イーノック・ガルボの音声記録

「マイク・ラッド、録音を開始します」


「一日目」


「あの、ご休憩のところすみません」
なんだお前は、どこから入ってきた。
「私は西キタラギ出版のマイクといいます」
そんなことを聞いているんじゃない。身分証明書と許可証をよこせ。
「あ、身分証と許可証はこれになります。どうぞ」
ふん、確認がとれるまで動くなよ。
「いやぁ、手荒い歓迎ですね」
監視を付けないで動き回る記者は、ここでは銃殺されても文句は言えんぞ。
「あぁ、その件なのですけれどね」
大方、帝国軍のスパイか迷子といったところだろうな。
「そうなのですよ、人に会えてよかった。もう少しで野生動物に噛み付かれてしまうところでした」
スパイの可能性を否定しない辺り、変な所で肝が据わっているな。
「新聞記者はスパイみたいなものですよ」
それもそうか。……よし、確認できた。お前は記者最終組のマイク・ラッドだろう。
「最終組と言われるのは心外ですが、たしかに私はマイク・ラッドです」
それならいい。早く基地へ急ぐぞ。お前が失踪したせいで、軍による暗殺なんて言われちゃかなわないからな。
「はい、すぐに、と言いたいのですけれど、少し休ませていただけませんか。密林の中を歩いてきて、その……」
ヘトヘトだって言いたいのか。
「そうなのです、人に会えた嬉しさで、心がゆるんでしまいました」
そうか、……好きにしろ。急いでいるわけじゃないからな。


ところでお前。
「マイクです。マイク・ラッド」
お前でも構わないだろう。お前を基地に送り届けるまでの関係だ。
「あなたにも名前があるでしょう、お互い名前で呼び合いましょうよ」
なぜ俺がお前と親しくする必要がある。
「それはですね、私はこれからあなたを取材することに決めたからです」
……それは、なにか特別な権限があって言っているんだろうな。
「いえ、私にはそんな権限も、権限をもらうコネもありませんよ」
じゃあ、勝手なことを言うな。
「勝手なお願いだというのは重々分かっているのですけれど、こうでもしないと、私がここで取材なんてできないのですよ」
新聞記者なのに取材ができないとはどういうことだ。
「それがですね。……私、恥ずかしながら最終組でしょう」
……俺にはそこで恥ずかしがる感性が分からないがな。
「わが国の最北にあるキタラギから来たという地理的な距離もありましてね、私がこの湿地帯に到着するのは最後になってしまったのです」
それは知っている。それはお前の新聞社の名前から察することができる。
「それで、食べ物と違って情報は足が早い方がいいというのが新聞記者のモットーでして」
情報の方が腐るとでも言いたげだな。
「腐りはしませんけれど、価値が下がってしまうのですよ。それを防ぐために、ここカノッサ湿地帯に急行したのです」
……その結果が、これか。
「恥ずかしながら。しかし、私はこれを絶妙な神の采配だと思っています」
それで、神がお前をこんな苦境に立たせたと言いたいのか。
「違います。……新聞記者にはコネもいるのですが。……私には、残念ながらそれがないのです」
そりゃあ、コネがあれば勲章のいっぱい付いた奴らの取材もできて、裏話も聞けるだろうな。
「新聞に載りたい軍人さんもたくさんいるせいで、いえ、おかげで私が基地にたどりついても、有力な方にはすでにお付きの記者がたくさんついていると思うのです」
……たしかに、今から行っても変なやつしか捕まらないだろうな。
「7年前の装甲歩兵師団の出陣式を覚えていますか。私はあの時も前線とコネがなかったせいで、事態が収束した後の後片付けを取材するしかなかったのです」
後で奴らに聞けばよかっただろう、そこら辺の奴ならいつでも聞けるだろうし。
「後から聞いて書いても売れないので」
……そうかい、あの時の装甲歩兵師団のことなら最前列で見てたもんで、小銭でも稼ごうかと思ったんだが。それで、どうして俺の取材をする気になったんだ。
「率直に言うなら、あなたは変な軍人さんの中でも、特に変だからです」
……初対面の人間に変とは――。
「あなたが神聖ミテルヴィア国訛りのメル=パゼル語を話していなければ、私は興味を持たなかったと思います」
……目端が利くやつだな。……新聞記者に言うと、誉め言葉になるかな。
「それに、あなたの軍服の痛みと汚れが、戦士のそれではなかったのです」
膝が汚れることを嫌う軍人とは違って、膝を付ける仕事をしている人間、と考えているんだろう。
「そうです。それは、私の知るかぎり、外で活動している。土と石を扱う学者のそれです」
……こりゃ参った。お前はスパイ顔負けだな。
「意外性ならここにいる誰よりも負けないのではないかと思います。どうでしょう、私にあなたを取材させていただけませんか」
新聞記者よりも宣教師になったらどうだ。そっちのほうが食えると思うぜ。
「お返事は」
分ったよ、いいだろう。だが、俺がやるのは、お前が言ったように土いじりだ。それを手伝ってもらうぞ。交換条件だ。
「ええ、喜んで」
……お前も新聞記者にしては根性のある変人だな。
「変人ではないのです。新聞が売れないと自然にこうなってしまうのです」
イーノック・ガルボだ。
「え、それは――」
俺の名前だ。
「はい、よろしくお願いします。イーノックさん」
……ガルボでいい。


一つ言っておくことがある。
「なんでしょうか」
これから基地に入るが、気分を悪くするなよ。
「それは、環境が劣悪ということでしょうか」
ある意味ではそうだな。じきに分かる。

「おい、学者サマのお帰りだぜ」
「新しい肥溜めでも見つけたのかい!」
「他の先生方はとっくに論文のネタを見つけてるぜ!」」
……こういうことだ。覚悟しとけ
「……分かりました、でもなぜなのですか」
……俺が奴らと違うからだ。
「……ミテルヴィアンだからですか」
「やい、数合わせの給料泥棒!」
……馬鹿を言うな。俺がそんなに信心深そうに見えるか。
「……歩いているときに、雲間にスカイバードを見つけて、歩きながら胸に手を当てていらしたので」
……よく観察しているな。これが終わったら修道士にでもなってみるかな。
「……それで、真相はどうなのですか」
……まったく違う。

「これはこれは、数合わせのイーノック君ではないか」
どうも……、こんにちは。
「それで、なにか新しい発見はありましたかな。……まぁ、あなたの曇った目では宝の山もただのゴミの塊に見えてしまうでしょうがね」
はぁ……、そうですね。
ところで、基地を出て右の方に行くと川の曲がり角がありますよね。あの辺りの下の岩場にそれらしいものがありましたよ。あなたの研究が進むと思うんですけど。
「なに、……よくやったイーノック君!皆、さっそく行くぞ!」

なぁ、お前は学者の取材がしたかったんだったか。
「私は軍人さんの取材なので彼らは関門外です」
そうか、だが、軍人はもっと荒んでいるぞ。
「最初の彼らのようにですか」
そうだ、彼らのように。
「……それでも、同業者は何人もいますね」
こんなところで軍人についていっても、なにもありはしないというのにな。
「なにもないのですか」
そうだ、ここで奴らがやっているのは、今のところ地質調査だけだ。戦争が起こることもない。帝国軍が来たりしなければな。
「彼らならきっと奮闘してくれるとは思うのですけれど」
……帝国軍が来たら、こいつらじゃ空から一方的に打たれて終わりさ。
「密林の湿地帯を調査しているのは、そういう関係なのでしょうか」
奴らとしては、ここに最新鋭の高射砲を据えて、洞窟のいたるところに弾薬を隠しておきたいんだろうな。これは冗談だが、川でも漁って砂金で儲けようとしているのかもしれん。
「どちらにしても、なんとも壮大な計画ですね」
アーキル……今は連邦か、それとの合同調査だからな、いつかはここを戦場にして、陸軍がせいぜい華々しく戦う日が来るだろう。
「それでは学者が付いてくるようなことはないと思うのですが」
最近手に入れた土地だからな。どこかに壊れた旧兵器や旧文明遺跡でもあると思っているんだろう。実際にいくつかの学者は見つけたみたいだしな。
「はぁ、そうなのですか。それでは、今回は軍人さんよりも、学者に付いている記者に軍配が上がりそうですね」
お前はどっちだろうな。
「あなた次第といったところでしょうか」
いいところがあればいいんだがな。それじゃあ、補給所で荷物を受領してから出かけるか。お前、野宿の経験はどうだ。
「もちろんありますとも。でも、お前と呼ぶのは直らないのですね」
……いつからそうだったかな。
「最初からですよ、あなたの癖みたいですから、それは諦めます」
すまないな。
「いいのですよ、イーノックさん」
う、……そうだな、マイク。


「野宿とは聞いていましたけれど、こんな大荷物を背負って、どこまで行くつもりなのですか」
当分は基地に帰らないからな。長くて六日だ、辛抱しろ。
「そんな、聞いていませんよ」
……できないのか。
「できます。やります。もう……。そのかわりなのですけれど」
なんだ。
「あなたがこれからすることと、あなたについて、六日間で教えてくれませんか」
俺のすることでは飽きたらず、俺のことまで書くのか。
「そのくらいはしてもいいと、私は思っています。ある意味博打なのですからね、素性の分からないあなたが、他の学者から卑下されるなにかをしているということを取材しているのですから」
好きで付いてきたのはお前だろう。
「ですが、あなたはなにか、調査や発表の行き先に困っているような雰囲気があります」
……だから、どうした。
「私が取材して、それが世に認められれば、あなたは一躍有名人になります」
……口がうまい変人だな、お前。
「マイクです」
なんにしろ、新聞記者のお前が、売れなさそうなネタに噛り付くなんて変人に違いはない。
「株は安いうちに買うのと同じです、もし当たれば私、マイク・ラッドはその第一人者です」
そうだな、マイク。じゃあ、俺に付いてきて、ついでに、俺の独り言を聞いてくれ。
「喜んで」


今日はここで野営をするぞ。
「……やっとですか。日が落ちきる直前まで移動するとは思いませんでした」
明日からは移動の心配はしなくていいぞ。この付近で調査をするからな。
「明日もこれが続いたらどうなるかと思いました」
明日も、歩き回ることには変わりないからな。
「……お手柔らかにお願いします」

「お食事中失礼なのですが、質問をよろしいですか」
……なんだ。
「はい、単刀直入に、数合わせとはなんでしょうか」
……基地でのあれか。
「はい、もしよろしければ、教えていただけませんか」
……俺にとってはつまらんことだが、新聞記者にとってはいいネタになるだろうな。
「それは、やはり派閥争いかなにかでしょうか」
……いや、俺だけが奴らから弾かれているだけだ。
「あなたが特異だからでしょうか」
……たしかに特異だ。俺は考古学者ではないからな。
「では、地質学者か、植物学者でしょうか」
半分はその系統だ。もう半分は……、俺は人類文化学者だ。
「……その、すみません。私にはあまり聞きなれない言葉ですね」
……誰にも聞きなれない言葉なのは俺が一番よく分かっている。
「その、それであなたはなにをされているのでしょうか」
同じだ。土を掘ったり、岩をどけたりして、出てきたものを調べるのさ。
「目的が違うために、あなたはその、考古学者から弾かれているのですか」
そうだ、時代遅れのことをしているからな。
「……なにを探しているのですか」
かみさまだよ。
「かみさま、ですか。それはまた……」
失望したか。
「いえ、無謀と時代遅れは違うものだと思います」
俺が狂人ではない方に賭けているのか。
「博打と違って、あなたからは展望が見えます」
……今度は占い師か。
「いえ、カノッサ湿地帯の西の端にまで来たのは、なにか理由があるのだろうという判断です」
……そうだ。かみさまについて心当たりがあるから、ここに来ている。
「では、その――」
熱くなるな、飯が冷えるぞ。
「あ、はい」

……数合わせというのはな。
「はい」
アーキル連邦との合同調査というのはさっき聞いただろう。
「陸軍が主体になっているとも」
アーキルの奴らはな、メル=パゼル共和国の通信技術を欲しがったんだ。
「……この密林でも意思疎通をとれるようにでしょうか」
そうだ。そこをついてメル=パゼルは調査の枠をアーキルに譲歩させた。メル=パゼルはこの未開拓の土地から考古学者が旧文明のなにかを掘り出してくることに期待している。
「それが、こんな密林に考古学者の集団がたむろしている原因でしょうか」
そうだ。もし世紀の大発見でもすれば、その学者の研究所ごと国が抱えるくらいには、共和国は旧文明のなにかしらに飢えている。
「それは、素晴らしいですね」
……だがな、考古学者の数が足りなかった。
「それは、わが国が学者の調達に失敗したということでしょうか」
……それは違う。なにもメル=パゼルが欲張ったわけじゃない。アーキルが一枚上手だったんだ。
「というと」
アーキルの奴らは、メル=パゼルにたいして派遣枠を予定以上に譲歩した。そのかわり、発掘した技術についての共同研究を持ちかけたんだ。
「……それは、わが国に土を掘らせるだけして、アーキル連邦は上がりをかすめるということと、同質なのではないでしょうか」
そうだ。だが、メル=パゼルは帝国を恐れている。だが肝心の技術がない。……そんな目をするな。旧文明由来の、超技術に関する知見がないだけだ。
「それと共同研究がどのような意味を持つのでしょうか」
いくら学者や研究者がいると言っても、量では圧倒的にアーキルに劣る。それを解消するために研究をアーキルに委託し、その成果をかすめとるのが共和国の目的だと、俺は思う。
「つまり、アーキル連邦はわが国に土を掘らせて、わが国は出土したものをアーキル連邦に解析させて技術を得るということなのでしょうか」
……うまい話に思えるだろう。
「実際にいい話に思えますが」
落とし穴があってな。アーキルは、メル=パゼルに学者が揃っていないことを知っていて、あえて枠を明け渡したのではないかと思う。そこで学者が揃わなければ、メル=パゼルの面子は丸つぶれだ。
「アーキル連邦に枠を譲歩させたのに、肝心の学者が揃いません、では、格好がつきませんね」
そこで、メル=パゼルは学者を片っ端から集めて、まとめてこの密林に放りこんだのさ、
「相性を考えずにですか」
……そうだ。それに、俺がやっていることは、世のためにはならないからな。
「それで、数合わせの無駄飯食いと呼ばれているのですね」
さっき言われたのは給料泥棒だった気がするがな。まあいい、理解できたか。
「はい、それはもう。……ただ、あなたが人類文化学者としてなにを探しているのかは、はぐらかされたままですがね」
それは……もう火が消える。明日にしよう。
「はい、お疲れ様です」
たしかに疲れたな……。


「二日目」


「おはようございます」
……お前は早起きだな。まだ日が出ていないぞ。
「密林ですから木に隠れているだけですよ。ちゃんと空は白んでいます」
……もう少し休ませろ。
「分かりました、火と水の用意をしてきますね」
……お前が薪を持って帰ってくる頃には起きている。
「ごゆっくりどうぞ」

朝にしては豪勢な薪の量だな。
「おはようございます。少ないよりはいいかと思いまして」
……十分だ。
「では、水豆の缶を火にかけますね」
ああ、たのむ。……ところで、お前はどうやってここまで来たんだ。
「私が迷子になるまでの経緯でしょうか」
どうやったら迷子になれるのか気になってな。
「……私が記者の最終組だということは知っていますよね」
まさか、周りを出し抜こうとして最短距離を通ったのか。
「今では無謀だったと自省する次第です」
……普通なら、メル=パゼルの南にあるカドラン辺りから西ヒグラート辺りを通って、カノッサ湿地帯の入り口であるクリィトに着くと思うのだが。
「私はカドランから、南のグランパルエ川まで出て、川を辿って東へ行きました。」
なるほど、川を渡ったんだな。
「ええ、川の渡しも見つけたので、周りを出し抜けたと思ったのですが」
そこから迷ったと。
「人が通っている道だと思ったら獣道で、野生動物にバッタリなんてこともありました。荷物はそこで諦めました」
はっきり言って、命をかける時と場所が間違っている。
「やってしまった後にいつも思います」
……そうだな。
「あ、缶の中が煮えましたよ。早いところ食べましょう」
ああ、……そうだな。
「どうされたのですか。……あ、今日もスカイバードが飛んでいますね」
アーキルでは、タパテアというのだったか。
「雨は降りますかね」
……降るとしたら、夕方ごろだろう。早いところ出発しよう。


「かみさまというのは、スカイバードのことを指すのでしょうか」
そうだが、それがどうかしたか。
「いえ、昨日はぐらかされてしまったので」
そうだな。昨日は言っていなかったな。
「それで、あなたはミテルヴィアンのようでいて神学者ではないのですよね」
神学者はこんなところには来ない。断言できる。
「そうだと思うのですが、人類文化学者のあなたはなにを調べるためにここに来たのでしょうか」
そうだな、することは民俗学の延長のようなものだ。ただし……。
「ただし……」
この密林のカノッサ湿地帯が、もとはただの肥沃な草原だったということを立証し、なぜこうなってしまったのかを解明するという目的がある。
「え、……えっと。この密林が、元は草原、だったのですか」
そして、それにはスカイバードが深く関わっていると、俺は確信している。
「少し混乱しましたけれど、話のつながりは見えてきました。……今はまだ、詳しく説明されても理解できないと思うので、後でまた少しずつお願いできますか」
ああ、順を追っていけば、たぶん分かるだろう。……話のネタになるかは知らんが。
「最初の一歩はどちらへ」
川辺だ、地層をたしかめる。


「川に着きましたけれど、なにをされるのですか」
あそこに……、川に侵食された地形があるだろう。
「川の流れで自然に削りとられた場所ですか」
そうだ。あれをずっと辿っていって……共通項を見つけ出す。
「共通項とはなんでしょうか。地質学には疎いもので」
この土地が、今の植生と噛み合っていないという共通項だ。
「それは、私でも分かるものでしょうか」
分からんだろうな。だが、考え方は至極簡単なものだ。地層を切って、出てきた土に含まれている植物を調べて、現在の植生と違う場所に検討を付けるだけだ。
「その時になにかがあっただろう、ということでしょうか」
簡単だろう。だが、千年単位の地層をさらに細かく検分することは、いくら目がよくても難しいだろう。
「それは残念です」
こういうのは千年どころか万年単位で調べるもんだ。だから、俺みたいなやり方で検討を付けても信憑性なんかまるでないぞ。
「この植生は千年単位で形成されたということでいいのでしょうか」
……機に敏というか、お前と話しているとこっちが丸裸にされそうだ。
「ありがとうございます」
……お前にはこれを渡しておく。
「これは、なんでしょうか。……卵の化石のように見えますが」
暇つぶしにそれについて考えていろ。片手で握れるような卵の形をしているこれがなんなのか、俺が返ってくるまでに当てられたら……。
「なにか美味しい話でも聞かせてもらえるのですか」
……考えていなかった。なにか話すだろう。その卵のことについて。
「そうですか、……ところで」
なんだ、俺はもう行くぞ。
「ここでもあなたの推論は当たりそうですか」
……見ていたのか。
「残念ながら、これはカマかけです」
……はぁ、損をした。
「ですが、私があなたに会った時も川辺にいましたので、あなたは自身の推論の確度を高めるために、川を見て回っているのではないかと思ったのです」
……今まで見てきたかのように当たっているのが怖いな。
「いえ、あなたの推論が当たっている方に賭けないと、自分は負けてしまいますので。それで、あなたの見解ではどうなのでしょうか」
……ああ、この地形は特異だ。明らかに植生が違う。お前ならこの卵の見当もついていそうだな。
「これがまったく、私もお手上げです。動物の卵ではなさそうだということくらいしか分かりません」
……もう分かっているようなもんじゃないか。付き合ってられん、俺は行く。
「お気を付けて」
ああそうだ、日が落ちる前には雨が降る。川の増水に巻き込まれるんじゃないぞ。
「分かりました。私は雨に備えて、戻って雨避けを張っておきます」
気を付けろよ。雨が降ると土と泥炭が混ざってそこらへんが沼になるからな。
「泥炭ですか、昼のうちに切り出せば今日の燃料の調達が楽になりますね」
……あんまり調子に乗って掘ると、蝋化した死体を掘り起こす羽目になるぞ。
「……適当に掘っておきます」


「おかえりなさい、どうでしたか」
……確度が高まった。
「それはよかったですね。ということは、やはりこの湿地帯はすべて急激に変化したものなのでしょうか」
全てがどうかは分からん。俺一人では分からないこともある。だが……。
「その可能性も考慮に入れるほど、なのでしょうか」
俺の心を読むな。
「失礼しました」
……ありていに言えばそうだ。この湿地帯は、特異すぎる。
「過去の事例から考えて、類似例はあるのでしょうか」
まったく無いわけではないだろう。だが、これがおかしいと思える理由が確実に存在する。
この湿地帯の植生が豊富すぎることだ。
「ここには川もあるので、普通のことなのでは」
少なくとも水があれば植生は多様になるはずだ、と言いたいのだろう。たしかにその通りだ。
「どこが特異なのでしょうか」
……それは、ある時期を境に、この川沿いの植物の種類が爆発的に増加しているということだ。
「規模でいえばどの程度なのでしょうか」
見立てでは、少なく見積もっても6倍、多くて30倍だ。
「それは、……穏やかじゃないですね」
種類の増加自体は問題ではない。
「え、そうなのですか」
ああ、地質が変質すれば植生の多様性は大きく変わる。
「種類の増加は、草原から湿地に変わったということを示しているのでしょうか」
そうだ。水はけが悪くなり、水を必要とする植物は大幅に増える。かわりに、草原由来の植物は淘汰される。
「では、なにが問題なのですか」
大きな問題は、この湿地帯の周辺地域の地層から、この湿地帯に生える植物が出てこないところだ。それは、湿地帯の植生が他地域から伝播したものではないということを示している。
「カノッサ湿地帯独自の植生という仮説があれば、それで説明がつくのではないでしょうか」
……この湿地帯は、もとは草原だったんだぞ。湿地帯の植物があるわけがない。
「あれ、それではおかしいですね。では、この植物はどこからやってきたのでしょうか」
それが俺の研究の大きな疑問点なんだ。
「植物の短期間での突然変異という説はあるのですか」
あるが、俺は突然変異の過程の植物を地層から見つけたことがない。俺が見落としているだけならいいんだけどな。
「不思議ですね。まったく違う植生が、他地域からの伝播もなしに発現するなんて」
そうなると、残っているのは人為的移植という説なんだが……、飯ができたぞ、休憩だ。
「はい、分かりました」
今日は、缶詰の肉と、そこらの芋と、お前がとってきた野生のワイドウィートの粥だ。
「塩漬け肉も、薄めて煮てしまえばおいしいものですね」
……これでも喉が渇くくらいだ。

「人為的説とはどういったものなのでしょうか」
簡単な話だ。誰かが植物をもってここに訪れ、植えていったという説だ。
「それは、他国から持ってきた動物を野に放つようなものでしょうか」
突発的な植生の変化は、まずそれを考えることができる。人が持って運べば、土を介しての植生の伝播なんて関係がないからな。
「では、それが正しいのでしょうか。あなたは違うと言いたげですが」
俺は、半分は当たっていると思っている。人為的ではある。しかし、人類の移動には関係がないという仮説だ。
「それは、矛盾していませんか」
……たしかに矛盾だ。だが、他の地域で見つからない植物ばかりなのは、明らかにおかしいことだ。
「もっと南に行けばあるかもしれません」
あるいは、パンノニアの南部に行けば、あるのかもしれない。
「常識に照らせば、矛盾はない方がいいと思います。それに、草原だったものが湿地帯になったからこそ、ここだけでうまく根付いたのかもしれません」
……それは、俺もそう思いたかった。
「……どういうことでしょう」
この湿地帯だが、気候変動やなにかで先に湿地帯が形成されたわけじゃないんだ。
「でも、そうなると――」
そうだ。草原に、なぜか先に湿地帯向けの植物が根付いて、土壌の保湿効果を含めて、土壌が、湿地向けに改良されたんだ。
「それは可能なのですか」
まず不可能だ。植物の相性だけはどうにもならないから、その試みのほとんどは無駄になる。そうすると、俺の仮説によれば、新しく植えられた植物の全てが尋常ではない生命力を持っていたことになる。
「あなたも、ありえないとは思っているのです、よね」
もちろんだ。そんな奇跡的な植物があったら教えてほしいものだ。あるいは、それを可能にする品種改良技術があれば。俺だけじゃない。どの国であっても見逃さない。俺がそれを見つけたとしたら、考古学者の奴らに泣いて詫びさせるまで見せびらかすくらいだ。
「でも、そんな魔法の植物は存在しない」
そうだ、存在しない。だが、大昔のここには、降って湧いたように、それが存在したことを示している。
「謎かけですね」
それを明日解き明かしにいくんだ。
「あれ、もう回答が用意されているのですか」
そうだ。その答えをたしかめるためにここまで来たんだぞ。
「あの長い長い徒歩は、地層を調べるためだけのものではなかったのですね」
お前、あんまり歩きたくないだけだろう。……まぁいい。明日、その卵の答え合わせをするからな。
「分かりました、使い残しの炭は土に埋めておいていいですか」
ああ、そうしてくれ。
「……雨が降ってきましたね」
……俺の勘も、鈍っていなかったようだな。空いた缶に水をためておくといい。


「三日目」


「おはようございます」
……お前はなんだってそう早起きなんだ。
「見てください、木の間から光が漏れていますよ」
……いつもより遅く起きたと言いたいのか。
「一度起きると当分は寝られない気質なもので」
……俺はもう少し寝る。
「分かりました。炭を掘り起こしてきますね」
……余っている泥炭を使えばいいだろう。
「あれは朝露で濡れてしまいまして、今は埋めた炭の方が火は付きやすいのです」
……そうか。朝飯を作る気があるなら、軽いもので頼む。
「豆と雑穀の塩粥でいいですか」
……十分だ。

「昨日は卵のことについて考えをまとめていたのですけれど、浅慮な考えでよければ聞いていただけませんか」
手短にな、もう出発する。
「あれは、卵とは言いますが、動物のものではなさそうでした。」
それはもう見抜いていただろう。
「ええ、ですから、動物のものでなければ植物のものだろうと考えたのです」
それで、どうなんだ。
「植物で卵というと、思いつくのは木の実です。そこから、これは木の実ではないかと思ったのです」
昨日の話も含めて、そう思ったのか。
「はい。たぶん、この卵がこの湿地となにか関係があるのでしょう」
……助言を与えすぎたかな。


この卵は。
「はい」
この卵は、俺がこの湿地帯で見つけたものだ。
「私と会う前の出来事でしょうか」
そうだ。……この卵は土に埋まっていたものだ。最初は動物の卵の化石かと思ったんだが
「植物由来のものだったと」
そうだ。しかも、これは化石などではなかった。
「化石ではない……というと」
これは、元の色は分からないが、少なくとも化学変化を起こして組織が鉱物に置換されたものではない。
「それは、化石を基準とすれば、長い年月が経っていないということを示していますね」
もっとおかしいことがある。この卵が、ある地層からだけ、大量に発掘されることだ。
「それは、もしかして――」
この湿地帯が草原だった頃と一致する。
「だんだん謎が見えてきましたね。」
卵に話を戻そう。お前はこれを木の実だと言ったな。
「はい、卵の形をした木の実があってもおかしくはないと思います」
俺は、これが木の実ではなく、植物の種子ではないかと考えた。
「種子、ですか。ああ、ストーンナッツの中身のような、ですか」
よくそういう比喩が思いつくな。
「直喩だと思いますが」
……そうだな。そういったものは堅果というんだが、これは特に硬いものだ。
「どれほどでしょうか」
俺が見た限りだと、状況証拠でしかないが、岩が砕けるほどだ。
「それは、尋常ではないですね。もしかして、この卵もなのですか」
話を焦るな。俺は、それがあまりにも硬すぎるために、甲殻種子と仮に名を付けた。
「その卵、ではなく甲殻種子は、あなたが第一発見者なのですか」
はっきり言って、違う。だが、その特性を見出して、名前を付けたのは俺だ。
「話が見えてきませんが」
その卵をそこらの石で思い切り叩いてみろ。
「貴重なものではないのですか」
それ自体は、あまり、いや、さほど貴重ではない。
「そうなのですか、ではお言葉に甘えて」

「あ、割れてしまいました」
矛盾するだろう。
「岩を割るほどなのに、どうしてこの卵はナッツのようにすぐ割れてしまったのでしょうか」
中を見てみろ。
「はい。……これは」
種子の中身が死んでいる。これはおそらく枯れ死だ。
「枯れ死ですか。つまり芽が出なかったということですか」
そうだ。俺が考えるに、この甲殻種子は、水を吸収しない。
「え、でも、それでは発芽なんてしないではないですか」
発芽に必要なものは空気と、適切な温度と、水だ。種子は吸水することで発芽の過程を開始することは知っているか。
「はい、それくらいなら」
だが、この甲殻種子は、水分をまったく吸うことがなく、そのために中身が年月に耐えられず、枯れ死してしまったと思われる。
「枯れてしまうと、甲殻種子の特性が失われるということでしょうか」
……教授の手間が省けるな。
「それはどうも」
種子としては、明らかに失敗していることが、誰からの目で見ても分かるだろう。
「この種子を生み出した植物は、退化なのでしょうか、それとも、進化なのでしょうか」
……そもそも、この世に存在しない植物の種子だとしたら、どうだ。
「ありえませんよ。……ですよね」
この世にありえないことが、どこにあると思う。
「……人間の想像力の限界の先にあると思います」
ここにいる学者の全員が、対帝国の恐怖に駆られて、現代の現実にそぐわないものを探しに来ているのを見れば、人間の想像力が追い付いてきたと思わないか。
「詭弁ですよ」
まあな。やはり、ありえないと思うだろう。
「それで、この種子はどこからやってきたのでしょうか」
……信じるのか。
「裏付けはなくとも、根拠がありそうな口ぶりでしたので。どうぞ」
……さっき、俺が、この種子は岩を砕くほどだといっただろう。
「岩で砕くと言わなかったことが気にかかりましたね」
……甲殻種子は掘り起こされたり、他の要因が発生したりしない限り、その地層にめり込んでいることが分かったんだ。
「……めり込む、というのは。どういう状況で起きるのでしょうか」
当然、高いところから叩き付けられたに決まっている。それは、ほぼ垂直にめり込んでいた。
「もしかして、空から、なのですか」
人間が真上へ投げたり、岩場の上から落としたとかではないことは確かだ。明らかに、空の上から垂直に叩きつけられ、地層を貫通している。
「降って湧いた、とはまさにこのことですね」
文字どおり、それは降って湧いたんだ。
「どれくらいの衝撃になるのでしょうか」
言っただろう。岩を砕くくらいだと。
「それを見たのですか」
見つけたんだ。川の上流に行けばあるような岩が、真二つになっていた。その間に、甲殻種子が埋まっていたんだ。
「……すごいですね」
だが、これで分かったことがある。それは――
「空から、自然落下以上の速度で降ってきたにもかかわらず、破損していないこと。ですか」
……この甲殻種子の異常性はそこに集約される。
「鋼鉄球を同じように落としたら、土は大丈夫かもしれませんが、岩は無理でしょう」
そして、それが枯れ死すると、その異常性は消えてしまう。
「空から降ってくるとすれば、植生の分断も、この世に存在しない種子であっても、一応の説明は付きますね」
では、空から降ってくるとすれば、なにがそれを成すのだろうか、という疑問にたどり着く。
「それにかみさまが関係しているという考えに至ったのですか」
……餌を見せたクルカだな。
「性分なもので」
まあ……、大昔に天空から物を降らせることができるのは、隕石か、さもなくば、かみさまたるスカイバードしかいないだろう。
「大嵐が内陸部に魚を運んでくるということも、考えられますよ」
……そうだな。もしかしたら、未解明地域から飛んできたのかもしれないな。……ここだ。
「ここ、というのは、この洞窟のことでしょうか」
ここは、地図上ではカノッサ湿地帯の西の果てということになる。領土的な区分は、……今は亡きエウル=ノア国の東の果てだ。その境界線に、この洞窟は存在する。
「元はエウル=ノア人のものだったのですか」
土地として考えればな。だが、実際には違うそうだ。
「違う、といいますと」
ここはエウル=ノア人の禁忌地域だった。つまり、入ることが許されない禁断の土地だ。
「そんな場所に足を踏み入れたりして、呪われたりしないのでしょうか」
……お前は新聞記者だろう。
「そうなのですが、呪いというものにはやはり皆敏感でして」
……そうか、喜べ。この禁忌地域は、この洞窟のために存在していると言い伝えられている。
「やめてくださいよ、もう」
本当のことだ。
「……中には入りませんよね」
それ以外に、どうやって調査をするというんだ。
「……いったん休憩しませんか」


休憩はもういいか。
「はい、松明も用意ができました」
……小動物でもいれば、それを捕まえてきたんだがな。
「窒息死だけは勘弁してください、本当に入るのですか」
ああ、入る。
「入る前から頭が痛くなってきました」
酸欠の心配よりも、岩で転んで頭を打つ方を心配した方がいいと思うがな。
「足元には十分気を付けます。……イーノックさん、スカイバードはいませんよ」
……そうか、ならいい。
「あなたも、存外に信心深いのですね。空を見渡して、確認するなんて」
まるで泥棒みたいだ、と言いたかったんだろう。
「いえ、あなたよりも先に確認したくらいですから、私の方が小心者だと思いますよ」
スカイバードの目を気にするのは、犯罪者や泥棒くらいのものだ。
「なにかを盗む予定でもありますか」
……価値があればな。
「あなたはそれを見出しているようですけれど」
スカイバードの眼を気にする程度には。
「後ろめたいのですか」
……半分くらいはな。

「うわあ、とても暗いですね」
当たり前だろう、洞窟なのだから。
「暗いですけれど、床は敷石になっていて助かりますね」
……ただ単に石が敷いてあるわけではない、気付いたか。
「どういうことですか」
敷石の一部を剥がしてやる。……これを見ろ。
「これは、床がきれいですね」
それも当然だ。この洞窟は、わざわざ元の床の石を砕いて磨いて、平らに均されている。
「均したうえに、敷石を詰めているのですか。それは、大変な労力でしょう」
ご丁寧に、敷石の下には、洞窟内に水が入ったときの排水路まで掘ってある。
「排水路まで完備なのですか。これは、高度な文明があったということですね」
……高度かどうかはともかく、この洞窟は、明らかに手が込みすぎている。
「手が込んでいるということは、重要な施設である。考え方としては成り立ちますね」
部族の中核となりえる高度な建造物は、宗教的な建造物である可能性が高い、
「時代を遡るほど、宗教が人を支配して――」
……おい、どうした。……なんだ、お前倒れたのか。
「あー……、すみません。敷石に生えていた苔が、私のかかとを押したのです」
言い回しを変えても倒れたことに変わりはないぞ。
「以後気を付けます。それにしても、こんなに立派な洞窟を作ったのに、整備不良なのですか。これを作った人はどこへ行ってしまったのでしょうか」
……どこへ行ったのかはともかく、戻ってこなかったのはたしかだな。
「禁忌地域と呼ばれていたのと、関係があるのでしょうね」
俺の思っているとおりならばな。

……ここが最奥だ。
「あれは、祭壇でしょうか」
石造りの祭壇だな。どこかで岩を切り出して、それをここで組んだんだろう。
「それも、苔が生えていては形無しですね」
むしろ、洞窟の奥まで苔が侵略したことをこそ褒めるべきかもしれん。
「それだけ長い年月が経っているのですね」
ああ。……壁を見ろ。
「壁画ですね。若干は苔に食われてしまっていますが、保存状態自体は良さそうです」
エウル=ノア人の言い分では、この洞窟は、繁栄の洞窟とか、成長の洞窟と言うらしい。
「繁栄ですか。祈願の内容としては、どこにでもありそうな、真面目なものですね」
問題は、ここがなにを祀っていたかだろう。
「当然、スカイバードではないのですか」
……少なくとも、この壁画を見るに、ここではスカイバードを信仰していたらしい。
「この、丸いものと、太く長い線は、スカイバードを表す象徴記号なのでしょうか」
間違いないだろう。一般的な記号論では、スカイバードを表すとき、眼の大きさはその部族あるいは王の偉大さを示している。太さと長さは、太さが胆力を、長さが寿命を表している。そして、描かれるスカイバードの数は、部族の繁栄、つまり子宝に恵まれていることを示す。
「つまり、スカイバードを大きく、多く描くほど縁起がいいのですね」
ただし、あくまで一般論だ。地域によっては、身の丈に合わないことを戒めたり、多すぎることは滅びを招くとして、独自の戒めが発展することもある。
「……それでは、これらはどうなのでしょうか。少なくとも、私には……、とても立派に見えます」
洞窟の造りからして立派なのに、中身が立派でないことがあろうか。
「……愚問でした。……でも、盗掘にはあっていないようですね。祭壇の方も、見た限りでは荒らされているようには思えません」
持ちだす価値がなかったんだろう。
「御冗談を」
……冗談だ。

これを見ろ。
「壁画ですね。涙を流すスカイバード、でしょうか」
スカイバードの涙は雨の象徴だ。ミテルヴィアンの街頭説教を聞いたことがあるか。
「ええ、子供の頃にはよく。娯楽がそれくらいしかなかったもので」
おかしいな、メル=パゼルの宗教は、正確にはスカイバード信仰ではないと記憶しているが。
「わが国でも田舎までは徹底されませんでした。むしろ、最近は末法思想の延長線としてのスカイバード信仰が流入したくらいです」
だが、最近は街頭説教を見ないだろう。
「国家が解体されて、それどころではないのでしょう」
いや、今は東の地を目指していると聞く。戦乱の前線に飛び込む勢いだそうだ。
「従軍司祭として、ですね。国家は亡くなっても、宗教は生き残るものなのですね」
……話を戻すぞ。雨は豊穣と結びつけることができる。また、雨が多すぎれば災いも招く。
「水がなければ人は死んでしまいますけれど、水で人が死ぬこともありますからね」
繁栄の洞窟という名前が示すとおり、ここはスカイバード信仰の拠点であり、スカイバードの涙、つまり雨によって発展したということを表している。
「……でも、それではつじつまが合いません、そうじゃないですか」
言ってみろ。
「なぜ、同じスカイバード信仰であるエウル=ノア人が、繁栄の洞窟という、良い意味の名前を付けた洞窟を、禁忌地域に指定しなければならなかったのでしょうか」
……よく気がついたな。
「目端が利くと言ってください。ただ、これが敵対部族のものであったり、スカイバード信仰でも細部の違いで受け入れることができなかったり、ということであれば、すぐ論破されてしまうものなのですが」
反証考察までできるんなら、十二分だ。問題は、これだ。この、涙に混ざっているこれを見ろ。
「この、中が白い黒丸ですか。これは雨とは違うのでしょうか」
壁画をすべて見たわけではないが、雨はすべて黒丸で表現されているはずだ。それに、この白い黒丸は、明らかにスカイバードの眼から発生していない。
「そう考えると……。どちらかと言えば、尾のほうから降っているように思えますね」
俺は、これが卵を表していると考えた。それに……、これを見ろ。
「なんですか、……この、破片、でしょうか」
祭壇に祀られていたものだ。そして、これが、お前がさっき割った甲殻種子だ。
「同じじゃないですか」
そうだ、同じなんだ。
「同じということは……祭壇に祀られていたものは甲殻種子なのですか」
そこから導き出されることは一つ。エウル=ノア人がこの洞窟を禁忌としたのは、この卵のためであると考察できる。
「古代人の発想を回顧することは難しいですが、エウル=ノア人にとって、この甲殻種子への信仰は邪教ということになるのでしょうか」
そうなるな。
「それにしても、祭壇の破片は甲殻種子のものとして、欠片の湾曲具合から察するに、大きさはさまざまなのですね」
俺が知っている限りでは、おそらくこの祭壇にあっただろう甲殻種子が最大級のものだ。この祭壇を作った奴らは、好んで大きいものを奉納したのだろう。
「でも、それだけでは、彼らは神を畏れ敬っているだけで、エウル=ノア人から恐れられることはないと思いますが、どうなのでしょうか」
スカイバード由来のものだとして、なにがエウル=ノア人を、ここを禁忌たらしめるほど恐れさせたのか。それはおそらく失伝してしまっているだろう。この甲殻種子があった時代に、エウル=ノア人はいないんだから。
「話の壮大さで忘れかけていましたが、たしかに何千年も前の話ですからね。正確にはエウル=ノア連合王国人ではなく、仮称ですけれど、どこの誰か分からない、古代の、前・王国人で、カノッサ湿地帯の西の果てに、あるいはエウル=ノア国になる前の東の果てに存在した民族。それが、ここを禁忌地域に指定した。というが正しいのですね」
……ややこしいが、そのとおりだな。そして、それは意味が失われ、エウル=ノア国に形だけ伝承されることになった、と読んでいる。
「それでは、結論が分からなくなってしまいますね」
……結論はどうでもいいんだ。俺が考察して、それが一定の、理解できる形になっていれば。
「え、それでいいのですか」
学者なんて言うのは仮説を立てて喜ぶ生き物だ。勉強になったな。
「……それでも、最後まで付き合いますからね」
根性だけはあるやつだな。……これまでの話から立てられる仮説は、この甲殻種子が、なんらかの工程でふ化、つまり植物として発芽したというものだ。
「自然には発芽しないはずですよね。この祭壇にあった甲殻種子も枯れ死して割れてしまっています」
そうだ。この、生きているうちは刃物さえ通らないだろう自殺植物を、発芽させた人間がいたという考えにたどり着く。人為的というのは、まさにそのことを指すんだ。
「その結果が、この湿地帯の誕生、と続くのでしょうか」
仮説通りならばな。そして、それが実害を伴って人間を襲い、それを恐れた者が、難を逃れて、この洞窟を、この地域ごと禁忌として指定した、というものだ。
「ここで、人為的という話の続きが出てくるとは思いませんでした」
逆にいえば、この甲殻種子は人為的で、しかも自然界ではありえないような状況でなければ発芽しないとすれば、ここにある枯れ死した種子の説明も付く。
「では、この禁忌地域はスカイバードを禁忌としているのではなく、甲殻種子が禁忌と考えていいのですね」
俺の考え通りならばな。なにせ、植生がすべて塗り替わってしまうほどの威力だ。
「この甲殻種子と技術が、現代に残っていないことが悔やまれますね」
……技術は残っているかもしれんぞ。そこにある石板を外に運び出そう。
「……盗掘をするのですか」
いや……、一度外に出して、内容を複写して元に戻す。
「どきっとしてしまいましたよ」
……売ればいくばくかの金になるかもしれんが、揃えられた敷石を剥がして売った方が金にはなるだろうな。それに、俺にとって重要なことは、書かれている内容だけだ。
「あなたのような立派な人になら、スカイバードも喜ぶことでしょう」
軽率に名を出して称えるもんじゃない。


「文字の複写くらいなら私にもできると思っていたのですが……」
日に晒すと石板の劣化具合が目に見えて分かるな。
「私はお邪魔でしょうから、夕飯の支度をしてきます」
夕方には戻る。日が落ちるまでに複写が終わればいいんだがな。
「あなたならできると思います」
そういうのは、できてから言うもんだ。そのほうが喜ばれる。

……亀裂の入っている部分は、上手く読むことができんな。
……ただ、文字だけではなく、記号が用いられているというのは解読の手掛かりになる。
……まさかとは思ったが、この古代語は、エウル=ノア古語のさらに古語に相当すると考える方が妥当だろう。
……祈りの言葉はミテルヴィアの古語と文法が似ている。
……この祈りの文句は。
……あまり良くないな。これは、相当な覇権国家だぞ。
……肝心のふ化の方法に関する記述がない。
……嘆きの洞窟に行けば分かるだろうか。
……いや、方法はどうでもいいか。

「あ、おかえりなさい。どうでしたか」
完全な解読はできなかったが、いくつかの知見を得ることができた。
「それはよかったです。どうぞ、これが夕飯です」
飯はずっとお前に任せきりだな。それに……、悪くない。
「気に入ってもらえたようでなによりです」
……方法は分からないが、この発芽には人為的な手段で成功したということが書かれていた。
「それを誇るために、石板に残したのでしょうか」
後世まで伝えるつもりだったのかは分からん。石板にはこう刻まれている。すべては地に足を付けぬ神のため也、我らは常に神の足元にあり、と。
「選ばれた民族であるということを強調していますね。地に足を付けぬ神というのは、スカイバードのことでしょうか」
鳥でさえ地面なくして生きてはいけない。そういった意味では、格別のものだろうな。
「それにしても、足がない神の足元ですか」
現代的な言い回しで違和感を覚えるだけだ。それらしい意味に直せば、神の真理に一番近いとか、神に選ばれた民族であるとか、そういった意味になる。
「そこまで言うからには、さぞ強かったのでしょうね」
その強さの秘密が石板には書かれていた。なんと、甲殻種子を発芽させたことで、その殻が防具として流用されたんだ。
「……刃物が通らない殻を使った防具ですか」
部族の強者がその殻で作った防具を着込み、盾を掲げ、特にはこん棒とし、戦争に勝ち続けたらしい。誇張だと思うが、崖下に転落した強者が、落下中に鋭利な岩に刺さるところを、殻の盾で砕いて生還したとも書いてある。
「それは、発芽しても強度は衰えていないのですね。なるほど、そのような副次効果が」
むしろ、発芽は重要なことではなかったらしいぞ。
「と、いいますと」
神の知恵の輪、だとさ。つまり、この難題を解くことで、人に限りない力を与えるものと解釈されていたようだ。この場合、戦争に勝つ道具という意味だ。
「たしかに、防具としては当時最高峰の硬度を有していた可能性はありますね」
この部族はこれで戦争に勝ち続け、武を誇るまでに至った。それの証明として、洞窟を磨き、さらなる部族の発展を願って、ここに偉業を成した。
「それで、この物語は終わってしまったのでしょうか」
……この部族の成功秘話の絶頂期だけを考えるならな。
「まだ彼らには続きがあるのですか」
俺にとっての続きもだ。俺は、この湿地帯の植生異常をたしかめにきたんだから。
「ああ、そうでしたね。その目的と、彼らの絶頂期の後が重なっているのですか」
衰退を自ら語り、遺していくものは少ない。だが、この部族はそれを残していった。
「そこに彼らの終焉が」
……そうだ。もう一つ、洞窟があるんだ。
「ここが繁栄の洞窟ですから、もう一つのものは終焉の洞窟でしょうか」
いや、嘆きの洞窟だ。
「嘆き、ですか」
覚えているかは知らんが、あの壁画、草木が生えていただろう。
「壁に描かれていたという意味でしたら、たしかにそうですね。覚えていますよ」
あの壁画と比べて、今の周りを見てみろ。
「えっと、あの壁画は、前景草というのでしたか、背の低い草で構成されていたように思えます」
それに比べて、今のこの風景は、どうだ。
「どこから見ても、特に人の何倍もの高さがあるワグワグが目立ちますね」
……つまり、この部族がここに覇を唱えたときには、このワグワグは存在していなかったということになる。
「……もしかして、発芽した甲殻種子の中身というのは」
そういうことになるな。いや、それだけとは限らない。なにせ、甲殻種子は大きさが不揃いだった。中になにが入っていてもおかしくはない。

「彼らは、草原が湿地に変わることを許容したのでしょうか」
さぁどうかな。嘆きの洞窟に行けば、たぶん、真相が分かるだろう。
「彼らは、滅びてしまったのでしょうか」
さあな。……雨の神なら、彼らの行方を知っているかもしれんな。


「四日目」


……雨の神よ、豊穣の神よ。
……私は貴方に祈ることをやめました。
……ですが、私は貴方を試すことはありません。
……ただ、貴方と向き合う時間をください。
……貴方は地に足を付けないでいてください。
……地に足を付けて汚れなかったのは、貴方と。
……貴方の遺した子供たちだけなのです。
……私が祈らないのは、私の過ちのためなのです。

「おはようございます。うなされていたようでしたけれど、大丈夫ですか」
……嫌な夢を見た。
「お茶でもいかがですか」
……もらおうか。……ぐっ。
「灰汁茶です。目が醒めますよ」
……目は醒めたが、お前はこんなものを飲むのか。
「ええ、おいしいですよ。それに、魔除けの迷信もあるのです」
……ちなみに、なにを煮出したか教えろ。
「ワグノコですよ」
……それは茶とは言わんのではだろうか。
「訂正しますね、ワグノコの灰汁汁です。朝はワグノコと豆の塩煮と、カビをそぎ落とした夜用のパンの残りです」
……さすがにパンは腐ったか。あとは缶詰が残ったな。
「あと二日であれば、十分な量が残っているとは思います」
雨から水を汲めたから、案外缶詰を消費しなかったな。
「ええ、雨神スカイバードに感謝しなければいけませんね」
……いつか言おうと思っていたが、学術ではスカイバードと雨の因果関係は逆転するぞ。
「……そうなのですか」
説明してやるから、飯を先に食え。


この紙を見てみろ。
「地図に印がついていますね」
これは、ミテルヴィアンがスカイバードを観測し続けて得たものだ。
「ということは、印はスカイバードを発見した地域を指しているのでしょうか」
そうだ。これを詳しく、時系列で印を置き直していくと、その地域に見られるスカイバードの頻度が分かるようになる。
「でも、これは1000年間となっています。神聖ミテルヴィア国はそこまで長い歴史を持ってはいないと思いますが」
ああ、だから少なくとも700年分は伝聞や口伝による記録だと思っていい。確度を高めるなら、直近300年の分を見るんだ。
「……密集地域と、そうでない部分で分かれていますね」
当たり前みたいな意見だが、そのとおりだ。スカイバードは、いる地域といない地域が分かれている。あるいは、ミテルヴィアンがいる地域といない地域という、ひねくれた考え方もできるがな。
「あなたは前者だと思っているのですよね」
……そうでないと仮説が破綻するだけの話だ。
「それでいいのですか」
そんなもんだ。……それで、もう一枚紙がある。これはメル=パゼルによる、植生に関する報告書だ。
「わが国の機密文書かなにかですか」
……なんのことはない。ただ、沿岸地域か、川か、南部になるほど植物が多いらしいというだけのものだ。だが、スカイバードの発見箇所と比較すればすぐ分かる。
「地形と、発見報告が重なっているように思えますね」
ただし、南に行き過ぎるとスカイバードの発見報告が一気に減っている。これは、ミテルヴィアンの布教順路に含まれていないということもそうだが――
「なるほど、砂漠気候になり、植物もなくなるのですね」
これらの相関から導き出されることは、自然学からの見地からは雨が降る場所には植物が生えるということ。動物学の見地からは、動物は水に集まるということを含めて、スカイバードと雨の因果関係は、学術的に雨を求めてスカイバードが移動しているという考え方に落ち着く。
「なんだか、学術というのは夢のない話ですね」
すべてを理論と論理に解体するのが学術だ。……宗教も神話でさえ例外ではない。
「……その理論でいえば、カノッサ湿地帯はスカイバードを拝むにはいい立地だと思いますね」
ああ、何度も見ただろう。
「もしかして、湿地の甲殻種子の多さはそのスカイバードの数に起因している、と考えていらっしゃいますか」
……そうだ。他の地域でも存在自体はするのかもしれんが、ここは、水が多い場所を一日中掘っていれば、必ず甲殻種子の枯れ死した破片が出るくらいだ。
「たしかに、種子を発芽させようとなると、水の多い場所に落としたほうが効率はいいですね」
スカイバードがどのような条件でそれをしているのかは分からん。だが、植物の繁殖という目的に適合した地形であるということに変わりはないだろう。
「問題は、それが人為的に開けないといけない種子であった、ということくらいでしょうか」
ああ、だからスカイバードの生態が分からなくなる。魚や鳥のような卵生動物が、卵生であっても植物の卵を産むということはあり得ない。しかも、その卵は甲殻種子で、植物の種の繁栄としてみると自殺なんだ。
「……自殺でよかったのかもしれませんよ」
……どういうことだ。
「いえ、人間からみた場合の話です。お話どおりなら、草原が湿地になるほどの威力があるわけですから、毒になるとしても薬としても、薬効が効きすぎるのではないか、と思っただけです」
……たしかにな。問題は、この種子を開けた部族が、その効き目を知っていたか、ということに尽きるだろう。
「知っていて、この草原を湿地帯に作り替えたということでしょうか」
……俺は、そうではなかったと確信している。
「望んでいたら、嘆きの洞窟なんて作らない、とお思いですか」
それもあるが、その部族の生活風景を考察するに、その部族は狩猟民族だったと思われる。
「草原ですから、狩りの獲物はたくさんいたでしょうね」
それを失うことは、部族にとっての死を意味する。知っていたら、それを許容しなかっただろう。
「では、故意ではなく災害だということでしょうか」
……もしくは、天罰だな。


「もう少しかかりますか」
少し遠いからな。まだかかるだろう
「では、質問があるのですが」
……なんだ。
「よく考えてみたのですけれど、甲殻種子から生まれた植物の種って、どうなるのでしょうか」
つまり、こう言いたいのか。発芽した甲殻種子が次の種子を生み出したときに、それが甲殻種子になるかどうか、と。
「ええ、そのとおりです」
もしそうであれば、その植物は完全な、神のいたずらのような失敗作だろうな。
「かみさまでも失敗するのですかね」
……知らん。俺の仮説で答えるなら、甲殻種子自体はスカイバードが地表に種子を落下させる保険として付けた、いわば母親の子宮壁のようなものだろうと考えている。
「ずいぶん手厚いですね」
分厚い、の間違いだろう。
「違いありません」

着いたぞ、ここだ。
「今日は――」
いるのは知っている。
「では、どうしますか。縁起を担いでおきましょうか」
どうするか。休憩するにはいい時間だろう。
「そうですね。しかし、あなたは以前、ここに来たことがあるのですか」
……なかったら来れないだろう。
「それもそうですね。……このあたりのことも、神聖ミテルヴィア国で知ったのでしょうか」
俺は、ミテルヴィア訛りだが、ミテルヴィアンではない。前にも言ったぞ。
「いえ、そろそろあなたのことを教えていただきたいなと思いまして」
……いいだろう。スカイバードがいなくなるまで、白湯でも飲みながら話そうか。

ミテルヴィアにいたこと自体はある。スカイバードに関する知識の大半はそこで得た。
「どうりで、神聖ミテルヴィア国の資料をお持ちなわけですか」
それで、お前が聞きたいのはなんだったか。
「では、カノッサ湿地帯に目を付けた理由でも」
……以前はこの辺りに住んでいてな。興味がそちらに向くのも当然だろう。
「禁忌地域のお話も、ミテルヴィアの資料からでしょうか」
……ああ、505年以降、亡命エウル=ノア人はミテルヴィアンが積極的に保護したからな。その関係で、資料がまとまったんだろう。その恩恵にあずかっているというわけだ。
「姿は見えませんけれど、グランパルエ川の向こうは、帝国の領土と言われていますね」
お前、そのグランパルエ川沿いに来たんじゃないのか。
「でも、わが国の兵士すらいませんでしたよ」
……敵の戦線が後退したのかもしれんな。カノッサ湿地帯に作った陣地が使われるのは、いつになることやら。
「その分だけ、学者先生が活発に活動できますから、いいのではないですか」
……そうだな。
「それで、どんなお話をしていましたっけ。……エウル=ノア国のお話でしたね」
そうだったか。……あの辺りの神話や民話がミテルヴィアンの耳に入り、それを編纂する作業があったんだ。
「ミテルヴィアンからすれば、独立が揺らいでいるのですから、新しいことをしなければならないわけですが。それが編纂だったということでしょうか」
正しい教えを広めるために必要なことは、間違った教えを正すことである。しかし、それ以上に、神についての、自身の知見を広めることである、というわけだ。
「なるほど、神聖ミテルヴィア国は、排斥ではなく融和に向かっているのですね。」
だから、積極的に亡命エウル=ノア人を受け入れたんだろう。
「エウル=ノア国の神話や民話というと、どのようなものでしょうか。ああ、当然スカイバードに関わるものということは知っているのですけれども」
……お前、食わせ者と言われたことはないか。
「いえ、ありませんけれど」
……そうか。エウル=ノア国はスカイバードを神として信仰している。その神話では、スカイバードは一度この地に降りてきたそうだ。
「スカイバードが地上に、ですか」
動物の擬人化した神話は、ミテルヴィアンは認めたくないかもしれんが、そこらへんに転がっているものだ。例えば、獣や鳥の生まれ変わりがわが部族の出自である。そういったものは特に多い。
「エウル=ノア人は、スカイバードの生まれ変わりなのでしょうか」
焦るんじゃない。エウル=ノア人は普通の人間だ。国の見解としてみれば、の話になるがな。
「部族単位でみると、そうでもないということでしょうか」
スカイバードの生まれ変わりがいたかは知らんが、鳥や獣の生まれ変わりというのはいた。それらを含めて、地に足を付ける者の総括として、国教はそれらを人間と見なしたようだ。
「なにやら苦労話の匂いがしますね」
国なんてものはそんなものだろう。……そして、その人間の下にスカイバードがわざわざ降りてきた。
「どのような理由なのでしょうか」
神話によると、こうある。氷が大地に突き刺さった。厄災をもたらす氷の神が復活し、雨の神の……これはスカイバードのことだ、雨の神の上から氷を降らせたからだ。雨の神は降り注ぐ鋭い氷を雨によって中和したが、それに怒った氷の神はますます激しく氷を吹き付けた。ついに冷たい息吹は雨の神を凍らせはじめ、最後の力を振り絞って雨の神は雷の神を呼び、ついに氷の神を撃退した。
「氷の神というものがいたのですね」
これは、異常気象による冷気ではないかという見方がある。……しかし、氷の神は去ったが、雨の神は力を失い、飛ぶこともままならなくなった。地上に降りた雨の神は、地に足をつけ、同じように暮らす人の姿となった。雨の神は地上を見て驚いた。大地は氷の神の降らせた氷の針に覆われており、人はそれを踏んで血を流しながら生活していたからだ。
「それは、あまり経験したくない出来事ですね」
寒気で作物が実らず、生贄の儀式をしていたとも解釈ができる。……雨の神はそれを見て涙を流した。自分の力が及ばなかったばかりに、地上で最も愛している人が痛んでいる。雨の神は涙で自分の周りの氷を溶かしていることに気がついた。そこで、雨の神は人の手をとり、涙を流しながら人を連れて歩いた。そうすれば、雨の神の通った、氷の溶けた道を人が歩けるからだ。
「正解は、雪解けで川ができた、辺りでしょうか」
沼がそこらにあるだろう。そこから水があふれて一時的に川として機能したのかもしれん。……自然と、雨の神と人は恋仲になった。二人が交わると、子供が生まれた。それは神の子だった。雨の神の体に、手と足のついた格好をしていた。それは、雨の神の願いが形になったもので、厚い皮膚と、早い足を持ち、人が持たぬものを持っていた。すべては、氷の神から人を守るためのものであった。……そんな感じだ。
「へぇ、神と人が交わって子が生まれるということは分かりましたけれど、そこで生まれたものは人ではなかったのですね」
エウル=ノア人は、その神の子、龍の子ともいうんだが、それを大切にし、今でもそれと共生している。家畜という意味でもそうだし、龍騎といって、それに乗って戦うものは竜騎兵と言われている。
「龍騎と竜騎兵ですか、私もぜひ一度は見てみたいものです」
……野生の龍騎でいいなら、もっと南に行けば見つけられるぞ。たぶん食われると思うがな。
「……凶暴なのですか」
野生のものはな。だが、最初が凶暴であるということを除けば、非常になつきやすいと記憶している。
「そういった動物の生態も、ミテルヴィアによる編纂の対象なのでしょうか」
……どうだろうな。単にスカイバードとの関連で手あたり次第だったのかもな。さて、そろそろ行くか。


「とても歩きにくいです」
敷石もなにもないからな。とにかく、急いでいたんだろう。
「あの洞窟に比べて、明らかに劣化しています。洞窟の幅も狭いですし、高さは言わずもがなです」
奥行きもな。もう最奥だ。
「これでは、探検とか冒険とか、そういうものですらありません」
……嘆くには十分な広さだな。
「その割に苔はたくさん生えているので、また転んでしまわないか心配になります」
気を付けているうちは平気だろう。……壁画はかなり苔に侵食されてしまっている。
「これでは、なにが描いてあるのか分かりませんね」
苔が剥がせればいいんだが、やってみたいか。
「いいえ、遠慮しておきます。でも、天井の壁画はかろうじて見えますね」
天井は・・・スカイバードが描いてあるな。ただ、繁栄の洞窟のものと違って、ずいぶん弱々しいな。
「衰退の象徴でしょうか」
そう見るべきだろうな。あるいは、塗料をふんだんに用意できなかったかだ。
「それもまた、衰退の表れですね」
ああ。……ここにも甲殻種子の破片がある。それに、これは真二つになった破片だな。
「奇麗に割れていますね。もしかすると、これが例の盾なのではないでしょうか」
その可能性はあるだろう。凄いぞ、革が種子の内側にめり込んでいた跡がある。
「この甲殻種子を自在に加工する技術が存在したのですね。装飾品としても需要尾あったのでしょうか」
技術があっても、さすがに装飾品に加工できたかどうかは分からんな。……この壁画を見てみろ。
「これは、苔が付いていないですね」
苔が嫌う種類の成分が含まれていたのかしれん。それが緑色で、松明の炎の影にあったんだ。
「なんでしょうか、緑の塗料というからには、植物を表しているのではないですか」
そのとおりだろう。この、黒い塗料の跡が人間を表しているとすれば、その周りに、人間の何倍もの高さの緑が生い茂っているという形になる。
「それは、まるで今の外の状況みたいなものでしょうか」
この、明らかに背が高い植物はワグワグだろう。先端に赤い花のようなものが咲いているのも、ワグワグの色彩的な特徴としては合っている。
「そうですね」
他にも違和感がある。壁画に茶色が少ない。
「茶色ですか」
苔に隠れているからかもしれんが、繁栄の洞窟では茶色の塗料がふんだんに使われていた。
「ええと……。すみません、覚えていません」
専門的な分野の話だから、落ち込むことはない。茶色は獣を表すことが多い。繁栄の洞窟では、人が槍を使って獣を狩る壁画があったと記憶している。狩猟民族の本質は獣を狩ることだ。だから、それを壁画として表すためには茶色が必要になる。
「狩った獣の多さを表すために、ですか」
しかし、この壁画には、茶色が少ないように感じる。あるいは、ほとんどないということもありうる。
「茶色がないということは、なにを表すのでしょうか」
不猟だ。
「狩りが上手くいっていない、ということですね」
石板を見ないうちは分からん。ただ、狩猟民族が滅びるとすれば、理由は疫病、災害、不猟辺りだろう。
「災害を呼ぶ種子はそこにありますね」
得てしてそういったものは連鎖する。……さぁ、石板を運び出すぞ。
「洞窟の全長が短い分、今度は楽ができそうです」

「石板だけは量が多いのですね」
洞窟と違って、外で作って持ち込んでもいいわけだからな。繁栄の洞窟の時よりも多いんじゃないか。
「恨みつらみを書くと、案外長くなるとは言いますが」
内容はどうだろうな。読んでみないと分からんな。だが、その可能性は大きいだろう。なんせ、嘆き、だからな
「今回は私も同席してもいいでしょうか」
……好きにしたらいい。今日はまだ日が高いからな。

……わが神よ応えよ、我はわが神の僕なり。
「どうしたのですか、いきなり」
石板に刻まれた祝詞だ。スカイバードを呼ぶためのものだろう。
「ああ、祈りの定型文ですか」
そうだ。……神の大地に根を張る、わが供物を受け取り給え。神の大地に生命を与えるその涙こそわが命。その涙によりわれは生を受け、われは大地を歩む。どうかわが神よ、この供物を受け取り給え。この大地に根ざすものはすべてあなたの涙ゆえ也。
「供物を貢ぐ祝詞でしょうか」
狩猟民族の供物というと狩った動物を捧げるのが一般的だ。だが、あの洞窟には骨がなかったな。単に掃除をしたからなのか、それとも捧げる供物が用意できなかったのか。
「私は掃除をした方だと思います。繁栄の洞窟にも骨はありませんでしたから」
ただし、嘆きの洞窟には甲殻植物の破片がたくさんあったな。……その理由が今分かった。
「石板にはなんと」
……この石板は、繁栄の洞窟の頃から30年は経っていると予測できる。その30年で、環境が一気に変わってしまったそうだ。
「草原から湿地帯に、でしょうか」
この部族は、それが神の怒りだと思ったらしい。
「なにか、この部族が神を怒らせることをしたのでしょうか」
……血を流し、地を汚し、大地を血で汚し続けた、と書いてある。
「動物を狩りすぎたということでしょうか」
それもあるだろう。しかし、それだけではない。……部族の傲慢のために、動物の血よりも、人の血を多く流した。これは、陣とり合戦に勝ったということだろう。
「陣とり合戦……、部族間抗争の間違いでは」
目的は土地を得ることだ。ならば陣とり合戦と言っても問題ないだろう。
「それで、この部族は勝ったのですか」
勝った。だが、勝ちすぎたのだろう。土地を得て狩猟が増えると、人口も増える。人口が増えると狩りの量も増える。狩りの量が増えると、土地あたりの動物の量が減る。それを補うには土地を拡大していくしかない。
「昔も今も変わりませんね」
……まったくな。そこで問題が発生する。この部族はどうしてここまで発展することができたか。
「それは、甲殻植物を、あ……」
そうだ。たぶん、武力を得るために甲殻植物を発芽させ続けたんだろう。石板にはこうある。……これはスカイバードの怒りだ。スカイバードは、動物から守る盾を我々にもたらしたが、それを人に向けて使い、その神器を人の血に晒し続けたから、スカイバードがお怒りになったのだ。これは神罰に違いない、と。
「関係としては成り立ちますね。領地を拡大するために、スカイバードが落とした甲殻植物を発芽させ、その量が多くなり、処理を怠ったために、この草原は湿地に塗り替えられてしまった、という」
……その神罰は、まぁ……。
「なんですか」
読み上げるに不憫すぎる内容でな。典型的な部族の崩壊が克明に記されている。
「あなたに不憫と言わせる内容とは、私が聞いても大丈夫なのでしょうか」
血生臭すぎるから、要約してやる。……まず、厄災が起きた。この部族の中心地で植生が大幅に変わった。草原は、見たこともない植物が立て続けに生え、人の背を越すような、木とは全く違う草で大地は覆われ、森と化した。草が生えた後、雨が降るとそこはすぐに泥沼になった。しかし、沼になったというのにこの植物は枯れることがなかった。むしろ生き生きとして大地を呑み込みにかかった。部族は持ち回りで草を刈って回ったそうだが、まったく労力に見合わなかった。それだけではない。その厄災によって泥水が毒水になり、病気を蔓延させた。人は倒れ、助けに向かった者も倒れた。そして動物の食む柔らかい下草が無くなり、毒水を吸った固い茎のある植物が蔓延し、動物は住めなくなった。部族は逃げるようにその場を立ち去った。だが、厄災はその背中を舐めるように追いかけてきた。その部族は、この厄災を神の怒りだと知った。傲慢になり、同じ人を殺しすぎたから、神は人殺す人を滅ぼそうとしている。その過ちをどうかお許しください。もし我らが滅びるのであれば、我らはこの神器を神にお返ししたく思います。……我らよりも他に、この神器を上手く使うことができる者を、神なら見つけることができるでしょう。我らは、あなたの眼によって見出され、ついにあなたの眼によって滅ぼされるのです。……だとさ。典型的な、外的な要因で起きた災害が疫病を呼び、生態系の変化による不猟が重なって部族が崩壊するという、見本にしたいくらい典型的なものだ。
「その後は、どうなったのでしょうか」
後、というと。
「この部族は滅んだのでしょうか」
部族としては滅びただろうな。……奴らの行方はこの石板には書いていないみたいだ。ただ、分かることがある。
「なんですか」
全員が死んだわけではないはずだ。この滅びに身を任せたものもいれば、最後まで滅びに抵抗して領地を増やし続ける意思もあっただろう。この厄災をくり返さぬためにも、伝道者となった者もいるだろう。狩猟民族をやめて、農耕民族に鞍替えして、新たに育った森と共生することを選んだ者もいただろう。……滅びから、ただ単に逃げ延びたやつもいたのだろうさ。
「少なくとも、伝道者はいたのでしょうね。そうでなければ、ここが禁忌地域と呼ばれているわけがありませんから」
そうだな。案外、エウル=ノア国の神話体系の傍流に、この部族の伝道が混ざっていても、別段おかしくはないな。
「スカイバードは人が特に好き、という部分も、案外ありそうですよ」
人を助けるために、大好きな人を殺すほど、ね。……さぁ、片付けて帰ろう。


「これで、あなたの旅は、ついに終わったのでしょうか」
ああ、ついに終わったな。
「結論に満足しましたか」
俺の中では、一本の線ができあがった。文句はない。
「それはよかったです。ところで、私はまだ疑問に思うところが、あと一つあるのです」
……なんだ、言ってみろ。
「あなたは、わが国の人間ではありませんね。では、何者なのでしょうか」
……理由は。
「あなたの行動を見てきました。あなたは学者です。でも軍服が似合いすぎている。荷物の持ち方も、手際のよさも」
……軍人で学者ということもあるだろう。
「ですが、私は気になりました。あなたは、湿地で生活することに明らかに慣れすぎている。あなたはこの自然のなかで、あまりに自然と同化していました」
……それで。
「あなたの寝言を聞きました。龍の神と、その子供のことも。スカイバードにたいしてとてつもない執着があるということは最初から知っていましたが、それが寝言や悪夢として顕在するというのは、いささか常軌を逸しています」
……たしかに、そうだな。
「他にもあります。私は、あなたがこの土地に異常に詳しすぎることを、身をもって体験しました。最初はミテルヴィアンかと思いましたが、あなたは、エウル=ノア国の事情に詳しすぎる。それこそ、神聖ミテルヴィア国がかすんでしまうくらいに」
……よく覚えていたな。
「そして、あなたはこの洞窟を詳しく知っていた。石板の内容についてもなにか知っている様子だった。しかし、あの洞窟に、私たちが入る前に誰かが入った形跡はなかった。少なくとも、3年か4年は大人数で入った形跡がないことは、苔の育成具合をみても明らかです」
……お手上げだ。これは言い逃れをすることはできそうにない。
「それで、改めて質問なのですが。……あなたは、いったい何者なのでしょうか。そろそろ、私にも教えていただけませんか」
……マイク・ラッド。お前の想像通りだと思うが、お前が欲しいのは明確な答えなのか。
「いいえ、答えよりも、経緯を欲します」
……新聞記者らしい、欲求過多でがめつくて傲慢だ。経緯を話せば、答えは誰でも出せる。
「ええ、それくらいでなければ。……割に合いませんから」
借りは作るもんじゃないな。
「まったくそう思います」
……いいだろう。明日、基地に戻るまでの長い間、たっぷり語ってやる。
「ありがとうございます。では、おやすみなさい」
……明日は、子供みたいにせがまれる日になるだろうな。それとも、俺の口が勝手に動く日になるのだろうか


「五日目」


「おはようございます」
……相変わらず早い。
「今日の朝は豪勢ですよ。余った缶をいくつか明けていいのでしたら、ですけれど」
……4つは明けていい。……いや、3つでいい。
「分かりました。楽しみにしていてくださいね」
……お前があいつの生き返りなんじゃないかと思うくらいだ。俺に早起きを強要するのは久しぶりすぎる……。
「なにか缶のリクエストはありますか」
……豆が入っていればいい。
「分かりました。ところであいつって誰ですか」
……耳がいいんだな。
「あなたのことをもっと知りたくて」
きざったらしいぞ。
「いつかは言ってみたいと思っていたのですよ」
……今言うことはないだろう。
「それで、誰なのですか」
……寝る。飯ができたら起こせ。
「そんな殺生な」
恋人同士みたいな会話をお前とやってると、気持ち悪くなってくる。
「……自分でもそう思います」
後で一緒に話してやるから、気に病むな。
「お楽しみと思っておきます」

「今日は遠足日和ですね」
……遠足ね。俺の遠足はもう終わったんだがな。
「私にとっての遠足はこれからですよ」
元気なことだ。まさか、沐浴までするほど元気だとは思わなかったが。
「ゆっくりはできませんからね。キタラギに戻る算段をまだ付けていないんですよ」
せっかく、無駄かもしれない俺の取材をしたのに、帰り道で失踪なんてことにならなきゃいいな。
「それは時の運というものでしょう」
お前に運があればいいな。……それで、結論から聞こうか。俺がどこの国の人間だと思った。
「エウル=ノア連合王国人です」
正解……、と言いたいところなんだが。俺はメル=パゼル共和国人だ。
「えっ、そ、そんな……」
と、言いたいところなんだがな、メル=パゼルをわが国、なんて言いたくはない。それは、俺がメル=パゼル人ではないからだ。
「……話が分からなくなってきました。あなたはわが国、メル=パゼル共和国人なのです……よね」
そうだ、俺は、メル=パゼル人だ。505年から、そういうことになったんだ。
「505年から……、あ……、わが国の南方領土回復運動ですね」
察しがいいな。素直に征服と言えばいいのに、ご立派な建前を付けるものだ。
「505年からわが国の人間になったということは、やはりそうなのですね」
エウル=ノア連合王国人だ。いや。だった。奴らは、領土を回復したのだから、そこにいた俺を、俺たちをメル=パゼル共和国人に書き換えたんだ。
「では、亡命エウル=ノア人はどうなのですか」
メル=パゼルの奴らはグランパルエ川まで所領を食って満足したんだろう。それ以降は、かの帝国の占領地から、川を渡って逃げてきたのを、亡命者として扱ったんだ。まるで、グランパルエ川以北は最初から奴らの領土で、以南は、虐げられし民がいる場所であるかのように。恩を売っているつもりなんだろう。
「……それは、なんとも壮絶ですね」
嫌な気持ちにはなるが、複雑な気持ちにならない分だけましというもんだ。それに、俺にはもっと、悪夢になるほどのことがあったからな、他のことは考えられなかった。
「505年のあの時、あそこで、いったいなにがあったのですか」
聞くのか。新聞のネタになるかは知らんぞ。
「個人的興味として、聞いておいて損はないと思いました」
そうか。……昔話をしようか。エウル=ノア連合王国の神話は覚えているか。
「ええ、雨の神のスカイバードの話、ですよね」
スカイバードと人が交わって生まれた龍の子。龍騎というが、俺は竜騎兵だった。
「あなたがそうだったのですか。私はてっきり、竜騎兵は今でも龍騎にまたがっているものだとばかり」
たいていのはそうだ。俺は竜騎兵をやめたんだ。
「理由を聞いてもいいでしょうか」
簡単だ。俺が龍騎を失ったからだ。それ以来、俺は他の龍騎に乗る気になれない。
「他の方は龍騎を補充しているのですよね」
そうだ、俺が特殊なだけだ。
「戦争で龍騎を失ったのですか」
いや、戦争では失わなかった。そのかわり、戦友をたくさん失ったがね。俺は、あの国から逃げ出したんだ。
「亡命ではないのですか。私には当時の状況をよく知らないので、それも交えて教えていただけると嬉しいのですが」
簡単なことだ。かの帝国の人間は空からやってきた。みんな、それをかみさまだとおもったのさ。
「かみさま、ですか」
エウル=ノア国にはスカイバード以外に神がいない。だが、スカイバードを従えた人間がやってきた。これは特別な意味を持っていた。神を超える人間がいるとすれば、それは超越者だと思うだろう。
「それが、神を従えた、新しいかみさまというわけですね」
俺は見ていないが、多くのものがそれにひれ伏したと聞く。かみさまにひれ伏すのは当然のことだろう。
「あなたは、違ったのですね」
……俺は、奴らの空中船……航空艦というのか、それから砲撃を食らって、爆風で木に叩きつけられて、気絶していたからな。
「想像することしかできませんが、よく生きていましたね」
幸いにも、肩が外れたくらいで済んだよ。……それで、俺は龍騎に起こされた。起きた時は、壊れた櫓の、日の当たるところに一人で寝かされていた。櫓の影は、俺の戦友たちが寝かされていた。
「……生き残ったのは、あなただけだったのですか」
死んだ奴がそこに寝かされていただけだ。気絶していたのは俺だけだった。生き残った奴はさっさと逃げたさ。だが、みな衝撃だったはずだ。なにせ、かみさまが現れたんだから。
「あなたも、驚きましたか」
当然だ。俺は奴らが襲ってきたと最初に聞いて出陣したが、それでも戦いを少し躊躇ってしまうくらいにはな。
「その後は、どうなったのでしょうか」
起きてからは、迷った。南に行くべきか、北に行くべきか。どうせ奴らは俺たちを蹴散らせるのだから、主要施設は陥落しているはずだ。それに、奴らをかみさまだと思っている者が多ければ、むしろ奴らを崇めるくらいはするだろう。俺もそれに参加するべきか、と。
「結果は……、聞くまでもないですね。理由を聞いても」
俺の龍騎が嫌がったのさ。
「龍騎が、ですか」
ああ、なぜかは今でも分からない。ただの気まぐれだったのかもしれない。だが、俺はそのとき見たんだ。
「見た、というと」
空をスカイバードが飛んでいたんだ。別に珍しいことはなかった。だが、森が焼けていく黒煙の向こうにスカイバードが見えた。俺は神話を思い出した。古い神話だ。かみさまは空にいるが、空にいる者が神とは限らない。その一節が俺を北へ向かわせた。その実は、ただ滅びるのが嫌なだけだったのかもしれんがな。
「先ほど、俺たちと言っていましたが、その途中で同じような境遇の者と合流したのでしょうか」
ああ。理由は様々だが、たしかに逃げるものと出会った。そして、南の様子を聞いた。奴らは神として崇められているようだった。真実かは定かではない。そういった情報をばらまいただけなのかもしれない。しかし、現実味はあった。そして、それに従わない離反者を反逆者として追放するとも。
「どう思われましたか」
そのときはなんとも。だが、今から考えれば、政治的な駆け引きがあったとすれば有りうる話だろうな。少なくとも、降伏した者たちが安全を買うことはできる。
「では、あなたたちは反逆者とされてしまったのですね」
当時はそんなことは考えていなかったな。離反者たちは空腹で倒れそうになりながら、木々の切れ目を見上げては、奴らの航空艦が襲ってこないかと心配しながら、北へ向かって歩いていた。……言いにくいことだが、俺は竜騎兵だったから飯には困らなかった。
「龍騎はスカイバードの子供ですから、ご飯を恵んでもらったのでしょうか」
そうだ。その食事に俺もありついたってわけだ。だが、あのときは空腹よりも龍騎がいることで発生する、信仰心ゆえの気力が人々の心を支えていたことはたしかだ。俺も、腹は満たされていたが、奴らの攻撃に精神をすり減らしていた。眠ることができなかった。
「信仰心ですか、たしかに、私も困ったときはいつも神頼みをしています」
……かみさまの化身がそこにいると思えばいい。それに、化身を鎮める騎兵は司祭を兼ねている。親子の絆に勝るものがそこにはある。そう周りからは見られているからこそ、俺たちに離反者は付いてきた。それに、俺の龍騎は優秀だった。動物的な直観があったのか、運が良かったのか、奴らの攻撃をかいくぐって、ついに奴らを撒いた。森を抜けて、草原に出たんだ。
「北の草原というと……」
お前も知っているだろう。エウル=ノアとメル=パゼルの国境線だよ。そこには杭が打たれてそれを縄でつないだ国境があった。俺は国の終わりがどうなっているかを知らなかったが、遠くにメル=パゼルの青服が見えたから、すぐにそれが分かった。それに……
「なんでしょうか」
それに、俺たちより先に到着した離反者たちがそこにいたんだ。多くはなかったがね。そいつらに話を聞いた。驚いたよ。あなたたちが最後なのですね、と言われた。
「最後、とは」
簡単な話だ。俺たちが率いている離反者の群れが今までに一番多かった。大きい群れは動きも遅くなる。それと、他の者の話を聞いて、どの地域も離反者が圧倒的に少ないことを聞いた。だから、俺たちが連れてきた群れの規模を見て、実質最後尾だということを判断したんだ。
「それは、当たっていたのですか」
ああ、残念なことにな。もしくは、帝国の奴らを引きはがせなかったのかもしれん。そういう意味では、俺たちの規模で逃げ切れたのは、神の奇跡と言われてしまった。
「そこに集まっていた人たちが、いわゆる505年製の、わが国の人間になったのですね」
ああ。だが、俺はそのことに腹を立ててはいない。見たからな。
「先ほどは、嫌な気持と言っていませんでしたか」
あれは、メル=パゼルが侵略を領土回復と偽り、グランパルエ川以北を自領と偽っていることにたいしてだ。それとは違う。俺たちが経験したのは、優しい侵略だったよ。
「わが国に辛辣なあなたにそう言わせるとは、私には想像がつきません」
……俺たちは国境線を前にして、なにもできないでいた。帝国の脅威から逃げ出したはいいが、その後は考えていなかった。いわば、俺たち離反者は国よりも宗教を信じた馬鹿の集まりで、このままでは餓死する殉教者たらんとしていた。草原には俺たちに適する食べ物がなかったからな。川すらなかった。雨は降っていたが、それでも限度があった。日に日に弱っていく者たちを見ながら、俺は竜騎兵だから、こいつらの死を見届けて、最後に死ぬのだろうと思った。
「国境を超えるという選択肢はなかったのでしょうか」
あったらよかったんだがな。国境に人が集まり始めてから、戦争でも始まると思ったんだろう。メル=パゼル側も兵力を増員していた。メル=パゼル側だけが臨戦態勢だったんだ。その空気は敵意と変わらなかった。とても、柵を乗り越えていく気にはなれなかったね。
「では、先に仕掛けたのはわが国であるというのでしょうか」
形式を重視するのであれば、そうなる。しかし、その形式の隙間を俺は見たんだ。
「隙間、ですか」
そうだ。……あるメル=パゼルの兵士たちの一団が国境に近づいてきた。それで、彼らがなにをしたと思う。国境の杭を抜いて、縄を切り始めたんだ。それだけ見れば、どう思う。
「それは、明らかに宣戦布告ですね」
だが、その兵士たちはそれをした後でこう言ったんだ。国境線を定義した柵が壊れて曖昧になってしまった。これでは国境がどこか分からない、と。続けて間髪入れずに、ここの、住人、がどちらに所属しているかも分からなくなってしまった、なんてな。
「理解が追い付きませんが、とんでもない詭弁を弄したのは分かります」
俺たちの窮状を見ていた兵士がいたんだろう。それで、俺たちを保護する手段を考え付いた。俺たちがここに住んでいるということにして、国境線を一度分からなくしてしまう。それで、俺たちを、メル=パゼル側にいるかもしれない、という理由を付けて一時的な保護措置を行使する権利を得たんだ。
「えっと……、よく分かりません」
分からなくても無理はない。これは恣意的な法のすり抜けだからな。やっていることはこうだ。俺たちがあの地域の住人であるという定義をする。これが基礎になって連鎖が始まる。
「はい」
住んでいる地域によって、まず国籍が定義される。これは簡単に分かることだ。
「そうですね」
それで、それを曖昧になった国境線の上にいた俺たちに当てはめた。そうすると、国境線が再定義されるまで、俺たちはメル=パゼルの人間である可能性を否定することができない。そして、戦争に巻き込まれそうな住人を保護するのは軍人の当然の責務だ。この理論で俺たちを保護する名目になる。
「え、ええ、……それは、いいのですか」
もちろん恣意的なすり抜けはご法度だ。それに、国境線を破壊したのはメル=パゼル側だから、エウル=ノア国に抗議されれば不利なのは当たり前だ。だが……、帝国に侵略されているエウル=ノア側に抗議する余裕なんてないだろう。
「まあ、なんともすごいすり抜けですね」
それを実行した当人たちに悪意はなかっただろう。巡回をしている兵士が国境の向こうの俺たちを心配そうに見ているのは分かっていたから。それで、彼らの保護を受けることになった。だが、そこで俺は龍騎を亡くしたんだ。
「そうだ、どうして龍騎は死んでしまったのでしょうか」
たぶん砲弾の破片だ。龍騎は治癒力がいいから、破片が体内に入っても外傷が治癒して見つけられなかったんだ。そして、その破片が動き回っているうちに内臓を傷つけた。……俺は龍騎の体調に気づかなかったんだ、
「……不幸な話ですが、しかたないのでは。状況が状況ですし、不眠不休だったのでしょう」
それは言い訳にしかならない。俺の不注意だったことに変わりはない。それ以来、俺は龍騎には乗っていない。
「そうですか。……それで、どうしてあなたはいまだにメル=パゼル人のままなのでしょうか」
そんなことは知らん。だが、そうやって俺たちを保護したことで軍の上層部か、政治家が機に乗じたんだろう。自国民の保護を名目として、俺たちが国境を警備している兵士たちに保護されている横を、装甲歩兵師団が悠々と歩いて行ったよ。嫌味でもなんでもなく、素直に、かっこいい奴らだとは思ったね。
「それで、あなたはわが国の国民になったのですね。その後も聞いていいでしょうか」
その後はお前も予想できるだろう。ミテルヴィアンに保護されて、そこでメル=パゼル語を完璧に覚えた。ミテルヴィア人みたいな訛りなのは、そのせいだ。その後は、エウル=ノアの口伝なんかを整理する手伝いをして、あの洞窟のことを思い出したんだ。
「最初から知っていたのですね」
人には言えないが、子供の頃入ったことがある。それで、あの石板を見つけた。子供の時には分からなかったが、伝道師の爺がいてな、その爺があの禁忌地域の石板の中身を聞いた。爺の話は全部古代語だったから分からなかったんだが、古代語は竜騎兵になったときの教養として覚えさせられた。ついでに、簡単なメル=パゼル語もな。それで、あの石板の中身をおおよそ察することができたんだ。
「それで、ここまで戻ってきたのですね。どのような心境で」
そうだな。俺の、俺なりの、神への向き合い方だ。神を見失った俺のな。もう俺はエウル=ノア人にはなれない俺は、スカイバードを学術で解体して、おこがましいが、神と対等に向き合おうと思ったんだ。
「宗教家が聞いたら、褒められたものではない、と言うでしょうね」
俺の知ってるミテルヴィアンの師匠はそうは言わなかったぜ。だからこんなことをしている俺がいるんだが。
「そうですね。ところで、先ほど言っていた、あいつ、というのは龍騎のことですよね」
…………。
「あれ、答えてくださいよ。どうなのでしょう」
……休憩するぞ。
「あ、はい」


「ところで、今まで取材した感想なのですけれど」
なんだ。
「これは宗教どころか国すら動かす大発見だと思うのですが、どこかで発表などされたりはするのでしょうか」
するとして、そんなことを聞いてどうするんだ。
「いえ、それに便乗して私の取材した成果を新聞に刷って誰よりも早く号外として配りたいと思いまして」
……商売熱心だな。残念だが、その機会は永遠にこないだろう。
「これを発表などされないのですか」
これは俺の自己満足のための研究だ。誰にも見せる気はない。それに、俺の説は仮説だらけで、俺ですら疑いたくなるほどだ。
「それは残念です。でも、いつか発表する機会があれば呼んでくださいね」
俺がその時までに死んでいなければ呼んでやるくらいはするだろう。だが、このご時世にそれはないだろうな。
「戦争のことでしょうか」
そうだ。今はどこも戦争の話題だらけだ。帝国の航空艦の話で持ちきりだ。そして、どの国も、それに対抗する兵器を作ろうとして血眼になっている。そして、奴らがなにに目を付けたと思う。
「すみません。兵器産業は疎くて」
……空中浮遊機関だよ。
「あー、名前だけは聞いたことがあります。名前からして空中浮遊が可能な機械なんでしょうね」
ここにいる学者も、旧文明のなにかを掘り出しにきている。その本命が、浮遊機関なんだよ。
「それを発掘することができれば、帝国にたいして有利に戦える、というわけですか」
みんなそんなのばっかりだ。俺があの基地でどういう扱いだったか見ただろう。
「ああ、やっとつながりました。あなたが考古学者ではなく、人類文化学者であるということは、すなわち戦争に非協力的である、という話になっているのですね」
奴らは。……いや、時代が、旧い未来を探しに来ているのさ。新しい過去はもう誰も見てはいない。奴らは、俺を新しい古い人と呼ぶ。最近はそれにも慣れたよ。切り返しの台詞を披露してやろうか。
「ええ、ぜひお願いします」
俺は地面に穴を掘っている。奴らは、どうして俺が穴を掘っているのかを聞いてきた。……聞いてみろ。
「あ……。どうして、地面に穴を掘っているのですか」
すると俺はこう答える。穴じゃない、俺は墓を掘っているんだ。奴らはこう言う。墓は死んだ人間のためにあるものだ。誰か死んだ人間がいるのか、と。
「誰か亡くなったのですか」
ああ、死んだ人間ならここにいるさ。今、その墓を掘り返して俺が代わりに入るところだ、ってな。
「……笑えない切り返しですね」
これでも嫌味を言うやつには、今掘り返したみたいな動作で標本用の頭蓋骨の破片でも見せてやれば泡食って逃げるさ。
「墓荒らしは冗談としては最悪の部類ですよ」
そうだな。だが、奴らも同じことをしている。それに気づいていないのさ。なにせ、奴らは希望ある未来を掘り返していると思い込んでいるんだからな。


「ここでお別れですね」
基地に行かなくていいのか。お前の帰りの交渉だってあるんじゃないのか。
「それも考えたのですが、来た道を引き返すほうが早そうなので」
……飯は大丈夫なのかお前。
「イーノックさんが背中の食料を渡して身軽になっていただければ、船の渡しのところまで余裕をもって行くことができます」
そうか、本当にお前は危険を顧みないな。
「情報は足の速さが命ですから」
まぁいい。気を付けてな。死ぬなよ。
「大丈夫ですよ。それより、あなたはこれからどうするのですか」
……本当に、どうするかね。
「本当にミテルヴィアンになられたらいいじゃないですか、宣教師ではなく、修道士として」
不信心者が祈ったところでどうなるというんだ。
「でも、あなたはスカイバードを最後まで信じて、ここまで戻ってきたのではありませんか」
……そういう考え方もできるか。
「あなたは、逃げ出しても、ここにもどってきたんです。ですから、あなたはエウル=ノア人としてでも、ミテルヴィアンとしてでもなく、ただ一人、スカイバードの観測者となったといっても過言ではないのでしょう」
宗教者ではない俺がミテルヴィアンになることの意味はなんだ。
「あなたがミテルヴィアンとして認められれば、私はあなたを取材したことで良い飯が食えるからです」
…………。
「私のためです、寸分の狂いもなく」
はあ。徹頭徹尾、か。だが、そうするしかなさそうだな。
「それに、祈るためだけが修道士ではありませんよ。たしか、編纂事業はあなたには似合っていると思います」
……どうも、考えてみるよ。じゃあ、これで本当にお別れだな。
「ありがとうございました」
……最後に一つ教えてやるよ。
「なんでしょうか」
俺の名前はイーノック・ガルボだ。だが、イーノックは偽名だ。
「……そうだったのですか、驚きました」
とはいっても、俺がメル=パゼル人になったときに俺が付けたものだ。由来は、俺の国の名前だよ。……ほら、この文字をこうして、こうすれば。
「ああ、なるほど。たしかにそうなりますね。で、あなたの本当の名前はなんだったのでしょうか」
もう存在しないよ。もう、エウル=ノア国が存在しないのだから。
「あ、それは卑怯ですよ」
俺がエウル=ノア人だったときに聞いておけばよかったな。
「それは、難しいですね。私は今のあなたにしか会えませんから」
俺のせめてもの意趣返しだ。ずっと解決できない謎を抱えて歩いて行け。死ぬなよ。
「はい、ありがとうございました。そちらこそお元気で」


「いい話を聞くことができました」
「イーノック・ガルボ、あなたも、名前を偽っていたのですね」

「MIKERA/D、録音を終了します」
最終更新:2017年11月25日 18:56