。
「……」
俺は、天幕の隙間から外を見た。
少し離れた位置に、湿地を横断する橋がある。
橋といえば聞こえは良いが、実際のところはあるゆるものを適当に乗せて、車両を通行できるようにしただけの代物だ。
アーキル連邦の輸送道の一つだ。もっと通行に適した場所もあるが、日中、飛行機械を気にせずにすみ、それでいて簡単に車道を作れたのは数箇所しかない。
なぜか連邦では湿地を、通行不可能の障害と見ている傾向がある。
そこで中佐は連邦の傾向を逆手に取り、湿地上を自在に動ける奇襲部隊を編成し、実戦に馳せ参じた。
連邦の戦線内側には──帝国もそうだが──大規模な湿地がある。
しかし湿地を山か何かと思っているのか、完全に戦力の空白地帯となっているのだ。だからこそ俺たちは自在に、神出鬼没の襲撃を繰り返すことに成功している。
少なくとも、今日までは。
『──』
「何か言ってます。静かに」
軍曹は無線機に耳を傾けた。
俺は周囲への警戒を強める。
発動機の稼動音。それも複数。
しかし、濃密に生い茂る植物によって、敵の姿はまだ見えない。
天幕を畳む。
俺の眼前には、カノッサの湿地帯が広がっていた。
空を覆う植物の隙間から、光が差し込んでいる。
木漏れ日によって、薄暗い湿地帯に、光の反転が地に落ちていた。
砂漠とは違う暑苦しさ。
敵が、来る。
「修理部隊が接近中。トエイが一、テーヴァが二」
「テーヴァは輸送型か、軍曹」
「中佐、あたりです。砲がないそうです」
「典型的な装甲修理隊だ」
恐ろしいのは、護衛のトエイ中戦車だ。平地ならば旋回砲塔を持ち、快速のトエイは厄介な強敵だ。しかし可哀想なことに、トエイがいるのは湿地の橋の上。
助かる道はない。
だがもし、こちらの位置が露呈して、初弾を全て外せば……たった一両でも、俺らは全滅させられるだろう。
「始まったか」
凄まじい砲声。ダック210の、210mm榴弾砲の炸裂音だ。
命中率は最悪を通り越して運だのみの代物だが、破壊力はある。
続いて、210mm砲に比べると軽い音が、立て続けに鳴り響く。トエイの55mm砲だ。
とにかく単位時間あたりの発射率が高く、まともに撃ち合って敵う相手ではない。
貫通性能はダック210のあらゆる部位を破壊できる。
そうでなくても榴弾の至近弾一発で、ダック210は無力化されるだろう。
下手すれば機銃のあぶり出し射撃でも穴が空きかねない。
いや、絶対に貫徹される。
ダック210の風通しの良い装甲では、そもそも防ぐという効果そのものが期待できない。
「尾輪回せ」
「了解です、中佐」
ダック210の三つの車輪のうち、後ろの一つが90度真横に向けられる。
この尾輪をつかって砲を調整するのだ。
軽戦車に無駄に大きな210mm砲を載せてしまった結果、左右の射角は固定されている。
移動目標に不適どころか最悪だ。
そもそも対市街戦支援に特化しているダック210に期待する戦いではない。
「曹長、敵が近づいてきたら先頭を吹っ飛ばせ」
「分かってます。私ができるのは射撃の瞬間を待つだけですがね」
210mm砲の残弾は四発。
元より大して積み込めないのだが、これでは流石にもう戦えない。
この戦いが最後になるだろう。
運がよければ、帝國の占領区にまで逃げ帰れる。
生きていれば休暇ももらえるだろう。
おそらくだが。
「照準に入りつつあります」
「曹長、任せる」
直径210mmの弾頭が、大きく山なりに曲がりながら、落ちる。
直撃ではない。
だがトエイの至近に落ちた弾頭は、この車両を横転させ、橋もろともふっ飛ばす。
「さすがだ。移動目標にあてたか」
砲栓が開き、210mm砲のものとは思えないほど小さな薬莢を吐きだす。
それでも重く大きいのではあるが。
中佐はその薬莢を受け取り、専用の入れ物の中に放り込んだ。
こんなものでも貴重な資源であり、回収しなければならない。
グローブ越しにも感じる熱が、中佐の手に広がる。
「次弾装填」
中佐は自動化された装填装置に、210mm砲弾を乗せる。
安全装置を外し、足元のペダルを踏み抜く。
装填装置の筋肉組織に電気刺激が加わり、押し出し棒が一気に砲弾を押し込んだ。
もう一度、安全装置をかける。
「装填完了」
「トドメを刺します」
「待て。曹長、降伏を呼びかける。軍曹、他の車両にも射撃中止命令」
「了解です。射撃中止、射撃中止──」
「──中佐、危険です」
「戦士じゃないものを殺しても、つまらんだろ?」
俺は、連邦の言葉で降伏を呼びかけた。
帝國なまりの強いカタコトだが、意味は通じるだろう。
暫くして、ポツポツと装甲車両の中から、両手を上げた連邦兵たちが姿を現し始めた。
そんな中、吹き飛ばされたトエイの中からは誰も出てこない。トエイは逆さまになったまま、泥の泉へと沈みつつあった。
「軍曹。戦車が沈んでる。横につけろ」
「いいんですか? こっちの位置が露呈します」
「戦いは終わった。彼らはもう敵じゃない」
「はいはい。わかりました、了解です」
「曹長──」
「──ワイヤーでの牽引、準備できてます」
ダック210の貧弱な発動機が唸りをあげる。
泥を巻き上げながら、気分だけは爆走する。
投降した連邦兵は、湿地から姿を現したダック210を見て、皆殺しにされるとでも思ったのだろう。
ダック210の灰色に汚れた小さな姿に怖がっていた。
ダック210が、沈みつつあるトエイの近くで停車。
同時に総長が泥の泉に飛び込み、ダック210とトエイをワイヤーで繋ぐ。
だがトエイを引き上げるほどの力はなく、ダック210が沈まないようにするので精一杯だ。
だが、トエイの沈降は止まった。
「中佐! 中佐! 早くしてくださいよ。こっちも引きずり込まれそうだ!」
「わかってる、軍曹」
トエイ引っくりかえり、腹の底を見せていた。脱出ハッチが底部にあるのだが、開けられていない。重すぎるのだ。
「曹長。一、二であわせろ」
「はい」
「一、二!」
とんでもない重量の割に、トエイの脱出ハッチの取っ手は小さい。
当たり前だ。外から開けるようにはできていないのである。
それでも中佐と曹長は、その腕の血管をはち切れんばかりに浮かび上がらせ、持ち上げるよう試みる。
大口径砲ばかり扱う帝國兵でも、脱出ハッチは重かった。
それでも、持ち上げてみせた。
トエイに閉じ込められていた、五人の乗員が、泥だらけの顔のまま、陽の光に晒される。
「外界へようこそ」
俺は汗だくであったが、気分は良かった。
ワイヤーフックを四苦八苦しながら外し、ダック210に戻ろうとしたとき、連邦兵が話しかけてきた。
トエイの車長だと一目でわかった。
同じ戦車乗りだからこそ感じる風格があったのだ。
「煙草は?」とトエイ車長。
「いや、吸わん」
「そうか。それにしても下手な言葉だな、お前」
「帝國の言葉を、貴様が学んでくれ」
親しく話してきたのは、トエイ車長だけだった。
他の四人の乗員は、訝しむ目線だ。彼らは“敵”という認識なのだから仕方あるまい。
敵同士なのだから、当然のことだ。
トエイ車長は煙草に火を付けようとしたが、ライターが泥まみれだ。
俺はその姿を見かね、変わったマッチを一本渡す。
「これは?」
「頭を引っこ抜けば火がつく」
トエイ車長は、言われた通りにした。
ずんぐりむっくりなマッチの頭を引っ張る。被せてあったものが抜け、摩擦で緑色の火が灯る。
煙草に火を移し、トエイ車長は一服する。
「ありがとう」
それだけだった。
短い会話の後、連邦側がもっていた武器弾薬、橋の修理に使われるはずだった資材に機材をしこたま分捕って、ダック210たちは引き上げた。
戦利品の中に毒物──連邦の戦闘糧食──はない。
略奪品を食って、戦闘不能になった帝国兵が続出したためだ。
正式に、上層部から食すことを禁止されている。
噂では連邦の決戦兵器らしい。
湿地帯の中をダック210の群れが、一列になって帝國の占領区に直行している。
「中佐。こんなことばっかりしてるから、大佐に昇格できないんですよ」
「そうですね。貴族様なんだから、もっと綺麗な仕事場を選んだほうがいいに決まってます」
曹長と軍曹の言いように、俺は大きく笑った。
「貴族の長男だってな、楽なもんじゃない。戦果を上げなければ人間扱いされない」
「中佐よりボンクラなのがよく艦隊司令になってますけど」
「戦果はな、金で買えるんだ」
「あぁ、なるほど」
「貧乏貴族では戦果を買うほどの金もない」
「栄光ある騎士団の名が泣きますね」
「そうでもない。どうやらご先祖の時代から貧乏で、雑草を食って飢えを凌ぐことも少なくなかったそうだ」
「ははは」
「おい。その笑いは騎士団への侮辱とうけとるぞ?」
「すみません」
「冗談だよ。それにお前らは、騎士団の家族だ。兄弟の悪口くらい、皆言ってるさ」
ずるずると、その鈍重な体で、湿地場を這いずり回る鉄の獣たち。
灰色の蛙ども、彼らに明日はないかもしれない。
だが誰一人としてそのことを嘆くものはいない。
祖先がそうであったように。
石を投げる時代、槍を構える時代、銃を撃つ時代になっても、変わることのない生き方。
戦い、そして死ぬこと。
何も変わっていない。
彼らが祖先たちとともに、この同じ世界で生きているということだ。