アグニ・ラグナ ~オイルスモウ5番勝負~

 『アグニ・ラグナ ~オイルスモウ5番勝負~』 著 冷や狸のマサ

 

 二頭の美しき野獣が円状の空間に対峙している。
   一方は肩まで伸ばした金髪を揺らし、小麦色に焼けた肌を窓から差し込んでくる光を背にして輝くまでに煌めかせている。
   帝国人特有のグラマーめいた双房を揺らし、ほどよく引き締まった肉体から滲む汗すらも美しく光を僅かに反射する。
   方や、前者を光りと喩えるとすれば此方は影であった。
   身の丈は前者よりも高く、体格も岩のように強固に見え、その肌も髪もどこまでも黒い。
   前者より長く垂らした髪を後ろで結い、顔の皮に切り込みを入れた程に細い目は、前者の目映いまでの輝きに眩んでいるかのように、対峙する相手を薄く睨んでいた。
   その睨みに対して金髪の女は怯むことも無く、殊勝な面持ちに睨み返すと黒髪の大女へと一気に踏み込んだ。
   すぐさまに両者共、取っ組み合いになり、金髪の女は低く身を落とし大女の腰へ組み付く、大女はそれを上から押さえ込もうとする。
   一見したところ力の差は歴然であったが、金髪はそれをものともしないかのように、体を支える両脚に力を込め、上半身の押し込みに左肩を落とし込むような独特の捻りを加えた。
   すると、上からの押さえ込みで動きを封じ込めたかのように見えた黒髪の巨体が、僅かに揺らいだ。
    その僅かな隙を見逃さず、金髪は腰を押さえ込んでいた片腕が、更に左肩を落とし込んだ事により浮き上がった右肩の動きに比例して上がった右腕を、大女の脇の下を押さえ込み一気にその巨体を床へと引き倒してしまった。
   巨体が床へ倒れると鈍い音が空間に響き渡り、金髪は押し倒した大女の喉元へ、すかさず肘を突き出すような形に組んだ腕を宛がった。
   『オイルスモウ』で言うところの『詰み』であった。
    下手に動けば女の喉を突き潰さんと意味する動きである。

 「───参った」

 下になった大女がそう弱く呟くと、金髪の女は満足げにその場に立ち上がり、大女へ片腕を差し出し引き起こした。
   金髪の女は勝ったことが嬉しいのか感情を表情に有り有りと浮かべ、一方敗北した女と言えば特にこれといって悔しさも屈辱も感じているような節すら見せず、ただただ静かに微笑んでいた。

 「よし、そこまでだ。…よく頑張ったな、ロレェヌス」

 二人が立ったところで隅から声を掛ける者がいた。
   それは大女の半分ほどの身の丈の男で、もじゃもじゃと茂った黒髪と鼻の下に黒い髭を蓄え、朱色のズボンと紺色のシャツといった出で立ちで、金髪の女の方を褒めそやしている。

 「監督の御陰です」

 そうロレェヌスと呼ばれた金髪は少々照れくさそうに髪を撫でながら、男の方へと歩み寄った。

 「いや、謙遜する事は無い。バリングを負かすなんて事は早々出来ることじゃない。練習の成果がしっかり出ている。君のお父上もさぞ喜ぶだろう。今日の練習はここまでで良いから、早く今日の事をお父上に伝えてきなさい」

 監督と思われる男は朗らかにロレェヌスを褒めながら、彼女が退室するまでその姿を暖かく見守っていた。

 

 彼女が退室すると練習場には男とバリングと呼ばれた大女のみが残り、彼はバリングを手招きした。
   それまで彼女は円状の練習場内に設けられた円状リングの上に佇んでいたが、男の手招きにはっとするような面持ちで、体躯に似合わない身軽さで彼の元へと走り寄ってきた。

 「…どうして負けたんだ、バリング?貴族の令嬢ぐらい、仮に100人揃ったって全員ぶっつぶせるだろう?」

 男はそう先程までの朗らかで優しげな表情を崩し、随分と俗物な面持ちをしてバリングを見上げた。しかし、それでも口調には彼女を心配するような色が込められている。

 「…少尉殿の仰るとおり、ロレェヌス練習生の練習の成果であります」

 それに対し、バリングは直立不動の姿勢を持って不遜な色は全く見せず、忠実に鍛え込まれた兵隊らしい動きと口調で答えた。

 「『少尉殿』はやめろと何度も言ってるだろ。もう戦時じゃないんだ。『ロラバ』でいい」

 「戦時であろうと、なかろうと、ロラバ少尉殿は少尉であります」

 ロラバ『元』少尉はバリングの堅苦しい口調に参ったように、肩を竦めて少し遠くを見た。 彼女の軍隊仕込みの口調には相変わらず慣れない。長年の付き合いにはなるが、未だに砕けた付き合いというものがこの女…『バリング元上級曹長』には出来ないらしい。


   既にあの何百年にも及び、南北に別れ帝国と連邦が何のために争い始めたのかすら見出すことも難しくなったあの戦役は二年前に終結を迎えた。それに伴い大量の兵士が軍から追い出され、ロラバとバリングもその内の二人であった。 今まで戦うことしか知らなかった兵士達が、突然の様に武器を取り上げられ平穏を約束されようと、その多くは路頭に迷った。
   あまりに長すぎる戦いだったのである。
   多くの兵士が人間らしく文明的に生きる事を失い掛け、野蛮人が如く闘争に身を委ねる事を好んでいた。
   追い出された兵士の内には帰るべき家や家族がある者もいたが、大体はそれも無く、組織から追い出されれば孤独になった。
   ある者は帝国に愛想を尽かし、あるいは自身の能力が活かせる場を求め、依然として帝国に対して牙を剥く六王湖勢力に加わり、かつての敵国へ渡る者も出た。
   しかし、ロラバはそんな荒っぽい連中とは根本から違っていた。
   彼は戦時中にあらゆる組織に築いた人脈を活かし、現在は南北を跨がる『人工食肉業者』としてある程度の成功を収めている。
   食糧事情の乏しいアーキル連邦に人工肉を輸出するという事はどの同業者達も計画していたが、しかし、その同業者達を出し抜くためにロラバは戦時中に築いた人脈を総動員して、どの業者よりも素早く輸出事業に成功する事が出来たのである。
   だが、食肉事業だけに頼っていては、今後に起こると想定される事態には対処しきれない。
   何せ、まだ戦役が終結し二年しか経っていないのだ。
   現在はアーキルにてある程度の地盤を築く事が出来たが、まだ隆盛の激しい時期であるためにロラバは帝国内にも信用を勝ち取るため、一つの宣伝業も追加することにした。

 それが帝国内にて戦時から今も人気を集める競技『オイルスモウ』であった。
   戦時中から貴族同士の賭け試合から、トーロック団の様なマフィア共が仕切る地下試合まで存在し、その内容はオイルスモウと一言に括っても多岐に渡り、しかも、その収入は地方貴族や反皇女勢力に回ってしまう。
   戦後の国内政治を上手く取りまとめる為には、出来る限り反皇女勢力に力を付けさせぬように、皇女殿下はオイルスモウを国営競技として活発化させる方針を一年前に打ち出している。
   そこでロラバはその方針に便乗し、自身の人工食肉業者をスポンサーとして『オイルスモウ選手』の育成にも手を出し始めた。
   その中でもバリングは軍隊時代から付き合いもあり、軍隊格闘術に長けた兵士の一人であり、職に困っている所を以前の部下と上官という関係性もあって上手く勧誘し、現在に至る。

 

 「兎に角だ。俺はお前がロレェヌスの様な小娘に何故、負けたのか全くわからねぇ」

 ロラバはそう愚痴の様な疑問を口にしながら、練習場脇に備えた休憩室内の椅子に腰掛けていた。
   人工革が表面を覆う背もたれにぐっと背を預けながらも、小さなテーブルを挟んだ向こう側に居るバリングにも自身と同じような椅子に座るように促すが、彼女は休憩室の壁に背を預けたままである。

 「…ですから、それはロレェヌス練習生の実力であります」

 出し抜けにバリングはそう呟くように言ったので、ロラバは少し鋭く彼女を睨み付けながら、椅子から立ち上がった。

 「巫山戯るなよ。俺が見たところ、お前が奴に打ち勝てる隙は五回もあった。…だが、それは素人目で見た数だ。お前ならアイツがどれだけ隙だらけで、幾らでも叩き伏せる隙へ組み付けた筈だ」

 そうロラバはバリングの言葉を一蹴して、右手の指を彼女へ向け五本立てた。

 「一つはまず、あの間合いからロレェヌスが突っ込んできたことだ。あの程度の勢いなら躱すなり、顔面に蹴りぐらいをかますぐらい出来ただろうさ。二つ目は組み付きになった時だって、お前はあの小娘を上から体重を掛けて潰す事が出来た。三つ目は…あぁっ!これ以上は言わせないでくれっ!」

 ロラバは途中まで一つ二つとわざとらしく指を折って説明したが、途中で嫌になって髪を掻き乱した。

 ロレェヌスはロラバの経営している練習場の筆頭株の新人選手という事に一応なっている。 だが、それは所詮、表向きのことであり、単に彼女の親の帝国貴族からそれなりの金を積まれたからに過ぎない。
   ロラバにとってはあんな貴族の小娘よりも、この目の前で壁により掛かっている大女の方が遙かに腕が立つ選手であると固く信じている。
   地獄のような戦場で磨き上げてきた戦場術が、たかが平時にジョギング程度の練習で負けて堪るかとも思ったし、現にバリングが本気を出してしまえばロレェヌスの葬儀や事故処理について考えねばならない。
   だが、喩えそれだけバリングとロレェヌスとの間に実力の開きがあろうと、この練習試合などでバリングが本気を出したことは無い。
   それは非常時以外、倉庫から出す事を堅く禁じられている兵器にも似ている。

 「…どうにも、燃えてこないんです」

 ロラバの乱れぶりを目にして、困ったようにバリングは言った。
   その言葉に一度呆れたような面をロラバは向けたが、すぐに納得したような面持ちになった。

 「…それはわからんでもないが、もう戦争は終わった。バリング、寧ろこの状況を有り難がるべきだ。もう、前からも後ろからも弾は飛んできやしないんだ」

 ロラバはそう彼女を説き伏せるような言葉を口にしながら、椅子からゆっくり立ち上がると、休憩室の壁に掛かった帝国国旗の下の壁にある棚に入っていた酒瓶とグラスを二つ取り出し、両方に酒を注いでから彼女に差し出した。

 「お前には長生きして貰わなきゃ困る。…もう、俺の小隊に居た奴はもうお前しか生きちゃいねぇんだからよ」

 そうロラバが喋っている間も、彼女は元上官への礼儀なのか一口も酒に口を付けなかった。 それを見て彼が一口啜ると、漸く彼女もグラスを手に取った。

 「それとも、ここを飛び出して傭兵にでもなるつもりか?…別に構いやしない。パンノニアでもフォウと諸島連合でも紛争は絶えないからな…」

 「そんなつもりはありませんっ!」

 彼のその言葉にバリングは取り乱し、グラスに注いだ酒が零れそうになる。
   彼女はテーブルに慌てて詰め寄ろうとしたが、ロラバはそれを手で制した。

 「いや、そんな事は俺だって判っている。所詮、お前にとっちゃここでのオイルはお遊戯同然だ」

 彼はそう一口、煽ってから彼女を見た。
   何故か、その口元には微笑が浮かんでいた。

 「そんなお前にと言ってはなんだが…。一つ参加して欲しい『催し』がある」

 彼はそう意味がある言葉のようにゆっくりと言うと、棚から酒を出すときに一緒に取り出していたのであろう書類をバリングの前に突き出した。
   ちょうどテーブルに詰め寄ろうとした事もあって、彼女の鼻先に書類が突き出されるような形となった。
   書類の文面は帝国語と一瞬判別し難かったが、アーキル語と並列して大文字で『大国間親善試合』と書かれている。
   鼻先に突き出されたそれをバリングはただでさえ細い目を更に細めて、胡散臭げに文字を目で追った。
   アーキル語には精通していないが、それと並列して書かれている上品過ぎて目が腐りそうなまでの帝国語の内容は理解出来た。

 「大戦が終結してまだ二年しか経っていないが、それでも二年は二年で、祝うべきは祝うに値する歳月だ。…そこで、帝国政府はアーキル間との友好化を僅かにでも進める為にその催しを企画した」

 バリングが目で追った書類の内容をロラバが説明し、彼は書類越しにバリングを見た。

 「国の代表ということですか…。ですが、それなら他にも適任がいるでしょう?」

 「いや、あくまで平和的な催しだからな。現状、軍に所属している様な選手は省くそうだ」

 「…しかし、私は元軍人です」

 「あくまで『元』だろ?俺もお前もそこは変わらん。問題は今の肩書きだ。お前はウチの契約選手という事で参加してもらうし、経歴も作ってやる。…それにどうせ、向こうだって元軍人で選手を組んでくるに決まってるさ」

 不安げなバリングの顔をロラバは一笑に付した。
   やがて不安な表情は不満げなものに変わり、バリングはまだ納得出来ないとばかりに、部下らしく控えめに口を開いた。

 「少尉殿。一つ、質問をしたいのですが」

 相変わらずのその呼び名にロラバは不満そうなため息を漏らしたが、彼女の質問を遮りはしなかった。

 「少尉殿がそう命令して下さるなら、私は喜んで引き受けますが…ただ、文面にある『アグニ・ラグナ』と言う単語は何を意味する言葉なのでありますか?」

 バリングはそう言いながら、書類をテーブルの上に置いてその文字を太い指で指し示した。この書類は帝国語とアーキル語の言葉が混じり合い奇妙に構成されていた。
   それは両国共に理解してもらおうと思って作成した結果、両国共わからない様な文章になってしまっている事を表していた。
   きっと、アーキル人の役人が作成した物に違いないとバリングは決めつけていた。

 「親善試合と言ったが、内容は『異種格闘技』でな。アグニ・ラグナというのはアーキル独自に生み出された格闘術の呼び名だ」

 「私はソレに対して、オイルで挑めと?」

 「そういう事だ。やる気が出てきたじゃないか」

 彼女の質問に答えるロラバの顔に強く笑が浮かんだ。
   それは彼女が話に乗る気になってきたことに対する期待でもあったし、現に文面を見ている彼女の表情に興奮とまではいかないが、好奇心を掻き立てられているような明るい色が出ているのを見て取ったからだった。

 「…書類には催しの諸事情までは記載されていますが…アグニ・ラグナについては情報が皆無ですね」

 「あぁ、俺も全くどんな物かわからん」

 その好奇心から出た彼女の言葉を、ロラバはあっさりと打ち砕いた。

 「…相手の格闘技について何も知らないまま挑めと?」

 バリングは一瞬呆けた様な顔をした後に、ムっとしたように目を細めた。
   本人は睨んでいるつもりであろうが、長い付き合いのロラバでなければ、彼女は無表情に見えたことであろう。

 「怒るな。わからんなら、わかるように調べりゃいいんだ。お前が乗る気なら、きっと省庁の方でも詳しく調べてくれる筈だ」

 「どこの省庁です?アカデミーとか…」

 「グノッゲだ。元々は俺の知り合いが勧めてきた物だしな」

 「…急に胡散臭くなってきましたね」

 彼の言葉にバリングは更に目を細めて、それはもう見えているのか見えていないのか、ロラバですらわからないまでに細くなった。
   その追求するような目の線に、ロラバは一旦話を切ると、強引に帝国の代表選手となったバリングを祝おうと申し出た。
   話が込み入ってきた場合、この女には酒で揉み潰すのが一番良い策であることをロラバはよく知っていた。
   そして、今回もそれは上手くいった。

 

 ロラバに祝され店を出ると、既に時刻は深夜を回っていた。
   店に入って酒を出され、それを飲んでいるうちに随分と時間が経ったが、肝心の質問は聞けずじまいであった。
   バリングとしては納得の行く流れではなかったが、まだロラバが本決定と言う口振りでも無かったことから、また詳しく聞く機会はあるだろうと諦めた。
   そして、ここ2年の間、住処としている下宿先に戻るために『飛靴』と呼ばれるタクシーを呼び止めようかとも思案したが、生憎、周囲を飛んでいるような飛靴は見つからない。
   大戦の終結によって、帝国のごく一部の中流層と上流層の羽振りは大変良くなっている。
   お陰でバリングの様な軍人崩れに回ってくるような物は少なかった。
   仕方なく、徒歩で戻ろうと大柄な体躯を揺さぶるようにして、産業塔を取り巻く螺旋通路を歩き始める。
   吹き曝しの通路には冷たい風がこれでもかと強く吹きつけるが、艦上任務の経験があればこの程度、そよ風にしか感じない。が、バリングは野戦畑の人間であり、寒さは堪えた。
   そして、産業塔同士を結ぶ連絡橋を渡る際は更に肝が冷える。
   帝都を埋め尽くすが如く立ち並ぶ産業塔同士を結ぶ橋は、整備の行き届いている中心区の物ならまだしも、ロラバの行き付けの酒場があるような外区産業塔の橋と言えば、半ば吊橋の様に古ぼけていて脆そうに見えるのだ。
   現に橋の幅も人二人分程しかなく、代わりに長さは百m程だ。
   これを夜中に渡るのはあまりに心細く、頑丈なワイヤーにて補強されているとは言え、夜風に吊橋は揺れていた。
   長い橋であるために、三箇所程、橋の縄手摺の上に生体式のランプが備えられているが、そのうちの手前二つは既に点灯していない。
   バリングはそれを見て少し肩を震わせながら、橋の真ん中をゆっくり歩き出した。
   酒を入れて体は火照っているのだが、夜風を浴びていると急激に体も冷え込んでいく気がする。
   ロラバの勧め通りにしておけばこの様な事も無かったが、あくまでバリングは一人で歩きながら物思いに耽りたかった。
   彼に言われた『大国間親善試合』について、正直なところ彼女は乗る気ではなかった。
   元上官である彼の命令であるとすれば、それは元兵士である彼女は従う。
   しかし、彼女には自分が帝国の代表選手ということでいいのかという疑念が、今日中に強く湧き出している。
   己より適任である選手は探せば幾らでも居るように思える。
   流石にあのロレェヌスの様な貴族のお嬢様には務まらないであろうが、元軍人であるならばバリングには心当たりのある人物が何人もいた。
   最前線において大戦を戦い抜いた古強者もいれば、影に潜み要人の暗殺を請け負った殺し屋紛いの者達まで、ロラバの持っている人脈と比べれば、バリングのソレはあまりにも乱暴な者たちの集まりであったが、人脈は人脈であった。

 いっそのこと、その何人かを引き抜いた方が、職に困っているような者もいる為にいいかもしれないとバリングは考えた。
   己はあくまで貴族のお嬢様方に、鍛錬の満足感を与える案山子で構わない。
   しかし、真に帝国の誇る格闘技である『オイルスモウ』の看板と国の威信を担ぐ者を選ぶとすれば、人選について一度、此方から相談し、提案しても良いだろう。
   ふとそう考えた事を話そうと思い、バリングはまだ酒場で飲んでいるだろうロラバの元へ引き返そうと、橋の中程まで渡ったところで、ゆっくりと後ろを振り向いた。

 

 すると、バリングの前に誰かが立っているのが見えた。
   橋の上は生体灯の明かりがぼんやりと照らしているのみで、虚ろな影でしかその者の輪郭を判別することが出来ない。
   唐突なその出現に、バリングの体が強ばった。
   単純に驚いたのがその原因であったが、それよりも今の今まで背後にいたこの影の存在に、全く気付けなかったという事にも驚いていた。
   幾らか酒を入れすぎて感覚が鈍ったのかもしれないし、戦後の暮らしに慣れ過ぎて、衰えたのかもしれない。
   しかし、それでもこの背後に何処からか湧いて出てきた者の出現には困惑した。
   それは薄くぼんやりとした輪郭でありながらも、そのぼんやりとした右手の方から鋭く伸びた刃物と思わしき凶器の存在にあった。

 「帝都で追い剥ぎとは肝が据わっている」

 そうバリングは酔っぱらいの独り言の様な事を嘯いてみせた。
   大戦が終わり軍から追い出された兵士が、この様な凶行に走ることは珍しくない。
   だが、それは治安が劣悪な地方や、警備組織の活動が行き届いていない地区での話しであり、例え戦後の混乱が帝都にもあるとはいえ帝都憲兵が落魄れる事は無かった。

 「…大した額は無いが、持っていけ」

 バリングはそう懐から財布を取り出すと、影の足元へ投げやった。
   この追い剥ぎと一戦交えるよりは平和的な方法だった。
   やって打ちのめせない事もないが、足場の悪い橋の上で酔った己が軽妙に立ち回れるとは思わなかった。
   下手をすれば自分か相手か、若しくは両者が橋の上から落ちる事になる事もある。
   だが、追い剥ぎは財布を拾うどころか、刃物をしっかりと生体灯の朧げな光に反射させるようにして構えると、一歩距離を詰めた。
   軋む橋板の上だというのに、足音は立たなかった。

 「それ以上、近づくと撃つぞ」

 バリングは懐の拳銃に素早く手を忍ばせたが、少々指の動きがもたついた。
   それでも追い剥ぎとまでの距離は二〇歩もあり、その間に拳銃を構える事はまだ容易だ。
   だが、追い剥ぎの動きは此方が拳銃を取り出すよりも遥かに早かった。
   一瞬にして五歩十歩と間合いを音も立てずに詰め、衣服より腕を抜く前には既に眼前に迫っていた。
   これは既に拳銃は用を成さないと判断し、バリングは懐から正面に張った肘にて突っ込んできた追い剥ぎを突こうとした。
   既に刃物のリーチも何も関係ない距離となっている。
   自然に腕を突っ込んだまま肘鉄を繰り出そうとした瞬間に、体が右に反った。
   追い剥ぎは身を屈め、肘を躱すと此方の懐へそのまま刃を突き出してきた。
   拳銃を用いようとすれば、刃が刺さっていただろう。

 一方、追い剥ぎの方は突き出した勢いをそのままに、バリングの後方へ抜けると反転して彼女の背後より刃を突き刺さんとする。
   それに対し、バリングは頭を其方へ向けるよりも先に、空いていた左腕を後方へ強く振った。
   その左腕が突き出された刃の持ち手に命中し、手にしていた刃が橋の上に落ちる音がした。
   薄暗闇であろうと、背後であろうと相手の攻撃はある程度気取れる、暗闘に慣れた者しか為せ得ない技をバリングは見せつけながら、反転して相手と対峙した。
   普通の追い剥ぎであるなら、得物が失えば遁走するであろうが、此奴は違っていた。
   遁走するどころか、刃を拾おうとして隙を晒す愚をせず、両腕を開いて守るように構えて見せたのだ。
   左腕を上段に突き出し、まるで刺股のように指を開き、一方の下段に突き出した掌も同様だった。
   その構えを見て、バリングの細い目が微かに動いた。

 (見覚えがある)

 酔の醒めた眼に相手の構えは刺激的に映った。
   それは帝国の軍隊格闘術における防御の構えであるが、それを見栄えよくするため、脇を開いて大仰に見せようとする構えを敢えてするような者をバリングは一人しか知らなかった。

 「…『サッデラ』…サッデラ上級曹長、殿…」

 該当する名が口から出たとき、バリングは明らかに狼狽えた様に一歩後退る。
   その名は戦時の上官の一人であった。
   バリングの震える言葉に対し、サッデラと思わしき者は全身を影のように朧げにしていた、黒いフードを振り払った。
   橋の手摺に設置された生体ランプの僅かな光がその顔を照らし出し、確かにバリングの言った名の通りそれはサッデラであった。
   サッデラは口元を黒い布で覆い、対照的に白い肌を僅かに覗かせ、丸い瞳はバリングを静かに見据えている。
   元より曹長は無口で無表情な御仁であったが、この期に及んでも彼女は押し黙っていた。
   しかし、返答の代わりにこの女性下士官は構えて腕を更に開いてみせる。

 (これ以上は何を問うても無駄)

 そうバリングは咄嗟に判断し、彼女に応じるようにして右腕を上方へ突き出すようにして構え、左腕は腰のあたりに低く構えた。
   何故、戦時の元上官が突然、襲いかかってきたのか全く理解が及ばないが、それでも彼女からはこちらに対する明確な殺気が伝わってくる。
   その殺気に当てられ、バリングの構えに鋭さが増していく。
    昼間のようなお遊戯同然のオイルには全く感じられなかった、戦時の緊張と恐怖が腹底で煮えくり返っている。
    少しでも気を抜けば、恐怖を口から吐き出しかねない悪寒が、背筋を伝ってくる。

 

   橋の中程で二人は対峙していた。
   バリングの脳裏には疑問も躊躇も無く、この向かってきた相手である元上官をどう切り抜ける事だけに全神経が注がれている。
   勿論、逃げる事は出来ない。
   背を向けた瞬間にサッデラの刺股のような手が腹部か腕を捉え、己を引き倒しに掛かるだろう。

 (殺す他無い)

 バリングはそう思いはしたが、迂闊に此方から攻める事も出来ずにいた。
   それは旧知の間柄だからと言った甘ったれた理由ではない。
   サッデラの構えは主に受け技を基本とする物であり、打ち込めば手首を刺股に絡み取られ、隙にもう一方の腕から繰り出される手刀が襲う。
   しかし、それは通常の打ち込みを行えばの話であり、今のバリングにはそれなりの勢いがあった。
   薄暗闇の中において、彼女の瞳は猛禽類の様に開ききった。
   既にお遊戯同然の訓練場で見せた、鈍重な気配は見せない。

 心身共にバリングは戦時の磨き抜かれた軍刀の様に、鋭さを増していた。
   その鋭さを体現するような身のこなしで、バリングはまずサッデラへ向かって身を屈んで突進した。
   幅の狭い橋では逃げ場もなく、避ける隙間もない。
   下手に突きや払いを行えば、彼女の卓越した技の術中にハマる。
   この様な場合は兎に角力押しに限るとバリングは判断したのだ。
   素早く彼女の腰の辺りへ組み付いて、橋の上に押し込もうと迫る。
   その際に相手も此方の突進を見抜いて、顔面へ鋭い蹴りを放ってきたのが朧げながらも視界に映り、強い衝撃と鼻が潰れたような感触を味わったが、その程度ではバリングは止められない。
   そのまま彼女の腰を押さえ込んで、全身の筋肉をはち切れんばかりに力を込めた。
   相手の生命等は惜しくも何とも無く、ただ相手が元上官であろうとなんであろうと殺して生き残るという単純明快な理屈だけがバリングの脳を占拠し始めていた。
   一方、サッデラはバリングのような巨躯の持ち主に押さえ込まれようと、反撃とばかりに空いている両腕で、彼女の背中を打ち据え締めつけを緩めようとしたが、それでもこの人間万力はビクともしない。
   それどころか、腰を押さえつけていた腕はせり上がっていき、サッデラの胸部を締め付け始めた。もう少し力を込めれば肋骨を粉砕するだろう。
   こうなってしまえばバリングの勝ちは揺るがず、カウント制のオイルスモウであったならば勝負は決まっている。
   しかし、これは殺し合いであり、サッデラは先程に橋の上に落とした刃物を素早く拾い上げ、バリングの上へ高々と振り上げた。

 その様子を尻目にバリングは見て取ったが、それでも締め付ける腕は一切緩めない。

 サッデラの殺意に答えるように、此方も激しい闘志を示しながら力を込める。

 「────いいぞ」

 不意に微かな、まるで満足気な囁きがバリングの耳に入る。
   咄嗟に顔を僅かにサッデラに向けると、彼女の無表情な瞳は微笑んでいた。
   場違いな声音にバリングは咄嗟に表情を少し呆けさせたが、サッデラはその隙に刃物をバリングへ突き刺すのではなく、逆に橋の上へと深々とナイフを突き立てた。
   一体、この元上官が何を考えているのかバリングにはわからなかった。
   何か今の状態から抜け技でも繰り出すのかとすら思ったが、サッデラは既に抵抗する意思も無いように強張る体を緩め脱力し始めていた。

 「…これなら…お前は生き残れる」

 そして、そう消え入るような声で苦しげに呟いた。
   苦しげなのは、バリングが胸部を締め付けているせいだが、それでもサッデラの声音からは殺気も感じられぬほど弱まっている。
   その極端な弱りぶりにバリングは締めつけを緩め、彼女から離れると素早く立ち上がった。
   だが、それでもサッデラは起き上がるどころか、橋の上に体を横たえたままで、やがてその体が激しく痙攣し始めた。

 「曹長っ」

 バリングは一体何が起きているのか理解出来ない。
   確かに胸部を強く締め付けたが、今の程度で彼女に相当なダメージを与えられたとは思えない。
   彼女とて、バリングより小柄ではあるが強靭な肉体を持った軍人である。
   だが、現に彼女の体は徐々に弱り始め、もう一度、バリングが呼びかけた際には既に動かなくなっていた。
   恐る恐る脈を測ってみたが、既に脈はない。

 呆然として橋の上に膝を突くバリングの前には、サッデラであった物の傍らに突き刺さっている刃物の刃が妖しく光を帯びて光っているのみであった。

最終更新:2018年12月12日 07:26