七つもの『ロキット』が、今か今かと、火が付けられる瞬間を待ち望んでいる。
細長い機体が、ロキットの熱と衝撃にどこまで耐えられるのかは謎だが、『大陸を横断しない』ので問題は、一切として存在しない。
一時間……いや、三十分飛んでくれれば良い。
頼んだぞ、アグナイテット。
狭苦しい操縦席の中から、愛機を撫でた。
「リプカ! 補機を回す、驚くなよ!」
「頼む、戦友!」
整備士さんが、大手を振っていた。
髭もじゃのオヤジだ。
アグナイテットに勝手に、私の名前を縮めた、リプカ・ゲヘナの名を刻んだのもこの男だ。
あとで整備班長にぶん殴られていたが、後悔は一つもなかったそうだ。
アグナイテットの、小さな小さなプロペラが回り始める。
エンジンが弱すぎるので、振動はほとんど感じなかった。
それでも、俺たちを空へと連れて行ってはくれるだろう。
風に乗ることさえできれば、それなりに距離は飛べるはずだ。
滑空機ほどではないだろうけれども、計算上はそれなりの距離を飛べるだけの出力があるのだ。
他のレース参加機も、エンジンに火を入れ始めた。
もうじき始まりそうだ。
第一回大陸横断レースに参加している機体全てから、『鉄の獣の唸り声』が轟く。
やはり、もっとも派手な音を出しているのは、ワリウネクル諸島連合のスマウコロ・マコラだ。
デカいエンジンから、デカい駆動音とともに『黒炎』を吐き出している。
おいおい、大丈夫なのか。
私の正面にいるのだから、いきなり爆発は勘弁してくれよ。
私も人のことは言えないのだけれども。
右手にいるフォウ王国の参加機体たちも、エンジンを少し開けるだけで、キンキンと耳をつんざくような音を立てていた。
これが噂の噴進エンジンの音なのか。
初めて聞いた。
左手にはクランダルト帝国の参加機体が並んでいる。
その内の一機、グランバーラ・ザイオンには、ガニア・イビ少将騎士が乗っていた。
ガニアと目があった。
ガニアは帝国式の敬礼を、この私に送ってくる。
礼儀正しい男だと思うが、『殺す相手』に対して呑気なものだ。
私はこの大陸横断レースに、優勝するために来ているわけではない。
全てはガニアを殺すための、最初で最後の好機を逃さんがためだ。
親も、子も、兄弟も、友人も、ガニアによって殺された。
戦争は、すでに終わったらしい。
だが私の中の戦争は、まだ『終わっていない』のだ。
そして、ガニアが憎くて憎くて、憎くて仕方がなかった。
この気持ちはもはや、私自身にもとめられない。
心に受け止められる憎しみには、限度がある。
限度を超えれば溢れだしてしまう。
溢れだした思いは、もうもとには戻らない。
思いだけが先に先に歩いていき、それこそが生きる意味となった。
そこまでわかっていても、私は、私自身の思いには逆らえなかった。
誰も彼もが、少なくとも表向きだけだとしても、戦争を忘れている。
だが、私には無理だ。
戦争を忘れるなんて、不可能だ。
塗り潰せない記憶が、焼きついている。
心に焦げ付いた痛みが、今も疼く。
「アナンサラドの意地を見せてやれよー!」
客席や整備士の待機所から、『アナンサラド王国の代表』に声援が送られてきた。
皆は、私に望んでいた。
戦後の平和の代表としての、大陸横断レースの優勝をだ。
弱小であるアナンサラド王国が、超大国を抜いて優勝する確率は、極めて低い。
それでも望まれているのだ。
大陸最速という名声を、望まれている。
「……」
皆の望みに、私は答えることはできない。
戦争中、私は砲士としてずっと飛び回ってきた。
リプカ砲士、リプカ砲士、リプカ砲士。
名が呼ばれるときは、陸軍からの要請に応える時だけだ。
アナンサラド王国には、満足な空中戦力は存在しない。
侵攻してくるクランダルト軍空中艦隊にたいしては専ら、アーキル連邦辺境艦隊が追い払ってきた。
本格的な空中兵器の相手をするとき、私の出番はなかった。
見ていることしかできなかったのだ。
私の一族をことごとく殺してきたカタキである、ガニア少将騎士が目と鼻の先を掠めていたとしても、見ていることしかできなかった。
だが、今は違うのだ。
殺るならば、今日しかない。
今日を逃せば、二度とこの好機はないのだ。
殺るのだ! リプカ・ゲヘナ!
「頑張れー! 負けるなよー!」
「お前に全財産をかけてんだ、勝ってくれー!」
「……」
もうじき、大陸横断レースが始まる。
対加速度服のホースをアグナイテットに接続した。
これで過酷な加速度が身体にかかり、血液の流れがへだたろうとしたら、空気の浮き輪が広がって押し返してくれる。
多少無茶なことをしても、気を失ったり、目の前が真っ暗になることもないだろう。
アグナイテットの場合は、初期加速が最大の敵だ。
下手をすれば、私の首をへし折ろうとする、お転婆で言うことを聴かない奴だ。
機体よりも、私のほうが耐えられない危険がある。
今かと今かと、進空の瞬間を待ち望んでいる参加機の上空に、巨大な戦艦が流れてきた。
異質な形、金属でも土でもない満ちの物質で作られた厚い装甲をもつ浮遊物体。
旧文明の残した自動兵器でも最凶の、メルカヴァ級戦艦だ。
頭の良い学者様がたの試算では、これ一隻で大陸全土の戦力を破砕できる能力があるらしい。
恐ろしい限りだ。
そんな恐怖の大王であるメルカヴァ級も、今はレースの開始を告げるためだけにやってきているのだから、世の中は何があるのかわからない。
メルカヴァ級の全身に追加された光り物──元は防衛用熱線兵器群──が色を変えて照射している。
ギリギリまでの低出力なので、光が当たっても溶融するなんてことはない。
メルカヴァ級の色はまだ、赤と黒だ。
まだ、飛んではいけない。
一つ、口の中の唾を飲み込む。
緊張した。
それはこれから、『戦後の戦争』のために人を殺すことにたいしてのものだろうか。
あるいは純粋に、このレースへ参加していることにたいしての緊張だろうか。
わからないが、心臓が早鐘を打っていることは、確かだ。
酸素マスクを装面する。
アグナイテットの七つのロキットへ一斉点火し、爆発せずに生き残っていれば、私はほんの十数分で、限りなく『空の境界』に近い場所を漂うはずだ。
そこには呼吸するだけの空気はない。
空気は薄く、とても寒いだろう。
そして、地上からは遥かに離れており、空は昼間でも黒となるはずだ。
その後は……薄い空気の中を、低抵抗で滑空しながら、出来うる限りの距離を稼ぐ手はずになっていた。
そっからは降下と上昇を繰り返していくのだ。
速度と高度を、『風の潮目』を見ながら交換していく。
だが私はそこから、別行動に移らせてしまう。
カタキを撃つ瞬間は、この時だ。
レース参加機体には、幾つかの標準装備が支給されている。
耐加速度服、酸素瓶と呼吸装置、携帯食料や水。
そして、航法誘導装置だ。
この誘導装置を少し弄れば、ガニア少将騎士の機体を見つけ出すのは容易い。
すでに改良はすませてある。
あとは私にやる気があるのかだ。
問題はない。
メルカヴァ級が点滅している。
もうじき、一斉に、沢山の機体が進空するだろう。
私もその時に備えた。
ロキットの急加速で口の中を切らないよう、『噛み止め』を口の中にいれた、噛み付く。
メルカヴァ級が、蒼のレーザー光を出した。
どこまでも深い蒼で、青空のように純粋な色だった。
かつては兵器として作られたものが、平和の象徴を作るための始まりを告げた。
何となく、変な感じだ。
「イグンナート!」
ロキットに火を付けた。
悪夢か地獄かのスイッチを押し込む。
一瞬、不発か、と冷や汗が流れかけるほどの間が開いた。
しかし、すぐにロキットたちから火を吹く。
猛烈な加速によって、眼球が頭の骨に食い込む。
手足がクソ重い。操縦桿も重い。
目の前にいたワリウネクル諸島連合の機体に激突しかける。
操縦桿を引くと、短距離離陸用に、下向きにつけられたロキットに火が付いた。
アグナイテットが、大地を蹴り上げた。
それは空を飛ぶと言えるほど、優雅なものではない。
空に捨てられるようにして、投げられた。
水平の加速で座席に押し付けられていたかと思えば、叩き潰さんとばかりの垂直な力が、頭上が襲ってくる。
首の骨が折れなかったのは、幸運だ。
私の前に、他の国の機体は見えない。
ロキットに送る液体燃料のスロットルバルブを開放する。
ここからは、初期加速ほどの衝撃はないが、速い。
ロキットから、青い炎の尻尾が伸びた。
空へ、空へと吸い込まれていく。
大きく揺れる機体の中では、何かを見ることができなかった。
はっきりと見えないのだ。
絶えず機首が振れており、私の目には『光』しか認識できない。
すべてが引き伸ばされ、細切れにされ、その中に取り残されてしまったのが、白い光だけだった。
「!」
光の世界の中で、スカイバードを見た気がした。
彼女は私に、何かを伝えようとしたのだろうか?
『幻惑』ばかりを私に見せて、私の決断を迷わせる忌まわしい存在。
彼女に語りかけられたからといって、私は変われない。
『神』は何もしてくれない。
白煙を引きながら、私とアグナイテットは大空の彼方へと飛び上がった。
様々な想いを秘め、そして引きずりながら、飛んだのだ。
私の中の、『戦後の戦争』を終えるための、始まりだった。
誰かが言っていた。
自分のために生きられない人間は、もっとも弱い人間だと。
私はその言葉を信じている。
だって、私自身が弱いからだ。
大陸横断レースが、いよいよ開催に近づいていた日、私の乗る機体アグナイテットは、今だ完成していなかった。
煤けたオンボロ格納庫の片隅で、油塗れになりながら、徹底的な軽量化を図っていたのだ。
大出力エンジンが調達できない以上は、短時間のロキット噴射と滑空で飛ぶしかない。
そのためには、徹底的な軽量化が必要だった。
外板を燃料で磨き、少しでも飛行に悪影響を及ぼす誘導抵抗を減らすことに努めた。
おかげさまで、私の手も、すっかりボロボロだ。
アグナイテットには、私たちの血と肉が刷り込まれていると言って、過言ではない。
「もっと軽くできないのか? このフレームパイプを一本抜いても大丈夫だろ?」
「無茶言わんでくださいよ、リプカさん!」
「大丈夫だって」
「飛べはするでしょうが、降下中の衝撃でへし折れます! ダメです!」
狭い格納庫の中で、私は、設計局と整備の人間と話していた。
大陸横断レースに参加する機体を、『でっちあげる』ためだ。
世界平和の象徴であり、国家の威信がかかっているらしいが、もとより小国のためのレースではない。
私たちから見れば、大国のどこかが優勝するだけの、その程度の認識でしかないのだ。
小国であるアナンサラド王国は、アーキル連邦としての後ろ盾がないと、何もできない。
大陸横断レースに参加するからといって、軍上層部から予算はおりないのだ。
戦争が終わって、大規模な予算の縮小が一因ではある。
しかしそうであるのならば、民間からの資金調達となるのだが、あいにく、我国に航空産業は、存在しないといって良いほど小さいものしかない。
軍の備品と機体から調達できるもので、組み立てるしかないのだ。
パイプの一本、エンジン一基の調達にも四苦八苦した。
それでも、私達は、レースの参加機を作り上げたのだ。
執念、だった。
「ちょっと休憩しよう」
「だな。疲れちまった」
「休憩だ、休憩」
「休めよー。この後も外板磨きをさせてやる」
「えー!!」
「勘弁してくれよ」
「馬鹿野郎。俺たちの手で、リプカを他のどこの国の誰よりも速く、大陸を横断させるんだ。泣き言を言うな」
「へっ! 班長は全財産をリプカに賭けたからでしょ。大した金でもないのに──」
「……」
「──イテテテテテッ!? 痛いっすよ!」
皆、アナンサラドの大地で真っ黒な肌を、油でさらに黒く染めていた。
服も身体も、無理な計画に、さらに無理な労働をもって捩じ込んできたのでボロボロだ。
しかしそれでも、アグナイテットは美しく組み立てられている。
男たちの血と汗、金属と油を与えられた姿は、関わった人間たちの今の見た目とは対照的だ。
飛行機というよりは、鳥に近いだろうか。
他の参戦国がどのような機体を持ち込むのか、私にはわからないけれども、アグナイテットは一番美しい機体になるはずだ。
美しい飛行機は、速い。
これは真理だ。
「……」
私は、スス汚れの格納庫の中、毛布一枚で仮眠を始めた整備士たちを見た。
彼らは、本気で私が優勝できることを、信じているのかもしれない。
あるいは彼ら自身がたずさわった限界を突き抜けようとしているのか。
誰も彼もが、最高の機体を作るために、無償の協力を願い出てきたものたちだ。
ただ一人、私を除いて。
アナンサラド王国は、氏族の集まった国家でしかない。
王国政府よりも、各氏族の尊長の発言力の方が重視される。
だからか、氏族のツナガリが何よりも大切だ。
同じ氏族の出身者ならば、例え見ず知らずでも、兄弟のように扱う。
しかし、中には氏族が消滅したところもある。
氏族の消滅とは、全ての『家族』を失ったということだ。
そして、『亡国』になってから流れ着く氏族も多い。
不純な動機をもってレースに参加するのは、彼らに失礼であろうか。
…………考えるのはやめておこう。
私の決心が鈍る。
私の氏族では、優しさには救いを、流血には復讐を、との教えがある。
氏族の教えに従えば、私は復讐は完遂されなければならない。
そう教えられてきた。
だがもう、そんな教えを伝えるものもいなくなるだろう。
崩れる砂丘と同じく、誰もがそのことを知らず、風の彼方へと消え去るのみ。
私の残された命の行くすえは、それだけだ。
風にあたりたかった。
一人で、格納庫の外へとでる。
毛布を拝借することも忘れない。
砂漠の夜は、冷たいものだ。
夜の神様が、昼の神様とあいたくて溜息を吐くから寒いらしい。
夜と昼の神様は双子なのに、昼でも夜でもない極一瞬にしか出会うことはない。
それを嘆いているのだろう。
もっと一緒にいたいのかもしれない。
暗い空には星がなく、月もない。
曇天なのだからあたりまえなのだが、少し寂しい。
砂丘へと駆け上がった。
砂の海の中へと、靴が沈み込む。
砂はまだ、暖かかった。
「リプカさん。怒られますよ」
「うわっ!?」
後ろから、誰かが私を小突く。
人の気配に全く気がつかなかった。
振り返れば、『ヤツ』がいた。
二等砲士だ。
彼にも名前はあるが、私はこう呼んでいる。
「二等砲士、こんなところで何をしているんだ」
「今は一等砲士です。最新の飛行機だって乗れる」
「私にとっては、お前は二等砲士のままだよ」
「空中戦の経験がほとんどないのは一緒でしょうに」
「対地支援はずっと私のが経験をつんでる」
「はいはい、そうですね」
二等砲士は、それ以上には話しかけてこなかった。
いつまでも立っていても、足が疲れるばかりだ。
私は砂の海の上へと、ドッカと腰を落とした。
二等砲士は立ったままであった。
「レース、もうじきですね」
「そうだな」
「優勝を目指しているんですか?」
「……そうだ」
嘘を吐いた。
「スカイバードにはこんな言い伝えがあります。遥か昔、人と人が分かり合えなかった時代。人を繋ぐために、空にはスカイバードが飛び上がった。スカイバードたちは人々の心に触れ、その心を他者に与えることで、人々の心を一つにしようとしたものです」
「今もわかりあえていないぞ」
「スカイバードもまた、心を持っていたから、できなかったと教えられた。スカイバードにも心があるということは、納得できないこと、不満に思うことから、否定に繋がるんだとか。不思議ですね」
「何が?」
「スカイバードは人間を理解しているのに、人間を全て受け入れることはできない」
「当たり前のことじゃないか。色んな人間がいるだけだろ」
「それもそですね」
ところで、と二等砲士が話題を唐突に変えた。
二等砲士の性格は、こんなものだ。
気分屋で、気になったことを次から次へと話してくる。
疲れている時に二等砲士とであったら、次の日は、目が覚めないほどの疲労が貯まるだろう。
まったくよく眠れる。
「いいものを用意してあるんですが、乗りたいですか?」
「乗る? 車か?」
「車なんて運転できないでしょ。飛行機です」
「飛行機?」
「懐かしいやつですよ。アナンサラドでもすっかり見なくなりましたが、元祖の一つです」
「?」
二等砲士が、私を手招きする。
暗く寒い砂漠の闇に、私は招かれた。
風は止んでいる。
静かな夜だ。
私達の足音と、砂丘の崩れる音が聞こえた。
二等砲士が、嬉しそうに私に見せてくれたのは、残骸だ。
塗装が剥げ落ち、すっかり色褪せた機体だ。
とても、よく知っている飛行機だ。
「懐かしいでしょ」
「これは……セレネじゃないか。アナンサラド王国軍使用機か」
折りたたみ式の『鳥の翼』が、追加されていたらしきあとが、この残骸であるセレネにはあった。
ロキットで急上昇し、滑空しながら迎撃する戦術は、このセレネを供与され始めた日に定まったものだ。
アーキル連邦軍としては、遠の昔に全機が資源に還元されたらしいが、アナンサラド王国の空中戦士たちの、『処女飛行』は今も昔も、セレネだ。
国産機が配備されて全ての正式装備がセレネから移り変わっても、訓練機はまだ現役だ。
本当に、懐かしい機体だった。
「ここ、見てくださいよ。文字が刻んである。どこの馬鹿がやったのやら」
「あっ」
セレネの胴体には、デカデカと『傷』が刻まれていた。
アナンサラドの『どこか氏族』がもっているような、巨大な刃物で深く、刻まれていたようだ。
そのおかげで、長い時間の中で、風化して文字が消えることもなかったのだろう。
刻まれた文字には、こうあった。
〈偉大な空に羽ばたかん。一足先に失礼!〉
馬鹿な書き込みだ。
本当に、これを書いた人間は馬鹿だろう。
大馬鹿だ。
きっと、この馬鹿は、飛ぶことそのものが好きだったのだ。
「乗れますよ」
「老婆の背中に乗らせていただこう。腰を痛めなければよいがな」
「何百人もの『子供達』を旅立たせてきた老婆です。今更一人くらい乗ってへばりませんよ」
操縦席の有機硝子越しに、中を見ることができた。
多少、誇りが積もっているが、綺麗なものだ。
外板は錆だらけだが、操縦席の中は、まだ綺麗だ。
すっかり固くなっていた操縦席の風防を開け放つ。
錆びで少し固着していたが、問題はなかった。
「……」
狭苦しい操縦席は、設計に余裕も洗練さも感じさせない。
やっつけ仕事で作り上げたような、野暮ったさがあった。
窮屈で、すすっぽい。
しかし、懐かしい、『貧相さ』だ。
風防を閉じた。
有機硝子越しに、世界が広がる。
数多くの操縦士達が、この有機硝子ごしに夢をみてきた。
感慨深いものがある。
「馬鹿者、リプカ! 後ろに目がないぞ!」
「教官、目は前にしか付いておりません」
二等砲士が、教官風に大声をはった。
「後ろに目をつけろ」とは、よく言われたものだ。
後方警戒を厳とせよの意味なのだが、当時の私は、後ろに目はないと反論していた。
「敵機が後ろに付いたぞ。どうする、リプカ訓練兵」
「味方の対空陣地に逃げ込みます」
「よーし。よーそろー。敵艦との距離1200。いつ鳥雷を放つ、リプカ訓練兵」
「距離800です、教官殿。敵艦が照準環に頭から尻まで収まってからであります」
「被弾したぞ。燃料が漏れてる」
「ロキットを切り離します」
「よろしい、リプカ訓練兵。撃たれて傷ついたらすぐにロキットは投棄しろ。一瞬で花火になる」
私は教官殿──二等砲士が演じている──の指示にしたがって、すっかり重くなってしまっている操縦桿を動かした。
心の中では、私とセレネは空を飛んでいた。
真っ青な空を飛んでいるし、スカイバードの飛ぶ空にもいる。
二つの月にだって行っている。
「敵機接近!」
「ダダダダダダダッ!」
これが、『最後』だろう。
もう二度と、純粋な気持ちでは飛ばない。
飛んではいけない。
「大陸横断レース、頑張ってください。期待しています」
「……そうか」
操縦席の中には、沢山のこのセレネに乗り込んできた人々の名前がある。
その中には、私の名前もあった。
雲を抜けた。
頭がキンキンと痛む。
空は昼間であるのに、暗い。
私は今、空とソラの狭間にいるようだ。
空の彼方に広がるソラ……『ウチュウ』というのだそうだ。
ウチュウはまだまだ遥か上だそうだが、これがウチュウのソラか。
初めて見た。
ロキットを止めた。
液体燃料の流入を停止させる。
水平飛行に移行させ、風の潮目を探した。
思ったより、想像よりもこの高度の空は、空気が薄いようだ。
機体が安定しない。
少しでも左右の翼の調整を間違えると、急降下しそうだ。
ジョット気流は、遥か下方に流れている。
この高度には風の流れは、まったくない。
出来うる限り、ここで距離を稼いでおこう。
慎重に操縦桿を操作する。
私は、『あってはいけないもの』を起動させた。
位置識別用に、各レース参加機の持つ信号発生機を検知する装置だ。
レースには不必要な、無駄な重量物だ。
倒すべき敵ガニアは、すぐに見つかった。
検知器は、極めて優秀な能力を発揮してくれている。
ここでガニアに対して降下と襲撃をすれば、高度の有利は完全になくなるだろう。
ガニアを相手にして、奇襲以外での攻撃では勝ち目がない。
一撃で、落とさなければならない。
『増槽』の名目で積み込んだ、磁気信管と炸薬と詰め込んだロキットで、一撃にかける。
好機は一度だけなのだ。
しかしその場合、アグナイテットの特性上、それ以上の飛行はできない。
風の流れに戻ることは、全ての液体燃料をロキットに飲ませても足らない。
レースには、戻れないだろう。
「……」
躊躇なく、操縦桿を傾けた。
アグナイテットが降下し始める。
これで、レースでの勝負の権利は実質的に、放棄したも同然だ。
高度と引き換えに、加速していく。
操縦桿が重い。
外板にシワが寄っていた。
いや、まだ耐えてくれ、アグナイテット。
頭蓋骨に、眼球が食い込んでくる。
目玉が破裂しそうだ。
それでも歯を食いしばって耐えた。
雲の上に、ポツリと小さな黒い点が浮かんでいる。
浮遊物体だ。
あれが、ガニアのグランバーラ・ザイオンなのか?
たぶん、そのはずだ。
機首が、ゆっくりと、ガニアの機体に向かう。
これで、よいのだろうか。
やめろ、考えるな。
土壇場になってから、私の中に迷いが生じ始めた。
今更、覚悟を揺らして何になるというんだ。
ガタガタ考えるな、私よ。
液体燃料の注入を再開する。
ロキットの息が再び蘇る。
更なる加速が、私を操縦席に押し付けた。
もうじき、私の『戦争』が終わるのだ。
全てを終わらせる。
戦後の戦争……それは、私だけの戦争なのか。
誰も望んでいない戦争なのか。
「!」
目の前から、雲の上にいたガニアのグランバーラ・ザイオンらしき機体を通り過ぎた。
遥か上空にいる。
私は一瞬で、随分と高度に差をつけてしまった。
これでは再びの襲撃は不可能だろう。
武装を全て投棄する。
もう、必要ない。
「……」
よく見れば、私が襲いかかろうとした機体の影が、グランバーラ・ザイオンとは明らかに違う。
あれは……商船組合の観光船だ。
単眼鏡を覗いてみれば、沢山の人々が乗り込んでいるのが見える。
私は……まったくの無関係な人々を殺そうとしていたのか。
「ふぅ……」
ここいらで、全ての『私』を捨てよう。
ガニアを殺そうとしていた私は、今、死んだのだ。
ロキットを吹かせながら、できる限り高度をとった。
何とか、先の商戦組合の船と同高度にまで戻ってくる。
船に乗っているのは、観光客か。
大陸横断レースの観戦客なのだろう。
皆、手を振ってくれていた。
私も手を振り返す。
そして、残った全ての液体燃料をロキットに吐き出させた。
限界まで、飛べるまで飛ぼう。
私に望まれているのは、レースに参加している私だ。
復讐に走っていた私は、全てを捨てた。
「ヒッデー」
砂漠に墜落した私は、無事に回収された。
着地したときの衝撃で、アグナイテットの華奢な胴体はバラバラだ。
私の体も、何箇所か折れているようだった。
だが後悔はない。
そう、何一つとして、後悔はないのだ。
「すまない」
「謝らないでください」
「途中棄権だ。完走もできなかった」
「なーに。『次は』もっと良いものを仕上げてみますよ」
「そのときは、頼むよ」
「俺たちが最初の脱落組っすね」
本当に申し訳ないと思っている。
救助船の医務室の中で、私は、次のレースについて早くも考えた。
次は、正々堂々と、恥じなく戦おう。
私は、そんな決意を持っていた。