異国の想い出

 アッコ・コロニーは緑に囲まれた美しいところだ。
 標高の高い山脈の麓。そこ一帯を管理している。貴族や資産に余裕がある者達の中でなら、ここは避暑地、または比較的安全な狩猟地として名を知られている。
 春は花溢れる山河が人々の目を楽しませ、夏は名所として歴史深い祠に参拝者が祈りを求め、秋は落葉の雨に心打たれ、冬は雪とともに世界全てがしんとした静寂を与えてくれる。観光で季節の折に訪れるには充分目を楽しませてくれる土地だ。
 集落には時折訪れる商人たちを休ませるための小屋が溢れている。禁猟期には日用雑貨や聖都の珍品を取引しようとやってくる商人たちでごった返し、祭りのように心地よい喧騒の音楽を織りなす。そのにぎやかさは聖都の神誕祭(神が生まれた日を祝う一週間の祭り)にも引けはとらないだろう。
 大抵の者は利便性を求めて川の近くに住居を建てるので、それ以外の場所に家を建築するものは変わり者とされている。
 現在の季節は森の景色が緑から褐色に移ろう秋。麓から離れて、集落の中ではさほど重要視されていない小さな水源の近くにひっそりと建つ小屋が一軒。
 良い方に表現すれば趣深い顔立ちに味がある古民家。悪い方に言えば人に見捨てられたかのような有り様のうらぶれた家だ。集落の建築物とは打って変わって違うしっかりと丸太同士が組み重なった木造建築、雑草や名も無き花を踏み慣らした道を進むと全景が見える。
 修繕をする気がなさそうな、ところどころ腐りかけの丸太の壁。雨戸は朽ちて地に落ちて、かつては整然としていたのであろう面影は無残に削がれている。
 家の玄関のすぐ横には蔦が絡まり、そばに置かれたテーブルの上にはもはやだれも使うことのない茶器が2つ。この家にかつては2人の人間が生活していたが証拠でもあり、もういないという証拠でもあった。
 家の持ち主だった人間の名は、ミハイルという。

 

▽▲
 彼のフルネームはミハイル・コット―。かつて帝国軍人としてこの国に侵攻した陸戦兵だった。くせのある金髪の持ち主で、実年齢よりは若く見えがちな童顔で少し猫背。寒がりの為にいつも羽毛で組まれたコートを着ている。何かの話の主人公には成れそうにない風体の男だ。
 家はミハイルが建てたわけではなく、原生生物に襲われ部隊が全滅し、負傷し遭難した彼を匿った部族たちの手により、この地に住むために建設された。
 後に夫婦となった妻と娘も住めるようにと増築され、三人家族が住むには充分すぎる間取りとなったが、今はミハイルしか住んでいない。どちらも既に他界している。
 ミハイルの妻が死んだ原因は病気だった。名前は皇国語にまだ慣れていなかった彼には発音できなかった。
 簡単に言えば傷口から胞子が血液に混じり、やがて心臓と肺を腐らせて死ぬものだった。皇国軍として招集され、前線から帰ってくる途中で発症したようだった。
 早死にが多い生き方だから帰れただけでも幸運なのだと、明るくふるまって言っていた妻のその病状を知ったのは彼女が死んでから。
『知られれば、君が罪悪感をもってしまうのではないかと、怯えていたから秘密にしていたんだよ』
 そう教えてくれたのは彼女の親友だった。ミハイルは葬式でその事実を親友に伝えられた時に「どうして」という思いがいつまでも頭にこだました。
どうして

どうして

どうして
 そんなの、言ってくれれば、いくらだって。
 一緒に、治す方法を探したりとか、狩猟のために持っていた軍人時代の銃を売ってその金をそれにつぎ込むとか、なんだって、してあげれたのに。
 妻が部族の言いなりでミハイルと結婚したわけではないことは明らかだった。彼女と出会ったのは彼が森の中で動けずにヒュンクの群れに囲まれていた時に彼女が銃声で追い払ってくれた時だった。彼女の仲間が助けに来てくれる間、低体温症になっていた彼を、衣服を脱いで地肌で抱きしめて温めて助けてくれたのも彼女だった。部族の捕虜として保護された後も、体調が戻るまで看病してくれたのは彼女とその親友だった。
――強い人だと、思った。
――彼女が笑えば、帝国人としてここにいる負い目の気持ちも薄らいだ。
――何度も何度も、彼女にも恋をした。
「どうして」の問答が続く。涙はすでに枯れていた。
 妻の親友はできた人で、彼が妻の死で心を喪失している間、彼女の代わりと一生懸命に動いて彼と残された幼い娘の世話をしてくれた。放っておけば一人で森の中に入ろうとするミハイル家に戻し、彼に暖かい食事を、優しい声で子守歌を歌ってくれた母を思い出し、夜中に泣く娘のために添い寝をした。
 少しの横恋慕があったのかもしれない。あの日、熱を出して寝込んで、突然吐血を繰り返すようになった娘を医学を持つ商人のもとに連れて行ったのも彼女だった。
 娘が妻と同じ病を持っていると知らされたのは、実の父親よりも親友が先だった。
 日々の流れはゆっくりと、しかしミハイルの目には早く進んだ。
 妻の二の舞にはさせまいとあらゆる商人を頼った。聖都に赴き大病院の医師にも診せた。多くの人に額を地面にこすりつけて頼み、情報を集めては新薬を試した。
 薬と副作用は切り離せない関係だ。娘は薬を飲む度に苦しんだ。愛する人が苦しむ姿から目をそらすことが出来ない看護の日々は近しい者の心を薄布を刃物で切り刻むように傷つけた。
 どれだけ新しい薬を試しても娘の病状は良くならなかった。やがて頼るところすら尽きて、医者にも見放され、治す手立てがないと途方にくれる。
 妻が寂しさで天から手招きをしているのではと、馬鹿らしいことを何度も考えた。連れて行かないでくれと、墓に向かって懇願しても彼女は何も言わなかった。
 精神的に追い込まれていたミハイルだったが、それまで看病をしに通ってくれていた妻の親友の方が離れるのが早かった。病と副作用に苦しむ娘を見守ることに疲れ果て、招集された大戦で戦死した。やがてミハイルと娘は本当に二人きりになった。娘は薬漬けの生活のせいでかつては白いミルクに浮かんだ赤い花弁のようだった頬も黄色くにごって枯れ木の如く醜くやせ衰えた。
 甘い匂いがした母譲りの自慢の髪も、どんどん抜け落ちていく。
 見るに耐えない。本当に見るに耐えない姿だった。
 最終的にミハイルは医師の提案を拒否し、娘を想ってくれる部族の人々の反対も押し切り、娘に鎮静剤の投与だけすることにした。彼女の、ただでさえ短い人生を苦痛だけで埋めてしまいたくなかったのだ。
 それからは少しの平和。優しい日々。副作用で消えてしまったと思っていた久々に見る娘の笑顔。
 後残りわずかの幸せな毎日が続いた。

 娘が死んだのは、とても気持ちのいい快晴の昼だった。
 世界の色を刻々と失わせていく秋。空は水色。部屋の窓からも暖色に染まった木々が見えた。家の庭先には少しでも元気にと、集落の人々が作ってくれた花壇と時折鳥が水浴びに来る小さな池が在った。池の水面には落ち葉が浮かび、静かに漂っていた。
 落ちては、漂い、水に浮遊し、互いに引き寄せられるように集まる落ち葉たち。その生命を失っても尚美しい残骸。
 娘はそれを見て「きれい」と言った。
「水の色と、落ち葉の色が混ざってまるで絵みたい。ねえ、あの上なら落ちずに水の上を歩けるかなあ」
 子どもらしい発想。実際は重力と体重に負けて体はすぐに水の中へ沈むだろう。ミハイルはそれを正さず、小さく首を縦に振った。
「雨よけの布を使って、風が手伝ってくれればできるかもしれないね」
 と冗談ぽく答えた。もうすぐ消えてしまいそうな子どもの前では、少しでも大好きな親として振舞いたかった。
 娘はそれを聞いて、瞳を輝かせて笑った。
「なら、いつか見せてあげるね」 
 私たちのあの家の、綺麗な池で。
 秋に落ち葉が水面をたゆたう頃。
 いつか。
 いつかおとうさんに見せてあげる。

 娘はその後、大きく息を吸って、死んだ。
 まだ、九歳だった。
 娘は抱き上げると、軽かった。
魂一つなくなっただけで。こんなにも軽くなってしまうのか。
 本当に生きてくれていたのだろうか、自分は長い夢でも見ていたんだじゃないだろうか。ミハイルは泣いた。
 彼は娘を妻と同じ墓地に休ませ、それから三人の家だった場所に戻り、沈黙した。
 ミハイルには軍人時代に培った最低限のサバイバル力があったし、彼が教えた技術は部族や生徒に出稼ぎをする職人たちの目にとまり、応用されるごとに謝礼としてその度金や食料が送られてくるため、餓死することもなかった。妻と娘の喪に服しながら、ミハイルは自分の体験や集落の人間の話を元に、本を書くようになった。

 人間は、悲しむことも、嬉しがることも、ずっとは続けられない。そういう風に、出来ている。
 ミハイルは二人への想いに区切りをつけるため、筆を持つことを決めた。
 それからが大変だった。
 ミハイルは長いストレスと孤独からくる精神失調で体調を崩した。二タニタ笑う商人から買わされた、気分が安らぎ夢も見れる薬にも手を付けた。医師のおかげでなんとか克服することが出来たが、手の震えが残った。
 執筆するにしろ、生活にしろ、彼の暮らしに障害が残った。
 書きたいことだけは、胸にちゃんとあった。
 あとはそれを形にするだけ。
 執筆の話をした集落の長に相談すると、あることを教えてくれた。
「ユパに頼めばいい」
「ユパとは、なんです?」
「君の世間知らず…いや、皇国知らずは今になっては心配になるレベルだな。常識だぞ。この時期なら祈りの祠に赴く者も少ないだろう。そうだな、君は場所を知らんだろうし、私が願いに行こう」
「ユパは……何をするのですか?」
「3日後だ。待っていなさい」

 

 ▽▲

 3日後の早朝。ミハイルはまだ寝息を立てていた。
 女が家の前に立っていた。
 やわらかな白髪は、木の繊維をなめして作られた紐で一つにまとめられ、細い体は雪のように白い、フードのついた丈の長いローブに包まれていた。
 ローブの裾は歩くごとに水面のように静かに揺れ、胸元につけられた琥珀のブローチが陽光で煌めき輝く。
 ローブの下の服装は質素で簡素な青いワンピースタイプに、腰は赤い布が巻かれていた。
 使い込まれて深い色合いを出している革の靴は肥やした畑の土の色。手には重たそうな布袋をを持ち、ミハイルの家の玄関の前に歩を進める。
 ちょうど女が玄関前の石畳に足を踏み入れた所で、風がごおと音を立てて吹いた。
 暖色を帯びた朽葉が彼女を歓迎するかのように踊り、浮遊し、旋回する。
 紅葉の残骸が目の前に帳を下ろしたせいか、見失う視界。女は胸につけていたブローチを一度手でぎゅっと握りしめる。小さく何か呟いたが、それは枯葉のざわめきよりも大人しい声だったので響くことは無く誰にも聞かれず空気に溶けた。
 風が止むと女は先程の危うげな雰囲気をどこかに置き忘れ、特に迷う様子もなく、フードと同じくらい白い手で玄関の戸を3回叩いた。
 乾いたノックオンが家の中で小さく響いた。しばらくすると扉が開かれた。家の持ち主である金髪の男、ミハイルが扉の隙間から顔を出す。寝起きのせいかそれまでの心労か、どちらにしても客人を迎えるにはだらしない服装と顔立ちをした彼。ミハイルは女を見ると、目を丸くして驚いた表情をした。彼女があまりにも、風変わりな格好をしていたからか。
 それともあまりにも美しかったからか。どちにせよ、一瞬息を呑んだ。
「……君が、ユパ?」
「はい。アッコ族の平穏と繁栄を神に祈り、そのためのお手伝いも致します。ユパのエレシアと申します。」
 夢の中から出てきたような美しさの白髪赤眼の女は、玲瓏な声で名乗った。

 エレシアという女はまさに人形の如く美しく静かな佇まいをしていた。小さく整っている睫毛に覆われた赤い瞳は血のような輝き、白色の肌に浮かぶ桜色の頬、薄いピンクの唇。
 どこをとっても欠けることのない、月のような美を持つ女。
 瞬きさえしなければ、ただの鑑賞用の銅像になるだろう。
 ミハイルはこの国の風習については全く詳しくなく、生活難に見かねた集落の長が彼女をよこしたのだった。
「3日待て」と言われて待った挙句、訪れた彼女。
 てっきり、癒し用に訓練されたクルカでも送ってくるのではないかと思っていた。
 まさか、従者のような人間をよこしてくるとは。
 この国は僕が思っている以上に前時代的な文明なのかもしれない。
 ミハイルは世俗全般に疎いタチだった。商人が無償で配る風聞誌も読まず、人付き合いも一人になってからは少ない。気にかけくれる友人がいなければ会う相手は食料品を運んでくる商人と彼を気に掛ける族長ぐらいに限られるだろう。
 もっとちゃんと調べてから手配を頼めばよかったと早くも後悔する。
 この三人の家に、自分以外の人間……しかも女性がいることにひどい違和感と、何だか後味の悪いものを覚える。
――家族に悪いことをしているような気分だ。
 エレシアはそんなミハイルの考えも露知らず、案内された居間の椅子に腰掛けている。茶を薦めたら、小さく啜りながら飲んでくれた。それがこの国の茶の飲み方なのだろうか。
「長はなんと言ってんだい?」
 疑問に感じて聞いたら、エレシアは茶の入ったカップを膝上に置き、
「生活と日々の仕事に苦難している同朋を助けるように願われました」
 と答えた。とてもシンプルに。
「正直……僕は戸惑っている。その、想像と……ちょっと違ったから」
 エレシアは自分の身なりをちらりと確認し、共に椅子に座ろうともせず立ってこちらを眺めるミハイルを見つめ返す。
「……何かご希望に添えぬ点がありましたか?」
「いや、希望というか……」
「ミハイル様がお待ち頂けるようでしたら。私ではないユパを隣の集落から手配させて頂きます」
「いや……僕が言いたいのはそうじゃなくて……いや、まあいいか……。仕事が出来ればそれでいいんだ。君はうるさくなさそうだし」
「呼吸も浅くいたします」
「……そこまでしなくていいよ」
「私は『ミハイル様をお救いするために』ここに来ました。ご満足頂けるよう、神の垂らし糸たるユパの名に恥じぬ働きを致します。お使い方はなんでも構いません。どうぞ、お心のままに利用してください」
 大きな宝石のような赤眼にじっと見つめられながら言われて、ミハイルは少々どきどきしながらも「うん」と頷いた。
 彼女の言う救済期間は二週間。その間に、本を完成させなければいけない。
 ミハイルは気持ちを入れ替えて、彼女を書斎へ案内し早速作業を始めた。
 とは言ったものの、まずエレシアがすることは代筆ではなく彼の書斎の片づけになってしまった。
 書斎と寝室を兼ねたミハイルの部屋は脱いだ服や食べかけの飯がこびりついた鍋が床に直置きしてある惨状だった。要するに、ゴミ部屋である。
 エレシアは無言で彼を赤の瞳で見た。
『呼んでおいてこの有り様はなんだ』と目が言っている。
「……ごめん」
 仕事をする人間の部屋ではないのは確かだ。一人になってからはほとんど居間は使用していなかったので綺麗だったが、頻繁に出入りする部屋、洗面所や台所、風呂場はどこも見るも無残な状況に陥っていた。
 エレシアの様子を見て、ミハイルは内心タジタジになった。
 彼女の身体は見たところ十代後半から二十代前半くらいだが、そんな若い娘にこんな恥ずかしいところを見せたくはない。老いてきてはいても、男として情けない。
「ミハイル様、私はユパであって従者ではないのですよ」
 とは言いつつも彼女は持ってきた布袋の中から白い前掛けを取り出し、意欲的に片づけをしてくれた。一日目はそれで終わってしまった。
 二日目からなんとか二人共書斎に腰を据えて仕事を始めた。

 

▽▲
 ミハイルは寝床に腰かけ、エレシアは椅子に座り、机の上の原稿に筆を持って向き合っていた。
「『彼女は……言った』」
 ミハイルが頭の中の文章を喋りだすと恐ろしいほど速い動きで文字を静かに書き出した。
 それに目を剥いて彼が驚く。
「……それは、帝国の……?」
 久しく見なかった母国の文字を見ると、エレシアは顔をミハイルに向ける。白い肌に微かに桃色の頬、赤い瞳はそのままに、表情は崩さないまま答えた。
「ユパに与えられた力はそれぞれ違います。私の場合、『お救いする人の言葉をそのまま形とする』ことができます。オルティカン様……アッコ族の族長からあなたのお話は伺っています。ミハイル様のお言葉は、昔も今もお変わりがありません」
「そうなの……あ、って今の言葉は書かなくていいんだ。脚本の言葉だけでいいから」
 ミハイルは喋り続けた。途中、何度も休憩したが初日としてはうまくいった。
 もともと話の構想は自分の中にあったのだ。あまり文章に詰まることはなかった。
 エレシアは話の聞き手、代筆屋としてはとても良い相手だと喋りながらミハイルは気づいた。彼女は最初から物静かな印象であるし、仕事に入るとそれが如実に現れる。命じたわけでもないのに、本当に呼吸の音も聞こえない。聞こえるのはただカリカリとなる筆の執筆音だけ。目を瞑れば、音だけだが原稿を自分が書いているような気にすらなる。どこまで書いたか、読みあげてもらうにしても声が涼やかで朗読も上手いから聞いていて楽しい。
 彼女が語れば、どんな文章も荘厳な物語みたいだ。
――なるほど、これは確かに重宝されるわけだ。
 ミハイルはしみじみとユパの良さを知ることが出来た。
 しかし順調なのも三日目までで、四日目以降は書けない日が続いた。執筆にはよくあることだ。書く内容は決まっていても、うまく言葉が紡げない時がある。
 ミハイルは自分が書けない時の対処法を長年の軍人経験を応用し、実践した。
 それは書かないこと。無理に行い、出来たもので素晴らしいものなどひとつもないという法則が彼の中にはあった。
 エレシアには申し訳ないが待機をしてもらう形になる。
 手持ち無沙汰になった彼女は頼むと無表情で掃除や料理をしてくれた。元来、働き者な性質が搭載されているのだろう。誰かが作ったご飯、それも暖かく湯気が出ている物を家で食べたのは久し振りだった。残飯を分けてもらったり、自分で狩って作ったりもしたが、素人が手間暇かけて作った料理とそれらは違う。
 この国伝統の麦粥にククウィーの卵をかけ香草を乗せたもの。磨り潰した豆で野菜を包んで蒸し焼きにしたもの。色彩豊かな野菜達をピリ辛のソースで麦と共に炒めた極上の混ぜご飯。山々に囲まれた土地では摂取しにくい魚介類が入ったスープ。商人から買い付けた物を無駄なく調理した。副菜もサラダやスープなど何かしら毎回ついてくる。それに対する、ちょっとした感動。
 ミハイルが食べる時、彼女はそれを眺めているだけで物を口にしない。
 食事を勧めても、「後で一人で食べますから」と言って譲らない。茶を飲めることは確認したが、もしかしたら掟だかの理由で人前では食べられないのかもしれない。だとしたら、彼女は自分の知らないところで狩りでもしているのだろうか。
 想像すると、シュールな図が頭に浮かんだ。
――一緒に、食べてくれればいいのに。
 思うだけで、口には出さないがそう願ってしまう。
 妻とはまったく違うが、どこか似ているような気がする料理をする彼女の後姿。見つめているとなぜだか、無性に切なさがこみ上げてきて目頭が熱くなる。こうして他者を生活の中に入れたことでとても良くわかってしまった。
――僕がいま、とても寂しい生活をしているっていうこと。
 商人との取引から帰ってきたエレシアを玄関で迎える時の高揚感。
 夜、眠る時に感じる、いま自分は独りではないという安心。
 何もしていなくても、目を開けばそこに彼女がいるという事実。
 それらすべてが、ミハイルに自分がいかに孤独な人間であるかを実感させた。
 金はあるし、生活するだけなら困ってもいない。だがそれが人生を潤してくれるかというと、これ以上心が荒れない防護策にしかならない。
 決定的に傷を癒してはくれないのだ。
 気心がそれほど知れていない相手だとしても傍に誰かが、誰かがいて、同じように目覚めて起きてすぐ隣にいてくれるということ。
 それが、ずっと独りで心を閉ざしてきたミハイルの心に染みる。
 エレシアはミハイルの生活に現れた波紋だった。波風をたてない湖に訪れた小さな変化。投げ込まれたのは無機質な小石だったが、それが彼の無味な生活、風のない湖に変化をもたらした。良い変化か、悪い変化か。どちらかと言えばきっと良いほうなのだろう。
 少なくとも彼女がいることで感じる切なさで溢れた涙は、今まで流したものより温かだった。

 

▽▲

 エレシアと過ごすところあと三日になって、ようやくミハイルは重い腰を上げた。
 煮詰まっていたのはとあるシーンのせいだった。
 ミハイルがエレシアに書かせていた物語は一人の少女の冒険奇譚。家出をした少女が様々な土地で、色んな人々や出来事に遭遇し、成長していく。
 少女のモチーフは、彼の亡き娘だった。娘は最後に家出した家に戻ってくるのだ。
 そこには病床に伏す父親が待っていて、彼女のあまりの成長ぶりに本人かどうかがわからない。
 悲しんだ娘は、昔交わした約束を持ち出す。
 いつか湖の上の落ち葉を渡って見せてあげるよと話したことを。
「人間は水中を渡ることなどできませんよ」
「イメージが欲しいんだ。話の中では冒険の最中に加護を得た水の精霊に助けてもらうことにする」
「そうであっても……私などでは合わないでしょう。あの話の少女は快活で愛嬌があって無邪気です。私とは何もかもが違います」
 原作者とユパ(代筆者)は押し問答をしていた。
 ミハイルがエレシアに主人公に模した格好をして、湖畔で水遊びをしてくれないかと頼んだからだ。掃除、洗濯、と家事手伝いまでさせておいて、あげくにこの依頼。まるで何でも屋扱いだ。
 理性のある職業婦人然としていたエレシアも「困った御方ですね」と呆れている。
「君の髪、色はだいぶ違うけれど娘と同じ髪型なんだ。髪を整えて、娘のように着飾ればきっと……」
「ミハイル様……私はあくまで代筆者。ユパでございます。ミハイル様の妻でも妾でもありません。『代わり』を務めることは出来ません」
「……わかってるそんなこと。君みたいな子にそんな気起こさないよ。……君のさ……見た目が、……娘が生きていればきっと君くらいになってるって……思うと」
 頑なに拒絶していたエレシアの無表情がそこで揺らいだ。
「……こだわりが強いとは思っていましたが、お嬢様は亡くなられていたのですか」
 エレシアは唇を小さく噛む。
 良心と葛藤しているような顔。
 この数日間でミハイルは彼女のことで分かったことがある。それは、エレシアは「自分」のことを知らされていたが、「自分の家族」については知らされていなかったことだ。

「私はユパ……望むことは叶えて差し上げたい……けれど『それ』は教えに背いているのでは……」
 ぶつぶつと自問自答するその様子にミハイルは申し訳ないと思いつつも更に一押しする。
「娘が大きくなって、帰ってきて、約束を果たしてくれる姿をイメージできれば、それですぐ書ける気がするんだ。本当だ。お礼ならいくらでもする。なんでもするよ。この話は僕にとってとても大切な話なんだ。書くことで、人生の節目にしたい。お願いだよ」
「しかし……私は……着せ替え人形では……」
「なら絵とかにはしないから」
「するつもりだったんですか」
「僕の脳裏に焼きつけて、それで話を書く。お願いだ」
 エレシアはその後も渋い顔をして考えこんでいたが、結局はミハイルの熱意に根負けして承諾した。押されると、弱いタイプなのかもしれない。

 

▽▲
 ミハイルは、この時ばかりは引きこもり生活から脱し、自分から外に出てエレシアの為に品の良い服と雨よけの布を買い求めた。
 服は仕立て職人に頼み込み、白のレースのトップスに切り返しでリボンベルトがついた青色のワンピース。雨よけの布は水色に白のストライプ、フリルがついたものを購入した。

職人曰く「出来上がったらうちのスクムシはしばらく糸を吐けなくなっちまうな」らしく、受け取りの際に何度も頭を下げた。

エレシアは布の模様が気に入った様子で、渡すと開いては閉じ、開いては閉じてくるくると回していた。
「それが珍しいのかい?」
「こんなに可愛らしい模様は初めて見ました」
「君は可愛らしい格好を似合うんじゃあないのか。着飾ろうと思ったことは?」
「ユパになった時に母……だった方から繕われたものを自前で修繕しながら着ておりますので。自分で服屋等にはあまり行かないのです」
 母親に言われるがままに着飾る子どもみたいだ。
――もしかしたら、自分が思うより遥かに彼女は中身が幼い年齢なのかもしれない。
 そうしていると、大人びた彼女も少しだけ少女じみて見えた。
 エレシアの気が変わらない内にと、ミハイルは買い物を終えるとすぐに彼女に着替えをお願いした。
 昼下がりの午後、外は少し曇り。雨が降る様子はないが、雰囲気はある。
 秋の到来を感じさせる冷ややかな風はまだ肌を突き刺す寒さでは無い。
 ミハイルは先に外で待つことにした。湖のすぐ傍に木椅子を置いてパイプをふかす。
 彼女が来てから何となく気を遣ってしばらく吸っていなかったから、腹に煙が染み込んでいく感覚が行き渡る。ぷかりぷかりと煙の楕円を宙に浮かせて数分。ガタツキが悪くなってキイと音を立てる玄関の扉が開いた。
「お待たせいたしました」
 凜とした声に首だけねじって振り返る。
「待って……」
 などいないよと言おうとしたが、少し息が止まってしまい言葉は出なかった。
 はっと飲み込んだ吐息。まるでエレシアを初めて見た時のようにミハイルは惚けた。
 髪の毛を整えた彼女はあまりにも魅力的で、見る者の時間を奪う美しさだった。
 片側に編み込んだ髪が緩やかに広がり描くなめらかな曲線。想像していたよりかなり長い。
 そして、何より。
――もし、あのまま娘が成長したら、こんな風に。
 着飾ってお澄ましした姿を見せてくれたんだろうか。などと考えて、胸からぐっと熱いものが込みあげてきた。
「……ミハイル様、頂いた召し物を着た感じはいかがでしょうか?」
 秋の色彩の世界に現れた、人間離れした美貌の少女はスカートの裾を持ってくるりとその場で回ってみせる。
「このまま、あの池を渡る姿をお見せすればよろしいのですね。……え? けれどミハイル様はそれが本当に書きたい情景なのではないのですか? こんな格好でただ歩きまわるよりは、数秒でも池を駆ける姿をお見せしたほうがいいでしょう。お任せ下さいミハイル様。運動はわりかし得意なので、少しばかりならご期待に沿うことができます」
 色んな感情に支配されて『ああ』や『うう』としか答えられないミハイルを気にせずエレシアはいつも通り無表情で淡々と語りかける。
 そこにいるのは娘とは違う少女。あの子と違う純白の髪を持って、瞳に甘い輝きは無い。
 エレシアは閉じたままの布を片手でしっかりと握りながら肩に羽織った。池まで広く距離をとって吟味するように水面を見つめる。
 秋の彩りは枯れ落ちて、その枯れ葉が水面に浮かんでいる。風は止んでは吹き、止んでは吹きと不安定だ。舌先で機械の指を舐めて風の向きを確認する彼女をミハイルが心配そうに見守る。じゃりっと地面を強く踏んでからエレシアはミハイルを見て薄く微笑んだ。
「ご心配なく。すべて、ミハイル様の望むままに」
 玲瓏とした声音でそう言い放ってから、エレシアは大きな一歩を踏み出した。
 助走距離はかなりあったが一瞬で彼女はミハイルの目の前を過ぎ去っていく。その速さたるやまさに風が如く。俊足の少女は湖に足を入れ込む一歩手前で大きく大地を蹴った。
 水源周りで湿った土がえぐれる。体躯には似合わない、驚くほどの高さの跳躍を可能にさせた。
 天への階段を登ってしまいそうな、そんな飛び方。ミハイルは常人離れしたその行動にあんぐりと口を開ける。そこからは全てスローモーションで見えた。
 臨界点まで跳躍したエレシアは羽織っていた雨よけの布を両手で大きく掲げ、ばっとそれを開く。まるで花でも咲いたようだ。布のフリルがゆらりと美しく揺れ、タイミングを見計らったように風が彼女の足元をさらった。
 スカートと布がふんわりと空気に膨らみ、白のペチコートがひらひらと覗く。自前の革靴がそっと水面の落ち葉を踏んだ。
 その瞬間。
 その一瞬。
 その一枚絵。
 出来上がりの絵を切り取ったような鮮明な映像がミハイルの目に焼きついた。
 布を浮かせ、スカートをなびかせ、湖の水面を踏む少女。
 さながら、それは魔法使い。
 心音を刻むことを止めてしまったあの日の娘の言葉が思い出される。
 
『いつか』

 いつか見せてあげるね
 私たちのあの家の、綺麗な池で。
 秋に落ち葉が水面をたゆたう頃。

『いつか』

 いつか見せてあげるよ。

『おとうさん』

 声が。
 もう、忘れてしまっていたあの娘の声が脳裏に響いた。
 君は知らないだろう。あと何千回だって僕は君に呼ばれたかったんだよ。

『いつか、見せてあげるね』

 おとうさん、と。
 舌っ足らずな甘い声で。

『いつか見せてあげる、おとうさん』

 どんな音楽よりも君の声は心地良かったんだ。

『いつか見せてあげる』

 

――嗚呼、そうだったね。
 君はそんな、声で。
 無邪気に、僕を楽しませようと。
 言ってくれたね。
 約束してくれた。忘れていた。忘れていたよ。
 随分、久しく、君を思い出せなかったから会えて嬉しい。
 まぼろしでも、会えて嬉しいよ。
 僕の可愛い、お嬢さん。
 僕の、僕の。
――僕のたった一人の、あの人との宝物。
 叶わないってきっと、知っていたのに。約束してくれた。
 その約束が、君の死が。僕をここまで駄目にして、同時に生かして。
 ここまで、命を引き伸ばした。
 君の面影を探し続けてだらだらと生きたこと。後悔していたけれど。
 この一瞬。君ではないけれど、僕には君に見えた彼女の一瞬。
 一瞬の、邂逅、再会、抱擁。
 この一瞬が見たくて、まだ生きていたのかもしれない。
 名前すら悲しくて囁けない君。ずっと、会いたかった。もう一度、可愛い君に。
 僕に残されてた最後の家族に。ずっと。ずっと。
 ずっと会いたかったよ。
――愛してた。
 嬉しくて、微笑みたいのに。
「……ふ……う……う」
 嗚咽しか、でない。
 涙は凍って停止していたミハイルの時を動かし始めるように、流れ落ちる。
「……ああ……もう……」
 時計の針がちくたくと動くのが聞こえる。冷たかった心臓が、どくんどくんと音をたてる。
「……本当に、本当に……」
 顔を手で覆うが、自分の手が嫌に皺が増えていることに気づいた。自分はどれだけ、二人がいなくなったあの頃から時を止めていたのか。
「死なないで、ほしかった、なぁ……」
 涙まじりの声で、顔をくしゃくしゃに歪ませて囁く。
「生きて、生きて、大きく、育って……」
 美しくなった姿を見せて欲しかった。
 そんな君が見たかった。そんな君を見届けて僕が先に死にたかった。
 君より先に。
 君に看取られて。
 そうやって死にたかった。
 僕が君を、看取るんじゃ、なくて。
 そうじゃなくて。
「会いたいよ……っ」
 ミハイルの瞳から涙が溢れては頬を流れ、地面に滴り落ちる。
 ざぼんとエレシアが池に沈む音が涙まみれの世界に響いた。
 一瞬の煌きは失われて、思い出した娘の声もすぐにまた忘れた。
 笑顔のまぼろしもシャボン玉みたいに消える。
 ミハイルは手のひらに覆われた視界を、目を閉じることで更に拒絶した。彼女が失われた世界を遮断する。
――嗚呼、いま死んでしまえたらいいのに。
 どれだけ長い時間悲しんでいても、彼女達は戻らない。
――心臓よ、息よ、止まってしまえ。
 妻と娘が死んでから、僕も死んでいたと同じなのだ。
 ならばいま。今この瞬間。弾丸に撃ちぬかれて死にたい。
――花みたいに、花弁を落としても尚生きられない。
 けれども、そんな願いは数億回祈ったって叶わないのだ。
 数億回祈った後の彼はそれを知っている。
――死なせて死なせて死なせて、一人になるくらいなら一緒に死なせて。
 祈るだけで叶うことなんて、何一つ無かった。無かったけれど。
「ミハイル様」
 遮断した世界の向こうで、いま自分と同じ時を刻んでいる者の声が聞こえる。
 息を切らして、こちらにやって来る。
――僕は、生きているんだ。
 まだ生きている。そして、生きて、今は亡き愛する人を何かの形で残そうと、足掻いてる。
 祈ることで叶う夢などないけれど、ミハイルは陽光も届かない暗闇の視界でやはり祈る。
「……神様、どうか」
 いま死んでしまえぬのならどうか、せめて物語の中だけでもあの娘が幸せでありますように。
 それをあの娘が喜んでくれていますように。そして僕の傍に。
 傍に、永遠にいてくれますように。物語の中だけでも。空想の娘だとしても。
――傍にいてくれますように。
 そう、願わずにはいられなかった。

 だって自分の命は続いていくのだから。

 年甲斐もなくぼろぼろと泣いているミハイルの前に、ずぶ濡れになって池からはい出たエレシアがやってきた。滴る水滴。めかしこんだ服装も台無しだ。水を吸った生地が彼女の白い肌に張り付き、ところどころ透けていた。
 しかし本人は今までで一番楽しそうな、笑顏と言っていいものを浮かべていた。
「ご覧になられましたか? 三歩は歩いていたでしょう」
 涙で見えなくなってしまったんだよ、とは言えず。
 ミハイルは鼻水をすすりあげながら「うん」と答えた。
「うん、見たよ。ありがとう、『エレシア』」
 心から敬意と感謝を込めて、そう言った。
 叶えてくれてありがとう、ありがとう。本当に奇跡みたいだった。
 神様なんていないと思っていたけれど、いるなら君のことだろうと返したら。
 エレシアは「私はユパですよ、ミハイル様」と。
 神の存在を否定も肯定せずにただそう答えた。

 

▽▲
 その後、すっかりずぶ濡れになってしまった彼女のためにミハイルは風呂を沸かしてやった。
 食事の姿は見せない。だが浴室は毎日使い、恐らくは与えた寝室で身体を休めている。
――ほんと、この国は不思議だ。
 謙虚なあの子でも濡れた服を着せておくわけにはいかない。着替えが必要だろうと、比較的綺麗なはずの自分のバスローブをとりあえず持って浴室に向かう。他人が風呂場にいることなどしばらくなかったものだから、失念してノックもせずに入ったら、

 

まだ着替えてもいない彼女を見てしまった。


 あまりのことに息を呑む。
 ミハイルの瞳に映るのはどんな裸婦像よりも美しく艶かしい裸の女。
 純白の髪を滴るしずく。絵の具でも表しきれない美しい赤の瞳。
 その下に続く形の良い唇。華奢な首、浮き出た鎖骨、ふくよかな胸、女性らしい曲線を描いた体。両肩から指先に至るまで取ってつけたように美になっている。
 しかしそれ以外は。
 服の下に隠れて見えなかった、消えかかっていてもうっすらと残る傷跡。
 柔らかそうな体のふくらみのいずれも、彼女が一人の女性だということを物語っていたが、自分の知らないところで、もしかしたらこの子は『自分と同じ体験』をしてきたのではないか。

今まで信じていたことが覆された衝撃で目は何度も裸を確認してしまう。
「……ミハイル、様」
 驚き過ぎてその場で固まり注視し続けるミハイルにエレシアは咎めるような声をかける。そこでようやく、すべての過ちにミハイルは気づいた。
「……う、うああああああっ! うあああああっああああ!」
 悲鳴を上げたのはミハイルの方だったというのがこの話のオチでもある。
 散々叫んだ後に、真っ赤な顔で半泣きになりながら本当に申し訳ないと平謝りするミハイル。
 エレシアはミハイルの持ってきたバスローブで体の前を隠しながら答えた。
「ミハイル様は、本当に、困った御方ですね」
 少し顔を俯きながら囁いた彼女の白い頬は、ほんのりと、桃色に染まっていた。

 

▽▲
『ユパ』。
 その名がパルエで騒がれたのはつい最近のこと。

 古くから続く、自然界に息づく神や精霊の声を聴き、様々な異能や予知を行うとされる皇国の巫女。

 家族や縁者とのつながりを断ち切り、ただ神が救済のために下界に垂らした一筋の糸として、救済のためにその身を使う存在だ

 大昔では、絶縁のために肉親を殺させたり、救済と称した性的接触をよしとした風習も、時代とともに風化し、今では一種の慈善活動装置としての役割が強い宗教職ととらえられている。

 もともとは神職を目指す修業者の慰安のために作られた役職だとか、独身を貫く神からの恩恵を受けるために選ばれた生贄だったとか、様々な憶測がある。

 しかしユパという存在が、皇国とともに生き、内外を問わず多くの人の助けになったことは確かであり、皇国が開国した後もその風習は存続した。

 今現在では、ユパに目覚めた人間の能力を研究する機関も立ち上げられている。

 それに加えてもう一つ。

 もしも、あなたが何かに躓き、進むことができなくなったとき、ユパを頼ってみてくれないか。

 きっと

 あなたのもとに、白く美しい少女が現れて、あなたに救いをもたらすだろう。

(『パルエの片隅にて』パルエ歴648年発刊 著者 ミハイル・コット― 後書き末尾より引用)

 

▽▲

 ミハイルはエレシアが去った後に帝国軍により発見され帰属。聖都市街戦部隊に配備される直前に終戦を迎えた。その後はアッコ族との交流も続き、戦後に創設された戦後事後処理局にて地方部族調査部に配属となった。配属後の業務の最中に聞いたのだが、彼女―――エレシアはユパの中では有名な人らしく、一部部族からは神格化されるほどらしい。その人物と一定期間同棲状態で、挙句の果てに裸体まで見てしまったと話した時には半分の同僚には大笑いされ、もう半分には失笑された末に「君は本当に幸運で命知らずだな」と呆れられた。
 そんな都合のいい美人な神様がこの世にいてたまるか、と隣で同僚が語り出した。手には火をつけたばかりの小さなタバコがあった。
「だって神格化だなんて言うから」
「ここの信仰は本気でそこまで逸脱しちゃいないよ。ただ本当に「神様扱い」のユパもいる。もっと可愛らしい奴だと聞いてるんだがね」

 その話はここに配属されてからすぐに耳にした。神の声を聴くどころか神に直に会ったという噂だ。いろいろと黒い噂も聞くが。

 美貌もあるらしいが、不思議と、会ってみたいという考えは湧いてこなかった。一応会うことはできる立場ではあるが。

「でも、それじゃあ……引きこもりで人と関わらなかった君にはあまり良い薬にならないかと思うな」

 この処理局に着いてから、最初の友人になってくれたこの男性は吸い殻同然の煙草を吹かしながら話し続ける。着任後から皇国の風習の調査を二人で担当しているが、現地で実体験した私と違い彼は聞きかじった程度の空想交じりの調査にこちらもかき回されて大変なときもあったが、今はわりかしよき相棒だ。

 いまみたいに、他愛のない話として相談するぐらいには。

「その子、無口だけれど人を良くする力があったんだろうな。……良かっただろ?」
「……うん」
 無口だけれど、そう、とても、良い娘だった。
「いつまでもその子のことばっか話してたら、女に飢えてる男に見えるぞ。その子には敵わないが、オレ個人のつてで要領のいい女性をいくらか知ってる。執筆の助けもいるだろうし、今度紹介してやろうか?」

「……いや、いいよ」

 彼女がいなくなっても、もう大丈夫だ。

 

▽▲
 エレシアが去って間もなく、帝国軍に帰還する前に荷物整理に戻った。アッコ族の大半はハユハム大河下流まで避難し、集落に残っていたのは集落を護るために残った狩人だけだ。自分のことを裏切り者と非難せず、ただ「元気でやれよ」と励ましてくれた人たちに感謝しか感じない。

 やがて家につくと、玄関前にはついさっき届けられたらしい小包が置かれていた。中を開けるとそれはエレシアとはまったく異なる小さな人形だった。
 手作りらしい愛らしいドレスを着て、机の上にちょこんと座り、彼女が見せたことがなかった笑顔の人形。なるほど、確かにこれは優れものだ。
「でも、彼女(キミ)には敵わないな」
 もういなくなってしまった、彼女の面影を部屋に見ながらミハイルは苦笑した。
 寂しいよ、と言ったら。きっと彼女はこう言ってくれるだろう。
「ミハイル様は、困った御方ですね」と。
 玲瓏とした、声で。
 無表情に唇だけ少し微笑ませながら。
 傍にいなくても、その声が聞こえる気がした。

最終更新:2017年03月24日 22:20