「なあ、これで起動できると思うか?」
「さあな。でもやってみなくちゃ分からないだろ。旧時代の代物を再起動するなんて誰もやったことがないんだから」
大量の発電機が唸り声を響かせる部屋の中、何人かの人物が緊張した顔つきでとあるモノを見つめていた。
旧時代の遺物、奇跡的に無傷だった機械。慎重に何度も確認、点検を重ねた結果、相応の電力があれば再起動ができると判明し、着々と準備をしてきた。そして、今日がその日。旧時代の機械の目を覚まさせるのだ。
「電力供給安定、必要値クリア。再起動可能……のはずです」
メルパゼル共和国の若い技術士官が不安げに告げる。すべての国から選りすぐった優秀な研究者や技術者が集っているからか、または目の前の機械に恐怖しているのか。私は彼に、そしてここにいる者すべてに向けて口を開いた。
「大丈夫だ。我々は優秀な人材であるし、「彼女」も協力してくれている。今は信じて、こいつが起動してくれることを祈るだけだ」
私は、目の前にあるスイッチを押した――――――
―――――――ここは、どこだ?―――――――――――
―――――ああ、機械の中だ―――――――――――――
――――――――起動していないのか?――――――――
――――電力は…大丈夫だ――――――――――――――
―――――――――中からだと、何もできないか――――
―――失敗、したのか……ならばなぜ?――――――――
瞬間、世界が広がる。私は安堵した。永遠に闇の中にいることだけは避けられそうだ。
しかし、その世界に驚きを隠せなかった。見慣れぬ場所、至る所に見られるジャンクと見間違えるほどの粗悪な機械、そして、理解できない言語を話す、謎の人物たち。一体、カメラが起動するまでに、何が起こったのだろうか。
『あの、すまないが、君達は一体誰だ?』
私が発声すると、彼らはひどく驚き、そして喜び始めた。あるものは飛び上がり、あるものは抱き合っている。つまり誰も私に答えようとしていないということだ。私はもう一度声を出した。
『君たちは一体何者なんだ?答えてくれないか?』
今度は皆が私を見て、笑顔のまま困惑した表情を浮かべた。そのうちの一人が書物を取り出して何かを確認しているが、すぐに肩をすくめて周りを見渡した。これでは話にならない。
ふっと、ある予測が脳裏をよぎった。私は日付を確認した。損傷がひどいのか、データがかなり破損しているのか、今の日付は確認できなかった。代わりに、一つ残っていた音声データを見つけた。今発声したものだろうと思い、再生した。
『ザーッ、ザザー………ああ、迎えが来…………っと、彼の……へ逝………ザザザーッ、ザーーッ』
絶望した。データの内容ではない。データの日付に、私は絶望したのだ。
それは、私の生きていた時代から、数千年が経過したことを示していた。つまり、私は永い時を機械の中で過ごし、さらにその時のことを完全に忘れてしまったということだ。地下深くまで衝撃が届いたんだ。きっとこの人たちは運よく生き延びられた人たちなのだろう。
私は納得がいった。これほどの時が過ぎれば、言語も変化し、私の知らない言葉になっていてもおかしくはない。しかし、本当にそうならば、一体どうやって私の思いを伝えればいいのか?
私がどうしようかと考えていた時、唐突に知っている言葉が耳に(正確にはマイクに)届いた。
『私の言葉が分かりますか?』
私はカメラに目を移した。そこには、ひどく損傷しながらも、未だ起動し続けるアンドロイドが立っていて、私を見つめている姿が映っていた。後ろでは気の抜けたような顔をした彼らが立っていた。やはり私の言葉は彼らに伝わらないだろう。
『あ、ああ。わかるが……君は?』
『私はセイゼイリゼイ。パレタ社のアンドロイドです。あなたは?』
その名前には聞き覚えがあった。
『パレタ社?ということは、完成していたのか…』
『私を知っているのですか?』
『ああ、残念ながらパレタ社は敵側だったから、わずかな情報だけでしか知らないけどね。ミケラ社にも、ミケラダスウェイアというアンドロイドが開発されていたハズだ』
『彼女のことは知っています。会ったことはありませんが。どうやら、本当に旧時代の人間の意識なんですね』
『まあ、そういうこと、かな。紹介が遅れたね。私はハーブェー・ウィラシック。ハーブとでも呼んでくれ。君は何て呼べばいい?』
『リゼイ、と呼んでください。ハーブさん』
『分かった。とりあえずは君と話すことになりそうだ。よろしく、リゼイ』
『こちらこそ、ハーブさん。まずは今の世界を説明しなければなりませんが、時間が深夜に近いため、彼らは休まねばなりません。あなたも今はゆっくりとしていてください。たくさんのことを今すぐにでも知りたいでしょうが、また明日、ということです』
『そうか……ならば何か残ってないか、探してみるとしようか』
『それでは、おやすみなさい、ハーブさん』
『そちらこそ、アンドロイドが電気クルカの夢を見るかは分からないけど、いい夢を』
『……?』
『…お、大昔のジョークさ。なんとなく言ってみたかったんだ。それだけ』
『…そうですか、それでは』
部屋が静まり返る。うるさかった発電機も、騒がしい人たちもいつの間にかいなくなり、彼女が出て行った今、ここには私だけだ。さっきジョークを言ったのは、なんとなく感じていた寂しさを紛らわせるために無意識のうちに放った言葉だったのだろうか。
どうして、こんなことになったのだろうか。漠然とした不安が、暗い部屋に広がっていった。
「お疲れさま、リゼイちゃん。何か分かった?」
私の隣を歩く白衣の女性が話しかけてくる。明るい茶色の長髪が印象的なこの女性は、男からすればとても魅力的なのだろう、いつも周りに誰かがいた。しかし、今は私と二人きりだ。ほかの研究員や技術士官はもう自室へと帰り、眠りについているだろう。廊下には二人の足音だけが響いていた。不規則に頭上の電球が明暗を繰り返す。
「はい。『彼』は旧時代の人間、と言うよりかは、旧時代の「人間の意識」といった方が正しいかもしれません」
「『彼』ェ!?あれが人間だっていうの!?」
「ええ、意識のみですが、明らかに感情が感じ取られました。あれは確かに人の意識でしょう。あとお静かに」
「で、でも……あなたみたいに、機械でできていて、しかも有機的なものなんてどこにも見当たらなかったのよ?帝国では、生態機関と人との融合実験が行われていたらしいけど、それを機械でやってのけたというの?」
「それと同じかはわかりませんが、旧時代のテクノロジーならば、不可能ではなかったでしょう。とにかく、あれは人間です。機械の体だろうと、人の意識があれば、それは人間と捉えるべきです」
「……そうね、いずれにしても、あんな物は誰も見たことがないし、まだまだ調査が必要ね。もし本当に旧文明の人間だったなら、世紀の、いや、人類の大発見になるわ!」
よーし、明日も張り切ってやるぞー、と感情が転々としている彼女だが、ふと気が付いたように私を振り返る。
「そうそう、一つ頼みたいことがあったんだ。危うく忘れるところだった」
「頼み事、ですか?」
「そう。あなたも随分と言葉を理解してきているみたいだし、旧人類の言語を知っているのもあなただけだし、研究のためにも、お互いがお話しできるようになるためにも、彼に言葉を教えてほしいの。それに、旧文明がどんなだったか気になるじゃない」
「言葉……」
今では円滑な会話もできるようになったが、最初に現人類と接触したときは、まともに言葉すら話すことができなかった。私は機械だから、単語や会話パターン、文法などを記憶するだけで大丈夫だったが、彼は一応人間の意識だ。どれだけの時間がかかるか分からない。
でも、やってみたい。そう私は思った。彼にとって、唯一私だけが会話することのできる存在であり、そして、私も旧時代のことに興味がある。断る理由なんてない。
「わかりました。翌朝から、始めて見たいと思います」
「そう言ってくれると思ったわ。それじゃあ私も寝なきゃ。お休み、リゼイちゃん」
「おやすみなさい、ミジーネさん」
「こんな時ぐらい名前だけでいいわよ。アルサで」
「わかりました。アルサさん」
軽く手を振りながら彼女、アルサ・ミジーネ研究主任は自室のドアを開け、その中へと消えていった。私も割り当てられた部屋へと歩く。
スリープモードにする前に、少しだけ、彼のことを考えた。私と同じ、過去に産まれたもの。彼はこの世界に目覚めたとき、何を思ったのだろうか……
モードがスリープモードに移行し、私の意識はゆっくりと闇と溶け混ざっていった。
翌朝、だろうか?機械の中で一日過ごしたわけだが、違和感を感じ始めた。まず、まったくと言っていいほど眠くならない。スリープモードのコードが破損していたことと、電源を落とせば再起動ができなくなるため、付けたままなのが原因だろうが、こればっかりは慣れるしかないだろう。それよりも――――――
そこまで考えたところで、ドアが開く音がした。カメラに意識を向けると、そこには昨日話したあのアンドロイド、リゼイが立っていた。
『おはよう、リゼイ』
私があいさつすると、リゼイは挨拶を返しつつ目の前に正座でちょこんと座った。カメラが人の目の高さに取り付けられているため、自然と見下ろす形になる。
『おはようございます、ハーブさん。よく眠れましたか?』
見上げるように話す彼女は、どこか無垢な少女を思わせる。機械はここまで進化していたのかと思った後、自らも機械であることを思い出して苦笑する。
『ああ、おかげさまで…………その、昨日いた人たちは?』
『彼女らはあなたを今後どうするかについて会議しています。これからの研究方針とか、予算の計上だとか。なので、今日はあなたと二人きりです』
二人きり、という言葉に少し揺らぐ。意図していないものだろうが、もし人間だったころなら、顔が真っ赤になってあたふたしているところを見られていただろう。友人からよく感情が顔に出ているといわれたものだ。
だが、今の私は機械だ。それに相手も。向こうは多様な反応を出せるが、こちらは言葉でしか感情を表せない。彼女も気づいていないはずだ。
『そ、そうか……えっと、そ、それなら、君はどうしてここに?』
『研究主任から、連邦語を教えて彼女らとの意思疎通を可能にするために、一緒にお話しして覚えてもらうという目的でここに来ました』
『ということは、あの人たちの言語をもう理解しているということ?』
『ええ、スペック上は最高の頭脳を搭載していますし、元の言語の特定も容易でしたので、何を話してるかはすぐに理解することができました。』
『さすがアンドロイドだ。北の技術はここまでできていたのか』
少しの間、静寂が二人を見守る。今度はリゼイから話しかけてきた。
『昔のパレタ社の技術はどんなものだったか分かりませんが、あなた自身もとても高度なものだと思います。私とはまた違った複雑さが』
『…その通りだね。実際、これを完成させるには長い時間と気力が必要だった。自慢で言うつもりじゃないけど、ここまで複雑な機械は私以外に作れないよ』
『そうなのですか?』
リゼイが首をかしげる。彼女の行動は一々愛らしいところがある。そういう風にプログラミングされているのか、私が変態だということか。恐らく後者だろう。
『うん、人の意識はかなり複雑で、それをそのままコードにしようとするとパルエを何週もするような膨大な情報量になってしまう。それが原因でこれまで人の意識を機械の中に入れることができなかったのさ』
そこで、と私はもったいぶる学者のような咳払いをして、息を整える。息の必要ない体だが、人間の頃と同様に息に限界を持たせている。リアルに近づけようとした苦悩の一つだ。
『私は既存の考えから脱出した。機械の中に脳が入らないなら、脳に近い回路を作ればいい、とね』
『脳に近い……回路?』
『感情や反応、思考というものはすべて、脳内の電気信号によって作られている。その信号が通る神経、ニューロンを参考にしたのさ。機械にはあるまじき、[忘れやすい]回路にしたんだ。それぞれの回路が独立して各自がそれぞれと繋がっているから、たとえどこかで配線が途切れたとしても組み直すことのできる、ダメージに強い回路にもなった。その分、データの欠損やエラーも多くなったけど、それでこそ人間の意識が入り込めるということさ』
つまりは、機械で脳内を再現したようなものだよ、と言って、私の授業は終わった。彼女も真剣に聞いてくれたので、話していてとても楽しかった。
『さあ、今度はリゼイの授業を僕が受ける番だ。まず何から覚えればいい?』
さっきまで神妙な顔をしていたリゼイだが、すぐに見慣れた(と言ってもまだ二日目だが)表情に戻り、解説を始める。まずはあいさつや数え方、文字の読み方から始まり、私はそれをどんどんデータ保管用のバンクに保存していった。幸い、外国語読み上げソフトが機能する状態だったので、連邦語に少しづつ対応させていった。自分の意識のほかにサポートとしての簡単な人工知能も搭載している。そいつに任せれば大丈夫だろう。
そんなこんなで、時間になったのか、リゼイが立ちあがった。最後の方はもはや授業というより書き取りに近いものになっていたため、私は非常に疲れていた。機械なのに疲れるというのも可笑しいが、確かに私の頭脳は疲れを感じていた。
『今日はここまで、お疲れさま』
私を見上げながら彼女が言った。心なしか少しうれしそうな、楽しそうな表情をしていた。
私も、とても楽しかった。大学で興味のある授業を受けた後のような充実感が体の中で気持ちの良い心地よさを生み出していた。
『うん、お疲れさま。明日の予定とかって決まっているの?』
私は彼女に尋ねた。彼女は表情を変えず答える。
『彼らが今後の予定を決めるまでは、ずっと言語の学習をすることになります。そのあとはまだわかりません』
『そうか、ありがとう』
彼女は背中を向け、ドアへと足を進める。その後ろ姿は、なぜか私の頭に既視感を覚えさせた。それが何なのかは結局分からないが、確かに見たことのある何かを連想させた。
私は、早速覚えた連邦語で挨拶することにした。
「おやすみ、リゼイ」
「……おやすみなさい、ハーブさん」
少し驚いた顔をした後、これまでで最高の笑顔をして挨拶を返してくれた。その笑顔にまた心を揺らがされた。
彼女が退出し、また一人になる。私は、外の世界が急に気になり始めた。またあの美しい世界が見たくなった。高く伸びるビル群、少し歩いたところにあった、街を見渡せる丘、遠くに見えるナジアル山脈の白い岩肌、すべてが懐かしく感じられた。
今は、どうなっているのだろうか。その疑問が浮かぶと、外に行ってみたくなった。明日彼女に頼んでみよう。
会議室からアルサ研究主任が出てくるのが見えた。向こうも気づいたみたいで、こちらに向かってくる。
「リゼイちゃん、どんな感じだった?話せるようになりそう?」
開口一番に出てきた言葉は、簡単に予想できることだった。他の研究員もも気になっているらしく、ドアの向こうで研究員が息を潜めているのが分かった。
「学習には人並みの時間が必要でしょうが、簡単な挨拶や会話ならばもうできる状態になっています。まだお互いに会話するためには不十分ですけれども」
「そう、予想以上に良いことが聞けたわ。さすがリゼイちゃんね」
他に何か分かった?と尋ねてきた彼女に、彼が話してくれた大まかな概要を話すと、ただでさえにやついてる顔がよりひどくなった。この時の彼女はお世辞にも魅力的とは言えない。しかし、こんな表情が出せるのは信頼してくれている証拠だろうと、私は考えた。
「面白い話が聞けたわ、今日はいい夢が見られそう」
そう言うと主任は向こうへと歩いて行った。もう夜も遅い。いつものように周りには静寂が広がっていた。違うのはドアの向こうに複数人の息を殺す音だけだ。
そういえば、と私はあることを思い出した。私が彼の前に座った時、首をかしげた時、彼の声が少し上ずった。人が動揺した際によくみられるものだが、ならばなぜ彼は動揺したのだろうか?そして、一番分からなかったのが、彼が連邦の言葉で私に挨拶してくれた時。あのときに、言葉に表すことが難しい、感情のような何かが私の中で芽を出した。あの感情は、なんと呼べばいいのだろうか?まだ知らないことがあることに、驚きと探求意欲が沸いた。
彼なら、何か知っているだろうか?明日尋ねてみよう。そう思うと、またあの感情が心の中に芽吹いた気がした。
あれから数十時間の時が過ぎた。結局彼女に外に出たいということができずに授業が終わり、彼女以外の人――厳密には「生き物である」人という意味だが――とのコミュニケーションが始まった。彼らがいくつか質問をしてきたが、その内容は彼女からの質問と比べると至極単純なものばかりで、しばらくすると彼らの知りようがない情報を愚痴りたくなる衝動に駆られるようになった。それほどに退屈していたのだ。
「……つまり、現在の我々が使っている技術はパレタ社のもので、南東地域から回収したあなたはミケラ社のものなのね」
「肯定。私の所属した勢力とそちらが使用している勢力の技術には大きな学問的差が存在している。また、現在使用されている物はほぼ劣化していると推測される」
「それは、あなたも含めて?」
「肯定。私の性能は製造された時期と比べ大きな劣化が確認できている。約40%の機能喪失、基本的情報以外のほぼすべての記憶及び記録が消失していることを確認した」
「そう……」
質問してきた女性の声が止まる。これが質問終了の合図であることを内心祈っていた。
「ありがとう。今日はこのぐらいにしておきましょう」
そして、その祈りが通じてくれたのか、長く退屈な質問攻めが終了した。彼らがいそいそと書類や機械を整理し始めたことを横目に、私は彼女、リゼイとの雑談を楽しもうと思った。
『はぁ、疲れた』
旧文明語でため息を漏らすと、端に立っていたリゼイが反応を示す。
「お疲れ様でした。どうでした?人間との初めての会話は」
『リゼイ、出来ればこっちの言葉で話してくれないか?二人だけで話したいんだ』
そう言うと、彼女は少し間をおいてこっちの願いを聞いてくれた。
『分かりました。彼女らに聞かれたくないことでもあるのですか?』
『そんなことはない。でも、君と私だけが知っている言葉で話すって、なんかロマンチックな感じがしないかい?』
『ロマンチック、ですか』
『そう。ふたりだけのことば』
私なりの遠回しな好意の言葉だったが、彼女はよくわからないといった顔をした。
どうやら、丸一日と精一杯の勇気を消費して考えた告白はうまくいってはくれないようだ。
『あ、あのさ、少し、二人きりで話してもいいかな?リゼイに相談したいことがあるんだ』
そこで、戦略を変えた。実際は心臓がはち切れそうなほど緊張していたが、ここで引いたら男じゃない。
それに、私には心臓と呼べるものはない。
彼女は、さっきの間よりも長く考え込んでいた。答えを待つ間にふと片づけをしていた彼らの方をみると、そのほとんどがこちらの会話を興味深そうに聞いていた。彼らの周りにはまだ整理しきってないものが私の研究室のように散らばっていた。それを見るに、私が旧文明語で愚痴った直後から作業を中止しているらしかった。見ている人々のほとんどが言葉を理解していないようだったが、ただ一人、さっき私に質問していた女性だけが、秘密を知った女子高生のような笑顔になっていた。美人の類に入るであろうその女性の浮かべている笑顔は、無垢な男性が見たらその心を打ち砕かれてしまうだろう。
『分かりました。少し待っていてください』
リゼイがそう言うと、彼らに退出してもらうように話してくれた。その言葉で我に返った者たちは急いで片づけを再開した。ただ一人、笑顔を浮かべた彼女を除いて。結局、部屋から一番最後に退出するまで、その顔が変化することはなかった。
『これで二人きりです。それで、相談とは何ですか?』
静寂が訪れてすぐに、彼女から口を話してくれた。
『そのことなんだけど……私はいつまでここにいることになるんだろうと思ってね』
『…すみませんが、質問の意味がよく分からないです』
『じゃあ、外に行くことはできるのか、と言えば分かる?』
『外に、ですか』
『そう。目が覚めてからずっとここにいるだろう?機械だからずっと同じ場所に置いとくのが当たり前だと思うかもしれないけど、一応私も人間の意識をコピーしているから、人と同じような欲求があるんだ』
『そうですか…ですが、このことについては、私よりも彼女らに直接相談した方が効率的ではないのですか?』
『確かにそうだけど、私は君が頼んでくれたほうがいいと思うんだ。得体のしれない機械からより、信頼されてるリゼイから頼んだ方が許してくれる可能性が高いはずだからね』
『成程、確かにその方が結果的に効率的かもしれないですね』
『お願いできる?』
『分かりました。できる限り早く外に出られるように頼んでみます』
ありがとう、と彼女に伝えると、彼女はあの笑顔を返してくれた。記憶に引っかかる、優しい笑顔。いつかそれが何か分かる時が来るのだろうか。
『その代わり、私からもお願いがあります』
話が終わったものだと思っていた私は、彼女の言葉に少し驚いた。いや、本当に驚いたのは、彼女が私に「お願い」をしてきたからだ。これまでも質問などで教えたことがあったが、こうして彼女の方から対価としてお願いをしてきたのは初めてだ。
『な、何だい?』
『少し前から、私の中に感情のようなものが発せ―――――』
その言葉が終わる前に、部屋の天井にあったダクトの蓋が急に開き、床に落ちた。リゼイも急に振り返る。
そこには、見たことがあるようでないような、海棲哺乳類のような見た目をした不思議な「生き物」が、こちらを覗き込んでいた。その生き物は、何をためらうこともなく私に突進をかましてくる。動くことのできない私の代わりに、リゼイがそれを防ぐ。結果的に抱きかかえる形で拘束されたその生き物は鳴き声を上げてもがいている。
『アミーカ!?どうしてこんなとこに!』
彼女がアミーカと呼ぶそれは、リゼイの言葉を聞いた途端におとなしくなった。リゼイの顔を覗き込むようにして落ち着いた鳴き声を上げる。
[ピー、ピャピーッ、ピィピャー]
『リ、リゼイ、その生き物は何だ?』
私の問いに、リゼイは腕の中の生き物から私へ視線を動かす。
『はい、この生き物はクルカ。私はこの子をアミーカと呼んでいます。この子たちはものを考えられる高い知能があり、言語が共有できれば意思疎通が可能です。できるのは今のところ私だけ、それも一方的なものですけど』
クルカ(あるいはアミーカ)と呼ばれたそれは、私をじっと見つめている。その目を見ると知能があるとは思えないが、私の知ってる海棲哺乳類も超音波によるコミュニケーションをしていたことを考えるとあり得ないことではないだろう。
『会話はできるのか?』
『専門的なことは難しいですけど、子供と話すような内容なら理解してくれます』
『私と話すこともできるかい?』
『連邦の言葉を覚えないと難しいですね。少なくとも昔の言葉では理解してくれないでしょう』
『何故ダクトの中から?狭いところが生息地とは考えられないが』
『クルカは好奇心が強く、どんなことでもしますから、ダクトの中にもぐりこんでいてもおかしくありません』
[ピキーッ!ピャー!]
突然、クルカが大声を出した。何か気に障ったのか、それとも蚊帳の外にされたことに怒っているのか。
『おなか、空いたみたいです』
その答えは、以外で単純なものだった。
『とりあえず、今日はここまでですね。この子、駄々をこね始めるとうるさいんですよ』
『そう…分かった。外に行く件、忘れないでくれよ』
『勿論です』
騒ぐクルカを抱えながら、リゼイがドアを閉める。外れた蓋はそのままだ。
いつもの静寂が訪れ、いつもの思案に更け始める。
―――リゼイに一緒に来ないかと誘ったら、承諾してくれるだろうか―――
変なことを考えているわけでもないのに、誰にも聞かれていないはずなのにとても恥ずかしくなった。これじゃあまるで、恋する乙女、思春期真っ盛りの男子高校生みたいじゃないか。機械に恋するなんて、いつかこうなるとは思っていたが……とうとう私も、人の道を外れ始めたか。いや、機械になった今では、正しい道かもしれない。どうであれ、人か機械かなんて哲学的な話は頭がオーバーヒートしそうだからやめよう。
彼女に恋心を抱いている。それはきっと正しいはずだから。脳裏に、彼女の笑顔が浮かぶ。立ち上がった時の佇まいが映る。
瞬間、その笑顔が、身体が人間の体を纏う。記憶の中で、一人の女性が笑いかけてくる。私はその顔に、体つきに、一つの事実を思い出し、そのことに動揺し始める。
私は、彼女に会ったことがある。それも、私の―――――――――
アミーカを抱えながら、廊下を進む。いつもと同じく隣に主任がいる。最初の会話の後だからだろう、結構な時間が立っているのにも関わらず廊下のあちこちに研究員が立って話し込んでいる。聞こえた範囲で言えば、旧文明のことが解明できる糸口が見つかったとか、あれを見つけたパンドーラ隊はもっと誇ってもいいとか、誰か主任に旧文明語教わりに行ってこいとかである。会話に熱中しているからか、あるいは異様なオーラを放つ存在が隣にいるからか、私達に話しかけようとする人はいない。
部屋から出たとき、アルサ主任がちょうど部屋に入ろうとドアに手をかけようとしていた所に出くわした。私と目があった時の彼女の顔は、どこか誤魔化すような笑顔であった。笑顔さえ良ければ、とは誰の言葉だったか。この人は、笑うことに関しては魅力が半減する。研究者とはこういうものなのだろうか。
「主任、一つお願いがあります」
今日はこちらから主任に話しかける。いつも受け身の私が話し始めたことに、彼女は少し興味をもったような顔をした。
「何かしら、あなたがお願いなんて珍しいじゃない」
「彼が、外を見てみたいと」
ふうん、と彼女が前を向く。足音と周りの話し声だけが耳に入ってくる。彼の部屋から大分離れた主任の研究室に到着するという頃、彼女が口を開く。
「いいわ。許可してあげる。いつ頃がいいかしら?」
「出来れば早い方がいいと」
「なら二日後ね。前からもう一度全員で打ち合わせたかったことがあったから、その日は自由にしていいわ」
「ありがとうございます。研究主任」
「だから名前で呼んでって言ってるじゃないリゼイ。もう周りには誰もいないわよ」
「すみません、アルサさん」
[ねぇ!お腹空いた!お腹空いた!]
アミーカがいたことをすっかり忘れていた私は軽く飛び上がってしまう。笑いを堪えているアルサ主任に何かクルカに食べさせられるものがないか聞くと、やれやれといった感じで首を振る。
「とりあえず、外へ行く件については後で詳しいことを伝えるわ。その子には食堂の余りものを食べさせなさい。今日は御馳走だったからその子も喜ぶわ」
私はもう寝る。そういって主任研究室のドアが閉まる。時間を確認すればもう深夜をゆうに超えていた。ずっと地下で生活していると時間の感覚が狂ってしまう。機械の私は問題ないが、人間にとっては健康面において大きな問題だ。しかし、それを苦にもせずに美貌を保ち、寝る時間が不定期かつ短い中健康体を維持できている彼女は何者だろうか。浮かぶ疑問を頭の中でぐるぐると回しながら食堂へ向かい、アミーカを放す。あとは彼女が自分で考えて行動するだろう。
自分の部屋にたどり着き、スリープモードに移行するまで、私は新たな疑問を回していた。
なぜ、地下にいると時間の感覚が狂うのか。恐らくは体内のリズムに何らかの要素が関係しているからだろうが、それが何か分からなかった。さらに不思議なのは、彼とよく話すようになってから時間の流れが変動するようになったことだ。機械の体においてそれは大変なエラーの原因になりそうなものだが、問題なく動いているからには他の要因があるのだろう。
彼に聞こう。自然とそう思ったが、いつから自然と思うようになったか分からなかった。
目覚めたときから、分からないことだらけだった。自分が知能を与えられた理由も、感情を手にしている理由も。私が産まれた理由も。
彼は、専門的なこと以外も知っているだろうか。私が求めている答えを、果たして彼は知っているだろうか。
その答えは、彼に聞いて確かめるしか、方法がなかった。
明日。それが彼女からの回答だった。今日はまた人間との会話をする予定だったのだが、私があまりにもうやむやな回答しかしないものだったから昨日よりも早く切り上げることになった。何を話していたのか思い出せないことからして、かなりの上の空の回答だったのだろう。あなたがそんな状態になるなんて、何かあったんですか、とリゼイからも心配されてしまった。しかし、昨日『思い出した』ことが頭から離れないことを、彼女に相談するのはとても勇気がいるし、その勇気は思い人に告白するよりも遥かに強いものが必要だった。
『明日のことが頭の中でいっぱいでね。』
そう言って誤魔化すほかなかった。自分自身をも。 彼女が心配そうな顔をする。その顔が、その目が、私を蝕む。優しさが故に傷ついてしまう。一人になりたくて立ち上がろうとしたが、機械であることを思い出してまた自分自身を混乱に陥れる。記憶と視界がないまぜになり、落ち着きがなくなってゆく。
結局、それを鎮静化させるには一度考えるのを止めるほかなかった。今日は早めに休みたい。彼女にそういって出て行ってもらい、完全に今まで考えていたことを忘れる。
少し落ち着いたころ、少しだけ昨日思い出したことを辿ってみようと思った。まだ大切なことを思い出せていない。
まだ生身の体の頃、リゼイによく似た人物と交流した記憶。北半球に住む彼女とは、大学にいたころに知り合い、緊張していく世界情勢がその仲を引き裂くまでは、いつも何処かで様々なことを話していた。主に彼女はアンドロイド―――機密事項故に機械人形と揶揄していた―――についてを、私は人の脳についてを。私は人の意識を機械に組み込むため、彼女は機械を人とするために、お互い夜が更けるまで話し合った。最初の出会いから、ずっと同じことを話し合っていた。ある日は大学の廊下で、ある日は荒廃した世界を見渡す展望台の上で、そしてある日は私の、あるいは彼女の部屋で。その交流は大学院を卒業し、お互いに大企業へスカウトされても続いていった。そういえば―――
そこまで思い出したところで、ふと私は時間を見る。モニターの右端に表示された時刻は、そろそろ明日になる頃だった。リゼイが出て行ってから既に半日近く。それほどの時間がたったことを知覚することができなかったのは、記憶の修復ともいえる作業に没頭していたからだろう。
記憶が戻るにつれて、少しずつ落ち着いていくのが感じられた。あれほど不安定になっていたこころは、嵐の過ぎた夜のように静かになった。しかし、結局思い出すことは出来なかった。だからこそ、決心できたのだろう。
彼女に、打ち明けようと、思いの全てを伝えようということを。
彼女が作り上げた、最後の機械に。
私は、最後に見た空を思い出そうとした。
あの日の空は、確か―――荒れた星となったパルエには珍しく、澄んだ星空だったな。
今日の彼は、何かおかしかった。それは研究員のほうも感じ取っていたらしく、いつもよりも真剣に話し合っている。当然と言えば当然だ。旧文明の秘密に近づく鍵が壊れてしまったら、連邦にとっても人類にとっても大きな損失になってしまう。どうにかして直せないか、あるいは壊れる前に情報を抜き出せないかと誰もが必死に策を見つけようとしていた。
そして私自身も、彼に対して何かできることはないかと思案に暮れていた。そのため、目の前に立っていたアルサ主任のその豊満な胸元へ小さな悲鳴と顔をうずめてしまい、周りの視線が集まる結果を生み出してしまった。その時の周囲の空気は、何とも言えない微妙さに支配されていた。
「かなり悩んでるみたいね。慎重なあなたが私にぶつかるぐらいに」
慌てて離れた私に主任が話しかける。その声はいつもよりも暗く、彼女もまた悩みを抱えていることを教えてくれる。もし彼が壊れたら、担当研究主任である彼女が何かしらの責任を取る羽目になるであろう。彼女であればそんなことは気にもしないだろうが、興味があるものが壊れてしまうことは面白くない、そういった性格の持ち主であるためきっとここにいる誰よりも考えに考えを重ねてどうにか彼を元に戻そうと躍起になっていることだろう。
「すみません、彼のことが気になってまして……」
「やっぱりね。あなたも考えてくれているなら、少しは安心できるかしら…」
その言葉に少し違和感を覚える。確かに私は旧文明のアンドロイドだ。しかしだからと言って彼を直す方法など知る由もない。そのことは主任も分かっているだろう。なのに「安心できる」というのはどういうことだろうか。
「ねえリゼイ、彼を助けたい?」
主任が尋ねてくる。その顔は真剣そのものなのだが、どこかに何かに対する期待のようなものが込められているような、そんな雰囲気を感じ取る。しかし、彼の助けになる方法があるのなら、どんなことでもやりたい。
「はい」
そう答えると、彼女に笑みが少し戻る。顔に少し彼女らしさが戻り、私も少し安心する。当たり前であることが大切だということは、つい最近知ったことだ。
「だったら、一つお願いがあるわ」
「なんでしょうか」
「明日、彼と一緒に外へ行きなさい。そこで、彼がこうなった原因を調べてほしいの」
「分かりました。しかし主任、調べるといっても…」
「そこはしっかりと教えるから心配しないでいいわ。機械とはいえ、彼も「人間」であることには変わりはないでしょう?ならば、いくつか方法があるわ」
「ならばなぜ私が?」
「あなただからこそ、よ」
しっくりこないといった顔をしていると、彼女は、その顔に浮かべた笑みを少し大きくした。
「とりあえずついてきなさい。みっちりとその方法を仕込んであげる」
私の顔を一回優しくなでまわすと、自分の部屋、主任室へと歩みを進め始めた。そのあとに急いでついていく。何を仕込まれるのかは分からないが、彼の助けになるなら、喜んで教えてもらおう。
リゼイは気づかなかった。前を歩くアルサの顔が、何かを楽しみにしている、いつもの笑顔を浮かべていることに。仕込まれたものが、何を意味しているのか―――
目覚めてからずっといる部屋に、轟音が響く。
いつもリゼイや人間が入ってくるドアの反対側の壁が、ガレージのように開いていくのが差し込む光で分かる。恐らく大きな機械などを運び込むときに使われる搬入通路のようなものに続いているのだろう。轟音が収まり、聞きなれた声が後ろから聞こえてくる。
『外に、行きますよ』
その声と共に、轟音で聞こえなかったエンジン音に気づく。機械の駆動音が唸り、しばらくした後に視界が上に移動し始める。クレーンに釣られ車両の荷台に乗せられた私は、始めてみる景色に目を走らせた。
光が差し込んだように感じたのは部屋が真っ暗だっただけで、この搬入路はとても薄暗かった。隅に様々なガラクタが積み重ねられてるのが辛うじてわかる程度だ。窓がないことから、恐らく地下にいるのだろうと推測する。乗せられた車両がレールの上にあることが分かった。車両の大きさは分からないが、レールの幅から恐らくその脇を通り抜ける幅は存在しないだろうと考える。暫くの間景色に集中していると、隣に誰か乗ってきた。それと同時に車両が動き出す。
『楽しみですか?ハーブさん』
私にもたれかかるように立つリゼイは、いつもと何かが違っているように感じた。私が勝手にそう思っているだけかもしれないが。
『ああ、とても』
やはりどう話せばいいか分からない。昨日の決心はどこへやら。今の私は緊張で乗っている車両のようにガタガタと震えている。私がいた部屋が暗がりの中へ消えてゆき、ゆっくりと車両が進んでゆく。
『ハーブさんはどんな空が好きですか』
リゼイが話しかけてきたとき、さっき抱いた違和感が何か気づいた。普段(と言ってもたったの数日だが)リゼイが質問してきたときは、そのすべてが技術や理論といった知識だったのだが、さっきから聞いてくるのはまるで人と話すような質問ばかりだ。
『そ、そうだな……』
質問に答えようとして、その答えに詰まる。大気汚染が進み、まともに青空を見られなくなったのは私が生まれる前。写真の中でしか、空の、自然の美しさを見ることができなかった。つまり、
『星空、かな』
必然的に答えはこうなる。唯一自分の目で見られた本当の空。リゼイはただうなずき、
『私も好きです。星空』
と話す。車両が突き当りまで来たのか、停止する。暫くしてサイレンが鳴り、ゆっくりと昇り始める。エレベーターが昇り切り、車両が動き始めても、お互いに声を出そうとしなかった。不思議と、その静寂が心地良かった。車両は私から見て前に進んでいる。周りには人一人おらず、照明が照らすのはわずかな空間だけだった。
車両は静かに進んでゆき、また停止する。少しすると今度はサイレンもならず機械が軋みながら駆動する音だけが響いた。少しずつ目の前が明るくなる。
彼がそこで見たのは、黄金の海であった。
適当な場所へ降ろすため、車両がまた動き始める。海を分かつように、ゆっくりと進む。少し高くなっているところに着くと、クレーンで私を海の上に降ろし、戻っていった。太陽が沈みつつある世界に、今彼は飲み込まれそうになっていた。文明が滅んだことが事実だということが分かったからではなく、純粋に今の景色が素晴らしかったからだ。
彼が「自然」ともいえる場所に行けたことは少ない。ドーム内の公園にはよく行ったが、空は人口のものだったし、植物も遺伝子改造されたものだった。ドームの外は文字通りの「地獄」だったため、彼も含めて誰も外へ行こうとはしなかった。だからこそ、自分自身が今外にいることが信じられないことのようでもあった。これは夢ではないかと。
『どうですか、ハーブさん』
何も言わずにたたずむ彼に、リゼイが話しかける。彼は初めて見る景色に何を思っているのだろうか。それを聞くのは何故か気が引けた。
『ああ、素晴らしいよ。とても素晴らしい』
彼が上の空のような声で答える。夕日が沈みつつある砂漠は、光が反射してまるで金のように輝いている。彼女も地上へ、外へ出るのは久しぶりだったため、二人はまた静かに景色を眺めていた。時折通り過ぎる風が二人の間を砂と共に駆け抜けていった。
(過去を話させるには、こっちの過去を話すのが一番手っ取り早い)
リゼイは昨晩主任から「仕込まれた」ことを思い出す。彼を助けるために教えてもらったいくつかのこと。それは男性に対する効果的な話し方と共に効果を発揮すると言われたものだった。
『私も、最初に見た景色はこんな感じでした』
息を整えた後、静かに話し出す。
『…目覚めてから初めての景色。ということ?』
『そうです。私も目覚めたときは何が起きたのか分かりませんでした。砂漠を歩き、彼ら、つまりはヒトに会うまでは何のために生きようかと考え続けていました』
彼女は続ける。私は何のために作られたアンドロイドなのか、なぜ知能や感情を与えられたのかずっと悩んでいること、そして―――
『……何十年と過ごしてきても、ハーブさんと一緒にいたときの感情は現れることがありませんでした。この感情が意味することも、なぜこの感情が沸き起こるのかも。ハーブさんなら、その答えを知っているんじゃないかって思ったんです』
リゼイが話し終えるまで、彼は何も言わずに黙って聞いていた。彼は今、答えを考えているのだろうか?その答えを彼女はただ待ち続けた。
彼は、ゆっくりと、話し始めた。言葉を一つ一つ選び取るかのように。
『全部、知ってるよ。君のことも、その感情も』
少しだけ、昔話をさせてくれ。彼は一呼吸の沈黙ののちに言葉を続けた。
『私がまだ人間だったころ、一人の女性と仲良くなった。彼女はパレタ社、つまりは君を作った組織にスカウトされる予定のついた素晴らしい才能を持っていた。もし彼女と知り合っていなければ、きっと私は君に出会うこともなかっただろう。私は彼女の見た目だけじゃなくて、その奥にある静かな、そして強い意志を感じ取れる彼女の目に、強く惹かれた。勇気を持って話しかけてからは、お互いに自分の研究成果を話し合った。あれが出来た、これが上手くいっていない、という風にね。彼女はとあるアンドロイドを作っているとよく話してくれた。機密事項故に細かいことは話せなかったが、彼女はそのアンドロイドを自分の娘のように語っていた。絶対にあの子を完成させてやるんだ、と。あの子に、人々を救ってもらうんだ、とも言っていた。私はその熱意にも惚れていたのかもしれない』
そこで彼は一度、深呼吸をする。心を落ち着かせ、冷静に話すために。
『でも、私と彼女の仲は許されざるものになりつつあった。世界情勢が悪化し、北と南でお互いを憎みあうようになっていった。そんな中でもお互いに会おうとしていたが、いつの間にか会うことも声を聴くこともできなくなった。それからは一度も会っていない。最期に会った彼女は、こう言っていた。「もしも、あなたの研究が完成したら、いつか私が迎えに行ってあげるわ。だから頑張って、ハーブ」と。私は一心不乱に研究を進め、今の私を作り上げた。そこから先のことは覚えていない。ただ一つ、迎えが来るまで待て、という生身の私の最後の言葉だけが、今の私が覚えていることだ。そこから先は、君に出会ってからの記憶になる』
これで私の昔話はおしまいだ。と彼が言う。リゼイには彼がどう思ってこのことを話したのか、理解することは出来なかった。それよりも先に、心の中に生まれた疑念を確かめたい。そのことが彼女の頭を占めてしまったからだ。もしかして、いやまさかそんなこと。
そんな彼女の心の内を見たのか、彼が絞り出すような声で囁く。
『彼女は、そのアンドロイドを「リゼイ」と呼んでいた』
そしてその言葉が、リゼイの疑念を打ち砕き、確証へと変えた。私の生みの親を知っている。私を作った人を知っている。今度はその思いがリゼイを包み込んだ。
『私は全部、思い出したんだ。君が知能や感情を与えられた理由も、君が抱く知らない感情も。それは全部、彼女自身の感情を君に打ち込んだものだから』
彼は続けた。彼の研究がリゼイの人工知能に少しばかり応用されていること、感情はもとから入れるものだったのかは分からないが、彼女の意思で入れられたものではないかということ。知らない感情があるのは、もしかしたら彼女自身がその感情を再現できなかったからではないかということ。
その感情は、『愛情、恋』と言われるものだということ。そのことを話す彼は、ひどく落ち着きがない状態だった。
いつの間にか太陽が沈み、空には二つの月が輝いていた。パルエで何が起ころうとも、星空は変わらずに巡り続ける。彼らはすべて見てきたのだろうか。旧文明が滅ぶさまも、新しい文明が興るさまも、そして生身の彼と彼女の生みの親も。リゼイはただ、信じられないような気持ちを星空を見ることで落ち着かせた。すでに主任から仕込まれたことは役に立たないことは分かっている。ここからは自分の言葉で、彼と話さなくては。
『あいじょう、こい……それは一体、どんな時に起きる感情なのですか?』
彼女が言葉にできたのは、この質問だけであった。そしてこの質問は、お互いに秘めている思いをその相手に伝えることになるということを、どちらとも薄々感づいていた。
『その相手を大切にしたいと思ったとき……つまりは、相手のことが、好きだという気持ちが、愛情や恋、といった感情だ』
お互いに機械の体を持つ二人の中身は、どちらも「人」と言えるほどに複雑なものである。そしてお互いに、愛情や恋心といったものに慣れていないために、自分の思いを素直に伝えることができないでいる。その光景は、機械の体であることを除けば、十分に人間と同じことをしているのに変わりはない。そして二人のうちの片方は、この光景をよく知っていた。
人間の頃にできなかったこと。伝えられなかった思い。この光景を見かける度、自分の不甲斐なさに落ち込んでいた。とうとう伝えられなかった思いを抱いて、今度こそはと決心し、そしてまた伝えられずに別れた。
『はっきり言う。リゼイ、私は、君が好きだ』
何千年も昔に言おうとして、そして伝えられなかった思い。もうその人はいなくて、あの時の約束は果たされないものだと諦めていた。その時に、リゼイと出会い、あの時の記憶が戻った。あの人は、こうなることを予想していたのだろうか?私とリゼイが、こうやって出会うことを。私が告白することを。自分が作ったアンドロイドが、彼女との約束を果たすことを。
彼女は何も言わない。暗くなった今、月の光だけが彼女の顔を照らす。その顔はいつか見た、月明かりの元の彼女を思い出させる。見れば見るほど、その顔が本人に似ていることを知らされる。彼は、彼女からの答えを待った。
『私の生みの親の名前は、なんと言うのですか?』
彼女の口から出たのは、予想できなかったものだった。私を覗き込むその顔には、ある決意が込められているように感じる。
『…リザ。彼女の名前は、リザだ』
その顔を見て思い出す。リザ・クレイシー。私が恋した、一人の科学者。いつも真剣に話をした、唯一の親友。
『ハーブさん』
『何だい』
『もう一度、今度は彼女の名で、告白してくれないでしょうか?』
『彼女の名、で?』
『私はセイゼイリゼイ。リザさんが創り出したアンドロイドです。そして私は、リザさんが残した思いをあなたに伝えたい。だからこそ、今だけは、私を彼女の名で呼んでください。私は、彼女として、彼女の思いをあなたに伝えたい』
『……分かった』
リザ。そう私が呟く。
はい。リゼイが答える。
―――好きだ。リザ。
―――私もです。ハーブさん。
世界が静かに輝く。彼の目には、最後に見た空が映っていた。彼女と約束をした、月明かりの下。最期に見た、彼女の目には、彼の姿が映っていた。
リゼイが見たのは、彼が告白したときだった。ロックされていたデータが表示される。
そこには、たった一言、こう書いてあった。
Me Too.
彼女も、彼に思いを伝えられなかった、一人の女性であった。