或る空鯨の終わり

意識が覚醒した彼が最初に見たのは、ひび割れたキャノピーと所々脱落した計器類。自分の乗機の中らしい。そして、最初に覚えたのは、生温く湿った座面の感触と、噎せ返るような血の匂いだった。

「え…あ…?」
何があったかを思い出した所で、彼の中で恐怖が再燃する。
敵機の群れ。群れ。群れ。それらがあっという間に編隊を包囲したかと思うと、直後に背後から凄まじい衝撃を加えられ、そのまま昏倒したのだ。

「生き…てる?」

信じられない面持ちで、彼は頭だけをゆっくりと外へ出す。
機体の後ろ半分が消えていた。ごっそりと抉られた断面からは人の頭ほどの大きさの気嚢がいくつも飛び出し、引きちぎられた動脈からは脈拍と共に勢いよく鮮やかな血が噴き出して地面を赤く染めている。
思わず残った計器を見やると、機体の心拍数は異常なまでに多く、血圧が著しく低下している。典型的なショック状態だった。そして、乗機がそのような状態に陥った際に操縦士がとるべき行動はただ一つ―――脱出だ。

彼はおもむろに座席の下に顔を突っ込むと、座面の下にある蓋をこじ開けた。
中には3つのボタンと1本のアンプル、そしてその奥に鎮座する灰色の円筒。

―――最も手前の手前の青いボタンを押すとアンプル内の薬液が注入され、脳髄は昏睡状態に陥る。そして二つ目の黄色のボタンを押すと脳髄と機体の接続が解除され、ポッドの取り外しが可能になる。

座学で教わった手順を思い出しながら、彼は黙々と作業を続ける。そして三つ目の赤いボタンの上に指を置くと、暫し逡巡した後に力強く押した。
次の瞬間、機体が凄まじい勢いで跳ね、ビクビクと痙攣する。辺りには焦げ臭い匂いが立ち込め始めていた。

―――機体を放棄する際は必ず器官を安楽死させなければならない。これは生体技術の漏洩を防ぐことはもちろん、器官の苦痛を和らげるという観点からも極めて重要な行為だ。
……この時点で中枢脳から切り離されているとは言え、機体側の神経節にはまだ思考能力が残されているのだから。

教官の言葉が頭の中で繰り返される。いつかはこうなると覚悟していたが、いざ自分の番になってみるとこうも何も感じないものなのかと思わず彼は自嘲した。

ポッドとサバイバルキットを背嚢に詰め、操縦席から飛び降りた彼はふと背後へと振り返る。処置を終えて数分も経っていないというのに組織の自家融解が始まり、装甲版が脱落し始めていた。辺りには濃密な死血の臭いと焦げ臭さが立ち込めている。じきに飢えた獣どもが押し寄せることだろう。そうなる前にここを離れなければならない。
ポッドの栄養液が尽きるまで残り8日、それまでに友軍と合流しなければ彼の相棒は2度目の死を迎えることになる。

―――それだけは絶対に御免だ

彼は前へ振り向き、森の奥へと消えていった。

最終更新:2017年12月05日 23:07