執事の手記

私がこの手記を綴ることによって、私は課せられた使命を果たすことになる。

あの日から、私はこの瞬間を記述することを望んでいたのだろう。

誰から命令されたかなどということは関係なしに、私がそう望んでいたのだ。

これで、一つの事件から始まった物語に終止符が打たれるのだと思うと、私はとても複雑な気分になってしまう。

私の償いが果たされたのか、それすらわからぬまま、終止符は打たれる。

私達の物語が、ついに終わろうとしている。

さて、私が今から書くのは、私が関与した、あの領地の出来事の顛末だ。

今は手紙を読み解くことしかできない私にできたこと。

それは、あの事件がどのような道をたどり、どのようにして潰えたかを記述することだけだ。

 

 

ある領地で、領主の家族が毒殺されるという事件があった。

それを指示したのは、私の主だった。

彼女は、その身で抱えきれないほどの野望を抱いていた。

最後まで付き従った私でも、彼女の野望の底を覗くことは叶わぬほどの、深淵から去来する欲望。

混沌とした敵意の一端が這い回り、発せられる瘴気がある平穏な家族を襲い、領地を攫っていった。

彼女は自身の息のかかった貴族を、そこの領主に擁立してしまったのだ。

計画が完全に成功しなかったことで、彼女は地方に幽閉されることになったが、それでも彼女は止まらなかった。

どういう手段を使ったのか、彼女の幽閉は、隠居といってもいいほど快適な生活を送れるようになったのだ。

いつの間にか、監視さえ彼女の館から離れていき、ついには窓から見えなくなるほどまで離れてしまった。

次第に従者が増えていき、彼女は普段どおりの生活を取り戻しかけていた。

彼女が望めば、彼女はこの国のすべてを支配してしまえるのだと、そう思えるほどに。

心身ともに深い傷を負った私にとって、私を雇い続けてくれる存在が彼女しかいなかったこということも相まって、私は彼女に最後まで付き従うことになった。

私が手紙をどこかへ持っていくごとに、彼女の自体は改善された。

あるときは彼女の親戚の屋敷へ、あるときは名も知らぬ酒場へ。

この世で最も尊い魔法のようにも見えた。

天才的な手腕が振るわれると、彼女につながったなにかが効率的に動き、彼女の思い通りになっているのだ。

これほど恐ろしく、美しいものがあっただろうか。

手紙番をし、彼女の操る糸の一端を知る私だからこそ、そう思えたのだろう。

 

 

ところで、私は彼女の所領と彼女とのやりとりだけは密かに目を通していた。

なぜかと問われれば、

いや、書くまい。

その領地は、彼女が熱心に力を注いでいた場所だった。

そこで行われていたのは、彼女の罪のなかで一番重いものだろう。

彼女は、その領地で諸島連合から禁制品の密輸入を画策し、指揮を執っていたのだ。

私が推測する限り、その流通網は広大であり、それでいて敵の警戒網にかからないようなものだった。

まさに、魔法。

どうしてそのようなことができるの、私にはわからなかった。

だが、その領地での活動において、彼女の野望を支援するものがいたことはわかっている。

実をいうと、私は彼女の後援者を知っている。

長年の覗き見によって、後援者がとある貴族派閥だということがわかったのだ。

驚くべことに彼女を支援していたのは酒造に関わる業界だったのだ。

彼女が酒造業界と関係を持っているということすら知らなかった私は、当時ひどく混乱したことを記憶している。

 

 

酒造業界の内情を語るには、まず我が国での酒造の近代史を知っておく必要がある。

ひどいほうへ事態が転がり始めたのは、エスキ芋の大量流入がきっかけとなっていた。

突如勃興したエスキア市国による芋バブルが崩壊した後、我が国は暴落したエスキ芋を大量に輸入することになった。

これは、我が国の芳しくない食糧事情を考慮すれば、誰もが考える方策だっただろう。

いくら輸入しても尽きぬエスキ芋には、国王派も貴族派も飛びついたことが記録に残っている。

そして、大量の食料を貯蔵し終え、それでもまだエスキ芋が余りあるということを知ったとき、貴族たちはエスキ芋を有効活用しようと躍起になった。

大半は市井からの好評を得るために、人道援助的な側面をもってエスキ芋が利用された。

統計によれば、この政策のおかげで国内での暴動事件の発生数は極端に下がったとされている。

そのなかで、他と違った動きを見せたのは酒造業界だった。

アルコールのすべてを支配していた彼らは、エスキ芋の大量流入によって狂気に引き込まれていった。

彼らの資本は貯蔵されたアルコールである。

そのアルコールを無尽蔵に製造できるとすれば、どうだろうか。

酒造業界にとって、未来への投資の対象は、彼ら自身が作るアルコールである。

酒とは、商売をするための商品などではない。

彼らが自分で管理できる、投資の対象だったのだ。

安い原材料を元に大量に作ったアルコールを貯蔵しておき、彼らの気分次第で値段を上げ下げして売ることができるとすれば。

貴族による寡占状態だからこそ、談合はたやすいものだっただろう。

それに、彼らがアルコールを安定して卸せるところがあったことも、狂気に拍車をかけた。

酒造業界は、軍という太い繋がりがあったからこそ、この計画を実行に移してしまったのだ。

アルコールは我が国においては貴金属のように重宝される。

飲用としても、消毒のために使われるにしても。

腐らず、死なず、いつまでも人間のそばにあり続ける。

長い視点でみれば、価値が下がり続けていく現金──それも国王派が管理している──よりも、現金の相場に依存してさえ、値が崩れないアルコールを持っているほうが、彼らにとっては都合がよい。

需要が下がらない、魔法のような投資対象は、彼らを狂わせた。

すぐに酒の大量生産が開始された。

だが、すぐに彼らは壁にぶつかることになる。

大量に提供されるエスキ芋にたいして、増幅剤の在庫がなくなったのだ。

増幅剤は、効率的に酒造を行うために、必須な材料である。

一つの設備あたりの取れ高を増やすためのものだった。

増幅剤がなければ、酒造の効率は極端に下がってしまう。

裏を返せば、増幅剤を安定して入手できる彼ら貴族だからこそ、酒造業界を寡占できたのだ。

その彼らをして、増幅剤を切らしたということは、彼らの狂気の終わりといっても過言ではなかっただろう。

そのとき、彼らには三つの選択肢があった。

それを限界として、狂気を終息させるか。

設備投資を始めることで、狂気を存続させるか。

彼らでさえ満足に入手できない増幅剤を入手するか。

狂気はすぐさま、満場一致で三つ目を選んだ。

 

 

ところで、増幅剤とはいったいなにを指しているのか。

端的に表現すれば、それは糖分全般のことを指す。

エスキ芋だけでは、大量のアルコールを作るには効率が悪すぎた。

酒造の過程をみれば明らかだが、アルコールを作成する最終工程において、糖分が必要である。

そのため、糖類を増幅剤として投入することが肝要なのだ。

増幅剤は、その糖分を追加で投入することにより、酒造をより効率化させるための手段だったのだ。

だが、我が国において糖分は希少なものだ。

国産の糖分の産出地は数に限りがあり、それすらも気候の問題で収穫がおぼつかない。

そこで、価値を見出されたのが、輸入糖類だった。

彼らは南方の土地から砂糖を輸入することで、増幅剤を手に入れようとしていた。

特に、最有力候補とされたのは、諸島連合の砂糖だった。

だが、我が国は諸島連合にたいして、砂糖には特に重い関税を敷いている。

関税だけではない。

法律に関しても、諸島連合からの砂糖の輸入は法で裁かれる重罪だった。

実質的な禁輸措置である。

他の供給源からの輸入も考えたようだが、陸路での輸送になるため、彼らといえど採算が合わなかったようだ。

彼らは港を求めた。

自分たちが管理し、誰からも──そう、国の法規からも──指図を受けない楽園を作り出そうとした。

彼らが求め、彼女がそれを叶えるために実行した場所。

最小限の犠牲と最大限の成果が、私を打ちのめした。

 

 

降り積もる雪のように、砂糖は彼女の領地へとやってきた。

誰も咎めるものはいなかった。

港湾は、彼らからもたらされる利益を甘受し、受け入れてしまったからだ。

悪事の共犯者となって、たがが外れてしまったからだったのかもしれないが。

外からあの領地をみれば、新しい領主が貿易によって莫大な利益をもたらしたと思われ、羨ましがられていた。

半分は当たりで、半分は外れ。

密輸した禁輸品で法外な富を儲けているのだから。

私がこの件で一番懸念したことは、諸島連合にこの事態を把握されることだった。

我が国の一部が率先して内憂を抱え込もうとしているのだ。

そこにつけ込むなど、諸島連合にはわけもないはずだ。

ところが、どうしたことか。

諸島連合もこの事態を把握していないらしく、彼女の所領は平穏そのものだった。

船から降ろされた積荷がうず高く積まれては、次の貨物がやってくる頃には片付いていく日々だったようだ。

私が知るかぎり、主な流通経路はラオデギアに集積された砂糖を湾岸沿いに彼女の所領へ運んでいたそうだ。

そこに、なにか帳簿上の細工があったのかもしれないが、私には調べきることができなかった。

一つだけわかることは、フォウ王国人の商人が、外地でのみ活動する際には、禁輸品についての取り扱いを緩和されるという、ある種の特約を拡大解釈していたということだ。

 

 

荷揚げされた砂糖の行方は、雪の中に消えていった。

彼女の所領の近くに、極地探索隊の重要な後方拠点あった。

領地の港で荷受けされた軍需物資は、ある程度の規模になるまで集積される。

彼女はそこへ砂糖を紛れ込ませることを指示した。

集積所では、莫大な量の物資が文字通り山と積まれるため、砂糖を潜り込ませることなど、容易かっただろう。

また、集積所の警備が外へ持ち出されることにたいして敏感になっていたことも幸いした。

帳簿上の物資と現実のそれが合わないことが当然だったため、物資が増えたことに気づくものはいなかった。

そして、最初の砂糖は予想通りに、軍需物資として、軍に守られながら吹雪のなかを進んでいった。

誰も邪魔するものはいない。

いや、邪魔な詮索行動はすべて軍が跳ね除けてくれた。

軍需物資はいつでも、軍の腐敗を内包している。

それを監査しようとする警察や調査員の影があることは軍自身もよくわかっていた。

ならば、そこになにが隠されていようと、軍は外部に向けて軍需物資の中身を公表することはない。

かくして、砂糖は無事に極地探索隊のもとに運び込まれる次第となった。

 

 

砂糖を待っていたのは、彼らの息がかかった貴族の子弟たちだった。

彼らは、その駐屯地でのリーダー格であり、様々な優遇措置を与えられていた。

子弟たちは、物資の横取りすら許される存在だったと記憶している。

そのような者にかかれば、差出人不明、宛先も不明な物資を自分のものにすることは容易かったはずだ。

子弟が砂糖について我が国の法を知っていたかは定かではない。

極地の吹雪に、法は無力だった。

当事者以外にはわからない暗躍が始まったのは、子弟たちが隠した砂糖が膨大な量になってからだった。

とはいえ、膨大な軍需物資に混ぜた砂糖が膨大に貯まるのに、三ヶ月とかからなかった。

海から吹く風に粉雪が舞うように、砂糖は貴族子弟たちの手を渡り、西へ西へと、物資にまぎれて移動した。

我が国の南東に張られていた警戒網は極地まで届いておらず、誰も子弟たちの運んできた物資を疑うものはいなかった。

極地を横断した砂糖は、南下して彼らのもとまで届くことになった。

ここで初めて、子弟たちは砂糖の存在を看破されるかもしれない存在と対峙した。

我が国は極地から物資を南下させる場合のみ、税関とも呼べるものがあった。

「ありふれた悲劇事件」の教訓として、極地から旧遺物を持ち込むものがないか、検査する組織だった。

だが、特務部も砂糖を発見することはなかった。

特務部が運営する税関組織は、極地のすべてから南下する物資のすべてを検査できるわけではない。

配属されていた特務部の数も多いわけではなかった。

そうしたなかで、特務部の注意は旧遺物にのみ注がれており、生活物資として積まれていた物資を検めることは後回しになってしまっていた。

まして、禁輸品が水に溶けていたり、塩を入れた袋に紛れていたりと、特務部が発見できなかったとしても、彼らの怠慢と断言することはできない。

特務部の一翼として、課せられた仕事をしただけである。

最終的に、税関すらくぐり抜けた砂糖は、様々な方法で酒造業界に関する貴族に引き渡された。

極地から南下してくる物資には、意外なことに需要というものが存在した。

極地に集積された物資で、使われたものや、使われなかったものの行く先は、決まって南である。

極地で使われ、ボロボロになった布の山を目当てにする商人が存在するように、彼らの膨大な物資が、民需を満たすのに一役買っていた。

また、市井が求めるもののほかに、貴族がこぞって求めたのは、炭酸泉であった。

昔から、炭酸泉から湧き上がり口で弾ける水は、長寿の秘薬として重宝されてきた過去がある。

ただし、発見されている炭酸泉はみなどこかの貴族の所有物となれば、おいそれと炭酸泉を融通してくれることなどないだろう。

ところが、極地で発見される炭酸泉は──子弟同士の縄張り争いはともかくとして──誰の所有物でもなく、また子弟の小遣い稼ぎの手段として運用されているからには、高値さえつければ誰にでも売却されるようなものだ。

それを買ったのは彼らだった。

この試験的な取引が繰り返されるうちに、誰も砂糖の密輸に気づかないことが判明すると取引は次第に単純化していった。

最初は本当の炭酸泉に混ぜていた砂糖も、次第にただの水樽で運ばれていき、飲用に耐えられなくなったとの理由で樽ごと処分されるようになった。

水の処分は、彼らの息がかかった施設で行われた。

軍が処分する量を鑑みて、水樽をすべて引き受け、時間をおいて廃棄していくという業者が存在していた。

彼らによってすでに買収されていた業者は、廃棄用と称して持ち込まれた、砂糖水の入った樽を回収していった。

安定した砂糖の流入経路を得られた彼らは、さっそくそれで増幅剤を作り、エスキ芋を使った酒造に精を出した。

こうして、我が国の酒造業界は衆目を逃れ、約束された栄華を手にした。

投資した対象が自身の酒である以上、それを売却して初めて利益を確定することができるという点を除いては、順調なものだった。

彼らは彼女の功績をたたえ、彼女は酒造業界と深いつながりを持つようになった。

 

 

もちろん、彼女は砂糖の流通を野放しにはしなかった。

酒造業界の言いなりになるだけでは、彼女の計画は無償奉仕で終わってしまうからだ。

すぐさま、砂糖の流通量は絞られることになった。

流通を管理するのは簡単で、極地で砂糖を管理していた子弟の一部を抱き込んだのだ。

最初の契約が遂行されたことによって、酒造業界から手に入れた端金を使って。

ときには、子弟同士の不慮の事故さえ起こさせた。

彼女は、酒造業界とは別に、極地での砂糖流通の管理さえ行えるようになった。

子弟を本家から離反させることに、大した時間はかからなかった。

極地などにいる子弟というのは、大抵が貴族の中でも、家の力がないもので構成されている。

家督争いから真っ先に外された、まさに疎まれた存在だ。

子弟たちが、家の繋がりよりも金銭の繋がりに与ろうとしたのも、彼らなりの処世術である。

まさか、掴んだ金を巡って殺し合いに発展するとまでは思っていなかっただろう。

砂糖に足を取られた彼らの末路は、悲惨だった。

 

 

極地の吹雪が赤い色を凍らせている間に、彼女は酒造業界に砂糖流通の管理を告知した。

堂々たる通告をしたためた、きらびやかな装飾の手紙は、意外なことに酒造業界の貴族に受け入れられた。

彼女は、酒造業界の弱点を知り尽くしていた。

手始めに、砂糖の流通を管理することが、酒造業界に恩恵をもたらすのだと訴えかけた。

まず、砂糖を手配するときに不手際があってはいけない。

欲を出して砂糖を大量に流通させようとすれば、当然ながら密輸が露見する確率が高まる。

酒造業界が儲かるからと、わがままで砂糖を大量に仕入れようとすれば、どうなるかは自明の理である。

ところが、酒造業界も貴族の個人経営で行っている以上、個人の思惑で動くものは出てくるだろう。

そのような要求にたいして、彼女に拒否する権利を与えておけば、酒造業界の一部が起こした暴走で、すべてが瓦解するのを防ぐことができる。

彼女は酒造業界からの譲歩によって、長期的な利益を引き出すことに成功した。

次に、砂糖は安定した価格で卸されなければいけない。

流通量を安定させるには、量と価格の相場が必要だった。

それが密輸したものであっても。

なぜなら、酒造業界も一枚岩ではなく、派閥が存在したからだ。

新参者を退場させることに成功したならば、彼らの派閥同士での抗争が待っている。

彼女が一部の貴族と交友関係を構築しようとしているという噂が流れたことも含めると、相場を確定させるという行為に飛びつくものは多かった。

彼女に利権を与えることで、見返りとして他の派閥よりも安価に、大量に砂糖を手に入れることができれば、抗争に勝ち得るのだ。

ところが、派閥ごとに利権を彼女に分け与えていれば、酒造業界自体が遠からず骨抜きにされて瓦解してしまう。

酒造業界の貴族は、この点については連合を結成し、彼女との団体交渉に持ち込むことに成功した。

彼女はそれを確認すると、彼らに譲歩した。

形式上ではそうなっているが、実際は彼女が酒造業界の分断を利用して、一括した砂糖の価格交渉と卸を引き受けることに成功したのである。

最後に、もし最悪の事態が起きたときに、後始末のできるものがいなければいけない。

私達が考えていた最悪のこととは、砂糖が流通するということであった。

砂糖はとても貴重である。

皮肉なことに、砂糖を貴重品にしているのは、我が国での独力生産が非常に難しい糖分にたいして、輸入すらも厳しく取り締まっているゆえである。

ここが緩和されれば、砂糖はどのような高値がつくにせよ、一般的な流通網に乗せられることになる。

問題はこの点に集約されていた。

流通が発生すれば、需要と供給が発生する。

相場は大きく揺れ動き、混乱を生み出すだろう。

しかし、彼らが心配していたのはそのような単純なことではない。

砂糖は彼女から安定して仕入れられるのであるから、砂糖の相場がどうこうで心配する必要はないのである。

問題は、長期的な視点にたてば、流通する砂糖は相場が下がっていくだろうということだ。

科学技術の発展が砂糖の生産を向上させることも含めて考えれば、砂糖が貴重なものでなくなる時代が訪れるかもしれない。

そこで、彼らは砂糖の管理の条件を譲歩する代わりに、彼女と契約を交わした。

極地に蓄えられた砂糖を、不必要になった時点で放棄することを要求したのである。

酒造業界は彼女の手腕を褒め称えていたが、膨大な砂糖の備蓄量を知ると一転して震え上がった。

砂糖が合法化したとき、彼女が利益のために備蓄していた砂糖を我が国に放出すればどうなるかを想像したのだろう。

大量の砂糖による相場の崩壊と、それに伴う酒造業界の乱立は、彼らが溜め込んだ酒を売り抜ける手段を永遠に失うということを示している。

酒造業界が最終的な利益を確定させるためには、それまでに作った酒を売り抜けなければいけないのだ。

砂糖を極地から出さないためには、彼女の徹底的な管理体制を必要とする。

誰が勝手な行動をとっても、計画が破綻するように見せつけることができるのは、まさに彼女の手腕によるものだった。

 

 

流通の管理は徹底的に行われた。

砂糖は定期的な価格の更新と流通量の変更を受けながら、着実に酒造業界に供給された。

ときには流通量を絞ったり、価格を上昇させたりしたこともあった。

一見、彼女の独断で相場を動かしているようにも見える調整だったが、彼女は彼女で苦心していたようだ。

予測はされていたが、見立てよりも早く砂糖相場が出来上がってしまったのだ。

彼女が卸す砂糖にたいして、酒造業界の貴族が即座の現金化を図ろうとしたのである。

もちろん、業界の内輪で行われた取引だったが、砂糖を酒造に使わずに転売する行為は、その場しのぎの資金調達としては優れていたのだ。

彼女が酒造業界における新参者の排除に協力したのも、この事態の発生をできるだけ遅らせるためだった。

だが、結果的に派閥争いのなかから、現金化の動きが発生したからには、彼女にも止められるものではなかった。

彼女にとって砂糖の流通量の管理はなによりも優先すべきものとなり、この行為が外部にまで及ぶことを防ぐために、様々な手を打ったようだ。

それに比べて、極地に溜め込まれる砂糖は増え続けた。

腐らず、密にたかる虫すらいない極地の環境で、砂糖は万年雪のなかに蓄えられ続けた。

ここまでの量となると輸入費用も莫大なものになったはずなのだが、彼女はそれでも砂糖の輸入をやめなかった。

酒造業界の造反や、事態の露見に備えて、物量作戦による目眩ましを展開するつもりで備蓄していたのだろう。

だが、酒造業界が三十年かけても消費しきれるかわからない量の砂糖が保管されている極地の状況を考えられるだろうか。

このまま砂糖が蓄え続けられたらどうなるのが、凡人の私には予測することができず、それが私を混乱させたのだ。

私の目には、諸島連合を出し抜き続けて砂糖を密輸できていることに感嘆し、彼女が大量の砂糖を密輸し続けていることに恐怖を覚えていた。

 

 

雲行きが怪しくなり始めたのは、特務部が極地に分隊を派遣し始めた頃だった。

きっかけは、施設が一つ発見されたことだった。

後に炭酸水の水源となる施設は、

ある人物が第一発見者だったことが原因で、非常に政治的な区分に設定された。

貴族派が及び腰で動かないとわかった瞬間、特務部は施設の維持と管理を名目に極地へと分隊を派遣した。

特務部の躍進は極地にとどまらなかった。

独自の補給路を確保するために、彼女の所領に特務部を次から次へと送り込んできた。軍の補給線の隣に特務部の補給線を拓き、極地のための気象観測施設が所領に設置された。

今から考えれば、派遣された気象観測士が彼女の所領を偵察するための密偵だったのだろう。

まったく、余分な人材を一時的にとどめておくためだけの組織だとばかり思っていたのだが。

特務部は、やはり王国の暗部を内包していたらしい。

観測士独自の専門用語で固められた郵便物は、解読の難解さから検閲をくぐり抜けた。

彼女が本腰を入れていれば、もっと早く密偵の特定ができたかもしれない。

だが、彼女の置かれていた問題を鑑みれば、そこに手が届かなかったのは仕方のないことだ。

 

 

彼女の抱える問題は、解決策を持たない袋小路に閉じ込められたようなものだった。

酒造業界の内部留保が貯まる一方で、酒のもととなる素材がなくなってしまったのである。

買い叩いたエスキ芋が底をついたのだ。

暴落から十数年。

どれだけ溜め込んでいたのかと呆れるほどだが、それでもなくなってしまった。

嘆かわしいことに、酒造業界はエスキ芋の枯渇にたいしてなんら対策を講じていなかった。

彼女の思惑とは裏腹に、あまりにも短期間の儲けで満足して、次の課題に取り組まなかった結果の悲劇だった。

なぜ砂糖が必要だったのか。

それはエスキ芋をアルコールに変えるのに効率的だったからである。

エスキ芋がなくなれば、砂糖は必要なくなってしまうのだ。

ところが、そうはならなかった。

意外な形で、酒造業界は砂糖を求め続けた。

彼女は酒造業界が甘い見立てで次の行動を起こそうとしていることを看破できなかった。

それが彼女の致命傷となった。

酒造業界の半分は自分たちの失政を棚に上げて、彼女に泣きついた。

これではもう儲けを出すことはできない、と。

もう半分は楽観的に、彼女から砂糖を安く大量に仕入れようとした。

次の十年は砂糖菓子で儲けるぞ、と。

ここで、彼女は非常に頭を悩ませることになる。

酒造業界は、砂糖の取り扱いにたいして意見が完全に二分化してしまった。

にもかかわらず、砂糖を以前より大量に必要とする点では一致していたのだ。

酒造業界の半分が求めたのは、増幅剤であるはずの砂糖を主軸に据えたアルコールの作成だった。

もう半分は、酒造に使用していた砂糖を、砂糖菓子に転用する計画だ。

彼女はすかさず砂糖菓子の計画を蹴った。

どれほどの貴族と関係が悪化しようが、砂糖菓子計画を蹴り続けた。

砂糖を砂糖として使えば、遠からぬうちに悪事が発覚することがわかりきっていたからである。

酒造業界の半分がアルコールと砂糖に頭をやられた集団だとは思ってもみなかったのかもしれない。

彼女は、このどうしようもない集団の、もう半分の意見──ほとんど戯言だが──を真剣に聞かざるを得ない状況に追い込まれた。

エスキ芋に代わる原材料が見つかるまでの急場しのぎとして要求された砂糖の量は、増幅剤だけの利用を念頭に置いていたときと比べて、三倍や四倍では済まない莫大なものだった。

流通量が増えれば、砂糖の露見する確率が上がるのは当然として、それを凌駕するほどの大きな懸念事項が存在した。

流通量を増やすということは、それを盾にして砂糖の価格を下げようとするだろう。

しかし、砂糖は砂糖としても、とても高価なのだ。

正規の手順を踏んでいないからこそ、破格の値段で取り扱われているということを理解していないものの、なんと多いことか。

砂糖が安価に流通すれば、してしまえば、砂糖は転売に晒されることになる。

計画発足当時でさえ転売は横行していたのだ。

流通量が増えた状態で転売されれば、いずれは酒造業界の内輪同士での取引では絶対に収まらなくなってしまう。

エスキ芋が枯渇して酒造にたいする砂糖の利用率が下がっている状態なら、酒造以外のことで砂糖が売られてしまうのはわかりきったことだった。

 

 

そして、彼女の命運が尽きた。

酒造業界との関係の調整に奔走する彼女は、彼女の所領で動く、不穏な影を見落とし続けた。

数年も密偵を野放しにしていれば、所領の内情など、骨子から見抜かれてしまっていても不思議ではない。

いや、あえて野放しにしたのかもしれない。

彼女は賭けたのだ。

我が国の、複雑怪奇な「国益」に。

静寂を破ったのは、急を知らせる一通の手紙だった。

港に停泊していた船舶への臨検で、砂糖が出てしまったのだ。

ありえないことだった。

港湾は最初に利益によって恭順させた場所だったからだ。

彼らが自分たちに不利なことを言うはずがない。

では、何が起こったのか。

彼女の予測しないことが起きたのだろう。

おそらく、マルダル地方全体で諜報戦が起きているのだ。

特務部が派遣した気象観測士が我が国の密偵だったとして、彼らと対抗するのは我が国の別組織の密偵などではない。

ワリウネクル諸島連合だ。

諸島連合の密偵が入り込んだのだろう。

彼女の所領は、我が国と彼の国が散らす火花の火口となりかけていた。

では、この臨検を仕組んだのは諸島連合側なのだろうか。

諸島連合は彼女の我が国のなかでの暗躍を知らないはずである。

もし、諸島連合が知っていればこのような事態では済まないはずだからだ。

それが意味することは、我が国が諸島連合への先制攻撃の材料として、彼女の所領を生贄に選んだということだ。

誰もが口を揃えて「諸島連合の雪事件」と触れ回っているようだ。

少しでも調べれば、諸島連合は事件に関与していないことなど明らかだろうに。

ここまでくれば、なんらかの意思が事件を諸島連合の陰謀にすり替えたがっているのは明らかだろう。

彼女もこうなってはどうにもならないことはわかっていただろう。

私は複雑な気持ちで、国益という文字が踊る手紙を何度も送り出した。

帰ってくるのは、協力を得られないという返事だけだった。

彼女の所領は、対ワリウネクル諸島連合の前哨基地として差し押さえられるのだ。

国益は彼女を手放した。

賭けに負けたのだ。

 

 

沈みゆく船から逃げるものはもういない。

館で事情を知っていたものは、皆どこかへ行ってしまった。

様々な理由をつけて館から出て行ったきり、帰ってこなかった。

彼女はそれを責めることをしなかった。

バラバラになって逃げるという行為は、自殺と変わらないことを知っていたからだ。

早く逃げるだけ、早く捕まってしまうということを知らないわけでもあるまいに。

それきり、彼女は手紙を読むことも、出すこともやめてしまった。

代わりに、こうして私が封を切り、私が読んで、私が物語の終わりを綴っている。

彼女の所領から来る救援の要請が、私の書斎に溜まっていった。

港の砂糖は、部屋の隅に積もった塵を光のなかへ掃き出すように残らず摘発された。

不届き者が横領し、防水袋に入れて港の底にうず高く敷き詰められた砂糖さえ、逃れることはできなかった。

防水袋はワリウネクル製ではなかったがために、中には泥しか詰まっていなかったようだが。

唯一の救いは、軍の物資集積所に詰め込まれた砂糖は、軍の威信にかけて発覚を逃れたことだろうか。

どちらにせよ、ここまで大規模な作戦が白日の元に晒されたからには、後戻りなどできない。

港湾責任者が、ここにあった白い粉はすべて雪なのだ、と言い訳をしても、巨大な雪崩となった砂糖密輸事件を止められるものはいない。

追加で派遣された特務部の証拠品押収船が、何者かによって爆破されるという事件まで起きては、国王派からの報復が激化することは必至だった。

誰がそれを起こしたかなどは問題ではなく、起きた事実だけが事態を悪化させる。

彼女の所領は、速やかなる国王派の派兵によって占領された。

抵抗は無意味だ。

ガルゼラル領は大義名分を失った。

手紙など出す気も起きないが、たとえ今から手紙を出したとしても間に合うまい。

あの領地からの最後の手紙は、ガルゼラル邸を失って落ち延びたものたちが、国王派による略式裁判と市街地の暴動の様子を伝えたものだった。

統治者を失った街は瞬間的に暴動状態となったようだ。

領地が我が国にたいする不正によって富を得ていたとなれば、裁かれるのは領主だけでは済まないだろう。

恐怖が蔓延すれば、火の手が上がるのにそう時間はかからない。

様々な文書が混乱に乗じて焼かれただろう。

だが、それすら国王派は利用して、特務部を鎮圧任務に動員したようだ。

理由としては、検分中の施設への物資を運ぶ補給線が途絶することを予防するためだった。

すべてが計算され尽くしていたとしか思えない手際である。

少なくとも、この事態が思いつきで実行されたということではないだろう。

手紙を紐解いていくと、少しずつおかしな点が浮き彫りになってくる。

例えば、港湾責任者が釈明を切り出す前から「雪」という言葉は使われていたようだ。

観衆に「諸島連合の雪事件」を問い詰められて初めて、とっさに港湾責任者ひねり出した釈明なのだろうと、私は見立てている。

つまり、この出来事が「諸島連合の雪事件」と命名されるのは、最初から規定の方針だったのだろう。

事件を起こし、事件がもたらす出来事を先に起こし、手早く事態を収束させる手際。

わだちにはめられた車は、行先を選べない。

尊敬に値するほど鮮やかな手法が実行できる存在を、私は一つしか知らない。

発起人は、雪原雷帝の子孫だろう。

間隙を突き、内憂を粉砕する。

それが貴族派の裏切り者のエルカ家というものだ。

彼相手では、彼女も叶うまい。

そういった意味では、彼女の今の態度はまったく正しいのだ。

打つ手が無いのであれば、手を打たないことが最適解となる。

それが死への一本道でも。

 

 

そうか。

エルカがやったのか。

彼女の負けは最初から決まっていたのかもしれないな。

最初の失敗が、エルカと彼女をつないでしまったのかもしれない。

エルカが私情を挟むような人間ではないことなどわかっていても、あのときからすでに決まっていた運命なのだとしても不思議ではない。

人の縁は繋がるのだ。

私が繋いだ縁が彼女を破滅させたのだ。

抱いたぬくもりを覚えている。

あの子を支えて持った右腕も、あの子を抱き込んだ左腕も。

ないはずの左手の指が、ふかふかだったあの子の服の感触を思い出す。

私達の罪が、回り回って私達を滅ぼすのだ。

これほど興味深いことはない。

私に残された利き腕は、私達の終わりを綴ってくれる。

私が罪を半分逃れた理由は、約束された滅びとでも言うのだろうか、それを記述するためにあったのだ。

私は贖罪のために、私の主を本にして売るのだ。

魅せられたように、使命が私を離さない。

「お前の免れた罪は、消してお前を離さない。殺された温もりを右腕が覚えている限り」

言われずとも、私が呪いにかけられていることなど、私自身が知っていたさ。

さあ、もう行こう。

特務部の名を借りた、我が国の暗部が屋敷の扉を叩いている。

ついに彼らは元凶を突き止めたようだ。

私は、私達の最期を綴らない。

彼女と共にいよう。

闇に消える私達の最期を、誰かが綴ってくれることを信じて。

最終更新:2019年03月01日 22:37