Forgotten Pleasure

#EX 『Forgotten Pleasure』


濃霧の如く光を遮る砂塵により、5m先もロクに視認できない。
街道跡で拾ったゴーグルは表面に刻まれた無数の傷のせいで、粗悪な視界をさらに歪んだものへと変えている。

擦れと破れによってズタズタになった黄土色の外套に身を包み、同じく薄汚れた雑嚢を肩から提げたその男は大きく溜息を吐きながら口元を覆っていた布を取り払った。
どれほど歩き続けたのであろうか、まだ求めている標識は一向に姿を現さない。
否、ただ見落としていただけなのかもしれない。

男は立ち止まって砂の上に膝をつくと、文字通り乾き切った喉を潤そうとして弾帯に括り付けていた粗末な水筒を手に取った。
硬く締めていた蓋を回し、飲み口を荒れた唇に咥える。
そのまま筒体を傾け中身を体内に流し込もうとした瞬間、男は絶句した。

口内に侵入してきたのは期待していた液体ではなく、僅かな砂粒と汚れた空気のみであった。
苛立たし気に唸りながら右目で水筒の中身を覗く。
本来であれば、その小さな空間に光が漏れていることは有り得ない。
しかし彼の茶色い瞳には、紛れもなく外部からの金色の筋が差し込んでいるのが確認できたのである。
底板に豆粒ほどの大きさの穴が空いていた。

元々疲労の極みに達していた細い体には失望による衝撃は余りにも大きなものだったのであろう、男は力なく俯き、やがてその身を砂の上に倒れ込ませた。

もうそろそろ報われても良くはないか。
この三十三年の間、一度たりとも自らの思い通りに事が進んだことは無いのではなかろうか。
如何なる存在に対するものなのか、男の脳裏ではそういった不平や願望が忙しなく飛び回っていた。

やがて水面に生じる波紋の様に静かに、且つ僅かな余韻を伴いながらその意識は霧散した。

 

三十八日前。

壁に分厚い硝子を埋め込むことで造られた、異様に堅牢な窓から差し込む日光が部屋の中を照らす。
籠った大気で満たされたその空間には、醜悪で有機的な様をした生体機械が所狭しと並んでいた。
その禍々しさたるや、見ているだけで明確な嫌悪感を伴いかねない程である。

「おい、ハル!数えるほどもいねェ友の一人が見舞いに来てやったぞ!」

金属製の重い扉を開きながら入ってきた一人の兵士が部屋の中へと怒鳴った。
そのまま機械群を掻き分けるようにして奥へと進んでいく。

「おっ、いたいた。メスガキに後ろから撃たれたんだってな、あァ?」

兵士は部屋の隅に拵えられた小さな寝台に横たわっている何かに言った。
大凡のシルエットは人のそれなのではあるが、胸部から突き出した無数の管が近くの機械へと繋がっている様は旧兵器にも通じる恐ろしさを感じさせる。
また頭に相当する箇所は無数のレンズを内包した肉塊で覆われていた為に、到底その存在が兵士と同じ種族であるとは思えなかった。

「・・・うるせぇ。冷やかしに来たんならさっさと帰りやがれ、バイマン。」

何処から声を発しているのであろうか、それは兵士に対してくぐもった低い声で言い放った。

「まぁ、そう冷たくするな。土産も持って来たんだからな。」

バイマンという名前であるのだろう兵士は、持っていた布袋から数個の果実を取り出した。
そのまま寝台の枕元にあった小さな机の上に積み重ねるように置く。

「・・・どうやって喰えと?」

横たわるそれは明らかに困惑したように尋ねた。
バイマンは不快な笑い声を立てるばかりで答えようとはしなかった。

ハル・リシェク・マクラル。
それが寝台の上にいる物体の名前であった。

一週間ほど前の事である。
特殊陸戦群に所属する伍長であった彼は、ある派閥の管理する施設が何者かに襲撃されたことを受け、事態の収拾に駆り出された。
結果として部隊は壊滅し、彼自身も背中に背負っていた人工肺を重機関銃で撃ち抜かれたことによって仮死状態に陥り、身体の各部に損傷を被った。
幸運なことに――きっかけは糞程にも惨めなものではあったが――、元々生体義肢や人工筋肉で高度に改造された肉体であった為、左目の壊疽という重大な後遺症は伴ったものの一命を取り留めることには成功した。

「・・・んで、御上は何と?」

見舞いの品であるはずの果実を貪りながら、その兵士――エリス・バイマン兵長は尋ねた。

「“クビ”だとさ。治療と義手の交換はしてくれるがその後は知らん、と。」

急ごしらえの人口声帯なのであろう、喉元の小さな機械を震わせながらリシェクは答えた。

「そうか・・・。そりゃあ災難だな。」

バイマンは若干の憐れみを湛えた声でばつが悪そうに言った。

「心にもねェこと抜かしやがって。・・・まぁ、いい。元々グリンゴの俺があそこに入れたのは、変態共の玩具にされた結果だ。・・・やっとこさ腐れ稼業から足を洗えるって訳だ。」

まだ調整が済んでいないのであろう歪な右腕を僅かに震わせながらリシェクは答えた。

「技術省か・・・。まぁ、関りを断てるだけ幸せかもな。」

バイマンは喰い終わった果実の皮を屑箱に投げ入れながら、妙に冷めた声色で言った。

「これからどうするんだ?その体じゃまともな・・・、全うな職には就けんだろう。」

自らの歪な様を眺めながらバイマンの放った言葉に対し、リシェクは肉塊で覆われた顔を若干しかめた。

「・・・邦に帰るんだよ、南パにな。もう親父や兄貴連中もキレちゃいまい。」

そして静かに答えた。

「なるほど・・・、まぁ元気でな。・・・餞別だ、ここに置いとくぞ。」

バイマンは懐から取り出した紙切れをリシェクの腹の上に置き、立ち去ろうとした。

「おい、待て。こりゃまさか・・・。」

首が僅かにしか曲げられないため、リシェクは必死に体を捩りながらそれを凝視した。

「そのまさかだよ。当たったんだ。この前お前とやった闇クジにな。」

そのピンク色の紙切れには、大きな「戦艦アストヒク」の文字とその横にある会員番号の様な羅列が見て取れた。

「・・・はぁ!?お前要らないのか、これ?」

リシェクは声帯から素っ頓狂な声を発した。

「おうよ・・・。お前にゃ黙ってたが実はな・・・。」

バイマンは胸ポケットに入れていた手帳から一枚の小さな網膜版を抜き取り、リシェクに見せた。
心臓の代わりに血液を循環させているのであろう、彼の寝台の下にあった大きな医療機械が途端にその鼓動を激しくする。

「おいおいおい・・・、嘘だと言え、頼む。」

そう苦し気に言葉を紡ぐリシェクの眼には――実際はその代替であるレンズであったが――、写真の中の若い女の顔が映っていた。

「嘘じゃないんだな、これが。さっき入籍申請してきた。」

得意気に言うバイマンの顔には若干の罪悪感が感じられた。
その女が行きつけの酒場の娘で、またリシェクの片想いの対象であることを知っていたからであろう。

「まぁ、その、・・・すまん!・・・じゃあ達者でな。」

そう言って足早に部屋を出ていくバイマンの背中をリシェクは怒りに歪んだ瞳で睨みつけていた。

「・・・この淋菌野郎、待ちやがれ!殺してやる!殺して・・・、ウッ・・・」

適合が完全でない内臓式の人工肺は、まだ怒鳴るには十分な量の空気を蓄えることができなかった。
噎せたことによる涙が顔を覆っていた生体組織の中に溜まり、再生しかけていた皮膚を不快に濡らした。

咳が収まっても尚、目から流れ出る塩水は止まろうとしない。
やがて、それが信頼を裏切られたことによる絶望とこれからの自分の身を案じる名状し難い不安によるものであることを彼は認識した。


結局、リシェクの身体が再び歩けるようになるまで回復するのにはそれから五日を要した。
駐屯地警衛に就いていたその兵士は、極力その身を晒さないようにして外套やバラクラバを纏った男が衛門を通過するのを怪訝そうに眺めていた。

「二曹、ありゃ何ですか?」

好奇心に負け、やがて彼は傍らで面会証を整理していた上官に尋ねた。

「知らん。あまり見るな、喰われるぞ。」

返ってきた答えは余りにも奇妙で、闇に満ちたものであった。

リシェクは外套のポケットの中で例の入場券を握りしめ、帝都西部の繁華街へ続く道を歩き出した。
失った左眼の代わりに機能している眼帯のような形の義眼が、異様にコントラストの高い像を脳に流し込んでくる。
右目とのその視界の違いに初めは戸惑ったが、三日もすれば慣れるという技師の言葉を信じて彼は予定よりも早く駐屯地を後にした。

如何なる集団であれ、去る事が決まった者への風当たりは強いものである。
そのつまらない事実を噛み締めながら過ごす期間は、彼にとって短いに越したことはなかったのだ。

見上げれば視野に入ってくる煤煙に霞んだ空、それを覆うようにして飛び回る艦船。
決してそれらに未練があったわけではなかったが、今生の別れになるかもしれないことを考慮すると僅かな喪失感が込み上げてきた。

そういったものを紛らわす為にも、自分はこれから快楽の巣へと赴くのであろうと再認識しながら、リシェクは足を進めた。

入場券の発行元であるその娼館は、風俗街の寂れた一角にあった。
入口の暖簾をくぐると、見るからに堅気ではない屈強な体格をした数人に囲まれた。

「これだよ、これ。どこで乗ればいい?」

警戒した目つきで自分の身体を眺める男たちに対し、リシェクは券を取り出して見せた。
途端に一人の若い呼び込みが彼を奥の部屋へと半ば無理やり連れ込んだ。

「・・・お客さん。あんまりそれを大っぴらにせんでください・・・。憲兵に見られたらどうするんです。」

男は部屋の扉の覗き窓から辺りを伺いながら囁いた。
リシェクは「憲兵」という単語に対し若干の違和感を覚えた。

これから向かおうとしている「夜伽戦艦」とは、華族共が各々の快楽の共有や莫大な利潤の為に運用する、あくまで「合法的」な空中娼館ではないのか。
帝国というこの歪んだ国家自体、連中無しには成立し得ないハズである。
豚のような政治屋共も、連中に関しては大抵のことは目を瞑るというのが定石ではないか。

「誰がしょっぴくってんだよ、お前らを。」

その疑念と病み上がりの身体を引っ張られたことに対する若干の怒りを込めて、リシェクはややドスの利いた声で男に尋ねた。

「・・・あー、まぁ憲兵ってのはちょいと違いますね。訂正します、すみません。・・・『近衛騎士団』をご存じで?」

最低限の口の利き方は知っているようである。
その控えめな態度と濁りの無い瞳から、この呼び込みはそこまで根は悪い人間では無いようにリシェクには思われた。

「あの玩具の兵隊みたいな連中か?詳しくは知らん。そういうモンには興味が無ェ。」

特殊陸戦群の所属とはいえ、技術省の試作強化兵の被検体というほぼ裏口に近い形で入隊した彼には帝国軍の指揮系統などあまり頭に入ってはいなかった。

「運用が諸侯の部隊とは全く別・・・、というよりその監視者に近い連中です。奴らがあの船を嗅ぎ付けたって聞きまして・・・。」

男は自身も覚えたてなのであろう単語を使いながら、おどおどと言葉を紡いだ。
これから故郷に帰るというタイミングでそのような胡散臭い連中に捕まるなど溜まった話ではない。
リシェクは土産話の種にもなるであろう性の巣に赴くことを躊躇し始めた。

「穏やかじゃねェな。・・・一応聞いておきたいんだが、あんたは乗ったことあるか?」

最終的な決断をする為の判断材料として、取敢えずはこの男の話を頼ってみようと思い立った。

「ありますよ!あれの機関士やってる叔父のツテです。・・・そりゃもう、何と言えばいいか、もうアレですね。天国!」

見た目と同様の控えめな返事が返ってくるというリシェクの予想を裏切り、男の口からは精気に溢れた元気な声が発せられた。
それを聞くや否や、リシェクは固まりつつあった考えを一瞬の内に変えた。
たかが数日の自分の滞在期間にその船が検挙されるという事も有り得ないだろう。
楽観的な言葉が彼の脳を支配し、やがてその後の行動を結論付けた。

「ありがとよ。・・・んで、どこで乗りゃいいんだ?」

やがて店を訪れた理由となる疑問を男に尋ねた。

「直接は危ないので取敢えず安全策を取りましょう。8-15区画の繋留搭に汚い貨物船が留まってます。そいつに運んでもらってください。合言葉は『クルカマン』です。」

男は手帳に簡単な地図まで書いてリシェクの要求する情報を彼に与えた。


言葉通り、その中型貨物船は繋留塔に留められていた。
一見すると何の変哲もない民間の薄汚れた船である。

同じく見慣れた様の繋留塔のゲートをくぐり、昇降機のシャフトの外周に備えられた螺旋階段を昇っていく。
再調整が済んだばかりの義足にはやや応えたが、性欲に裏打ちされた好奇心がそれを補って余りあった。

繋留器の傍にいた二人の警備員は、合言葉を聞くと安堵したようにすぐに道を開けてくれた。
作業着に短機関銃というちぐはぐな様ではあったが、金の無い商船組合の連中には別段珍しくもない。
やがてリシェクは粗末な跳ね橋を渡り、貨物船の収容区画の扉の中へと入った。

塔やその一帯では微塵も感じられなかったが、船内には明らかに外と違う異様に盛った空気があった。
その夜伽戦艦とやらに物資を供給するための船なのであろう、貨物室には食料や水の詰め込まれた木箱のほか、いかがわしい薬品のボンベなどが積み重ねられていた。

ようやく事が期待通りに進み始めたという実感により、リシェクは継ぎ接ぎだらけの顔を綻ばせた。
そのまま甲板に出ると、西の空を薄く染めている夕日を眺めながら胸ポケットに入れていた煙草を取り出す。
内臓式に換えたばかりの肺にこの強い煙を入れることには若干抵抗があったが、これからその心肺機能が大いに試されることを前にしては“慣らし”をしておくことに越したことは無いと考えた。
十二の時に初めて喫煙した時のことを思い出し、若干のはにかみを口元に湛えながら濃い煙を大きく吐き出す。

周りを見渡しても客のように見える者は自分だけであり、他は皆作業員や商人連中であるようだった。
ようやく自らだけが特別な待遇を受けられるという妙な錯覚を覚え、リシェクはいつの間にか小さく笑いだしていた。


二日後の早朝、彼は「それ」に辿り着いた。
貨物船が資材搬出口を接舷させるまで、リシェクはその歪な船が軍用艦を改修したものであるという事実に気付かなかった。
遠目ではそれはある種の城のように荘厳な印象であったのだが、間近で見ると際限のない増築を重ねられたが故の細部の設計の甘さが顕著に確認できる。
基となった艦は恐らく駆逐艦から軽巡程のクラスのものであろう、下部に突き出た生体機関だけが辛うじて建造当初の様を保っていた。

そのまま搬入されるコンテナや作業員達に紛れるようにして「夜伽戦艦」の内部へと足を進める。
緋色の装甲版に大きく開けられたハッチをくぐり、四方を見渡したところで彼は只々唖然とした。

リシェクは「人心の闇」といったような文学的な表現に対し、馬鹿らしく子供じみた文言であるという感想しか抱いていなかった。
しかしその空間の大気は彼の記憶の中の何れの空間よりも混沌とした――さながらその表現の権化とも言うべき何かに満ちており、リシェクの脳は眩暈にも似た思考の麻痺を起こした。

壁面は先程目にした装甲板より何倍も深く低俗な赤で彩られており、至る所に吊るされた装飾まみれの照明が同じく卑しい光を放っている。
船であるということを忘れさせる為か、普通であればその壁面を這い回っているはずの配管の群れは全て布や合板で覆い隠されていた。

搬入口の向こうは直径7m程の吹き抜けになっていた為、そこから各階層にいる者たちの姿が見えた。
豚の様に脂肪で覆われた巨体の周りに幾人もの裸の少女をはべらせながら走り回る者、一体如何なる性癖なのであろうか、宛がわれているはずの部屋から飛び出し廊下で自分たちの異様な行為を辺りに晒している者。
女を伴わない連中であっても、酒瓶を咥えながら床に股間を擦り付けているような「狐憑き」としか例えようのない集団が確認できる
その何れもが顔面に不快な笑みを浮かべており、それぞれの瞳は虚無に満ちているかのようにドス黒く歪んでいた。

これは御上に摘発されても何らおかしくはない現場である。
リシェクは自身が通常の価値観を持ち合わせていないという自覚は持っていた。
しかし、此処は自分のように一時の快楽程度のものを求めるような「比較的」普通の性癖を持つ人間が来るような所ではないということは容易に想像できた。
あの娼館の呼び込みの言った「天国」という単語とはかけ離れた船である、という印象が彼のまず抱いたものであった。
彼奴は一見まともではあったが、一体何を以てここを絶賛したのであろうか。

一刻も早く先程の貨物船に戻りこの場を離れたいとも考えたが、指名用のものであろう娼婦達の似顔絵が描かれたプレートが壁に掛けられているのを見て彼は思い直した。
もしもこれらの絵を描いた人間が誇張をしていなければ、彼女たちは彼の行ったどの娼館の女達よりも美しく、下手をすればエルネスタ――例のバイマンに盗られた娘よりも魅力的である。
代償は伴ったものの、折角の幸運により手に入れた券であるのだから使わなければ余りにも勿体なく、また男として脆弱と言われかねない。
リシェクは受付を済ます為、船員ないし従業員を探し始めた。

擦れ違う者達の内、シラフの連中はほぼ必ずリシェクの姿を訝しそうに眺める。
彼はここで初めて自分が軍服を着込んでいることを後悔した。
正規品は既に返納していた為に、今その身を包んでいるのは以前購入した代替品であったが、名札や所属徽章を引き剝がさずにいたのはあまりに迂闊であった。
というのも、彼は身なりに対し余りにも無頓着であり私服と呼べるものは所持していなかったのだ。
慌てるようにして、襟元に付けていた特殊陸戦群を意味する小銃と手榴弾を模した徽章をポケットに放り込んだ。

ようやく見つけた船員も、彼の濃緑色の外套を見て煙たそうに顔をしかめた。
役得と言うべきか、彼は見るからに平民出の風貌ではあったが客である貴族共と同様にこの船がもたらす性の喜びを享受しているのであろう。
苦しみがまるで感じられない病的な色の目がそれを物語っていた。

「俺は客だ、ほれ。」

リシェクは格好についての詮索を避ける為、素早く懐から入場券を取り出して船員に見せつけた。
受け取った紙切れを彼は訝しそうに眺めていたが、やがて例の会員番号に目を通すと苛立たし気に低く唸った。

「・・・何だこりゃ、あんた何処でこれを買いやがった?百万年前に期限が切れてるよ。とっとと降りな、この間抜け・・・」

船員は自らの胸元を掴んだ男の手が人間の其れとは思えない程に禍々しい力を伴い、また妙な駆動音を立てていることに慄きその後の言葉を飲み込んだ。

「薬漬けで頭が“しゃんと”してねェみたいだな。一発叩き込まれてェか?」

この新しい声帯は細かい感情までもを発音に表現してしまうことに、リシェクはここで初めて気付いた。
獣の様に獰猛で低い声色の中に僅かに混じった悲痛を、船員は敏感に感じ取ったようである。

「・・・分かったよ。娼婦一人くらいなら工面できるかもしれん。上に掛け合ってみる。」

そして若干の憐れみを伴った声で言った。

「糞っ垂れが、初めからそう言え。・・・どの部屋だ?」

リシェクは船員の胸元から左手を離した。
加減したつもりではあったが、ボタンが一つ千切れてしまっているのが確認できた。

「三階の、そうだな・・・四番の部屋で待て。どの娘をご所望だ?兵隊さんよ。」

船員はカーゴパンツのポケットから先程見たプレートと同じ似顔絵が載った紙を取り出しリシェクに見せた。

「そうだな・・・。アレだ、お前らに任せる。一押しのを頼む。」

ここで希望を伝え、もしその娘が無理だった場合とんでもない醜女が送られても文句が言えないという言質をこの連中に与えかねない。
リシェクは敢えて安全策――あくまで彼の偏屈な思考によるものではあったが――を取ることに決めた。
それに、もしもこの船員に謝意があるのであればそれなりにまともなのを遣るはずである。
それだけ伝え、リシェクは踵を返して三階へと続く階段を昇った。


緑色の薄い扉を開き、指定の部屋の中へと入った。
無駄な装飾を伴った大きな寝台が部屋の端に鎮座していることはリシェクがよく行く娼館と同様であったが、彼は奥にある引き戸を開いて右目を丸くした。
規模はそこまで大きくはなかったが、そこには彼が未だかつて見たことがない程に豪華な風呂場が広がっていたのである。
ふんだんに用いられた木材の香りが鼻腔を心地よく刺激する。

ここで例の美女達の一人を好きなようにできるのであれば、それは一生で一度経験できるか否かという程の幸せな一時になるであろう。
帝国に流れてきてからというもの、時には貧しく、またある時は激痛にまみれた時期を過ごした彼にはその歓びは非常に大きなものであった。

熱り勃った一物を後生大事に握りながら、彼は寝台に横になった。
思えばここ数日、部隊の妙な空気のせいでロクに眠れていなかった。
モノを含む下腹部や顔を残して装甲や生体外郭で固められた体ではあっても、精神は餓鬼のように脆いままであるという滑稽な事実を噛みしめながら、リシェクはいつの間にか意識を失ってしまった。


扉が小さく叩かれる音で目を覚ました時、彼の一物はまだ硬いままであった。
大急ぎで顔を洗い口をゆすいだ後に、リシェクはゆっくりと扉を引いた。

まず彼の頭に浮かんだのは、あの時指名をしなかった自分への褒章と船員連中への感謝であった。
目の前に姿を現したこの女は、プレートで見たどの娼婦よりも美しく、また彼の性的嗜好に合致した外見をしていた。

部屋の薄暗い照明の中であっても、その肩の辺りで切り揃えられた髪が白銀に輝いているのが見えた。
目鼻立ちは人形のようにくっきりとした、しかし一切の歪みを伴わない様であり、超俗的な色合いの蒼い瞳と相まってこれ以上の無い興奮をリシェクにもたらした。

「・・・ゲオルギアと申します。どうか・・・」

彼女の言葉を聞き終わらないうちに、リシェクはその細い体を室内へと引き込んでいた。
そのまま無理やり寝台の上へと彼女を投げ込む。

リシェクはもはや理性を失っていた。
あの技術省の被検体の女に背中を撃たれて以来、彼は異性に対する何かしらの復讐心をどこかで燃やしていたのであろう。
その結果がこの蛮行というのであれば余りにも見当違いで傍若無人なものであるが、そのような倫理的な思考は今の彼には不可能であった。

小さく悲鳴が聞こえた気がしたが、リシェクは構うことなく女に跨り、身に着けている白いワンピースの裾をめくり上げた。
同時に自らの制服のベルトを引き外し、その出来上がった一物を曝け出す。

今のリシェクの脳内には前戯という単語は消えて無くなっていた。
やがて寝台の下にあった小瓶を手に取り、中の潤滑剤を一瞬でモノに塗り込んだ。

いざ叩き込もうとして女の淡いピンク色の下着を剝ごうとした時、彼は違和感と共にその興奮を若干収束させた。

あるべきでない何かが確かにここに――女の股の間にある。
先程投げた際にも何らかの妙なデジャヴを覚えたのを思い出した。
特戦群に入りたての頃の格闘訓練が脳裏にチラつくのである。
か細い女を相手取った時に、何故あのむさ苦しい連中のことを思い出すのか。
まぁどうでもいい、そんな不信感は今振り払ってやる。まだ硬さを保っている内に。
やがて、半ば引き千切るようにして女の下着を剥ぎ取った。


それから五分ほどが経過した。
リシェクは部屋の隅で蹲るようにして咽び泣いていた。
いつの間にか外套を頭に被っており、一見すると歪な形をした緑色の布が震えているような様である。

「・・・あんまりだ、畜生。酷いよォ、神さん。あんたは糞野郎だ・・・!ウェッ・・・、ウッ。」

そう意味のない戯言を垂れ流している彼を、女は――もとい男娼は放心した目で見つめていた。
それから二分程その妙な時間は続いたが、やがて男娼は下着を穿き直しワンピースの皺を整えた後、おずおずと口を開いた。

「あ、あの・・・」

声色は透き通った高めのものであり、言われなければ男とは分からないであろう程だった。

「喧しい!黙ってろ!」

布の塊は、鋭くはあったが子供の様に情けない喚き声を上げた。
その勢いのせいであろうか、やがて彼は咽び泣きをより酷いものにした。

この血も涙もない計らいに対し船員共に不服を申し立てることは、すなわち土産話の代わりに大怪我をもたらされることになる。
廊下をうろついていた私兵と見られる警備員たちを見過ごす程リシェクは阿呆ではなかった。
武装や体格は新兵訓練所の連中にも等しく貧相なものではあったが、問題はその数である。
見える範囲でも三十とは言わなかった。
幾ら室内戦の訓練を受けた彼であっても、丸腰に近い今の状態ではあの数を相手にしては数分もせず制圧されてしまうことは明らかであった。

「何でこんな・・・。俺が何をしたってんだよォ・・・!」

一応は大の大人であろうその男が――あくまで人間であるか不確かではあったが――悲痛という感情の権化のような様で泣き喚いているのは、男娼にとっても放っておけるものではなかった。
やがてリシェクに歩み寄り、その肩に手を置きながら慰めるような口調で語りかけた。

「確かに私にその・・・、普通のはないですけど、他にも御奉仕できることはありますよ。」

途端にリシェクは名状し難い形相で男娼の顔を睨みつけた。

「・・・だから、駄目だと言ってんだろうが!お前なんぞじゃあ気持ちよくならねェんだよ!」

男娼はその言葉に顔をしかめた。
その仕草からは彼がこの仕事に対して一定の誇りのようなものを持っていることが伺えた。

「そうですか!じゃあ勝手にして下さい!」

男娼は怒鳴りながら立ち上がり、踵を返して扉へ向かおうとした。

「あっ、・・・ま、待て!待ってくれ!」

途端にリシェクは男娼に走り寄り、彼を引き留めた。
娼婦の変更が利かないことは明確であった上、乗ってきた貨物船が再びこの船に立ち寄るのは二日後という話であった。
その間たった一人でこの薄暗い部屋に籠っているのは、心が疲れ切っているリシェクにとって余りにも辛いものであろうことは容易に想像できた。
得体の知れない女男であろうとも、与太話の相手くらいには欲しいというのが人間として当然の感情であり、それは思考の捻くれた彼であっても同じだったのだ。

急激に態度を変えて自分の肩に手を置いた男に対し、ゲオルギアと名乗ったその男娼は訝し気な表情を見せた。
しかし、何はともあれ彼が自分の職務を果たすのを拒まないのであれば、それは一応は安定して続いていた日常がこれまで通りに回ってくれることを意味する。
男娼は思い直し、客であるその男と共に寝台に腰を下ろした。

「分かってくれましたか・・・。じゃあこっちで満足して頂けるんですね?」

そう不穏な事象を口にしながら下着を脱ごうとした男娼に対し、リシェクは大慌てでそれを制止した。

「違う!・・・それを俺に見せるな。あんたは何もしなくていい。」

男娼はあからさまな苛立ちをその眉間に浮かばせた。
この掃き溜めに放り込まれて以来、一定の性癖を持った男たちに対し快楽をもたらしてやるのが自分の仕事であり、いつしか彼はそれに対しある種のやり甲斐を見出すに至った。
歪んだ運命の中で得た、これもまた異常な歓びであることは自覚していたが、それを否定し拒絶するこの男に対しては憎悪を抱かずにはいられなかった。

「じゃあ何故引き留めたんですか?私は世間話に付き合う気はありませんよ。」

それはリシェクにとって余りにも無慈悲な言葉であり、やがて彼は再び激しく咽び泣きを始めた。

「頼むよォ・・・!ここにいるだけでいいんだ。・・・俺は明々後日にゃ降りるから!一人にしないでくれよォ!」

縫合痕だらけの顔に人間とは思えない程禍々しい身体。
一見戦慄を覚える様ではあったが、男娼はこれまで幾度も男たちの身体を見てきた経験から、それが外見に比して脆いものであることに鋭く感付いていた。
腫れ上がった右目からは、身体と同様に深く蝕まれたこの男の精神が見て取れる。

放っておけば壊れてしまう。
男娼は人を殺めたことは無い。
しかし、彼を放置することはすなわちこの歪な戦闘機械の様な男を見殺しにすることに繋がるのではないか?

凄惨な人生の中にあっても、男娼は一定の良心を保つことには成功していた。
やがて彼は大きく溜息を吐きながら客の顔を見据えた。

「・・・いいですよ。だから心中したりはしないでくださいね。」

リシェクは安堵の余り、もはや意味を成していない文言を喚き散らしながら男娼に抱き付いた。


それから二日後の夕刻になっても、迎えに来るはずの貨物船が到着したという情報は入ってこない。
何か不穏な空気を感じ取ってはいたが、リシェクはこの時まだ何かしらの行動を起こそうとは考えなかった。
というのも、あれからずっと部屋の空気を分け合っているこの男娼に対して、ある種の安心感を見出すに至っていた為である。

職業柄、話し手を満足させる為の物の聞き方には慣熟しているであろうと予想してはいたが、彼は期待以上の受け答えを以てリシェクの話に耳を傾けてくれた。
熱心ではあるが言葉を遮って何か質問を投げ掛ける訳でもない。
それでいて彼が自分の話を脳の中でしっかりと咀嚼し、情景までもを思い浮かべてくれているであろうことがリシェクの目には分かった。
いつの間にか、自分が帝国に流れてきた事情や技術省との理不尽な関りなど、未だかつて他人には話したことのない複雑な事実までを彼は男娼に語り終えていた。

船員が食事を持ってきた際にも、自分の手を煩わせないよう率先して健気に動いてくれる。
伴侶としては理想的と言えるだろうという感想をリシェクは抱いたが、彼の股間に自分と同じモノがあることを思い出しては複雑な気分に陥った。
そういった事もあり、彼はこの船における滞在期間が数日伸びる位のことは気にも掛けなかったのである。


その夜中、リシェクは隣で添い寝しているはずの男娼の気配が消えていることを感じ取って目を覚ました。
風呂の隣に備えられている便所にでも行ったのであろうと当初は考えたが、それにしては余りにも長く帰ってこない。
寝台から立ち上がろうとして、リシェクは自分の抱く男娼への依存を自覚し僅かに顔をしかめた。
しかし、この船を下りればまた通常の精神を取り戻すであろうという根拠のない結論をやがて導き出し、彼は便所へと歩み寄った。

扉を開けると、鏡の前で佇んでいる男娼の姿が見えた。
洗面台には血と思われる液体が点々と付着しており、彼は痛みに涙を堪えながら鏡に映った自分の顔を睨みつけているようである。

「おい、大丈夫か?」

リシェクの声に対し、男娼は只々狼狽した様子であった。
必死に手で顔を覆いながら、彼を便所から追い出そうとする。

「駄目です!見ちゃいけません!」

「馬鹿言うな。血が出てたろうが。」

リシェクは半ば無理やり、喚く男娼の手をその顔から引き剥がした。

どこにも傷の様なものが見えないことを確認し安堵した彼であったが、男娼の蒼いはずの瞳が深い緋色に変わっていることにリシェクは驚いた。
洗面台の血は恐らくそこから流れたものであろう、眼球と瞼の境が痛々しく腫れているのが見えた。

「だから駄目だと言ったでしょう・・・。」

男娼は静かに泣き声を上げながらその場に蹲ってしまった。

リシェクはその様に何らかの既視感を覚えた。
否、それに似た情景を記述した何かを目にした記憶があると言った方が正しい。

厭世的になりかねない程に美しい銀髪、朝焼けの空を思わせる緋色の瞳、そして血。
やがて一つの仮説が彼の頭の中で形作られた。

「お前、・・・まさか皇族か?」

男娼は泣き崩れたまま何も答えようとしなかった。

立ち上がろうとしない彼を両腕で抱き上げ、リシェクは男娼を寝台まで運んだ。
そのままゆっくりと毛布の上へと座らせる。
痛みによる倦怠感か、それとも重大な事実をリシェクに悟られたことによる失望によるものか。
男娼はそれから三十分程俯いたまま床を眺めていたが、やがて決心したかのように顔を上げた。


二十二年前。
朝貢の為に帝都を訪れた際、ある辺境貴族が皇帝の義理の妹に当たる人物と関係を持った。
皇衛兵達の目を盗んでは彼女の邸宅に忍び込み、逢瀬を重ねる毎日。
やがて彼はそこで驚愕に値する事実を知ることとなる。

「皇帝はとうの昔に仏になっており、皇室はそれを巧みに隠蔽しつつ宰相達に実権を握らせている。」

陰謀論としての噂では幾度か耳にした事ではあるが、実際に皇帝と繋がりを持つ女に知らされたとなると、それは紛れもない真実として認識せざるを得ない。
一貴族に過ぎない自らの手には余るこの事実を前にして、彼は苦悩した。
宰相共の悪行を国中に広め、帝国をあるべき姿に戻す為に奔走するか。
それとも知らぬ振りをすることで、これまで通りの平凡な日常を守り抜くか。

親から受け継いだ荘園を運営する以外の事を何一つ知らず、元々決断力を持ち合わせない彼が悩み続けて一年が経過した。

女は彼の子となる男児を産んだ後、間も無く暗殺されてしまった。
友となったある皇衛兵からそれを知らされ、彼は怒りに燃えた。
やがてその感情はある決断を彼にもたらした。
この歪んだ体制を転覆させ、女の仇であるあの薄汚い連中を一掃する。

幸いな事に、女の忘れ形見である我が子は皇衛兵がドサクサに紛れて自らの元に届けてくれていた。
上手く事が進めば、あわよくばこの子を皇位に据えた後に自らも一定の地位を手に入れることが出来るかもしれない。
憤怒と野望が、優柔不断な彼を別人のように変えた。

自らもその女に好意を寄せていたのであろう、協力者となってくれた皇衛兵と共に彼は行動を開始した。

もはや都市伝説となっているこの状況を、如何にして他の貴族たちに信頼性を以て伝えるか。
それには裏付けとなる何かが不可欠である。

変わり果てたかつての皇帝の姿。
それこそが最も直接的な印象を伴った証明になろうと彼等は考えた。
当時としては最も優れた分解能を持った写真機をどうにか入手し、皇居への潜入を開始する。

一度その搭の中に入ってしまえば、安寧と怠惰によって腐りきった空気のこの悪の巣を探索するのは難しいことではなかった。
やがて彼等は、宰相達によって「あたかも存命しているかのように」玉座に座らされている皇帝の亡骸を網膜版に映し出すことに成功する。

しかし、命運はそこで尽きてしまっていたのであろう。
国家の行く末を左右するこの画像情報を携え彼が五年後に自らの領地に戻った時、もはやそこに彼の知る故郷は無かった。
中央からの度重なる経済制裁の結果、領民たちはその殆どが飢えによって骨と皮だけになっていた上に、案の定発生した暴動によって荘園は旧時代の遺跡の様な様に変わり果てていた。

運命は彼に対し余りにも残酷であった。
戻って半年もしない内に、彼は侵攻してきた国軍によって捕えられる。
罪状は外患誘致罪。
写真は奪われ、必死の命乞いも空しく極刑を言い渡された。
銃殺される間際まで案じ続けた我が子の処遇は、結局彼に伝えられることは無かった。


「・・・んで、その子供がお前だと?」

話を聞き終えたリシェクは、まだ理解が固まっていないという顔で男娼に尋ねた。

「・・・はい。」

男娼は目元に付着した薬剤を手で拭いながら静かに頷いた。
瞳の色は初めて見た時と同じ蒼に戻っていた。

「それで目ン玉の色を変えてここに送られたってか。・・・漫談にゃ使えねェ酷い話だな。」

憐れみを湛えた目でリシェクは男娼の顔を眺めていた。

「そんな風に見ないで下さい。私は自分が哀れだなんて思ってません。」

男娼は鋭く、何らかの意思が感じられる声で反駁した。

「・・・おう、すまん。お前の話が本当なら・・・。」

リシェクは耐え難くなった空気を変える為、何か新たな切り出し方は無いか頭の中で探し始めた。

「・・・例の写真は今もどこかにあるのか?」

やがて、話の中で彼が最も疑問に思った点を投げ掛けた。

「・・・はい。ここまで話しておいて、貴方に見せない訳にはいきません。」

「は?・・・ここにあるのか!?」

予想もしなかった答えを返した男娼に対し、リシェクは素っ頓狂な声を上げた。

「六つになってここに送られる時、あの元皇衛兵の方がこっそり渡して下さったんです。」

男娼は立ち上がり、寝台の足の辺りの床を爪で引掻き始めた。
薄い床板が剥がれると、その下は深さ40cm程の窪みになっていた。
やがて男娼はそこから埃を被った小さな図嚢を取り出した。
リシェクは浮世離れした心地でその様をただ眺めていた。

「どうぞ。」

やがて男娼は図嚢の中にあった革製の封筒を彼に手渡した。

「おい、待て。何で今までバレなかった?」

それを開けるのを躊躇していることを悟られないよう、リシェクは咄嗟に思い立った疑念を投げ掛けた。

「この船の連中は皆阿呆です。気付く訳ないでしょう。・・・ほら、早く開けてください。日和ってるんですか?」

「喧しい、日和ってねぇよ!」

知り合って半日もしないうちにこの男娼は時折馴れ馴れしい口も叩くようになったが、別段気に障るような口調でもないので流していたのだった。
小さく溜息を吐きながら、リシェクは封筒の口の糊を剥がした。

姿を現したのは、全く色褪せることもなくその異様な光景を映し出している網膜版であった。
ゴテゴテとした派手な宮廷衣に身を包んだ男の遺体が、同じく装飾で固められた玉座に座らされている。
優れた防腐処理によるものか、皮膚や体毛は生きているかのように残っているのではあるが、その様は返って不気味な違和感と戦慄をリシェクにもたらした。

「・・・どうですか?」

男娼が横から顔をニヤつかせながら自分の表情を確認しているのが分かった。

「おい、何で楽しそうなんだ?」

写真に対しての感想を一旦先延ばしにする為、リシェクは妙に高揚した様子の男娼に尋ねた。

「だって、これを見せるのは貴方が初めてなんですよ。こんなアレなものを前にしてどんな顔をするか気になるじゃないですか。」

当然の事であるように答える男娼に対し、リシェクは妙に達観した気分を覚えた。
歪んだ環境の中に身を置けば、求める娯楽や価値観も同様に捻くれたものとなる。
それは自らも同様である上、そのような凄惨な人生の中にあるこの男娼が人としての理性や、ある程度はまともな人格を保っているのは称賛に値するのではなかろうか。
女と見紛うほどに華奢なこの体の何処にそのような強靭さがあるのか不思議に思ったが、やがてリシェクは手の中の異様な写真に目を戻した。

「・・・お前の親父は優秀だったんだろうなってことは分かる。」

被写体から20mは離れていたであろう距離から、ましてや身を隠しながら撮影したであろう像にしては非常に鮮明である。
写真機の性能もあったのであろうが、これを成功させたその男の度胸や技術には感服せざるを得ない。

「・・・それだけ、ですか?」

男娼はつまらなそうに返した。

「・・・まぁ、いい。お前はこんな酒の肴にもならんモンを俺に見せてどうしたいんだ?」

リシェクはこれ以上視界に入れたくはないとばかりに網膜版を封筒に戻しながら言った。

「差し上げます。私が持っていてもどうにもならないから。」

思い掛けない答えを前にして、リシェクは口を間抜けに開けながら虚空を見つめるほかなかった。
しかしその驚くべき返答の意味をやがて咀嚼し、慌てたように切り出した。

「・・・待て待て待て。俺が持ってても同じだろうが。」

男娼はその言葉に対し呆れたように大きく溜息を吐いた。

「そんな訳ないでしょう。貴方は私と違って自由にこの船を降りられる。それに、もし貴方に父の様な根性があればこの写真を使って偉業を成すことも出来るかもしれませんよ。」

“偉業”という単語が、リシェクの脳内であからさまな拒否感を発生させた。
特戦群という取敢えずは安定した職を失い、惨めにも決別したはずの故郷へ戻らんとしている自分に対しその言葉は余りにも咀嚼し難く、また場違いなものに思われたのだ。

しかし一分程の沈黙の後、その単語が自分に対して何らかの利益――すなわち金やそれに準ずる何かをもたらしてくれるものであることをようやく追いついた思考によってどうにか理解した。
まだ何か事を起こそうという明確な感情を持つには至らなかったが、取敢えずはこの曰くつきの網膜版を貰っておいても悪くはないと思い始めた。
リシェクは壁に掛けていた外套に歩み寄り、封筒の口を何度も折り曲げて内ポケットの奥へと仕舞った。


その夜、食事と入浴を終えた後リシェクは猛烈な睡魔に襲われた。
恐らく男娼の常識離れした長話に対し、「首から上」で行う仕事に慣れていない脳で聞き入った疲れからであろう。
寝台に腰かけながらうつらうつらしている彼を、男娼は濡れた髪を拭きながら面白そうに眺めていた。

「相当参ってますね、大丈夫ですか?」

言葉とは裏腹に少しも心配した様子の無い声で尋ねられ、リシェクは若干顔をしかめた。

「お前のせいだぞ、全く。・・・あぁ、マズイ。まだ実感が沸かねぇ。」

こめかみを親指で押さえながら力無く答えた。

「分かります。私もあの人・・・、例の皇衛兵の方から聞いたときは凄く戸惑いました。当時はまだ子供でしたし。」

そう欠伸をしながら言う男娼に対し、リシェクは若干の敬意を示すよう姿勢を少々正した。

「・・・この前は怒鳴り散らして悪かった。まさかお前がそんなアレな因果でここにいるとは思わなくてだな・・・。」

「気にしないで下さい。私はもう慣れてるんです。それに、・・・いつかは助けがくるかもしれませんし。」

ぎこちなく謝罪の意を示すリシェクに対し、男娼は特に気にも留めないといった風に気さくに答えた。

「そうかい。・・・それもそうだな。」

リシェクはその身をシーツの上に横たえた。
これから先、あの事実を前にしてどう振る舞うのが正解なのであろうか。
幾通りもの答えが頭の中で導き出されるが、そのどれもが自らのチンケな利益を重視したものであることにリシェクは苦笑した。

恐らく男娼の父親であるその辺境の領主とやらも、同じように悩み続けたのではなかろうか。
もっとも、彼の場合は全うな理由と自分にはない大きな野望を伴ったものではあったであろうが。
男娼が髪を拭く摩擦音に聞き入りながら、リシェクは天井の木目を眺めていた。


慣れ親しんだ警告音がけたたましく鳴り響いているのを耳にし、リシェクはその身を寝台から起こした。
恐らくこの船の放送設備は建造当時のままであるのだろう、天井で埃を散らしながら震えている伝声管が目に入った。
既に男娼は起床していたようであり、壁に据えられた小さな船窓から外を覗き込んでいる。
リシェクは欠伸を噛み殺しながら彼に歩み寄った。

「見てください。あれは・・・」

男娼の指差す先には200m程先でこの船に対し並進している一隻の揚陸艦の姿があった。
生体機関の分厚い装甲に正午の太陽光を鈍く反射させている。
リシェクはその禍々しい様の船体に、所属や船籍を表す標章が見当たらないことに気付いた。

「何処の連中だ、ありゃあ?・・・やけにイイ得物を積んでやがる。」

彼の言葉通り、その揚陸艦の兵装は充実したものであった。
収容区画の脇に備えられた巨大な機関砲は見るからに対艦戦闘を想定したものであり、この内地では滅多に見ない型である。
リシェクはその持ち主について思い当たる節がないか記憶を辿り始めた。

『・・・近衛騎士団だ、間違いねェ!兵隊は持ち場に付け!他は部屋に引っ込んでろ!』

彼が導き出すより前に、伝声管より発せられたノイズまみれの船員の声が答えを示した。
男娼は見るからに狼狽した様子であり、それはこの「夜伽戦艦」がこのような事態に直面した経験が無いか、もしくは浅いものであることを伺わせた。

リシェクはその様に若干の不安を覚えたが、やがて自らと男娼の立場について考え直し、自分たちにあの揚陸艦を怯える必要があるのか疑い始めた。
男娼は甚だ悪質な強制労働で乗艦させられている訳であり、自分に至っては違法性の認識すらはっきりしていない只の客にすぎない。
ましてやたった数日前までは法を執行する側にあった立場である。
もしもその「近衛騎士団」とやらが全うな判断力を伴った組織であるのなら、裁くべき相手くらいの分別は付く筈でなければおかしい。

窓の外の揚陸艦が徐に高度を上げ、視界の外に消えた。
廊下からこだましてくる野蛮な怒号と足音からは、この船が相応な数の戦闘員を擁していることを察することができた。
それでも質という面においては、揚陸艦に詰め込まれているであろう連中に比べればあまりにも見劣りするものであることは疑い様が無いだろう。

「そう日和るなよ。お前に罪があるたァ連中も思わんだろう。それに、・・・もしかしたらお前の言う『助け』が奴らかもしれんぞ。」

リシェクは男娼の肩に手を置きながら諭すように言った。

「はい・・・。」

男娼は小さく頷くばかりでその切迫した表情を変えようとはしない。

突然、雷鳴の様な轟音と共にとてつもない振動が彼らを襲った。
照明が明滅し、配管の拉げる不快な金属音がそれに続く。
恐らく揚陸艦がこの船の甲板にその巨体を降ろしたのであろう、やがて榴弾砲によるものと見られるくぐもった砲声が部屋に届き始めた。
続いて小銃や短機関銃による連続した破裂音が続く。
男娼は未だ聞いたことのないその低俗で殺意に満ちた音に対し、半ば恐慌を起こすようにして両手で耳を必死に塞ぎ始めた。

「落ち着け。どうせすぐに収まる。」


そう静かに言ったリシェクの言葉通り、「夜伽戦艦」に備えられていた火砲は揚陸艦から降り立った兵士たちによって二分もしない内に制圧された。
蛮族同然の粗末な恰好をした警備兵達の死骸から流れ出た血が甲板の窪みに溜まり、表面に錆を浮かせた赤黒い湖を成している。

「カール、お前の分隊は奴を探せ。俺とウリで艦橋を抑える。」

その血溜まりを不快な目つきで眺めながら、小隊の長と見られる黒い戦闘服に身を包んだ男が傍にいた兵士に言った。

「了解。他の娼婦共はどうする?」

携えた小銃の槓桿を前後させながら、カールと呼ばれたその男は指示の主に尋ねた。
小隊長は暫し思案していたが、やがて額を掻きながら顔を上げた。

「・・・そうだな。誤ってこの馬鹿共が奴を殺すとマズイ。取敢えずは上の階層に集めろ。」

カールは頷き、自分の分隊員であろう十人程の兵士達を連れて歩き出した。


散発的なものになっていた銃声も、やがて完全に収まった。

「もうちったァ粘ると思ったが・・・。まぁ、よかったじゃないか?お前を馬車馬みたいに働かせてた連中は皆仲良く蜂の巣になったハズだ。」

リシェクは外套を羽織りながら事も無げに言った。
効果の程は定かではないが、先日外した所属徽章も襟に取り付ける。
取敢えずは兵隊の恰好をしていた方が、これからやってくるであろう連中への第一印象は幾許かマシな筈である。
男娼は俯いたまま何も答えようとはしなかった。


半長靴の硬い足音が廊下の奥から近づいてくる。
恐らく一個分隊程の数であろうその集団は、扉が激しく開け閉めされる音から察するにこの階層にある部屋という部屋を全て念入りに確認しながらこちらへ向かっているようであった。

やがて緑色の薄い扉が力強く蹴破られる。
姿を現したその二人の兵士に対し、リシェクは若干の違和感を覚えた。
「近衛騎士団」という仰々しい所属名にしては、彼らの装備は余りにも実戦的で無駄のない様である。
小銃を肩に挙銃したまま慎重に此方へ歩み寄ってくる姿からも、彼らがリシェクのよく知る特戦群等の非正規戦部隊に似通った何かを感じさせる。

「・・・おい兄貴、こいつじゃないか?髪の色や歳も合ってる。」

やがて後ろにいた兵士が男娼を舐めるように眺めながらもう一人に囁いた。

「間違いない。今日はツイてる。」

発言から後ろの兵士の兄と思われるその男は、カーゴパンツのポケットから結束帯を取り出しながら男娼に歩み寄った。

何かがおかしい。
リシェクの脳がそう彼に抽象的な警告を発する。
しかし、どう思案しても具体的な結論を何一つ見出すことができなかった為、彼はただ極力侵入者達に敵意を示すことのないよう振る舞いながらその様を眺めていることしかできなかった。
男娼は特に抵抗することも無く、その両手が兵士に縛られるのに任されている。
もう一人は寝台の下や壁に掛けられた額縁の裏などを丹念に確認して回っていた。

「兄貴、此処にゃねェよ。こんな部屋にあるハズがねェ。」

飽きたのか疲れたのか、兵士はやがて未確認の箇所を探索することも無くもう一人の長身の方に言った。

「・・・こいつがいれば探す必要もあるまい。こうもうまくいったんだ、レームも喜ぶ。」

兵士は拘束し終えた男娼を肩に担ぎながら応えた。

「あいつの機嫌が良けりゃあ世は事も無し、ってな。・・・この男はどうするよ?」

小銃の消炎製退器をリシェクの胸に押し付けながら男はその兄に尋ねた。

「待て、待ってくれ。・・・お勤めご苦労さん。俺は兵隊だ。あんたらと同じくな。」

リシェクは額から冷や汗を垂らしながら、襟の徽章を指差した。
途端に兵士は煙たそうにその顔をしかめる。

「特戦群だとよ、こいつ。・・・気持ち悪ィ体しやがって。」

「・・・面倒だ。殺せ。」

そう兄から命じられるや否や、兵士は小銃の切替軸を連発に入れ替えて引鉄を引いた。
乾いた発砲音が部屋にけたたましく響いた後、リシェクの硬い身体が床に倒れる重い音が続く。

男娼は空薬莢が床に転がる金属音に聞き入りながら呆然としていたが、やがて事態の重大さを把握し身を強張らせた。
そのまま喉から絞り出すようにして甲高い悲鳴を響かせる。

「おい、暴れるな。落ちるぞ。」

兵士は見るからに気怠そうにして、肩に担いだ男娼を窘めた。

「いいなぁ、兄貴は。俺も女の子抱きたいよ。」

弟は物欲しそうな目でその様を眺めながら言った。

「馬鹿言え、聞いてなかったのか?こいつモノ持ってんだぞ。」

「はぁ!?嘘つけ。どう見てもメスじゃねぇか。」

暴れる男娼を意にも介さない様子で会話を続けながら、彼らは部屋を後にした。


船の航行に必要な最低限の船員達は、射殺されることなく娼婦と共に艦橋の真下に位置する大部屋に集められていた。
空間の殆どは裸同然の娼婦達に占拠されていた為、彼らは食堂と見られるその部屋の隅で身を寄せ合うようにして塊を作っている。

薄汚れた作業服を着込んだその集団に紛れるようにすることで、一人の客が生き延びることに成功していた。
事の最中に連行されたのであろうその男は下衣と呼べるものは身に着けておらず、上着の裾を引き延ばすことで必死に局部を隠している。

「・・・おい、なんか腰に巻くモンないか?」

流石に羞恥心に耐え難くなったのか、彼は傍にいた初老の船員に尋ね始めた。

「なんだい、その小っさいのを曝け出したまま死ぬのは嫌か?」

船員は落ち着き払った態度で彼の一物を酷評しながら、首に掛けていた手拭を彼に渡した。
短機関銃を威圧的に構えながら、襲撃者の一人が群衆の間を歩き回っているのが見える。

「ありがとよ。・・・今何て言った?」

極力動きを目立たせないよう努めながら、男は素早く手拭を腰の周りに巻いた。

「小さい。まるで豆だよ、そりゃ。・・・それにしても、あんたもエライ災難だな。」

船員は警備が此方に目を向けていないことを確かめると、胸ポケットから煙草の箱を取り出した。
やがて一本を口に咥え、今しがた一物と尻を隠し終えた客にもそれを薦める。

「本当に、洒落にならねぇ。あのアバズレにゃ逃げられるしよォ・・・、糞ッ。」

男は受け取った一本のフィルタを噛みながら、上着の懐に入れていた一枚の写真を取り出した。

「・・・めんこい子だなぁ。振られたから腹いせに乗ったのか?」

船員は写真に映し出されていた若い女の顔を眺めながら、底意地の悪そうな顔で尋ねた。

「まぁ、そんな所だよ。・・・あいつ籍入れて二日で出て行きやがった。」

途端に船員は喉から小さく笑い声を漏らした。

「・・・何だよ。笑い事じゃねェぞ。」

男は苛立たし気に彼を睨みつけた。
船員は長いことその笑いに背中を揺らしていたが、やがて涙を拭きながら男に向き直った。

「・・・お前さん。そりゃあ、アレだよ。何かの罰だ、間違いない。・・・何かやらかしただろ?」

目を閉じて記憶を辿ってみると、一つ大きな印象を伴って浮かび上がるものがあった。
自らの背中に罵詈雑言を浴びせる、異形の負傷兵の姿である。

「ハル・・・。」

やがて身体の芯から絞り出すようにして、その名を呟いた。


霞んだ視界が徐々に鮮明さを取り戻していく。
天井で揺れる照明が神の後光ような神聖さを伴って此方を見下ろしていた。
同時に末端神経にも意識が戻り始め、リシェクは自らが五体満足であることを認識した。
つい二週間程前にも似たような体験をしたことを思い出し、デジャヴが不快に彼の脳を刺激する。

「・・・あの尻穴野郎。」

苦々し気に呟きながらその身を床から起こし、外套の前を開いて傷を確認した。
幸いなことに、交換したばかりの生体装甲が弾丸の体内への侵入は防いでくれたようであった。
しかしその運動と衝撃によって胸部の肉が二割ほど削り取られており、流れ出た血と生体組織液が元々歪な己の身体をさらに醜悪なものへと変えている。

少なくとも、顔は把握した。
まるで片手間でこなすようにして自らに鉛弾を叩き込んだ浅黒い肌の弟。
そしてそれを命じた長身の兄貴。

彼等に連れ去られた男娼に対する感情も若干はあったのであろうが、この時リシェクの心を支配したのは紛れもなく復讐心であった。
あの阿呆面を苦痛と後悔に歪ませてやる。
有り余る殺意とエネルギーを何かしらに誇示するように、リシェクは天井から鬱陶しく垂れる照明を引き千切った。


「レーム、連れてきたぞ。こいつだろ?」

元は戦闘指揮所だったのであろう艦橋の一室に、男娼を担いだ背の高い兵士が歩み入った。
既に部屋の中には数人が屯しており、小隊長である黒衣の男の姿もあった。

「・・・上出来だ。早かったな。」

椅子に乱暴に座らされた男娼の顔を眺めながら、レームと呼ばれた小隊長は兵士に答えた。

「何のこたぁ無かったよ。ロクな警備もいなかった。」

兵士の報告を耳に入れながら、レームは男娼の頬を右手で軽く撫でた。
途端に彼は肩を竦ませ、床へと目を伏せる。

「カール、それは妙だな。この船の連中は写真を知らなかったという事か?」

今度は男娼の髪を指で弄びながら、レームは尋ねた。

「・・・そうとしか思えん。あの部屋にあるようにゃ見えなかった。どっちにしろ、在処はそいつが知ってるだろ?」

カールは小銃で男娼を指し示しながら言った。

「そう願おう。・・・さて、お嬢ちゃん。私たちの探し物が何か、君なら分かるな?」

レームは男娼の耳元に彫りの深い髭面を近づけ、クルカを撫でるような気味の悪い声で囁いた。

「・・・すまん、少しいいか?」

男娼が何か答えるよりも早く、部屋に入った無電を背負った兵士が控えめな調子でレームに尋ねた。

「どうした?見ての通り、私は忙しい。・・・早くしろ。」

さながら自慰を邪魔されたかのような苛立ちを顔に表しながら、レームは兵士に向き直った。

「・・・機関室の二人と繋がらねェ。大方無電の故障だとは思うんだが。」

兵士は背中の電話機を親指で示しながら、怯えるように言葉を紡いだ。
途端にレームはそのしかめた顔をさらに不機嫌なものにする。

「そんな事で私の手を煩わせようと?」

「・・・ちッ、違う。心配ねぇ、もうヨセフ達を確認に向かわせた。」

その名を耳にしたカールの目に、若干の不安がよぎったのをレームは見逃さなかった。

「落ち着け、友よ。お前の弟はかなりの腕利きだろう?」

そして喚く子供を窘めるような――例によって不快感を伴った優しげな声で彼を諭した。


機関室の扉の傍に、突入準備を整える五人程の兵士の姿があった。
全員が得物の先に銃剣を取り付けたのを確認し、先頭にいた男は右手で彼らに合図をする。
そして自らも小銃の握把を握り締めると、その錆に汚れた鉄の扉を蹴破った。

「・・・うわッ、こりゃ酷ェ。」

そう一人の兵士が口にするのも無理もない程に、機関室に入った彼らの目に飛び込んできた光景は余りにも凄惨で異様なものだった。

その頭部を原型も留めない程に粉砕された一人の死体が、壁の配管にもたれ掛るようにして倒れていた。
血溜まりの中にはもう一人のそれが、さながら巻かれた絨毯のような力無い様で突っ伏している。

「グレンとニガンだ。・・・間違いない。」

死体の装いを念入りに確認しながら、先程先頭にいた頬骨の張った顔の兵士が呟いた。

「一体誰がこんな・・・。こんなの奴のお袋にゃ見せられねェよ。」

壁の死体に歩み寄りながら、今にも泣きだしそうな声で一人の兵士が嘆いた。
そして自らも血の中に膝を付き、ニガンと書かれた死体の名札をその胸から剥がそうとした。

「馬鹿、よせ!」

すかさず飛んできた制止も間に合わず、彼は死体を動かしてしまった。
その背中と壁の間に入れられていた二発の手榴弾が、途端にそのレバーを空中に弾き飛ばす。

狭い室内で生み出された途轍もない圧力が、兵士たちの鼓膜と内臓を激しく損傷させた。
同時に飛散した無数の金属片が彼らの肉を一切の慈悲もなく切り裂いてゆく。
死体の傍にいた一人は状況を把握することも無く即死し、周りにいた四人もすぐには立ち上がれないほどの傷と衝撃を被った。

呻く彼らの頭部を、「片手間でこなすように」拳銃で撃ち抜きながら、一人の男が部屋の隅で蹲る兵士に歩み寄った。
空薬莢の転がる金属音を背景に、濃緑色の外套がゆっくりと近づいてくる。
圧力で麻痺した聴覚と拍節器のように揺れる視界の中では、その姿は形容し難い程に禍々しく、また神々しいものに感じられた。

「・・・こら、まだ寝るんじゃねェよ。」

男は兵士の襟を掴み、爆発の為にもはや肉塊となった先程の死体の傍へと引き摺っていった。
そのまま乱暴に彼の背中を壁へと押し付ける。

「さっきはようもやってくれたなぁ、穴だらけになっちまっただろうが。・・・幾らしたと思ってる、これ?。」

そう弾痕の空いた胸元を指差しながら此方を睨む顔には、確かに見覚えがあった。
先程確かに射殺した、目標の男娼と共にいた男である。

「・・・知るかよ。何のつもりだ?俺たちゃ・・・」

徐々に意識が戻ってきた為に取敢えずは返答した兵士であったが、リシェクはその返事を最後まで聞き終えることも無く彼の太腿に向け発砲した。
鉄が擦れるような悲痛な嗚咽がその口から漏れる。

「静かにしろ、男の子だろう?・・・質問するからしっかり答えろ。」

如何なる感情から発せられたのかは定かではないが、リシェクは口元に微笑を浮かべながら兵士の頭を壁に何度か叩きつけた。

「ちったァ“しゃんと”したか?・・・近衛騎士団とやらじゃねェってことは分かった。お前ら何モンだ?」

拳銃の銃身で彼の額を軽く小突きながら、リシェクは兵士に尋ねた。

「・・・糞野郎が。誰が答えるかよ。」

そう口から血を流しながら発した兵士の言葉は、彼に対し余りにも不愉快で受け入れ難いものだったのであろう、リシェクはその太腿の傷口に銃身を深々と挿し込んだ。

「お前の親はどういう躾をしてたんだ?人様にそんな汚い言葉を吐き散らしてもいいってか?」

断裂された筋肉の中で鉄の筒が揺さぶられる苦痛は想像を絶するものであった。
兵士は獣のような雄叫びを上げることで、何とか意識を保とうとした。

「うるせェって言っただろうが・・・。ほら、さっさと言え。」

「あッ、・・・あああああッッ!分かったァッ!・・・言うよ、言うから抜いてくれ!」

今度は幾分かマシな回答として認識したのであろう、リシェクはゆっくりと拳銃の銃身を傷口から抜いた。

「抜いたぞ、満足か?」

血に塗れた銃身を兵士の戦闘服で拭いながら、リシェクは彼の顔を見据えた。

「・・・俺たちは雇われただけだ。・・・名前は忘れちまったが、何とかって貴族にな。」

荒れた呼吸に肩を上下させながら、兵士は自分の曖昧な記憶を語った。

「仕事の内容は?」

「お前といたあの女、・・・いや、男か。あいつと、奴が持ってる何かを持って来いってお達しだ。」

リシェクはその「何か」という単語に対し、思わず外套のポケットを左手でまさぐった。
例の写真が昏倒している間に持ち去られていないことを確認し、安堵の溜息を吐く。

「・・・んで、見返りにゃ何を?」

「この船だ。事が終わったら好きにしていいって・・・」

『・・・セフ、ヨセフ!大丈夫か!?』

突然、兵士のサスペンダーの吊環に付けられていた受話器から切迫した声が発せられる。

「おっ、丁度いい。」

リシェクはそう本意の汲み取れない言葉を呟きながら、今度は床から拾った銃剣を兵士の脇腹に突き刺した。

「あァッ!!・・・兄貴、助けてくれ!」

喚きながら兵士が受話器に手を伸ばすのを制止し、リシェクは自らがそれを握り取った。

『おい!?・・・ヨセフ、どうした、そこで何があった!?』

「心配ねェよ、弟はここにいる。」

リシェクは受話器の側面にあるボタンを押しながら、声の主に応えた。

「ほら、兄ちゃんにバイバイしな。」

そしてそれを兵士の口元に近づけ、銃剣の刃をゆっくりと横に動かし始めた。

「ああああッ、あァッ!!兄貴、兄貴ィ!しッ、死にたくねェよォォ!!」

電話機の向こうにいるはずの男は、もはや何も答えようとはしなかった。
ただ始動時の生体機関のような低い唸り声だけが受話器から聞こえてくる。

「聞こえたか?じゃあな。」

そう心から満足したような声で言いながら、リシェクは受話器を床にかなぐり捨てた。
そしてゆっくりと立ち上がり、拳銃の銃口を兵士の頭頂部へと押し付ける。

「おイタのツケは高くつくんだ。一つ勉強になったな。」

そして一切の淀みもない指の動きによって、引鉄を最後まで引き込んだ。


「畜生、畜生が!ぶッ殺してやる!あの糞野郎!」

喚き散らしながら辺りの椅子や屑箱を蹴り飛ばしているカールの様を、レームはただ酒の肴を見るような目で眺めていた。
しかし彼が小銃の槓桿を引いて部屋を飛び出そうとしているのを目にし、やがてゆっくりと彼に歩み寄った。

「落ち着け、我が友。・・・気持ちはよく分かる、私も妹を亡くしているからな。だがこうなった以上、お前のような人材は私の傍にいて欲しい。」

そう自らの肩に手を置きながら静かに言葉を紡いだレームの顔を見据え、カールはやがて大きく溜息を吐きながら小銃を握る右手を力なく垂れ下げた。
そのまま目に涙を浮かべながら部屋を後にする。

「・・・揚陸艦を呼び戻せ、まだ近くにいる筈だ。それと、・・・セウとウリ達に奴を狩らせろ。十中八九、アレを持ってる筈だ。」

哀愁を漂わせるカールの背中には目もくれず、レームは傍にいた兵士に命じた。


襲撃の報による慌ただしさは、娼婦や船員達の捕らわれている大部屋にも隠しようも無く現れていた。

「何があったんだろうな?」

防弾装甲で胸や背中を覆った兵士達が足早に駆けていくのを横目に眺めながら、その船員は先程手拭をやった男に言った。

「・・・さぁな。だが連中の装いを見る限り・・・」

「レイ、待て!機銃も持っていけ!奴は人間じゃないって話だ。」

そう兵士達の中で発せられた言葉を耳にし、男は発言を止めた。

頭の中で何かが引っ掛かる。
自分は確かに、その“奴”の単語に通じる何かを知っている。
そのまま額を忙しなく搔きながら、思考に集中した。

「おい、どうした。何か知ってるのか?」

彼の様を訝し気に眺めながら、船員が尋ねた。

「いや、知ってる訳じゃあないんだが・・・。」

そう曖昧に返しながら、男は記憶の糸を辿り始めた。
連中が怯えるような容貌であり、今現在この船に乗船している筈の何か。

「まさか・・・、あの野郎まさか・・・。」

そして一つの結論を導き出し、自らのそれに狼狽した。

「何だ?知ってるなら勿体ぶらずに言いなよ。」

船員は横から興味深そうに催促した。

「・・・あんたの言う事を鵜呑みにすりゃ、そいつは俺が罰を受けることになった原因だ。」

やがて男は深刻そうな顔つきで答えた。

「ハッ!そりゃイイ。事が済んだらちゃんと謝っとけよ。何をしたかは知らんが。」

船員はさも面白そうに、軽機関銃を抱えながら走り去る兵士の姿を眺めながら言った。


「・・・グとギュンターは右だ。俺とジュ・・・が・・・を調べる。・・・で・・・しろ。」

階段の上から兵士たちの声とその重い足音が聞こえてくる。

「阿呆が。丸聞こえじゃねェか。」

リシェクは吐き捨てるように呟いた。
そのまま先程死体から拝借した短機関銃の槓桿を引き、極力音を立てないようゆっくりとそれを戻す。
そして太腿の銃剣が所定の位置にあることを確かめ、廊下の奥へと歩き出した。

兵士たちは階段を下り切ると、まずは軽機関銃を持った大柄の男を先頭にして廊下へ警戒方向を移した。
そのまま各々で分担し、上方を含む全方位を確認する。

「・・・流石に身を晒すほど馬鹿じゃあないか。面倒だが部屋を見て回るしかない。」

その分隊長の言葉通り、彼らは二人ずつ五個の組に分かれて廊下を慎重に歩み始めた。
それぞれの銃はしっかりと肩に挙げられており、瞳は狩人の様な鋭い光を放っている。

「異常なし。」

「こっちも同じだ、何もいない。」

扉を開けて念入りに部屋の中を確認しては、彼らはそう報告した。

「しっかり調べろ。奴はまだこの階にいる筈だ。」

分隊長は廊下の部下たちにそう答えながら、自らも一つの部屋の扉を開けた。
一人の分隊員と共に、慎重に中へと足を進める。
寝台の陰や風呂場、そして便所までを捜索するが何も見つからない。
まるで張り合いのないといった調子で部屋を後にしようとした彼の目に、何か不穏なものが映り込んだ。

「糞ッ、・・・これは何処に繋がってる?」

金網が破られた天井の通気孔を小銃で示しながら、分隊長は傍らの部下に尋ねた。

「此処は資材倉庫の真下です。・・・何を考えてやがる?」

部下は胸ポケットから取り出した船体の図に目を通しながら答えた。

「上だ!奴はもうこの階層にはいない!」

分隊長は廊下へ向け怒鳴った。
やがて足早に階段を駆けていく兵士達の足音が部屋に届く。
苛立たし気に大きく溜息を吐きながら、分隊長自身も部下を連れ、扉へ向かおうとした。

「誰が何処にいないって?」

唐突に響いた声の主を探し、分隊長は小銃を指向しながら振り向いた。
彼が認識できたのは、視界の中で途轍もない速さで大きくなりゆく銃剣の切先だけであった。

一人目の額に銃剣を突き刺し終えたリシェクは、慌てて小銃を構え直すその部下に視線を移した。
そのまま死体から得物を引き抜くことも無く、急速に態勢を前傾に入れ替えながらそれに駆け寄る。

兵士が引鉄を引くよりも早く、リシェクはその顔面に右拳を叩き込むことに成功した。
頭蓋骨が砕け、肉が千切れる名状し難い不快感が義手の神経を通じて彼の脳に届く。
身体が壁に叩きつけられた衝撃により、兵士の死体の人差し指が小銃の引き金に触れてしまった。

「あっ、・・・やっちまった。」

辺りに轟く重く鈍い発砲音の中で、リシェクは己の過失を嘆くように呟いた。
それに気付いたのであろう、先程上層に駆けていった兵士達が此方に戻ってくる足音と怒号が聞こえてくる。

「折角ぶっ殺したってのに・・・、計画がパァだ!このボケナス!」

今しがた頭を粉砕した死体の腹を苛立たし気に蹴りながら、リシェクは負い紐で首から下げていた短機関銃を手に取った。
そのまま銃床を肩に押し付けながら廊下へと駆け出す。


「一曹は!?何がどうなってるんだ!?」

階段を駆け下りる兵士達の士気は、混乱によって凄惨なものへとなりつつあった。

「知らねぇよッ!だからこうして戻ってるんだろうが!」

もっとも、大陸中の軍から寄せ集められた雇われ兵の集団を“一応の連携を以て”取り仕切っていたのは、他でもない分隊長であったその一曹だったのだから無理もない。
例によって軽機関銃手を先頭にして、彼らは廊下へと身を躍らせた。

「伏せろッ!!」

隊の中から上がったその声に素早く反応できたのは半分程だけであった。
それ以外は廊下の奥から飛びかかってきた無数の拳銃弾により、無防備な頭を西瓜のように砕かれる。

リシェクは先程殺した二人の装いから学び、短機関銃の照門を人の頭の高さに向けたまま横薙ぎに射線を動かしていった。
薬室を兼ねた弾倉が激しく回転し、眩い発砲炎が暗い廊下を太陽のように照らす。

「糞ッ垂れがッ!早く撃て!」

踏まれたクルカの様な惨めな様で伏せていた一人の兵士が、横で半ば恐慌をきたしながら震えている機銃手の鉄帽を拳で叩いた。
彼は一瞬前後不覚に陥っているといった顔で呆然としていたが、やがて瞳に殺意を浮かべながら機銃の銃床を左手で握り込んだ。
弾を切らしたのか壁の突起に掩蔽しながら此方を伺っている人影を照門に見出し、照星頂をそれに重ねる。

「右方よォし、左方よォし!射撃用意、テェッ!」

この状況においては意味を成さない文言をそう連ねた後、機銃手は勢いよく引鉄を引き込んだ。

「ド畜生が!」

義肢の右肩の装甲で機銃弾が跳ね、不快な甲高い音を立てたのを耳にしてリシェクは誰にともなく怒鳴った。
そのまま壁に張り付くようにしてその猛烈な火線をやりすごそうとする。

空になった弾倉を止めている金具が外れず、このままではマトモに応射することもできない。
やがて、もはや単語同士を聞き分けることもできない程に野蛮で粗悪な罵詈雑言を銃に浴びせつつ、彼はその機関部を拳で殴りつけた。
途端に間抜けな空洞音を伴いながら、その円形の弾倉が床に転がる。

「よォし!イイ子だ!」

銃と同様に死体から奪った新しい弾倉を銃身の根元に嵌め込みながら、リシェクは今しがたの無礼を謝るように短機関銃を撫でた。
そのまま銃だけを陰から暴露させながら応射を始める。

「危ねッ!・・・退くぞ!話の通りだ、奴は人間じゃねェ!」

傍らで屈んでいた一人が後頭部から血と骨片を撒き散らしたのを目にし、その兵士は先程頭を叩いた機銃手に怒鳴った。

「でっ、でも!あの野郎はまだあそこに・・・」

「死んじまったら報酬もクソもねェだろうがッ!」

恐慌と興奮のせいで使命感に凝り固まってしまった様子の機銃手の襟を掴み、兵士はそれを物陰に引き摺り込んだ。
そして彼の頭を再び軽く叩いて意識を改めさせた後、兵士は機銃手を連れて階段を駆け上っていった。


「艦長。指定の座標に到達しましたが、あの船はいません。」

揚陸艦の艦橋にて一人の船員が、テーブルに腰かけながらシーバを楽しんでいる男に報告した。

「・・・何だって?そりゃ有り得ん。機関が故障でもしたかな。」

その苦みを骨の髄から噛み締めるようにしてゆっくりとカップの中身を飲み下しながら、男は船員に向き直った。

「可能性は低いかと思われ・・・」

『艦影、0300!デカい!』

船員が答え終える前に、壁の伝声管から切迫した声が飛び込んできた。
艦橋にいた全員が、すかさず指定の方向を睨みつける。
厚い雲のせいでそのシルエットしか判別することはできなかったが、明らかに探している「夜伽戦艦」ではない何かがそこにいた。

「おい、ありゃ重巡だぞ。一体何処の・・・。」

艦長が呟いた矢先、その艦影の甲板の辺りから眩い光が発せられた。
彼を含む船員全員が見た最後の光景は、“外郭を容易く貫いて艦橋に入った徹甲榴弾がその炸薬を炸裂させる”という無慈悲で滑稽なものであった。


死体の群れから階段の方へと続く血に濡れた足跡を目にし、リシェクはあからさまな苛立ちをその眉間に浮かばせた。

「逃げやがったな・・・。あのタマ無し共がァッ!!」

そして階段の手摺を、その形が歪に拉げるほどの勢いで蹴り付けながら喚いた。


「・・・貴様らに、玉は付いてるのか?」

その仲間達の血に濡れた二人の兵士を眺めながら、レームは静かに口を開いた。
余りにも間近で、さながらアーキルのチヨコのように量産される死を目撃した結果であろう。
彼等は憔悴しきった瞳で小隊の長である彼を眺めていた。

「玉は付いてるかと、・・・聞いたんだ!」

唐突に怒声を上げながら、レームは機銃手の頭を拳銃で撃ち抜いた。
余りにも無機質で乾いた発砲音が狭い室内に響き渡り、隅で座らされていた男娼はその身を強張らせた。
重い装備に身を包んだ大きな体が床に倒れるのには目もくれず、レームは残ったもう一人の顔を見据えた。

「ひっ・・・!頼む、落ち着いてくれ。・・・奴はイェンスさんも殺したし、後釜のダルも死んじまった!・・・逃げるしかないだろうが!」

兵士は流れ出た涙によってその顔のドーランを溶かしながら、悲痛の滲んだ声色で言葉を紡いだ。

「だったら何故お前が指揮を執らなかった?・・・お陰で懸念材料を残したまま、小隊は半分にまで減った!」

レームは兵士の顔を平手で叩いた。
男の体重を倒せるような力は伴われていなかったにも関わらず、彼はその身を力なく倒れ込ませてしまった。
そのまま路地に捨てられた女の如く、汚れた床を涙で濡らし始めた。

「・・・もう一度だ。もう一度だけ機会をやる。カールと共に、奴を確実に消してこい。」

そして兵士の顔を覗き込みながら、レームは威圧的に言った。
しかし彼の瞳がその言葉に対し余りにも消極的で打ちひしがれたものであることを見て取ると、思い直したかのように懐に入れていた何かを取り出して見せた。

「無理そうだな。・・・お前のようなクズに弾は勿体ない。こいつを以てその無価値な人生を終わらせてやる。」

それは大型の注射器であり、スリットからは青い薬剤が泡立っているのが見えた。

「嘘だろ・・・。レーム、やめてくれ。レェ・・・」

命乞いすらも弱々しいことにいい加減呆れ返ったのであろう、レームは意味ありげな溜息を吐きながら注射器の針を兵士の首筋に刺した。
途端に口から泡を吹き出しながら、彼はその身を不自然に震わせた。
そのまま一定の波に従って振動を続けていたが、やがて白目を剥いたまま全く動かなくなってしまった。

「・・・さて、お嬢ちゃん。君はどう振る舞う?」

針の先から血を滴らせる注射器を手に、レームはこれ以上ない程に不快な笑みを浮かべながら男娼に向き直った。


「おい、・・・ありゃ絶対やらかすぞ。」

腰の手拭を巻き直しながら、男は傍らの船員に囁いた。
彼の視線の先には此方へ威圧的に体を向けている一人の兵士と、その背後で何やら不穏な動きを見せる一人の娼婦の姿があった。
彼女の右手には大きな酒瓶が握り締められており、その瞳は明確な決意によって鈍く輝いていた。

「マズイな。・・・あっ。」

船員が不安そうに睨みつける中、案の定娼婦はその硝子の塊を兵士の頭へと振り下ろした。
重い破裂音が大部屋に轟き、やがて彼は髪から大量に血を滴らせながら力なく膝をつく。

「行け!ぶっ殺せ!」

群衆の中から怒声が上がると同時に、幾人もの娼婦や船員たちがその哀れな兵士に群がっていった。
やがて彼らの成す殺意の権化とも言うべき群れによって、その体は覆い隠され見えなくなってしまった。

「はぁ・・・、畜生。こうなっちまえば仕方ねェ。・・・皆殺しだ。」

男は手拭がずり落ちない事を確かめると、船員の顔を見据えて溜息交じりに言った。
やがて艦橋へと続く通路へ向け走り出す。

「馬鹿言え!一体どうやるつもりだ!?」

慌てて後についてきたその初老の船員に対し、男は振り向いて不敵な笑みを浮かべた。

「・・・俺を誰だと思ってやがる?陸軍特殊陸戦群、エリス・バイマン兵長を見くびる・・・」

彼が戯言を抜かし終えない内に、通路の奥から現れた兵士が此方へ向け発砲を始めた。
小銃弾が壁で跳ね、空間が切り裂かれる不快な高音が響き渡る。

「言ってる傍からこれかよ!オイ、何とかしろ!」

咄嗟に掩蔽した配管の陰で、船員はバイマンに怒鳴った。

「まぁ落ち着け。何事も手順が肝心なんだ。」

そう敵弾を気にも留めない様子で言いながら、バイマンは発砲音に耳を傾けていた。
やがて散発的になったそれに混じるようにして、排出された装弾クリップが床に落ちる甲高い音か廊下に響く。

「・・・二ィ、ヒト。・・・今!」

やがてバイマンは配管の陰からその身を躍らせた。
いつの間に調達したのであろうか、右手には先の尖った真鍮の管の切れ端が握られている。
そのまま全体重をそれに伴わせるように身を捩りながら、彼は管を廊下の奥へと投擲した。

緩やかに回転しながら飛翔したそれは、その砥がれた先端を歪みなく兵士の喉元に突き刺した。
傷口から溢れた鮮血が、同時にそこから漏れた空気によって激しく泡立つ。
崩れ落ちる兵士を満足気に一瞥した後、バイマンは船員に振り向いた。

「どうだ?」

排泄を終えた幼児のような顔で得意気に言う彼を、船員はさも馬鹿らしいといった目で眺めていた。

「・・・まずは、その豆を隠せ。」

その言葉によって初めてバイマンは己の腰に巻いていた手拭が床に落ちてしまっている事に気付いた。
血に濡れた兵士の亡骸を背景に、さながら灰皿の如き汚い尻と拳銃弾程の長さの一物を曝け出した男が仁王立ちしている様は、余りにも滑稽で低俗なものであった。


「何事だ、どうなってる!?・・・突っ立ってないで見てこい、この能無しが!」

唐突に下の階で発生した騒ぎを耳にし、レームは半ば正気を失ったかのような色の瞳でカールに喚き散らした。

「・・・此処にいろと言ったのはあんただ。」

襲撃者への殺意と先程の命令への服従が、混乱のせいで葛藤を成してしまったのであろう。
カールは感情の読み取れない低い声で反駁した。

「何だ?貴様も私を・・・」

互いに向き合っていたことにより、二人は部屋の入り口に目を向けることが出来ないでいた。
それ故そこから飛んできた三発の拳銃弾がカールの側頭部を貫いた際、レームはただ呆然とした顔でその様を見ていることしかできなかった。

屈強な体躯が床に倒れる音が、けたたましい発砲音に掻き消される。
ようやく状況を把握したレームが扉に目を向けると、そこには人程の背丈を持った赤い塊が佇んでいた。

「・・・お友達は全部喰っちまったよ。さて、あんたはどうしたい?」

塊はレームが最も恐れていた事象を、一切の慈悲もなく言い放った。
右手には外套と同じく返り血で真っ赤になった短機関銃の握把が握られており、銃身の放熱板からは水蒸気が発せられている。

「ひっ・・・。この、・・・化け物めェッ!」

レームは壁際へと後ずさりしながら、死に際の生体機関のような声で喚き散らした。

「傷つくなァ。どいつもこいつも柄が悪い・・・。」

リシェクは心から傷心したように呟きながら、ゆっくりとレームに歩み寄った。
カールの死体から流れ出た血を踏みながら、確実に足を進めてくる。

やがて1m程の間合いを開けたまま立ち止まり、煙立つ短機関銃の銃口をレームの額に押し付けた。
皮膚が焼ける芳ばしい匂いが辺りに立ち込め、襲撃者の長は苦悶の嗚咽を漏らした。

「・・・これが欲しいんだろ?」

やがてリシェクは左手でポケットから取り出した封筒を彼に見せつけた。
そのままその角でハンスの頬を軽く小突く。

「分かんねェな。何でボロ船と見返りに、このネタを売り払おうと思った?・・・もっとこう、あるだろ他に。やれることが。」

リシェクは怪訝そうな面持ちで彼の顔を覗き込んだ。
レームの目に何よりも印象を以て映ったのは眼前の男の顔に走る無数の縫合痕ではなく、その右目の周りに掘られた刺青であった。

「・・・分からんだろうな。帝国人の貴様に分る筈もない。大陸中から売られてきた私たちは、長いこと人非人の如く蔑まれてきた。・・・だが船さえあれば、この財産さえあれば!」

やがて演劇歌手のような調子で語り始めたレームの顔を、リシェクは無表情に見つめていた。
妙に貫禄のあるこの髭面の男が未亡人のように泣いている様は、余りにも悲壮感と混迷に満ちていたのだ。

「曲がっちまうよなァ、よく分かる。・・・あんたは勘違いしてる。俺も・・・」

「ハル!?」

突如聞こえたその素っ頓狂な声に対し、リシェクは入口へと振り向いた。

「・・・訳が分からん。何でお前が乗ってる?」

レームの顎を拳で小突き昏倒させると、リシェクは声の主へと歩み寄った。

「お前のクジも当たってたんだよ、ほら。」

バイマンは懐から取り出した入場券を事も無げに見せつけながら言った。

「そういうことじゃねェ。・・・お前、エルネスタはどうした?」

「あぁ、あの雌犬なら出て行っちま・・・」

リシェクは彼に最後まで語らせず、その腹に蹴りを入れた。
途端にクルカの如き勢いで吐瀉物を口から吹き出しながら、バイマンは身体を床へと倒れ込ませる。

「・・・すまん。悪かった。」

やがて震えながら言った彼の一物を蔑むように眺めながら、リシェクはその脇に屈んだ。

「お前の始末は後でつけてやる。今は忙しいからな。」

そしてバイマンの髪を苛立たし気に掴みながら言った。
一人の船員が廊下から此方を眺めながら、文字通り笑い転げているのが見えた。

「リシェク!」

部屋の隅から、ここ最近聞き続けたせいですっかり慣れ親しんでしまった声が聞こえた。
両手を結束帯で縛られたその男娼が、疲弊しきった顔で椅子に座らされていた。

「よく生きてたなァ・・・、全く。」

血に濡れた自らの胸の中に飛び込んできた男娼の肩を抱きながら、リシェクは安堵したように呟いた。
ふと足元を見やると、倒れたままのバイマンが此方を物欲しそうに眺めているのが確認できる。
彼にだけは、決してこの男娼の性別を伝えるまいとリシェクは決意した。

「・・・これは後でお前に返す。もう災難には懲りた。」

やがてリシェクはポケットを指差しながら男娼に囁いた。
生き延びられた事と、彼が生きていた事に対する余りに大きな安堵によるのだろう、男娼は何も答えることなくリシェクの腕の中で泣きじゃくっていた。

唐突に発生した途轍もなく大きな振動により、部屋にいた全員がその身を床に倒れ込ませた。
甲板で発生した爆発が、硝子越しの視界を眩く麻痺させる。
テーブルの上にあった書類や機材が床に散乱し、元々混乱を極めつつあった辺りの様相をさらに凄惨なものにした。

「左だァ!」

一人の船員の怒鳴り声を耳にし、リシェクは指定の方向に目を向けた。
いつの間に現れたのであろうか、一隻の重巡空艦が夕暮れの日を背景にして此方と並進しているのが見えた。
甲板の榴弾砲の砲口からは大量の黒煙が上がっており、今しがたの衝撃が自らによるものであることを主張していた。

「おい、まさかアレ・・・。」

僅かな錆も見られないほどに美しく磨かれたその船体を目にし、リシェクは思わず呟いた。
やがて垂直尾翼に大きく描かれた紋章が視界に入り、抱いた疑念が真実であることを認識する。

「ありゃ本物だ、近衛騎士団だ!」

何処からか上がったその声により、艦橋はさらに騒然となった。
甲板へと続く階段を一斉に駆け出す娼婦達、航空日誌等の記録を抹消しようと壁の棚を漁り始める船員達。
その混乱の中では、先程射殺された一人の襲撃者がその指を僅かに動かしたことなど誰一人気付きようがなかった。

「・・・分ってるな?弟の仇だ。」

その殺意に満ちた呟きすら、耳にした者はいなかった。
やがてその身を床から起こした男がリシェクに掴み掛った時、彼はまだ重巡を見つめながら呆然としていた。
対処を施す間隙もなく、その体は船窓へと叩きつけられる。

厚い硝子の割れる鈍い音と共に、リシェクは艦橋の外へと投げ出された。
そのまま15m程下の甲板に、肉の拉げる異様な音を伴って激しく打ち付けられる。

「もう嫌だ・・・。」

仰向けに倒れた彼の霞んだ視野に、自らを追って指揮所から飛び降りようとする影が映った。

「おっかねぇよォ・・・!」

神経が断裂したのであろう、左の義手の感覚がない。
やがて鬼の様な形相で此方へ落下してくるカールの顔が、妙に鮮明に脳内に飛び込んできた。

「糞ッ垂れ!」

渾身の力で体を転がした彼が一瞬前までいた甲板に、カールの短剣が深々と突き刺さる。
その間隙を見逃すほど、リシェクは間抜けではなかった。
素早く身を飛び上がらせ、復讐に燃える男の頬に右拳を叩き込む。
カールの巨大な体躯が艦橋の装甲に激突し、金属的な空洞音が轟いた。

リシェクの指を覆っていた人工皮膚が剥がれ、鈍色の外骨格がそこから顔を出す。
明確な殺意を伴って殴打したにも関わらず、相手の頭蓋骨を砕いた手応えがない。

その疑念の答えは此方を睨みつけるカールの顔面に表れていた。
リシェクの義手とほぼ同じような様相で、破れた皮膚の下から明らかにヒトのものではない頬骨が露になっている。

「地獄に送ってやる・・・。」

低く獰猛な呟きが、その生体強化兵の口から発せられた。
やがて何事もなかったかのように態勢を整えると、カールは相手の腹に短剣を叩き込もうと接近を始めた。
どうにか身を捩ってその切先を躱したリシェクであったが、次に彼の目に映ったのは此方へ繰り出される半長靴の爪先であった。

内側に鉄を仕込まれたそれが、彼の左の義眼を粉砕する。
薄い金属の外郭が潰れる音と共に、意識を失いかねない程の激痛がリシェクを襲った。

「おあァッ!!糞ッ!!」

視界が狭まり、残された生来の右目だけが辛うじて機能を続ける。
足元をふら付かせながら立ち上がったリシェクの首を、カールは巨大な右手によって締め上げた。

意識が混濁し、聞こえていた船の生体音も徐々にくぐもった遠いものになる。
もはや打開策は尽きたという絶望的な結論が脳内を駆け巡った。

しかし、自らの頸動脈を握り締めているこの男の手が確かな温もりを伴っていることを認識し、彼はその考えを改めた。
生体義手が発する熱は人の体温よりもずっと低い。
それにも関わらず自分が感じているこの感覚は、この男の右腕が生身のものであることを確かに示していた。

「・・・野郎、殺してやる!叩き殺して、喰ってやる!」

やがて声帯から暴言を絞り出しながら、リシェクは左手で男の肘を掴んだ。
そのまま親指に途轍もない力を込め、その関節を粉砕する。

眉一つ動かさなかったカールの顔から察するに痛みは制御されていたのであろうが、彼は運動神経の麻痺によって込めていた力を緩めてしまった。
身体の自由を取り戻したリシェクは、間髪を入れずに相手の懐に身を潜り込ませた。
そのまま傍にあった木箱の群れへとカールの身体を押し倒す。

「弟のッ!悲鳴はッ!ちゃんと聞こえたか、あァ!?」

割れた木箱から飛び出した内燃機関にカールの頭を何度も打ち付けながら、リシェクは怒鳴り散らした。
殺意には殺意を以て対処しなければ、ツケを払うことになるのは他でもない自分自身である。
リシェクが自らの惨めな人生の中で見出した持論であり、それに従って生きてきたが為に今がある。

意趣返しという訳か、やがて彼は動きを止めたカールの首に脇にあった鎖を巻きつけた。
相手の手が、自らの腰に吊っていた銃剣に伸びた事には気付かなかった。

「この、・・・人でなしがァッ!」

気を緩めつつあったリシェクの脇腹に、カールは相手から奪った得物を深々と突き刺した。
刺突には弱いという生体装甲の特徴を熟知していた為、その動きは一切の迷いもない明確なものであった。

相手の口から垂れた血が自らの額に滴る。
その不快感を表情に露骨に示しながら、カールは自分の腹の上で蹲るリシェクの身体を引き剥がした。
やがて徐に立ち上がり、倒れたままの相手の背中を思い切り蹴り飛ばした。

甲板の端まで転がったリシェクは、あわや下界に転落する寸前で柵の足に手を伸ばすことに成功した。
必死にそれを握り締めることで一応の延命には成功したが、もはや船の端からぶら下がるような様になった自分に勝機があるとは到底思えなかった。
光の灯らない右の瞳で、自らの死となるであろう鬼が此方へ歩みを進めてくるのを眺めている事しかできない。
視界の片隅には、200m程下で優雅に広がる海面があった。

唐突に発せられた連続した発砲音が辺りに響く。
カールは自らの足元で跳ねた無数の小銃弾に対し、先程リシェクと揉みあった木箱の群れの陰に滑り込むことで掩蔽しようとした。


「何やってる!?この近さで当たらんのか!?」

指揮所の割れた船窓から小銃を突き出すバイマンの傍らで、船員が野次を飛ばした。

「うるせェ!ハジキは苦手なんだよ!」

慣れない手つきで弾倉を交換しながら、バイマンは彼に怒鳴り返した。


もはや思考を止めていたリシェクの目に、一筋の太く黒い線が映った。
よく確認すると、それが甲板の向こうから伸びている排水用の溝であることが分かった。
それが自らの目の前まで、何らかの液体を流している。

やがて先程の取っ組み合いの記憶を辿り始める。
自らが相手の頭を叩きつけた金属塊。
改めてその造形を脳裏に浮かべ、彼は思わず笑いだした。


カールは懐に予備の小型拳銃を携えていたことを思い出し、すかさずそれを手に取った。
そのまま頭だけを陰から出して先程の銃撃の源を確認する。
やがて船窓の奥へ照星を重ね、発砲を始めた。


自らが煙草を嗜むことに、これ程感謝したことは無い。

「ざまァ見やがれ、ロクでなしめ。」

リシェクは興奮気味に呟きながら、懐から軍用ライターを取り出した。
そのまま火打石を親指で回して点火する。
そして名残惜しそうに表面の彫刻を撫でると、それを先程の溝の中に放り込んだ。


カールは弟の仇のいる辺りから此方へまっすぐに走ってくる炎の線を認識できないでいた。
彼がもう一度船窓に応射しようと身を起こした時、それは掩蔽に使っていた木箱の群れに到達する。
散乱していた内燃機関の燃料缶に、炎は一切の矛盾なく猛烈な熱を与えた。

巨大な火球が艦橋の真下の甲板を覆い、途轍もない轟音と共に辺りの物を着火させる。
それはカールの身体も例外ではなく、彼は文字通り火達磨になりながら炎の中を転げ回った。

「・・・水。」

焼け爛れた声帯から思わず漏れた単語の通り、彼は自らの身をあらゆる意味で楽にしてくれる液体を求め始めた。
このような容貌になってまで正常な思考を継続できる人間は存在しない。
例え体中を改造されていようとも、カールもまたその端くれであることには変わりなかった。
やがてゆっくりと身を起こすと、銃剣突撃でもかますような勢いで甲板の端に向け走り出した。

自らの脇を擦り抜けるようにして下界へ飛び込んでいった火の塊が視界の中で小さくなるのを、リシェクは疲労と達成感の混沌といった顔で眺めていた。

暫くの事、魅入るように夕日に映える海面を眺めていたが、やがて飽きたのであろうか視線を上に戻す。
そのままようやくの思いで体を甲板の上へと持ち上げ終えると、力尽きたかのように大の字に寝転んだ。

いつの間に飛んできたのであろうか、重巡の艦載艇であろう汎用戦闘艇が「夜伽戦艦」の全部甲板に着陸脚を降ろしているのが見えた。
遠目ではその細部は確認できなかったものの、妙に細いシルエットをした兵士たちが縦列を組んで此方へ駆けてくる。

「家に帰りてェ・・・。」

呟く彼の耳にはもはや周囲の喧騒はまるで届いておらず、その感覚域は余りにも穏やかで儚いものであった。


日は殆ど水平線の彼方に沈もうとしていた。

混乱を生き延びた船員の生き残りや娼婦達が、“本物の”近衛騎士団の兵士達によって甲板に集められる。
「夜伽戦艦」の左舷には例の重巡が簡易の船橋によって接舷していた。

哀れな事情によって乗船させられていた娼婦達は、名状し難い開放感をそれぞれの疲れた顔に浮かべている。
己の行く末への不安であろうか、力なく目を伏せたまま整列させられている船員達とは余りにも対照的である。
彼女らと同様に致し方ない事情で乗っていたとはいえ、その違法性を認知したうえで勤務していたのであるから無理もない。

煤で汚れた艦橋の装甲に背中を預けるようにして、リシェクは甲板に腰を下ろしていた。
脇腹の血はどうにか止めることに成功したが、まだ体は思うように動こうとしない。

群衆の中にいたバイマンが此方に気付き、男娼を連れて駆け寄ってくるのが見えた。

「おい、生きてるか?」

己の血溜まりの中に尻を着けて座っているリシェクを眺めながら、彼は若干の慮りが感じられる声で言った。
男娼は傍らに膝を付き、血塗れの兵士の傷を心配そうに確認し始めた。

「・・・どうにかな。お前、その洋袴何処で?」

何処かで見た覚えのある下衣を穿いたバイマンの様を見て、リシェクは訝し気に尋ねた。

「あの変態から拝借したんだよ。」

得意気に言う彼の指差す先には、下半身を暴露させながら連行されてゆくレームの姿があった。
鎮静剤か何かを打たれたのであろう、その口からは涎が絶え間なく溢れ出ており、瞳はまるで焦点が合っていなかった。
その腕を引く女性兵士の表情には、彼に対する生理的な嫌悪感が余りにも色濃く溢れ出ている。

「・・・バルテルスとかいう貴族が雇い主だって話だが、結局何がしたかったんだろうな。」

バイマンはリシェクに向き直り、覚えたての単語を用いながら語った。

「それ何処で聞いたんだよ?」

リシェクは真っ先に浮かんだ疑問を投げ掛けた。

「仲良くなった兵隊の姉ェちゃんに聞いたのさ。・・・んで、そこの領主を問い詰めても何も出なかったってよ。」

近衛騎士団の二個分隊がこの船に展開を始めて二時間も経過していない。
一体どの間隙を以てこの男はその兵士とそこまで親睦を深めたのであろうか。
この毒にも薬にもなる妙な能力を持つ事こそが、リシェクが彼を“淋菌野郎”と蔑称する所以である。

体制転覆を目論んだ張本人達が、御上に堂々とそれを吐く筈もない。
レームを始めとするあの哀れな傭兵達は、その貴族共に所謂“蜥蜴の尻尾”とされた訳である。
自分で皆殺しにしておきながら、リシェクは彼らの境遇を憐れまずにはいられなかった。

「しかし、・・・何だって連中はこの子にエラく執着したんだろうな、ねぇ?」

傍らにいる男娼の顔色を伺いながら言うバイマンの様子から察するに、彼はまだその下の秘密に気付いていないらしい。
同様に、彼が抱える“より重大な秘匿”にも関知していない様子である。

「・・・知らねェよ。」

そう曖昧に返しながら、リシェクは真意を悟られないよう努めながら外套のポケットをまさぐった。
この凄惨な案件の要因となった罪深い網膜版が消えていないことを確認し、リシェクは小さく男娼に頷いて見せた。

「ハル・リシェク・マクラル元伍長、特殊陸戦群第二収集小隊。・・・間違いないな?」

唐突に響いた威圧的な声の主を探し、三人は一斉に艦橋の方向へと目を向けた。
妖艶さの権化とも言うべきタイトな紅の制服を纏った女性将校が、此方へ歩みを進めているのが見えた。
腰に吊られた軍刀が、夕日にその鞘を鈍く輝かせている。

リシェクは何も答えなかったが、将校は満身創痍の彼の様を見て何かを確信したようであった。
そのまま左手で持っていた一枚の高級紙に目を通す。

「たった今、貴様は第一級外患誘致罪の疑いで国賊に指定された。傷が痛むのは分かるが、我々に同行してもらおう。」

そして何の感情も籠められていない極めて事務的な声で言い放った。

「・・・どっかで聞いた単語だな。クソみてェな響きだ。」

リシェクは将校と同様の調子で、無表情に呟いた。
疑いようもなく、男娼の父親が言い渡された罪状と同じものである。

「馬鹿言っちゃいけねェよ、あんた。・・・こいつは糞野郎だが国を売る程の頭は無い!」

「・・・そうです、何かの間違いです!」

数秒の間ただ茫然と話を聞いていた二人が、ようやく把握した状況に必死に抗おうと言葉を紡ぎ始めた。

「君達は・・・、罪に問われることもないだろう。だが、この男に肩入れするのなら話は別だ。」

発音の端々に戦慄を覚えるような色を示しながら発された将校の言葉に対し、バイマンと男娼はただ口を噤むことしか出来なくなった。
背後に一人の部下も伴っていなかったにも関わらず、将校の纏う空気は余りにも闇に満ちており、さながら伝承の死神に通じる何かを感じさせたのだ。

「・・・まぁイイ、一つだけ教えろ。俺を売ったのは何処のどいつだ?」

リシェクは己の抱く悲痛と絶望を極力表さないよう努めながら、まるで今晩の献立でも聞くような調子で尋ねた。

「言える訳がなかろう。・・・戯言はここまでにして、さっさと立て。」

如何なる心境だったのかは定かではないが、リシェクは暫く俯いたまま動こうとはしなかった。

「・・・だろうな。当然だ。」

今や己が体制への最大の脅威となったことを知る者は、彼が男娼と何らかの関係を持ったことを知る人間に限られる。
当て嵌まる候補としては、昼の襲撃で死に絶えてしまった娼館階層の船員達しか浮かんでこない。
リシェクはここで自分の脳の回転の鈍さに苛立った。

事実は想像よりも何倍も馬鹿らしく、また残酷である。
それはこの人生で何度も学んだことではないか。
十中八九、この近衛騎士団の中に皇室の使いが紛れ込んでいるのであろう。
それは将校が先程発した“たった今”という言葉からも推察できる。

一度ツキに見放されたら最後、惨めに死ぬしか道は残されない。
疲弊した思考で見出した新たな持論を頭の中で噛み締めながら、リシェクはゆっくりと立ち上がった。


この二隻の船を取り巻く思絡みなどは気にも留めないように、青紫色となった空が神々しく此方を見下ろしている。
目の前にある金属製の船橋が、重巡の側面の通用口へと続いていた。
三途の川を渡る死者は、恐らく今の自らに通じるような心持になるのであろう。
リシェクはそう意味もない空想を続けながら、ふと左へと目をやった。

死んだ飼いクルカを前にしたかのような悲痛な表情で此方を見つめている男娼の姿がまず視界に入った。
その傍らでは、同様に何かに苛まれた様子のバイマンが頻りに眉間を指圧している。

地獄への船出を見送ってくれる者が二人も居てくれるだけ、幸せなのかもしれない。
背中を銃床で小突いた兵士に従い、リシェクは船橋を渡り始めようとした。

「あっ、あそこ!クルカマン!」

唐突に響いた男娼の声に吸い寄せられるようにして、その場にいた全員が彼の指差す方向へ視線を移した。
リシェクもまた例外ではなく、北の空を必死に凝視する。
巧みに人目の間隙を突いた男娼が、背後から自らに駆け寄っていることなど気付く筈もなかった。

男娼は渾身の力を込めて、リシェクの身体を突き飛ばした。
元々の疲労に両手を拘束されていたことが重なり、彼は成す術もなく船橋の足場から足を滑らせた。
余りにも低く作られた手摺は、もはや何の意味も成していなかった。

「・・・助かる。」

自らの置かれた状況を全く把握できていなかったリシェクの口から発せられたのは、まるでこの場に似つかわしくない譫言のようなものであった。
ただ男娼のその行為に敵意がなく、自らを案じてやってくれたものであることを直感的に感じ取ったのであろう。
やがて、これまで経験したことのない程に強烈で不快な浮遊感を脊髄に走らせながら、彼はその身を下界へと吸い込ませていった。


「何ということを・・・。気持ちは分かるが、何もこの場で殺すことはなかろう。」

手摺から身を乗り出して海面を凝視しながら、将校は困惑を隠せない声色で言った。
自らの行為の伴う重大さに気付いたのであろう、男娼は船橋の上で震えながら蹲っていた。

「・・・しッ、信じてください!あいつは私にとんでもない事ばかりしたんです!」

そして取敢えずこの場を乗り切るための虚語を思いつき、彼は将校の外套の裾に縋りつくようにして喚き始めた。

「分かった・・・。私にも似た経験がある。どうにかして君の立場は守り抜く、安心して。」

やがて将校は悲哀をありありと浮かべた顔で男娼を見据えた。

「・・・何てこった。」

泣き腫らした目を見開きながら、バイマンは思わず呟いた。
周りの兵士達も同様に、只々狼狽しながら各々の処理に努める外は無かった。


リシェクが岸まで辿り着いた時、空では二つの月が眩く輝いていた。
損傷箇所から入った海水のせいであろう、いつの間にか動かなくなった右脚を引き摺りながら、ようやくの思いで岩の上へと這っていく。
「夜伽戦艦」の飛行経路など頭に入っていなかった為、此処が一体何処であるのか全く見当は付かなかった。

取敢えずは生き延びられたという楽観的な歓びと、もはや合法的な居場所は失ったという絶望が、機能を停止しつつあった脳の中で忙しなく飛び回っていた。
あわや意識を失おうとしたその時、リシェクはある重大な事象を忘れていることに気付く。
慌てて外套のポケットに手を突っ込もうとして、彼はただ絶句した。

いつだったか明確には思い出せないが、確かに海中でそれを脱ぎ捨ててしまった記憶があった。
表現以上の意味で疲れ切っていた体では、水を吸って重くなった外套は余りにも負担だったのである。
危険と栄光を天秤に掛ける程の判断能力を持ち合わせていた筈もない。

「・・・短ェ夢だったな。」

始めこそただ失望していたが、やがてリシェクはこの事態に対しある種の高揚感を得るに至った。
身の丈に応じた幸福だけに身を任せて生きていくのも、中々小気味よい人生かもしれない。
冷えた岩からもたらされる柔らかな摩擦と、死を匂わせる程に強烈な睡魔に身を任せながら、やがて彼は心身の動きを止めた。


「おい、あんた。・・・生きてるのか?」

右の瞼を開けると、此方を怪訝そうに眺めている髭面がまず目に入った。
既に砂嵐は去ってくれたようであり、先程までは拝めなかった蒼天が顔を覗かせている。

「・・・喉が渇いた。」

声帯の再調整が早急に必要である。
ようやく絞り出した声は自分でも把握できる程に掠れ切ったものであり、会話に用いるのは余りにも向かないものであった。

「ほら、ゆっくり飲め。」

髭面の男は腰に吊っていた水袋の口をリシェクの唇に宛がった。
未だかつてこれ程に美味い液体を口にしたことがあったであろうか。

喉を鳴らしながら水を胃に流し込む彼の脳裏に、一月前に焼き殺した兵士の今際の言葉がよぎる。
奴も身の振り様にもう少し気を遣えば、あのような死に方をせずに済んだであろう。
世の不条理に考えが及んだところで顔をしかめ、彼は思考の対象を現在の自分へと向け直した。

故郷を求めて荒野を彷徨うこと十日。
リシェクは徐に砂から体を起こし、男の顔に目を遣った。

「・・・ストラテの村はまだ遠いのか?」

そして南パンノニアへの道標となる村の名前を口にした。

「あんた何言ってやがる?・・・南パは遥か彼方だぞ。」

男の口から、これ以上ない程に不穏な回答が発せられた。

「はァ?・・・じゃあ此処は何処だってんだよ?」

猜疑心の中に狼狽が混じった震える声で、リシェクは再び尋ねた。

「・・・ノスギアの麓、化け物共の巣窟から50kmも離れてねェ所だよ。」

リシェクは思わずポケットに入れていた地図を取り出した。
元の所有者であるバイマンが書き加えた注釈が、至る所に並んでいる。
大方、彼の汚い字を何処かで読み違えたまま歩き続けてしまったのであろう。
リシェクは己の迂闊さに苛立たずにはいられなかった。

「俺だってこんな所に人がいるたァ思わんからな。上からあんたが見えた時は驚いたよ。」

髭面の男は15m程先で着陸脚を伸ばしている一隻の強襲艇を指差しながら言った。
改めて見てみると、確かに男は操舵手が好んで着る飛行服に身を包んでいた。

「・・・あんたは何モンなんだ?」

警戒心を隠すことも無く、リシェクは腰の銃剣に手を添えながら男の顔を見据えた。
その年季の入った風である強襲艇の船体には、標章と呼べるものは何一つ見当たらない。
先の一件から、リシェクは所属が示されていない航空機に対して猛烈な拒否感を示すようになっていたのである。

「落ち着けよ、兵隊さん。・・・俺はその、狩人みたいなもんだ。旧時代の化け物を殺して稼いでる。」

「一人で、か?」

「おうよ。俺は人を信用できねェ。・・・あんたも同様だ。手前、旧兵器じゃねェのか?」

男はリシェクの外套から覗く外骨格を訝し気に眺めながら言い放った。

「うるせェ、・・・次に同じこと言ったら口を縫い合わすぞ。」

そう不機嫌そうに答えた彼の言葉に対し、男はさも愉快そうに笑い始めた。

「・・・へへ、確かに化け物はそんな汚ねェ言葉吐かないもんな。」

そして涙を拭きながら満足気に言った。

「これからどうするんだ?俺を置いたままその、・・・何だ、狩りに行っちまうのか?」

リシェクは尚も笑いの余韻に浸っている男に対し、ばつが悪そうに尋ねた。

「そうだな。・・・確かにあんたを化け物の餌にするのは勿体ねェ。」

何かを思案するように呟きながら、男は自分の強襲艇へと歩み寄っていった。
そして船の側面にあるハッチを開き、半ばそこに潜り込むようにして中を漁り始める。

「・・・おっ、あった。おい、兵隊さん。あんたならこいつもぶっ放せるな?」

そして一丁の重機関銃を引っ張り出しながら言った。

「おいおい・・・。俺に何をさせようってんだよ。」

明らかに整備の行き届いていないその巨大な得物を眺めながら、リシェクは男に尋ねた。

「里の連中の話が正しけりゃ、この辺りに“アーガイル”って化け物が出るらしい。何でもクソデカいって話でな。」

「・・・それをこのポンコツで狩るとでも?」

「勿論だ。・・・報酬はいつもの倍だからな。うまくいったら分け前を少しやるよ。」

自殺行為としか表現しようのない男の愚行に対し、リシェクはただ大きく溜息を吐くことしか出来なかった。
だが改めて考えて直してみると、それは己の生きてきた道そのものではなかろうか。
嬉々として計画を話す男の言葉に耳を傾けている内に、リシェクは我が家に戻ったかのような安心感を覚え始めた。

土産話の種としては最適かもしれない。
例によって偏屈な価値観によって導き出した答えを胸に、リシェクは機銃を銃架へと載せる作業に取り掛かる。

照りつける太陽を覆い隠すようにして、先程の砂塵が再び空へと舞い上がり始めた。

 

 

 

 

最終更新:2017年05月13日 14:56