北方のフォウ王國には、雪が降る。
そして時に、雪は吹雪へと変貌することで、あらゆる生き物を阻む、恐るべき存在になることがある。
今日もまた、北方の山々に吹雪く雪に絡め取られたモノたちがいた。
その中の一人は、なだ年端もいかぬ少女だ。
少女の名前は、トゥリという。
トゥリは他の仲間たちと、山々の間で吹き荒れる風によって引き離されてしまったのだ。
どのような生物であろうとも、吹雪の吹き荒れる山には、決して助けに行くことはできない。
そして吹雪が止んだ時、哀れにもこの災難に見初められてしまった魂たちは、地上からはすでに旅立ってしまっていることだろう。
彼女、トゥリもまた、そんな運命に今、直面していた。
雪の精たちは、とても気紛れなのだ。
「……」
トゥリは吹雪の『白い闇』の中、猛風で毛皮の服をはためかせ、寒さで手足を痛めながらも、膝まで積もった雪を掻き分けながら歩き続ける。
雪除け風除けにつけた仮面、その内側に貼った防寒の毛皮までが、半ば凍りつきつつあった。
トゥリの身体は、すでに凍傷を負っていた。
あてもなく、ただ彷徨うだけのトゥリの魂は、今まさに旅たちの準備を終えようとしていた。
彼女にはすでに、寒いという感覚はない。
ただ、痛かった。
痛くて、痛くて、仕方がない。
しかしそのようななかで、彼女は覚悟をしていた。
雪に身を預ける、覚悟。
それは死を受け入れる覚悟であった。
先祖たちがそうであったように、トゥリもまた、雪に魂を預ける。
トゥリはこの時気づいてなかったが、彼女のすぐそばには、この猛吹雪の前に倒れた、巨獣がいた。
フォウ王國内でも最大にして最強の一角であったはずの、近くの雪族からは『グルーン』と呼ばれていた獣だ。
獣は今、骨まで凍りついており、雪の海へとその巨体の大半を埋めつつあった。
グルーンの魂は、トゥリがこの地にやってくる少し前に旅立っていた。
トゥリの魂もまた、すぐにこの哀れな獣の後を追うことになるだろう。
彼女はついに力尽き、雪の海へと沈む。
起き上がるだけの力も、彼女にはもう残されていなかった。
考えるだけの力も、残されてはいなかった。
彼女の体は既に、寒さではなく、『熱さ』を感じ始めていた。
それは、凍死する命が最後に感じてしまう──トゥリの雪族たちの言い回しに従えば、『死者が吐息を吹きかけている』と表現する。
トゥリは、死に見つめられていた。
やがて彼女の身体にも雪が積もり、彼女の歩いた道にも雪が積もる。
全ては雪の中に沈む──
──はずだった。
「──」
吹雪の中を、トゥリのおよそ想像もつかぬものが飛んでいた。
猛吹雪の中を『飛行可能な生物』は、このパルエには存在しない。
だが、飛べるものがいないかと言われれば、別の話だ。
それはトゥリが雪に沈んだ場所に舞い降りると、『暖かい光』をあてて雪を溶かす。
それは、明らかにトゥリを助けようとしていた。
だがそれは、人間でもなければ生物でもない。
寒さも暑さも感じない存在だった。
それがトゥリを掘り出すと、大切そうに抱えて、どこかへと飛び立つ。
翼もなく、浮き袋もなく、浮遊機関もなく飛んだ。
あたりには再び、何もなくなった。
雪の精たちは、何一つと残してはくれない、恥ずかしがり屋だ。
意外なことに雪の精たちは、極めて身近な存在だ。
それは降雪を表した空想の存在や比喩ではなく、本当に『雪の精』たちがいるのである。
雪の精は北方の山々、その遥か深淵に住んでいる。
もっとも、人間たちが考えている妖精とは、いくらか違うだろう。
彼ら彼女ら──雪の精たちは、数千年もの太古、今とは少し違う人間たちに作られたものたちだ。
雪の精と呼ばれる前には、『全自動環境兵器群』が正式な名前だった。
今では何の意味もない名前だ。
トゥリを抱えていた雪の精の製造番号は、長い年月の中ですっかり削れてしまった。
製造当時は、半永久的に変化しない金属のはずだったのだが、違ったようだ。
それほどまでの年月が過ぎている。
雪の精は凍えるトゥリの身体を分析し、暖める必要があると考えた。
環境の変化に弱すぎる生身の娘を、もっとも温められる場所へと連れて行く。
そこは、オクロ永久機関と呼ばれた中でも、超巨大な大型動力炉だ。
要塞施設用のものであり、過剰な熱量を放っている。
もともとオクロ永久機関は、こんな熱を出さない。
長すぎる時の流れの中で、修復不可能な異常を生じているのだ。
トゥリは、そんな場所に降ろされた。
凍りつきつつあった身体が温められ、溶けてゆく。
血の気がなく、屍人のように青白くなっていた身体が、ほのかに色つき始めた、
トゥリの命はつなぎ止められたのだ。
「──」
雪の精たちは、『機械の言葉』で囁きあう。
人の耳にも、スカイバードの耳には届くことのない、孤独な囁き声だ。
彼ら彼女らの言葉を理解できる同胞たちは、もはや数少なくなってしまった。
雪の精は滅び行く『種族』なのだ。
すでに古に滅び去った者たちの遺産にすぎないのである。
「子供たちは、もう充分に育った」
「汚染体はほぼ全て排除している。育たねば困る」
「育てたところで意味はあるのか。もはや、百年ともたないんだぞ」
「星は、死につつある。が、それ以上に危険なのが動力炉だ」
「我らの環境改変が星の寿命を縮めた可能性は?」
「ありえる。星の核から抽出している」
「平均で五度、下がった」
雪の精たちに下された──数千年も昔のこと──命令は、三つある。
一つは、最終戦争時に、自然現象を操り、敵國を消滅させること。
二つ目は……汚染された惑星の環境から生存者を守れというものだった。
三つ目は……それは、人類の『救済』だった。
「この個体はどうする」
「助けた、生きたまま返す」
トゥリが、ここに来たという記憶を持つことはない。
彼女はずっと眠り続けていたのだ。
知りようがない。
トゥリのもとでは、雪の精たちが集まり見守っていた。
雪の精たちの身体は、長い年月を命令の為に生かされ、縛られ続けたせいでボロボロである。
幾体もの同胞を食らってでも、任務完遂を成し遂げようとしている。
雪の精たちは、命令に忠実でありつづけた。
昔から今も、そして……これからも。
トゥリが再び目を覚ました時には、彼女は担架に乗せられており、雪の上を引こずられていた。
同じ一族の仲間に助けられたのだ。
「!」
「おぅ、トゥリ。意識が戻ったか」
大きく野太い声が、他の仲間たちにトゥリの意識が戻ったことを伝える。
大きく野太い声の正体は、トゥリの父親である、エゼーラだ。
トゥリは、ポヤッとした表情のまま、ぼんやりと放心していた。
雪の中にずっといたはずなのに、どこも痛くなかった。
凍傷の痛みも消えていたのだ。
本来ならば、凍傷になった部位を切り落とさなければならないところだ。
だが、トゥリにその必要はないだろう。
「トゥリ、運が良かったな。雪の精様は、お前を『雪の子』として返してくれた」
「雪の精様が?」
「そうだ。でなければ今ごろ、死んでいただろう」
「本当に良かった」とエゼーラは、トゥリの頭をクシャリと撫でる。
小さなトゥリの頭に対して、エゼーラの手はとても大きい。
そして、温かかった。
吹雪はやんでいた。
空を見上げるトゥリの目には、どこまでも広がる青空があった。