アーキル鉄道三等客車車掌の手記

まさか声をかけたらいきなり当たりを引くとは思わなかった。
帳面を買うほどのものかと自分でも疑っていたのに、負債を回収できてしまいそうだ。
時刻表と切符と手続き以外になにかを書いていくなんて久しぶりだ。
さて、どう書いていけばいいやら。

ここに自分の名前を書くことはできない。
ちょっとした秘密を抱えていて、その秘密によって面白い話を得たからだ。
どこの車掌かも書くことはできないが、三等客車で起きた話だとは明言しておく。

俺は三等客車を見回って切符を確認しているところだった。
とはいっても三等客車なんていうのは人が通れる隙間もないような場所だ。
貨物が乱雑に突っ込まれていて、まるで移動型倉庫のようだ。
いや、本来は物資を詰め込む貨車なのだ。
それを、「三等客車」などといって貧しい乗客を無理やり乗せている。
二等客車までしかなかった列車編成に貨車まで曳かせての運用によって、連日機関車が悲鳴を上げていた。
戦後という、混沌の状況が生み出す歪な光景。
生まれたときから混乱のなかで過ごしていた俺にとっては、いつも通りの風景だった。
運ばれていく貨物には、軍需物資もあるし、民間物資もある。
俺の国に輸入されるものもあれば、輸出されていくものもある。
芋が北に、建材が南に、精密品が東へ、魚の塩漬けが西へ。
いつもは、だいたいそんなところだ。
それらが箱に詰められて一杯になった車内に、さらに人を詰め込めばどうなるか。
人口密度は難民収容施設よりも過密な状況になり、人を踏んで歩いていくようなもの。
父の話では、見回りが容易ではないことをいいことに、貨物の箱をこじ開けていくような窃盗は日常的に起きていたらしい。
そんなことになりながら、今も「三等客車」というもの自体が存在しているのは不思議なことだ。
ただ、俺は盗みの現場に遭遇したことはない。
うまいこと乗客が隠れて物資をくすねているような痕跡はあるが、強奪と形容するには程遠いもので、手頃な金属塊が一つなくなっているだとか、水の瓶が二、三本無くなっている、などの些細なもの。
乗客が貨物の強奪をしないのは、理由があった。
俺の前の代、つまり父の代で、言葉通り、盗みを働いたものを手当たり次第撲滅したらしい。
列車のなかで車掌は神のような存在だ。
必要なことであれば、列車のなかでなら殺人ですら黙認される。
警棒と銃器を車内で振り回す血の時代が終わってからは、三等客車は静かになった。
それどころか車掌たちが調子に乗り、過剰な暴力を振るったために、三等客車には一時期人がいなくなったこともあるという。
それはそれで困る鉄道会社は車掌を取り締まり、貨物を盗まなければ乗客を大目に見るという暗黙の規則が締結された。
大目に見るというのは、たったそれだけの理由で過剰な暴力を行使しないということだ。
たったそれだけの理由というのは、ほとんどの場合、切符を持ち込まないで隠れて乗り込むというものだ。
あの頃になにがあったのか、聞かずとも理解できるものだった。
貨車のなかをひどく赤く染めた出来事があったのだろう。

回想など、書いていれば案外いつまでも書けてしまうものだ。
血の時代が去ったとはいえ、無賃乗車は許されるわけではない。
過剰な対応をしないというだけで、車掌が車内で取り締まるには十分な理由だ。
三等客車を車掌が巡回しているのは、切符を確認しながら無賃乗車した乗客を引きずり出すためだった。
乗車への対価を求めるのが車掌たる俺の仕事だ。
金銭が足りなければ、次の停車駅で放り出すか、他の方法で払ってもらう、といった穏当な対応をすることになる。
前時代的に、暴力ではないが女の体を狙うような外道もたまにはいるらしいが、俺はそんなことをしない。
きちんと対価をいただく。
ただ、俺は優しいので全部取るようなことはしないし、払えないからといって途中で放り出すようなこともしない。
俺は、値引きをしてやる。
そいつの面白そうな話と引き換えに、払える程度まで抑えてやる。
情報屋に売れば値引いた分の損失は回収できている。
俺の秘密というのは、まぁそんなところだ。
列車の運行中は長いこと人の話を聞いている。
話をまとめるために最近帳面を買ったんだ。
記憶力が衰えているわけではない。
だが、読み返して面白いと思えそうな話は帳面に記入してもいいかなと思うようになった。
他にも、重要そうな話は細かく記載する必要もあるだろうしな。
たった一つの情報があるかどうかで情報屋の払う金銭面でもだいぶ変わってくることもある。

俺はなんと、その日ミテルヴィアンを捕まえた。
自分でも驚いていた。
まさかミテルヴィアンが無賃乗車なんてあり得ないからな。
彼女は女性で、つまり尼さんだったわけだ。
ザイリーグ規格線からミテルヴィアンが本線へ乗り換えてくるのは珍しいことじゃない。
巡礼、布教で彼らは全国を巡回するし、ミテルヴィア郵政官のための列車さえ、主要な国は最低でも一両は確保しているくらいだ。
そして、ザイリーグ規格線とアーキル「本線」規格線とは、大陸北部の横断を成す重要な交通路ということは周知の事実である。
メル=パゼルからパンノニアに行くにも陸路は本線を通らなければならない。
各地を巡回するミテルヴィアンが本線に乗っていることは普通なのだ。
しかし、あのときは状況が違った。
いくらミテルヴィアンといえども、今は二等客車に乗っているものがほとんどだ。
逆に言えば、今のミテルヴィアンは二等客車に乗っているということでもある。
彼女は三等客車に乗り込んでいた。
ザイリーグでの乗り換えのとき、俺は三等客車に乗り込んでいく人混みのなかで、ミテルヴィアン特有の巡礼服を見たような気がした。
あり得ないと思った。
俺はモグリか変装芸人だと思っていた。
もしくは、かなりの事情があるか。
そのときから、面白い話が聞けそうな気がしていた。
乗り込んだ場所を確認して、俺の列車だということがわかって、そのときは見逃した。
列車が発射する前に声をかけることはできない。
現行犯は逃げ場のない場所で、というのが鉄則だ。
逃げ場がなければ逃げられるということはないし、現行犯を未遂で言い逃れさせてしまうこともない。

三等客車は連結器が剥き出しで、連絡通路などないからいつもひやひやする。
隣の客車に飛んだ瞬間、ふとした突風で虚空に体がもっていかれてしまわないか心配になる。
何度も怖い思いをしながら、俺は目的の客車にやってきた。
扉を開けると、どこからともなく「切符を出せ」という言葉が客車にこだました。
俺が言ったわけじゃない。
ただ、厄介を避けるために、持っている奴と持っていない奴を車内の人間が勝手に選別しているだけだ。
出される切符を片手間に切りながら、俺は目的の場所へ向かう。
たまに詰め込まれた人の間で隠れて切符を出さない奴もいたが、そんなことに興味はなかった。
客車の端に座っている人物がミテルヴィアンの彼女だった。
なにやら説教をしているようで、スカイバードの教えやらを熱心に説いていた。
俺が来ると説教を聞いていた奴らも俺に向き直って切符を差し出した。
ただ、尼さんだけは慌てているようだった。
客車内での立ち振る舞いに疎いと、慌ててこういう反応になることもあるが、彼女は慌てぶりの種類が違った。
無賃乗車で切符を出せない人間が、隠れる場所もなく困っているときの動揺だった。
手際がいい奴は客車の端にはいない。
たいてい、客車の中腹の、人に隠れられる場所にいる。
ミテルヴィアンの偽物かはいったん忘れるとしても、尼さんはどうやら常習犯ではない様子だった。
とすれば本物だろうと思った俺は、尼さんがなにか言い出す前に先に仕掛けることにした。
どこかで切符を盗まれたのですね、と。
彼女は無言で驚いていた。
無賃乗車を咎められると思っていたのだろう。
悪い奴もいるものですね、と世間話を装って彼女の反応をうかがったが、尼さんは話を合わせながらも申し訳なさそうにしていた。
周りの乗客も、勝手に俺の話に便乗している。
一般人が尼さんに向ける態度は、誰もがこのようなものだ。
手続きをするのでこちらへ、と言えば、彼女は「お願いします」と差し出した手を握り、俺に先導されて車掌室までたどり着く。
こうして、俺はミテルヴィアンと接触する機会を得た。

特殊な対応をするのは、相手がミテルヴィアンだからだ。
ミテルヴィアは宗教国家で印象戦術の本家といってしまっても過言ではない。
清廉潔白で質実剛健、高貴なる謙虚。
思いつくだけで、こんな言葉が並んでいく。
多くのものは、ミテルヴィアンを見て、そう思う。
だから、ミテルヴィアンが切符を買わないで乗車するということは「あるわけがない」のだ。
俺もミテルヴィアンが無賃乗車をしたという話を聞いたことがない。
ただ、なにかあったときにはまずミテルヴィアンを優遇せよという業務命令がある。
今回のような、無賃乗車を切符の盗難にすり替えるようなことを他でも実施しているのかもしれない。
穏健にミテルヴィアンに対応し、本物であれば優遇を。
モグリやなにかであれば客の見えないところで制裁を加える、という方法でもあるわけだ。
これも印象戦術の一環なのだろう。
外から見て、ミテルヴィアンと我が国が「非常に友好的」であることを簡潔に表現しなければいけないのであるから。
少なくとも、俺が無賃乗車のミテルヴィアンを見たのも触ったのも、経験がないことだった。
結果的に、彼女は本物のミテルヴィアンだった。
しかし、無賃乗車をした理由がふざけていた。
嘘を言った、というわけでもないし、おそらく本当にあったのだろう。
「クルカに財布を盗まれた」だとさ。
財布に切符を一緒に入れていたらしく、財布ごとクルカに持っていかれたんだと。
これだけで俺が今まで聞いた話じゃ一番面白いものだった。
本人はいたって真面目だったのだろう。
俺は思わず吹き出しそうになってしまった。
そう言われてみれば、どこからどう見ても「クルカに財布を盗まれそうな奴」だったな。
アーキルでのからかい言葉がミテルヴィアンの口から発せられる現場に居合わせるなんて。
今でも思い出し笑いしちまう。
それで、期日までに目的地の場所に向かわなければいけなかったたらしい。
無賃乗車になるが、どうしようかと思っていたところ、三等客車へ向かう人混みに巻き込まれ、気付いたら三等客車のなかにいたという話を聞いた。
そのときの俺は、彼女が「軍需物資」ならともかく、護衛も付き人もいないのを見て、二等客車の名簿に名前が残っていると思った。
後で確認しておこうと思いながら、この時点で彼女が確認するまでもなく本物のミテルヴィアンであると確信するに至った。
少なくとも「クルカに財布を盗まれた」なんて言葉を口にできるのは、本物のミテルヴィアンくらいのものだろう。

暗がりではわからなかったが、車掌室に来てみると、尼さんはいいところのお嬢さんのようだった。
服装は地味な巡礼服だったが、姿勢や顔立ちが美しかった。
彼女は、金銭はラオデギアで払うと言い始めた。
ミテルヴィアンのための協会があり、そこで信徒向けの借財を扱っているらしい。
面白い話が聞けそうだということと、ミテルヴィアンなら絶対に払うだろうというある種の信頼から、俺は支払いの催促を猶予して無賃乗車を見逃すことにした。
話の面白さによっては支払いを値引きしてもいいと言ったが、全額払うといって聞かなかったのは好感が持てた。
ただ、俺は彼女を甘く見ていた。
いや、ミテルヴィアンを甘く見ていたといえばいいだろうか。
乗車賃をなくしてもいいと言ったときに勘付かれたようだ。
ミテルヴィアン相手に悪事を見せびらかした俺だが、彼らの嗅覚は昔から鈍っていないみたいだ。
「なさっているのはそれだけではないでしょう、改めたらいかがですか」
と少し軽蔑した口調で言われてしまった。
彼女にとっては、俺の悪事の、もう一つ奥が透けて見えたのかもしれない。
そう、俺は運賃の値引きをしている。
話によっては俺が客の分を負担しても情報でまったく補えるからだ。
だが、俺は無賃乗車した奴から金銭を徴収しても、本部に納めていない。
そもそも、三等客車なんて、貨物ならともかく、乗客が何人乗ったかなんて誰も把握しちゃいない。
せいぜい、今日はこれくらい混んでいた、とか、貨物が多かったので全然人が入っていなかった、とか書くくらいだ。
切符を切るのも、確認はしても数を数えているわけじゃない。
乗車券の販売所も、早朝に開店した瞬間、あるだけ再販売業者に買い占められて、近くの路上で売られている有様だ。
その方がうまく回っているんだから、少なくとも俺はなにも言うことはない。
三等客車を把握できていないなら、無賃乗車した奴が「最初から乗っていなかった」ことにしても、誰が分かるだろうか。
無賃乗車したやつから乗車賃を徴収し、それを「いなかった」ことにしてしまうのだ。
手に入れた金は誰のものか、言わずとも分かる。
なかば常態化している闇の部分だが、俺が最初に考案したものでもなければ、俺が始めたものでもない。
気が付いたら、三等客車では誰もがやっていたことだ。
誰からどれだけ徴収するかは車掌自身の性格による。
「見逃し料」も兼ねて運賃以上に巻き上げる悪党もいる。
俺みたいな、手慰みの話によって値引きもやる善人もいる。
尼さんからすればどちらも悪人だろうけどな。
暇つぶしの話に付きあってもらうだけの俺なんか善人も善人なんだがね。
先も書いた、払えない奴に体を強要して、列車のなかで性欲の発散をするような奴もいるんだから。
なかには無賃乗車した女を雇って、三等客車の一つを無断で娼館みたいにしちまう奴もいて、苦笑いしか出てこないものもあったしな。

結局、運行中は暇な俺の話し相手は、このミテルヴィアンになった。
軽蔑されたみたいだが、彼女は話しているときに、これといって表情や口調にそれを出すことがなかった。
たぶん、心情はともかく、相手との状況によって話し方を変える教育をされているのだろう。
事情聴取の一環で、どこから来たか、どのような経路を使ってどこまで行くのかを聞いた。
ミテルヴィアの首都アーケーで辞令を受け取ったそうだ。
メル=パゼルとミテルヴィアの国境の辺りから入って、メル=パゼル規格線で南下してきたらしい。
キタラギからコトラギへ曲がり、ザイリーグで乗り換え、さらに本線へ乗り換えたらしい。
このとき、彼女はクルカに財布を持っていかれたそうだ。
ミテルヴィアから離れるほどクルカの気性が荒くなるという噂話があるが、案外本当かもしれないな。
なにも問題がなければウルンカンを通ってソルノークやカルタグまで行けたらしいんだが。
乗車券の代金を補充するために、俺の乗っているこの列車の終着駅であるラオデギアまで行って、協会に寄ることにしたようだ。
あとは、現地での説教などで貯めるのだとか。
彼女がパンノニアまで行く理由は、現地の戦後復興のための応援派遣らしい。
人が足りないのはどこも一緒だが、我が国と違ってパンノニアはこれからどんどん発展していく土壌がそろっているようなもので、とてもうらやましい。
更地を喜ぶような真似はしないが、これからパンノニアに土建業者と信仰者が集まる流れは止まりそうにない。
もしかしたら、三等客車に乗っている奴の半分以上はパンノニアに行くのではないだろうか。
活気のあることで。
しかし、彼女の話の端々からは気苦労を思わせる言葉が漏れてくることもあった。
本来では派遣されることもなかったらしいのだが、パンノニアはかなりひどい状況らしい。
過酷という意味でだ。

事態は戦時中にさかのぼる。
戦時中のミテルヴィアによる対クランダルト派遣軍の話は父から聞いていた。
戦場に派遣される武闘派ミテルヴィアンの精鋭は、従軍司祭と広く呼ばれていた。
軍は、戦意を高揚させ、戦争を勝利に導くに値するラドゥ教者を軍需物資として指定した。
通称「ミテルヴィアからの物資」、あるいは単に「軍需物資」だ。
父の現役時代は、車掌の誰もが符丁として使っていた言葉らしい。
ミテルヴィア産の「軍需物資」は次々に南下していった。
昔は、一等客車を十数両もつなげて──今とはまったく逆だな──ミテルヴィアンを送迎していたそうだ。
内容は機密扱いで父も詳しくは知らないし、詳しく言うこともしない。
ただ、通常の機密条項の規則の他に「ミテルヴィアンの誰が乗って、なにを話して、どこに向かう、という話さえしてはいけない」という規則と罰則が別に設けてあったらしい。
通常の軍需物資よりも一段高い機密性が従軍司祭にはあったのだろう。
父がなんとか話してくれたのは、ミテルヴィアンというものが、あの時代はとても政治的なものだったらしいことだ。
現代もそうだろう、と言ってみたが父は首を横に振るだけでなにも言わなかった。
とにかく、「軍需物資」の扱いは慎重なものになった。
噂では、従軍司祭として派遣されるミテルヴィアンはみな、政治家や官僚と同じ権限を持っていたらしい。
つまり、従軍司祭一人一人がミテルヴィア外務省の重役という扱いだ。
一等客車だけで構成された車列の一番いい場所に、一番偉い従軍司祭が座り、それ以外の一等客車には付き人や世話人が乗り込む。
そして、客車のなかで政府や軍のお偉いさんと会って、未来のことについて決めていたらしい。
俺の知らない、ミテルヴィアンが重宝され、重用され、人の不安を和らげ、崇拝を集めていた時代があった。
それに比べたら、ミテルヴィアンが二等客車に乗っている風景というのは、平和で庶民的な感想を抱くことができる。
余談だが、父は地位が高いわけでもないが、一度だけ従軍司祭の──下っ端のものだろうけど──儀仗と外套を持ったことがあるらしい。
持つといっても、儀式的なものだ。
列車が何事もなく目的地に到着して、最後のミテルヴィアンが降車したとき、列車の今後の運行について武運を祈るために、外套と儀仗を一つずつ職員に下賜する文化があったそうだ。
差し出した諸手に広げられたままの外套が被せられ、その上に儀仗を乗せられて両手で捧げ持ったらしい。
儀式としてはこの上ないものだろう。
だからだろうか、父はその一件以来、うちのなかで唯一ミテルヴィアとラドゥ原理主義を贔屓している。
惚気みたいなことを言い出したときはきまって、母の主導によって、家族全員で頬を引っ叩いたこともあった。

話が脱線してしまった。
……縁起でもないな。
とにかく、重要なことは、戦争に多くのミテルヴィアンが駆り出され、戦場に宗教が持ち込まれたということだ。
戦争が終われば、従軍司祭としての仕事は終わり、武闘派ミテルヴィアンはアーケーへ戻り、戦果の報告をしにいく。
そのはずだった。
だが、戦後は「野良ミテルヴィアン」と呼ばれる存在が各所に見られるようになった。
従軍司祭が戦場に率いていったミテルヴィアンが問題の発端だった。
戦争の長期化で戦場に行くミテルヴィアンが増え、日常へ帰らない日々が続いたからか。
心を病んだミテルヴィアンは少なくなかったようだ。
心身症が彼らを蝕み、ミテルヴィアンをも自暴自棄にさせた。
野良ミテルヴィアンは、俺の周りの生活には溢れて、ありふれている。
脱落者や行方不明者が続出したためだ。
さらには、真理不明と判断されて除籍されたものもいると聞く。
なかには「軍需物資」自体が真理不明になって散逸してしまった例もあるらしい。
真理を失ったものというのは誰もが悲惨だ。
彼らは「戦争から帰還しなかった」ものとして、つまり行方不明あるいは死亡という形で扱われた。
だが、彼らは姿を消したために除籍されたが、除籍されたもの全員が死んだわけではない。
街頭や路地裏で生活しているのだ。
しつこく、しぶとく、生きている。
生活の糧を稼ぐ傍らで説教による布教活動をして、信者を増やそうとしている。
ミテルヴィアンという出生自体が布教を課せられた宿命であるかのように。
野良ミテルヴィアンは「自分はミテルヴィアンだ」と断言して活動している。
それはミテルヴィアの意思にまったくそぐわないものだ。
俺も見たことがある。
裏闘技場で、試合開始前に両者に武運を祈る、巡礼服を着たしわくちゃの老婆がいた。
たまに同じ服を着せた孫を連れてきて、孫に武運を祈らせていたりもしたのを見た。
俺の住まいの路地裏に、ラドゥ教原理主義者らしい乞食がいた。
廃人のようにも見えたが、神について短い説教をしては、ありがたいと同じ乞食仲間から衣食住の世話をされているのも見た。
どこかの駅前の街頭で、戦いについて説教している武闘派ミテルヴィアンがいた。
目の焦点がどこかおかしくて、クランダルト帝国との聖戦の継続についての嘆願署名を求めているのを見た。
我が国から西へ行き、メル=パゼル規格線とザイリーグ規格線で南下して、ヒグラート方面へ向かうミテルヴィアンがいた。
平和な時代に戦争のありそうな場所を好んで身を投じようとしているのを見た。
彼らが従軍司祭であったか、ミテルヴィアンであるのか、本物かどうかも知らない。
だが、真理不明者もモグリのラドゥ教信者もあまり変わらない。
ラドゥ教の本部であるアーケーの言うことを聞かない、という一点だ。
ミテルヴィアの定める真理に反し、戦場で違う神を見出し、違う真理を会得してしまったものたちを支援することは、ミテルヴィア本国は絶対にしない。
彼女のように協会で金を借りるということも、もちろん野良ミテルヴィアンにはできない。
へその緒を切られた胎児のように、世界に窒息して死んでいく。
真理不明者とは、そういう存在だ。
俺は、真理不明者がミテルヴィアでは背教者として扱われることを知っている。
脱落者よりも意味の重い、背教者としてだ。
今はまだ、戦後の混乱という隠れ蓑で排除されていないだけで、我が国でも、ミテルヴィアの要請によってか、官製の、モグリのミテルヴィアンへの排斥運動が徐々に活気付いているのも知っている。
野良ミテルヴィアンの居場所は、表舞台には存在しない。
夜が来ると、彼らは影と闇のなかに消えていくのだ。
いずれ、影のある場所にも、闇のなかにもいなくなるのかもしれない。

パンノニアの話に戻ろう。
南の地は野良ミテルヴィアンが多くいる。
戦争は南で起こっていたから、南にミテルヴィアンが集中していたのは誰でもわかっていることだ。
俺の車掌としての経験則でも、野良ミテルヴィアンはパンノニアから帰って来て、我が国で活動した後、また南へ戻っていく習性があるように思える。
いや、彼らだけではない。
本物のミテルヴィアンでさえ南から帰ってくるものが多い。
野良ミテルヴィアンがいるせいからか、それともそれ以上になにか大きな要因があるからなのか。
パンノニア統一戦争があって、従軍司祭と野良ミテルヴィアンが区別なく入り混じっていた時期もあるからか。
ミテルヴィアの祈りは、パンノニアでは統一性を欠いているように思える。
応援として彼女が急いでやってきたのであれば、筋書きは通る。
アーケーでは新しいミテルヴィアンの育成を始め、さっそく先遣隊かなにかを疲弊したパンノニアに送り込もうとしているのだ。
俺の考察の結果の予測だが、方向性としては間違っていないだろう。
なにせ、この尼さんの言葉によく復興とか、新生とかの言葉が紛れ込むからだ。
復興という言葉は主にパンノニアについて語られたときに出る言葉だ。
しかし、「新生」というものはこの時点で深く語られることはなかった。
ただ、ミテルヴィアでなにかがあって、古い体制が改められたという話なのだろいうという予測だけはしていた。
聞き出したかったが、不用意に聞いて警戒させてはいけないので、当分は当たり障りのないことを話すことになった。

この時期にミテルヴィアンがアーケーから出立することは稀だそうだ。
むしろ、他国からの巡礼者がメル=パゼル規格線に乗ってミテルヴィアへ巡礼に来る時期だったらしい。
メル=パゼル北部路線はアーケーへ行く巡礼者で盛況だそうで、駅は彼女の目的に逆流する流れが生まれており、川に逆らうがごとくの難行に等しい状況だったそうだ。
いつも閑散としている駅には、このときばかりは露店でひしめき、旅支度を揃えるものたちが保存食や買い足しの品を購入していたらしい。
商売という名目で露店を立てるのは控えるべきなのだが、この時期に限ってはもはやその制約が意味を成しておらず、偶像を売っているものすらいたそうだ。
厳しく取り締まっているのかと思えば、品は小さく、ミテルヴィアに巡礼に来た土産として気軽に買うことができ、売り上げの一部をミテルヴィアに納めて「ミテルヴィアによる委託販売」として秩序によって統括されているらしい。
では、委託販売分のカスリは誰の懐に入っているのだろうか。
俺の悪意に敏感な尼さんだぜ。
先制して「すべて巡礼者の往く道の整備に使われています」と言われてしまった。
むしろ、土木工事が必要なほど巡礼者が増えてしまったために、市場を取り締まる一環として、偶像についての売上税導入を始めたという経緯らしいことがわかった。
そうなると、巡礼で儲けているのはミテルヴィアよりもメル=パゼルだろう。
毎日満杯の列車を走らせるだけで利益が舞い込んでくるとなれば、これほど嬉しいものはない。
俺たちみたいに三等客車に人を詰め込むようなことはせず、二等客車だけで揃えた特別急行を走らせて、篤信な巡礼者から金と感謝を巻き上げているに違いない。
うらやましいったらない。
もっと我が国の方面から西へ巡礼者が行ってはくれないだろうかとも思ったが、水面下で反目しているような有翼信仰者の俺が言えた義理でもない。
我が国の人間は、政治家か、古い世代の人間──感化された父みたいな──くらいしかミテルヴィアへは行かないだろう。
金持ちになれるかもしれないという浅はかな夢はすぐに頓挫してしまった。

ミテルヴィアンは魚を食べることができない。
一般的には広くそのように解釈されている。
空という水のなかを泳ぐ神の依り代を食べることは、ミテルヴィアンにはあってはならないのだ。
つまり「スカイバードに似た姿をしている魚を食べるのは縁起が悪い」と簡単に言い換えられる。
同じように、クルカはミテルヴィアで重宝され、食べるのはもちろん、傷つけることさえ禁忌だ。
「スカイバードの意志」によってクルカはミテルヴィアで本来の姿を保っていられるらしく、あそこのクルカは人語を解し、理知的なふるまいをするらしい。
俺は見たことがないので信じないが、本当だとすれば神の奇跡というにふさわしいだろうな。
この話をしているときは停車中だったのだが、いつものように列車の部品を盗みにくるクルカが屋根に張り付いているのを感じて、いつものように屋根を裏側からぶっ叩いて追い払っているのを見られてしまった。
なにをしていたのですか、と言われても困ってしまう。
まさか「クルカに財布を盗まれそうな顔」の人物相手に、クルカを驚かせて追い払っていたと言ったらどんな顔をするだろうか。
悪意ではなくいつもの癖でやった行動なので、彼女は俺の行動の意味を察せなかったらしい。
危うく、必要のない罪悪感に悩まされるところだった。
それで、他にも禁食はあるらしいが、まずこの二つは間違いがない。
ところが、彼女は干し魚を食べていた。
メル=パゼルの沿岸地域で手に入れたものだろう。
保存食としてはこの上なく定番のものだが、ミテルヴィアンが魚を食べてもいいものだろうか。
彼女の食べる態度は堂々としたものだったし、かといって破戒ということでもなさそうだったので、俺は素直に聞くことにした。
結果的に、父から聞いたミテルヴィアンの印象のままである、俺の知識が古いだけだったようだ。
今のミテルヴィアンは普通に魚を食べるそうだ。
いや、普通、というわけでもない。
禁止している宗派では禁止だし、許されているものでも、ほとんどのミテルヴィアンは魚を食べない。
それも「食べることができない」わけではなく、自らの意志によって食べないことを決意しているそうだ。
ただ、例外事項として、どこも布教の利益が上回る場合は魚を食べることを許されているそうだ。
死んでも食べるな、というものではなくなっており、父に聞いた昔話と比べればだいぶ緩和されているようだった。
この尼さんの所属している宗派はというと、食べることができるらしく「臨機応変に」というのが彼女の宗派の掟であった。
掟と言っていいのかどうか。
だが宗派として存在を許されているということは、一定の権力を保持しているのだろう。

魚の解禁というのは旧態依然とした制度が取り払われたという証拠のようなものであり、俺が次に聞けばいいのは宗派についてだろうと思った。
アーケーの権力闘争の結果が宗旨の変更に関わっていそうだからだ。
俺は無難なところで、スカイバードと布教の関連性について聞くことにした。
父からずっと聞いていた。
スカイバードが征くところに、ミテルヴィアンも付いて行く。
俺の耳に残った興味深い言葉は、今でもそうなのか、と。
彼女はすぐ、自信ありげに、もちろんです、と答えた。
そして尼さんから、どんなミテルヴィアンがどこに行くのかという話を聞き出した。
面白い話だった。
彼女は「遠くへは行かない」で「近場」で布教活動をするそうだ。
さすがにびっくりした。
ミテルヴィアンにはパンノニアさえ近いのかと思った。
すぐさま尼さんからの訂正が入って、俺は納得した。
地理的、物理的な距離ではないのだ。
ミテルヴィアは「心理的な距離」というものを重視しているのだという。
ラドゥ教を中心とし、宗教心理という基点で測られ、ラドゥ教に融和、あるいは友好的な立ち位置にあるほど「近い」場所なのだ。
パンノニアはスカイバード信仰として考えれば友好的あるいは中立の立場だろう。
ただ、南部は旧体制が残っていれば敵対になるかもしれない。
その南部を「心理的に近い」とする彼女に改めて驚かされた。
アーケーの政治的宣伝の文句をそのまま言っているだけかもしれないけどな。
そして、やはりというか、彼女は軟派のミテルヴィアンであることが判明した。
宗派によって布教できる「距離」が違うそうで、彼女はどう便宜を図ってもパンノニア南部までしか行けないらしい。
パンノニア以南へ行くことのできるミテルヴィアンは硬派だけで、理由として「軟派では簡単に折れてしまう地が広がっている」ためだと。
南にはクランダルト帝国の所領が広がっている。
あいにく、帝国がスカイバードにたいして好意的だという話は聞いたことがない。
殉教も辞さない覚悟のあるものだけがスカイバード信仰の拡大という「聖戦」に参加できるのだという。
野良ミテルヴィアンのいう好戦的な「聖戦」とは意味が違っているが、根幹は変わらない。
スカイバード信仰を、ラドゥ教を拡大させること。
植民から融和の方向へ変わってはいるが、同一性のある思想を持つ土地を拡充するという点では「聖戦」といって差し支えなかった。
南へと行くのは、以前の「聖戦」で生き残った硬派の従軍司祭たちが任務を継続しているらしく、その部分は既得権益のようなものであり、覆しようがないのだという。

と、ここでも新生という言葉が出た。
餌に食い付いてほしいという合図のようでもあった。
意図的に無視していたのだが、話が進んでいくうちに俺もうんざりするようになった。
話の内容が説教のそれになってきたからだ。
例えば、スカイバードは世界を見ている神様であり、悪いことをすればすぐに見つける眼を持っているのです、とか。
スカイバードがこの世界に生を授け、人に知恵を与えたのだとか。
クルカは人と助け合うためにスカイバードが与えたものだとか。
尼さんに「無賃乗車したあんたが言えたことじゃないな」と言ってやりたかったが、無粋だし、どうせ「だから貴方に見つかったのです」と上手いこと切り返してくるだろう。
言わないでいたら、説教に布教が混じったような話になってきて、いつのまにか俺が有翼信仰者だということも看破して宗旨替えを迫ってきた。
勧誘が苛烈ではなかったのが救いだ。
悪感情を抱かず、聞き流すことに集中できた。
原理主義者たちの巣窟と思っていたミテルヴィアから出てきた彼女が、穏便な方法で、「改宗」ではなく「宗旨替え」を迫っているのを見て、本格的にミテルヴィア本国で何かあったのだと思うようになった。
今までなら、有翼信仰者には「改宗」を勧めるものだ。
原理主義者たちの力が削がれたのだと考えて間違いないだろう。
新生という言葉を聞き返せば内情の変化が知れると思った俺は、満を持して彼女に質問した。

戦時中のミテルヴィアでは、大きな戦いがあったそうだ。
武器を使った戦争ではない。
一般的には宗教論争と呼ばれるものだ。
論争を通してミテルヴィアは変わったらしい。
最終的には「和解」を得て、新生ミテルヴィアの新生ミテルヴィアンが誕生したという話だった。
生まれ変わったミテルヴィアンのための教育が進行中であり、彼女は新生教育の下ではぐくまれたらしい。
おそらく結果について嘘は言っていないだろう。
彼女の物腰が、俺の知るミテルヴィアンではないからだ。
では、内容はどうか。
俺には判断が付かない。
詳しい説明は俺も覚えきれなかったが、「学派」としての本来の役割を取り戻すための戦争だったという。
「学派」
ミテルヴィアンの信仰している宗派の正式名称は、「学派」というもので記載されるそうだ。
伝統的で公的な書類には今でもそう記載されているそうだが、俺は公的書類でも「学派」という言葉を見たことがない。
伝統的な書類ではなかったからかもしれないが。
例えばだが、載っているものには「神聖ミテルヴィア、アーキル学派」とか「神聖ミテルヴィア、ザイリーグ学派」といった形で宗派が記載されるらしい。
尼さん曰く、今まではミテルヴィア内でも「死語」であり、誰も使うことのないものだったそうだ。
死語、ねえ。
彼女がそこを強調したのは、以前は使われていたということを端的に示したかったからだろう。
「学派」の言葉通り、ミテルヴィアが興ったときは、スカイバードの研究をする学会のようなものだったらしい。
スカイバードについての、知識や信仰の正しい形を見出すための研究を行う学会。
人が多くなるにつれてスカイバードの研究の方法が異なっていき、学派として分裂してしまった。
学派同士の融合、放逐、殲滅を繰り返すうちに、祈りをささげるための組織になってしまったのだという。
学派としての名残を端的に表すものは「スカイバードに付いて行く」という行動だ。
スカイバードの生態を解き明かすために昔から行われていた研究方法の名残であり、今では巡礼や布教の目印になってしまっているが、スカイバードの分布図だけは今でも律義に更新されているらしい。
ミテルヴィアンがミテルヴィア創立時の理念を理解しておらず、忘れてしまっている状況。
ミテルヴィアンは祈ったり嘆いたりするだけの存在ではいけない。
布教に固執して、スカイバードの本質を見失うことがあってはいけない。
学派に回帰しなければいけない。
「聖戦」の反動だったのかもしれないが、そういう動きが活発になったのだという。
当然、革新派の動きは保守派の反発を招いたはずだ。
彼らの反論は、彼女の口から代弁された。
「スカイバードについての研究は十分されつくしており、真理を得ている。変えようのない真理を前に、もはや研究は意味をなさず、真理を世に広めることが最重要課題である」
研究の結果はもう出ているので、これ以上の研究の必要はない、ということだ。
方便としては無難なところだろう。
保守派の牙城を崩すためには、新しい研究目標を叩き付けてやる必要があったようだ。
彼女の学派は革新派に味方したらしい。
所属している学派の名前をここで書くことは控え、頭の中にしまっておくことにする。
ただ、概要を示すくらいはしておこう。
ある男の学者がいた。
異教から改宗して、最終的にある程度の地位を得た人物だったらしい。
改宗して、なお地位を得るというのは珍しいと思う。
当時は、元異教者でも厚遇するミテルヴィアの懐の深さだとかで話題になったのだとか。
ただ、実際は、他のミテルヴィアンと心の距離があったらしい。
疎まれていたというわけではない。
彼はミテルヴィアによって金銭的な支援を受け、自ら現地に赴いて研究をするような人物であり、アーケーにいることはほとんどなかったそうだ。
アーケーへの報告も部下に任せきりで、めったなことではミテルヴィアに帰らない人物だったらしい。
たまに帰ってくれば、修道士のように書庫にこもる日々を過ごしていたというから、姿勢としては究極の学者だ。
めったにアーケーへ帰らないのだから、政治などには全く興味がないことは察せられる。
政争をしているミテルヴィアンとの距離があるのは明らかだ。
驚いたことに、彼の地位はすべて学術の評価によるものらしい。
本当に彼は「ミテルヴィアン」だったのだろうか。
彼が現地でなく亡くなったとき、遺品と成果だけがミテルヴィアに返ってきたそうだ。
遺体は現地葬で、髪の毛の一本もアーケーには戻ってこなかったという。
筋金入りとしか思えない。
そして彼が没した後、彼の遺した研究成果を拠り所にして、新しく学派を興した人物がいた。
現地で没したその学者の助手をしていた一人だったらしい。
彼は、師の遺した資料に解明するに値するものが多く、研究を引き継ぐことを決意した。
そして、師にあやかり、師の名前の学派が創設された。
アーケーのなかで唯一本格的な学会であり、「学派」と呼ぶに値するものだったそうだ。
ただし、唯一といっても、その学派が大きかったわけではないし、大きくなったわけでもない。
ただ、研究を専門とする、異色の派閥だったということだけだ。
宗教論争が起きるまでは、革新派の末席の見えないところで活動していたらしい。
政治的つながりの乏しい「学派」になにかを動かすような力はなかった。
だが、例の宗教論争が始まったとき、革新派のなかで保守派の言葉をひっくり返せる資料を最初に提供できたということで、革新派の庇護を受けることになったのだそうだ。
その学派の、現在の末端がこの尼さんらしい。
縁故、というより両親がこの学派の人物で、娘である彼女も当然ながら同じ道へ。
初めてミテルヴィアを出て、クルカに財布を盗まれて現在に至る、と。
異色といえば、彼女の服についている紋章もミテルヴィアンらしくスカイバードを模したものなのだが、眼の大きさも尾の太さもある普通のものとは違って、大きくも太くもないかわりに、肩口から手首の袖口に至るまで、とても長い尾が伸びた意匠になっている。
意識して見なければ、それが紋章だとは気付かなかっただろう。
見れば見るほど、たまに魚市場で見た胴の細長い魚のようにも見える。
変な意匠であるのは、学派の創設者の好んだ形であり、アーケーに帰らなかった学者の好んだものを踏襲しているかららしい。
余談だが、本当はこれとは違った原案があったらしく、要綱に沿うように作り直したものだという。
神の意匠を変と言ったら、神に怒られてしまうだろうか。

神聖ミテルヴィアが新しくなるまでには、アーケーでは苦痛の時間があったらしい。
ミテルヴィアが本来の目的を忘れてしまったために、スカイバード信仰はおとぎ話の世界の話として二重思考されてしまっていたそうだ。
神話をでっちあげて人に教えていくうちに、でっちあげた神話を教える側がおとぎ話を信じてしまっていたのだろう。
保守派が恐れていたことは、保守派の生み出した宗教としての方便が嘘であることだった。
宗教として成立している現在「スカイバードは神話やおとぎ話のなかの話で、嘘なんです」とは口が裂けても言えないだろう。
求心力の低下を招くし、それ以上に信者への打撃は大きいはずだ。
嘘であっても守らなければならないものがあったのかもしれない、と彼女は言う。
しかし、彼女の学派の研究は、革新派と保守派の戦いに一石を投じた。
勝ち負けを超越した、「和解」の方向性を生み出すことに成功したらしい。
革新派に付きながら、保守派をも納得させる成果を叩き出した。
スカイバードに関する新事実を学術的に解明した資料の発表。
事態は好転し、神を試してはならないとする保守派を抑え込む決定打となったそうだ。
保守派は「和解」によって苦痛を甘受する決意を固めた。
苦痛というのは、おとぎ話、伝説、神話という、つまりミテルヴィアの経典を原理とする部分に加えて、神を解き明かす行動である研究に力を注ぐという決意である。
ただ妄信するのではなく、検証する方向性を得る。
神を解き明かしたとき、神は神でなくなってしまうのではないかという恐れは当然あり、反発はあったようだ。
科学的に解明されてしまえば、陳腐な生物をあがめる陳腐な組織になってしまう恐れと不安もあっただろう。
だが、最終的に和解の最後の言葉はこう締めくくられたそうだ。
空を見れば、神はそこにいらっしゃいます。
あいにく、神が起こした奇跡を、私たちは観測したことはありません。
ですが、痕跡を調べることで奇跡があったのだと確信を得られたとき、それは私たちが奇跡を観測したこととまったく変わりないのです。
恐れることなど、なにかあるのでしょうか。
尼さんの言葉を一言半句違わずに書いてみたが、有翼信仰者の俺への当てつけのようで気が立ってきた。
とにかく、苦痛は終わり、「和解」の後、新生ミテルヴィアとして出発した新生ミテルヴィアンたちの一人が、彼女でもあるわけだ。
内紛のことを簡単に話していいのか聞いたが、むしろ積極的に話しているらしい。
科学にたいして否定的な姿勢を持つことなく、科学と学術を受け入れて再出発するミテルヴィアを知ってほしいという方針とであるということを聞いた。
ミテルヴィアは変わる。
変わるが、人にスカイバードを説き続けることは変わりのないことだ。
過去の硬直を退け、弾力のある組織に立ち返ろうとしていることを皆に伝えたい。
そのことを喧伝するために、あえて隠さずに触れる、というのが新しいミテルヴィアンとしての使命の一つらしい。
簡単に「新生」と言えるのは、彼女が革新派に所属しているからなのかもしれないが。
俺の考えと照らし合わせると、科学的、学術的根拠を基礎として布教をすることで、ミテルヴィアンでさえ失いかけている神を再認識させ、強力な支援によって信仰を下からから支えるのが、「新生ミテルヴィアン」たる尼さんたちの役目らしいことがわかった。
彼女の話通りであれば、野良ミテルヴィアンを駆逐し、ミテルヴィアンの統制を取り戻すこともできるかもしれない。
個人的には、スカイバードの神話やおとぎ話に少しでも根拠があったという事実に驚愕していた。
おっと、罰当たりなことを書いてしまった。
感心して聞いていたら、急に宗旨替えのお誘いが飛んできた。
自分たちの悪い部分をさらけ出し、しかし改善の意思も見せて展望を明るく見せる手法。
内部事情を口伝えの情報で信じさせ、興味を持たせ、新しくなったことの根拠とする。
これは、俺よりよっぽど策士だぜ。
話が上手いこった。
俺の答えは当然「いや、結構」だ。
尼さんは残念そうにしていたが、こればっかりは仕方がない。
それにしても、ミテルヴィアの和解、ね。
ラドゥ教者と有翼信仰者が和解する日も、あるのかもしれないな。
宗教というものが人の心の拠り所ではなくなったときだろうけれど。
俺が生きているうちに実現しそうにないものを考えても無駄だろう。

ここまで書けば、しばらくは情報には困らないだろう。
あとは、俺の暇に任せて尼さんから聞き出したことがあった。
長旅の疲れを共にしたからだろうか。
彼女と俺は親密な関係になっており、ミテルヴィアンの苦労話を聞いたり、車掌の苦労話を話したりする間柄になっていた。
アーケーは天国みたいな場所というのは本当か、とか。
車掌さんは国外ではどこに行ったことがあるのですか、とか。
余興で下世話な話も聞いた。
シモの話ではない。
宗教的に「下世話」な話だ。
つまり、金のこと。
特に興味があったのはミテルヴィアの宝物についてだ。
一般的なものでは宝石類だろうと予測したが、彼女の答えも同じようなものだった。
ただ、派閥のなかで代々受け継いだ宝石だの、先祖のころからの宝石だのというものがほとんどであり、興味を引くようなものはなかった。
彼女も家財として宝石はいくつか持っているらしいが、少しばかり高価なだけでありふれたものだしで、特別なものというわけではなかった。
宝つながりで宝物庫のなかにあるものを聞いた。
だが、これも空振り。
古くからある経典や彫刻は見たことがあるというが、情報として高値で売れそうなものはなかった。
隠し財産なんかの話もしてはみたが、禁区と呼ばれる立ち入り禁止区域があるのを知ったくらいだ。
禁区はミテルヴィアンでも相当地位の高い人物しか入れない神聖な場所らしく、やはり隠した財宝でも置いてあるのではないかと思ったが、どうやら古井戸が一つあるだけの大きくはない部屋であるらしい。
言い伝えでは、そこにミテルヴィアの最高の秘宝が眠っている。
彼女も詳しい内容は知らないようで、おそらくイコンとして残されているものなのだろうと話していた。

面白そうな話は、禁区の秘宝の言い伝えくらいだろうか。
最古の経典に記載された言い伝えがきちんと残っており、禁区は正当な理由によって禁区と認定されているらしいということがわかった。
生命の種というものが井戸の底には鎮座している。
それも、枯井戸ではなく地下からの水が満ちた深井戸であるらしい。
禁区を見ることはできないが、禁区について書かれた経典ならミテルヴィアンの誰もが一度は目を通したことがあるもので、内容をそらんじることができるようだ。
実際、俺の目の前で彼女は生命の種に関する節を暗唱し始めた。
章や節の数は覚えていないが、終末と審判の章だったような気がする。
世界が終わろうとしているとき、貴方──ミテルヴィアンのことだろう──の使命は一つである。
人々を救済しなさい。
そのために、臆することなく禁区の神聖なる扉を開けなさい。
井戸のふたを開き、生命の種を水から引き上げなさい。
手に取り、種を撒きなさい。
そして、祈りなさい。
貴方が真に神を信じ、愛し、知り、見ていたのであれば、神は貴方を見捨てはしない。
貴方が信念を持ち、成すべき使命があると感じているのならば、神は必ず貴方を助け、種に息吹を吹き込んで応えるでしょう。
御子の意志を神はすべて観ておられます。
人々の救済のために種を使わないのであれば、邪悪な企ては神に看破され、巻き付いてその身を破滅させるでしょう。
神が悪人を助けることはないのです。
すべてのミテルヴィアンよ。
研鑽を積み、神を知り、受け入れ、終末に備えなさい。
と、このような内容だったと記憶している。
ナニかの比喩のようで、聞いていたときは口がにやけていたかもしれない。
だって、ほら、あれだろう。
扉を開けるとか、ふたを開くとか、井戸の奥底から種を引き上げるとか、種を撒くとか。
どう考えても、子作りして子孫を繁栄させろという内容にしか聞こえなかった。
この分だと、禁区のなかにある井戸というもの自体に神秘性はなくて、禁区自体が儀式的な性行為を実行する場として最初から用意されていると考えるのが妥当だろう。
井戸として機能しているのであれば、出産の産湯に使うこともできるだろうしな。

このような話をしているうちに、彼女は予定していたウルンカンを超えて、我が国の首都ラオデギアに到着した。
雑踏のなかで戸惑っている尼さんの巡礼服が見え隠れしていたが、車掌としての仕事をしているうちに、いつのまにか彼女は見えなくなっていた。
一本でも道を間違えれば迷宮に入ってしまったようになる首都のなかで、無事に協会とやらまでたどり着けただろうか。
物静かで顔はよかったし、誰かに仕事を押し付けて協会まで案内してやればよかったかもしれない。
クルカに財布を盗まれなきゃ、いいんだけどな。
最終更新:2018年04月10日 23:59