Meddler

Log.1 Fault Line


既に経過した悠久の年月を一切感じさせない程に小綺麗ではあったものの、その空間は排他的で不健康な大気に満ちていた。
幾何学模様にびっしりと覆われた灰緑色の壁面と、生気のない淡い光を発する床。
恐らく石材に近い構造体で形作られているのであろうそれらと共に、大小様々な直径の配管が這い回る天井が、先の見えぬ程に長大な通路を構成している。
何らかの設備の駆動音であろうか、そこに響く寝息のように穏やかで周期的な低音は、ここがもはやヒトの領域ではないことを静かに主張しているように感じられた。

その超俗的な平穏は突然の破裂音により打ち破られる。
途轍もない振動が構造体を伝わり、寝息は咆哮の如く荒々しい風鳴りに掻き消された。
同時に生じた黒煙と粉塵が、長きに渡り保存されていた数千年前の大気を汚す。
それらがゆっくりと消えゆく頃、壁面に穿たれた大きな穴から十名程の男たちが姿を現した。
年季の入った傷だらけの鉄帽に色褪せた戦闘服、幾度も錆を削り落としたのであろう痕跡に覆われた小銃。
そのどれもが彼らが素人ではない、職業としての兵隊であることを物語っていた。

「・・・広いな。」
 
顔の下半分を人工肺のマスクで覆った大柄の上等兵が呟いた。
確かにその通路の馬鹿げた大きさは人が通る為であるとは到底思えなかった。
内幅にして30mはゆうに超えており、高さも同様である。

「搬入路だ。探し物も近いだろう。」

後ろにいた分隊長と見られる軍曹が答えた。
その背中には屈強な体格をしたクルカがしっかりとしがみついている。

「怖いねぇ・・・。」
 
やや遅れて穴から出てきた男がおどけたように呟いた。
その左目があるべき所には無数の小さなレンズで覆われた義眼が装着されている。
虫の複眼を思わせるそれを光らせながら、彼は咥えていた煙草を石材の散らばる床に落とした。

「アルドー、無駄口を叩く暇があったらさっさと走査しろ。」

明らかに気怠げなその兵士を一瞥し、分隊長は静かに窘めた。
背中のクルカも同様に冷たい視線を彼に向ける。
苛立たし気にその生き物を睨み返しながら、アルドーは分隊の前に進み出た。
そしてこめかみにある義眼の視度調節ダイヤルを弄りながら通路の奥を睨みつけた。

「・・・動くものは何も見えないですよ。熱源すら見当たらねぇ。」
 
彼のぞんざいな報告に滲んでいた僅かな困惑を、分隊長は敏感に感じ取った。

「馬鹿を言え。活遺跡に熱源が無い訳がないだろう。」

多少なりとも気をもませれば、アルドーがその雑な行動を改めることを彼は知っていた。

「・・・それが妙なんですよ。この階層に降りてから網膜の調子がおかしい。まるで波長が掻き消されてるみたいな・・・。」

ばつが悪そうにぼそぼそと言ったアルドーの言葉に、分隊長は小さく溜息を吐いた。

「だから二型に換えろと言ったんだ。・・・やむを得ん。」

彼は提げていた雑嚢から暗視眼鏡を取り出し、自らの鉄帽のマウントにそれを取り付けた。
人工網膜によって生成された可視光と赤外線の複合像は、確かにこの空間の光波が何かおかしいことを示している。
断続的なノイズのようなものに干渉され、光源の正確な位置が捉えられない。

「隊本部に報告しろ。ここで間違いない。」

彼の言葉に従い、分隊の最後尾にいた通信兵は背中の無電を石の床に降ろした。
その間も他の兵士たちは分散しつつ周囲の安全化を図っている。
通信兵が報告を終えたのを確認すると、分隊長は前進の合図を下した。
 
旧兵器欺瞞用の黒いドーランで顔を塗った男たちが円滑に警戒方向を分割しながら歩みを進める様は、中々荘厳である。
しかし一度この空間の規模と彼等を対比すると、その光景は滑稽でどこか子供じみたものへと変わる。
小人たちが雨どいの中を怯えながら行進していくような、さながら絵本の図画の如き印象となるのである。
しかしながら、とうの本人たちは未だ目に見えぬ脅威に神経を擦り減らせながら歩いているのだからこの世は不合理極まりないと言える。

技術省第八収集小隊。
戦略物資の発掘や旧兵器狩りを担うとされたが、実態は人体強化技術の実験部隊のようなものに過ぎなかった。
永住権と高給に釣られ、大陸中から流れてきた持たざる者たち。
四肢をもがれ、臓物を機械に取り替えられ、ただ技師たちの玩具として前線で消費されていく。
こうして遺跡に入り、眠るとされる発掘物を捜索すること自体、非常に稀なケースであった。
 
やがて、通路の真ん中の床から何か大きなものが突き出しているのが見えてきた。
3m程の高さをもつ石板のように見て取れたが、近づくにつれその表面が血管のような細い何かに覆われているのが分かった。
それらは壁面の至る所から伸びてきており、その装置に向け結集しているようだった。

「なんだよこれ・・・。気持ち悪りぃ。」

歩みを止めそれを睨みつけるアルドーをよそに、他の兵士たちは石板を取り囲むようにして各々の銃を向けた。

「おそらくただの操作盤だ。弄らんことにはアレは開くまい。」
 
分隊長は壁面のある箇所を指差した。
車両が二両は簡単に通れそうなほどに大きな扉のようなものがそこにあった。
石材が左右に開くようにできているように見えたが、その素材は先程彼らが穴を穿ったものよりもかなり堅牢であるようだった。

「ボリスさん、上の技師どもを呼んでからの方が・・・。」
 
一人で石板に歩みを進める分隊長の背中に、通信兵はおどおどと言った。

「そう日和るな。手柄を独り占めされるのはもううんざりだ。」
 
彼を一瞥することも無く、分隊長は装置の表面、人の胸の高さにある計器盤のようなものに手を伸ばした。
やがてその計器の一つの隣に小さなレンズのようなものを見つけると、彼は暗視眼鏡を外して右目でそれを覗き込んだ。
中には小さな光の筋の様なものが見えた。
やがてそれは大きさを増し、青白い円を形作った。
しかしながら、期待に踊る彼をよそに、いつまで経っても装置にそれ以上の変化は起こらなかった。
背中のクルカは失望したように小さくピィと声を漏らした。
彼はその顔を見ながら小さく首を振り、踵を返した。

「・・・ダメだ、分からん。ヤレド、連中を呼べ。」
 
落胆を隠せない声で分隊長は通信兵に言った。

「・・・だと思ったよ、馬鹿臭ぇ。」
 
装置から最も離れた位置にいたアルドーは、呟きながら腿ポケットの煙草を取り出した。
他の兵士たちも心中でぼやきながら、もと来た道を引き返すべく縦隊を組もうと歩き始めた。
無電を弄る通信兵の頭上から降ってきていたものには誰一人気付かなかった。
 
セラミックの蹄が床の石材とぶつかる大きな音に彼らが振り向いた時、既に通信兵の頭部は前脚に踏み潰されていた。
飛び散った血と脳漿が、淡く光る石材を汚した。

「撃て!殺せ!」
 
何もかもが驚異的な速さで動き始めた。
分隊長の叫びが終わらぬうちに兵士たちは各々の銃の床尾板を肩に当て、彼の声が壁に反響する頃には既に引鉄を引いていた。
投薬による感覚・運動神経の強化は技師たちの意図した通りに効果を発揮していた。
体長は5m程であろうか、昆虫を思わせる姿をした旧兵器の頭部の外骨格に無数の小銃弾がぶつかる。
だが、幾ら徹甲弾といえどもその分厚い複合素材を射貫くには質量、初速共に圧倒的に不足していた。
振動によりもたらされる視界のノイズをものともせず、旧兵器はその六本の攻撃肢を操り身体を兵士たちに向けた。

その口のような器官から矢のように放たれた筒状の飛翔体により、まず機関銃手が首を貫かれた。
死体に抱えられた銃が弾倉を空になるまで撃ち切った時には、既に更に三人が頭を失っていた。
旧兵器は次に浅黒い肌をした男の顔に目標指定用のデジグネータを重ね、左前脚を向けた。

「アルドー!擲弾を・・・」
 
言い終わらぬうちに額から上を刃のような何かに切り落とされた分隊長の背中から、クルカが飛んだ。
それがこちらへ向け必死に滑空してくるのにアルドーは苛立った。
強引に研ぎ澄まされた知覚は素早く動くものに対して非常に敏感である。
小銃の先に取り付けられた擲弾が放たれた時、彼の他に息をしているものはもう一人の小銃兵と彼の胸に飛び込んできたクルカのみであった。

擲弾は20m先でこちらに体を向け始めていた旧兵器の口に入り、炸薬を爆ぜさせた。
しかしながら、弾体に組み込まれた神経毒がその脳に達した時にはもう遅かった。
バウマンという名の最後の同僚は上半身だけになった体を必死にひねり、こちらを睨みつけていた。
アルドーは半ば恐慌状態に陥りながらも論理的な思考を失わぬよう努めた。
脚を放射状に力なく広げ停止した敵が再び動き出すのには20秒ほどの猶予があることを彼は知っていた。
バウマンを抱えて突入口に戻るには最低でも二分はかかる。
もっとも、あと数秒もしない内に彼は事切れるだろうが。
一人で駆け出したとしてももはや助からないと彼が判断した時、旧兵器はその目に光を取り戻し始めていた。

アルドーは胸に張り付いていたクルカを引き剥がし脇に投げると、小銃の照星を石板に向けた。
獣の咆哮とも赤子の大泣きともとれぬ叫び声を上げながら、彼は引鉄を連続して引いた。
装置の表面の血管が何本も引き千切られる。
数発の小銃弾が計器盤の上にあった電探の受像機のようなものを粉砕した。

遊底が後退位置で止まったのにも構わず石板をやぶにらみしながら引鉄を引き続けていた彼は、例の大きな扉の右隣にあった小さな石材が上にスライドしたのにすぐには気付かなかった。
壁に人一人がようやく通れるほどの小さな開口部があるのを彼がようやく視界の隅に認めた時、旧兵器は背中の装甲をぴくつかせた。

人の脚の何倍もの強度がある筈の義足を軋ませながら、アルドーは駆け出した。
右目から流れ出た涙と鼻水が宙に散り、後ろからついてきていたクルカにかかる。
立ち上がり始めた旧兵器の脇をすり抜け、彼は開口部に飛び込んだ。
 
2秒ほど遅れてその非常に狭い通路にクルカが辿り着いた瞬間、扉が勢いよく閉じた。
危うく尾を失いかけたクルカは、先でうつ伏せに倒れている兵士の傍に滑り込んだ。
そしてその耳元でピャアピャアと大声を上げる。
アルドーはしばらく死んだように動かなかったが、やがてゆっくりと身を起こすとクルカの首を掴んで壁に叩きつけた。

「この糞馬鹿が!殺す気か!?」
 
そのまま腹を見せて呻くクルカに小銃を向けたが、後ろの扉が大きな音を立てていることに気付くや否や、彼は再び通路の奥へ向け駆け出した。
 
始めは先程までの搬入路のように石材と配管で作られた空間であったが、20分程走るうちにそれは姿を変え始めた。
壁面を肉腫のようなものが覆い始めたかと思うと、彼はいつの間にか自分が巨大な腸管のようなものの中にいることに気付いた。
床が脈動し、その赤黒い空間全体にゆっくりとした鼓動の様なものが大きく響いている。
冷静さを取り戻しかけていたアルドーは再び恐怖に支配され、足を止めた。
汗と涎に塗れた戦闘服に包まれた体を震わせながら、彼はその場に胃の中身をぶちまけた。
消化液に混じって、今朝の携行食についていた茶色い甘菓子が見えた。
分隊長の背嚢からくすね、行動中に食べたものである。
途端に名状し難い孤独感に襲われ、身体を丸めて座り込んだ。
やがて、後ろからゆっくりとついてきていたクルカが彼の脚に擦り寄った。
それもまた同様に身を震わせている。
アルドーは顔を上げ、先程痛めつけたクルカをゆっくりと抱え上げると、その胸にしっかりと抱きしめた。

意識を取り戻した時、傍の吐瀉物はなくなっていた。
慌てて立ち上がり背中に手をやると、戦闘服と弾帯の一部が溶けていることに気付いた。
半長靴の底も同様である。

「・・・まずい。」
 
彼は小さく呟くと、腕の中にいた筈のクルカを探し始めた。
付近にはいないことに気付き、分隊長がよくやっていたように彼はその名前を叫ぶ。

「ロムルス!どこだ!?」
 
声は周囲の肉に吸収されたのか、全く反響しなかった。
叩き込まれた闘争本能が再び首をもたげるのに身を任せ、彼は小銃の弾倉を弾嚢の中のものと入れ換えて槓桿を引き直した。
そのまま注意深く腸管の奥へと歩みを進める。
空気を震わせる鼓動がどんどん大きくなりゆくことに気付いた時、先に光が差しているのが見えた。
それは薄い膜の向こうから届いているようだった。
ロムルスはそれを破らんとして必死に噛みついていた。
アルドーは彼に下がるよう促すと、腰から吊っていた銃剣を抜いて膜を切り始めた。
 
腸管はそこで途切れていた。
彼は切り開いた膜を踏みながら足を進め、その光に満ちた空間に出た。
 
最上部が全く見えない程の高さと搬入路の倍はあるであろう直径をもつ円筒状の空間が彼の頭上に広がっていた。
空間全体が、鼓動と同調するかのように周期的にうねっているのが分かった。

「家に帰りてぇ・・・。」
 
再び泣き出しそうになりながらも、彼は義眼を用いて空間を走査し始めた。
壁面には無数の球体のような半透明の何かがびっしりと張り付いている。
大きさにして1mもない。
中に何かがあるのは明確であった。
それらは確かな熱を持ち、生きていた。

「・・・何なんだよ。」
 
突然、頭上10m程の高さにあったそのうち一つが目の前に落下した。
殻が割れることは無かった。
しかし、先程までの腸管と同じ素材で形成された床が、急速にそれを消化し始める。
 
アルドーは自分が何を考えているかも認識せぬまま駆け出していた。
蒸気のような煙を上げながら吸収されていくそれに走り寄り、溶けた殻の中から姿を現したものを抱え上げる。

混乱と恐怖に慄きながらも、彼は腕の中のそれをしっかりと眺めた。
異様に青白く、呼吸すらもしていないようではあったが、それは紛れもなくヒトの赤子であった。
それを抱えたまま呆然とするアルドーをよそに、ロムルスはその白い顔を覗き込んだ。
クルカの小さな舌に額を舐められると、赤子はやがてゆっくりとその目を開いた。



 
煤と脂に覆われ、すっかり本来の色合いを失った木窓の隙間から、午後の日が弱々しく差し込んでいた。
長いこと開閉されることはなかったのだろう、窓枠は歪み、蝶番の一つはなくなっている。
床に散乱した無数の書物や工具の類は、その淡い陽光を嫌がるかのように、互いに重なり合っていた。
部屋の隅には所々が錆び付いた小さな金属製の寝台があり、その上で死んだように眠る大柄の男の体重を支えるには余りにも頼りなく思えた。
うつ伏せのその体は茶色の革外套に包まれており、力なく寝台から垂れ下がる右手の下にはイーヴォの瓶が転がっている。
生体機関用の栄養塊を発酵させ、合成香料で無理やり香りづけした安酒である。
瓶口から垂れたそれは、絨毯代わりに床に敷き詰められた緩衝材に、紫色の染みを作っていた。
 
分厚い金属製の扉を叩く重い音が部屋に響き始めても、男はすぐには目を開けようとしない。
やがてそれに聞き慣れた野太い声が混じって初めて、男はのそのそと上半身を起こしはじめた。
白髪交じりの短髪は辛うじてその豊かさを保ってはいるものの、無造作に伸びた髭と刻み込まれたように深い眉間の皺は、五十路ほどのその男をすっかり老爺に見せていた。
寝台から立ち上がった彼はすぐには扉に向かわず、まず右手で外套のポケットをまさぐった。
しかし、取り出した箱の中には一本の煙草もなく、男は眠っていたときでさえ不機嫌そうだった顔を一層しかめた。

男は覗き穴から注意深く外を睨みつけると、ゆっくりとノブを回して扉を引いた。

「フラーケよう。中で死んでんじゃないかと思ってたとこだ。」
 
訪問者は男の顔を眺めると、尻ポケットから粉末の入った小さな袋と10㎝ほどの長さのガラス管を取り出した。
男はそれを見るなり袋だけを彼の手から奪い取ると、端を噛み千切って中身の臭いを嗅ぎ始めた。

「・・・次に紛いもん寄越したらケツの穴縫い合わすぞ。」

男は呟くように言うと、訪問者の手に袋を返した。

「俺たちゃこれで満足なんだよ。・・・まぁ本場から来たあんたにゃ分からんだろうがな。」

カルタグ市憲兵の制服に身を包んだその訪問者は、「紛い物」の合成麻薬をポケットに戻した。

「今日はこれのためにきた訳じゃない。・・・まず今月は金貰ってねぇし。署長があんたを呼んでんだ。」

「・・・何だってんだよ。」

男は怪訝そうにその恰幅の良い憲兵を睨みつけた。

「こないだ見てもらったアレ、また動かなくなっちまったんだとよ。」

憲兵は言うと、男を急かすように踵を返した。
 
フラーケ・リンデマンがこの街に流れてきてからもう10年になる。
クランダルト本国の者が何らかの事情で逃亡せねばならない場合、言語や文化基盤にも隔たりの少ない南パンノニア自治国にやってくるのは珍しい事ではなかった。
中でも、複雑化しすぎた統治体制が機能不全を起こしつつあるこの首都カルタグは、そうした者たちにとっては格好の隠れ処であった。
 
小屋は石造りの大きな行政施設の裏の塀に、半ばめり込むようにして建てられていた。
周りには同様の粗末な伏屋が幾つも、施設に寄生するかのように群れている。
与太話をしながら路地を歩いていく彼らの頭上では、何隻もの空中艦船が各々の生体音を響かせながら飛び交っていた。
殆どは機関の規格すらも統一されていない、雑多な見た目をした民間の商船であったが、威圧的な鋭い空気を伴った軍艦も数隻は確認できた。
その中の一つがフラーケの目に留まる。

「・・・おい、ありゃきな臭ぇな。」

彼はそれを指差すと、横にいた憲兵を見た。

「あぁ、なんだって?」

憲兵はフラーケの言わんとしていることを汲み取れず聞き返した。
小屋を後にしてから今の今まで、娼館絡みの下卑た話しかしていなかったのだから無理もない。

「あれだよ。あの黒くてデカいやつ。」

フラーケは苛立ちを隠すこともなく大声で言った。
その人差し指の指し示す先には一隻の重巡空艦があった。

「あれか・・・。それも言わにゃならなかったな。」

憲兵は思い出したかのように呟いた。

「何だってんだよ。」

「ありゃクランダルティンの特務部隊だよ。昨日繋留塔で見た。若い女が率いてるっぽいな。」

「女?」

フラーケは足を止めて憲兵の顔を覗き込んだ。

「おうさ、黒髪のべっぴんだ。これまた黒の制服が妙に似合っててな。・・・あんたの言ってたことを思い出したんだ。その、・・・息子さんの仇だよ。」

憲兵は途中から慎重に言葉を選ぶかのようにぼそぼそと言った。

「・・・襟章は見たか?」

フラーケは無表情だが、僅かに震えを伴った声で尋ねた。

「そこまでは見てねぇ。・・・まぁ思い違いだろ。第一、そりゃ大昔の話じゃねぇか。そいつが今もあんなに若いはずはねぇ。」

憲兵は取り繕うかのようにやや早口で答えた。
フラーケはしばらく何かを思案していたようだったが、やがて再び歩き始めた。


その一階建ての分署は寂れた繁華街の一角にあった。
表面がすっかり風化した煉瓦作りのこじんまりとしたそれは、ある種の安心感と親しみを伴って街並みに溶け込んでいた。

「どんな感じだい?フラーケさん。」
 
署長と見られる、やせ型の小柄な男が扉を開けて入ってきた。
本来なら倉庫として用いられるべきであろうその狭い部屋は、空間の大部分を大きな生体機械に占拠されていた。
フラーケはその裏で小さなボトルを傾け、半ば無理やり流し込むようにして注油口に組織液を飲ませていた。

「循環器だよ。こないだ換えたバルブがもうダメになってた。・・・第一、こいつは燃料作るようにはできてねぇんだよ。」

入ってきた署長を半ば疎ましがるように、フラーケは不機嫌に答えた。
その間も、機械の口は質の悪い組織液をえづくようにして必死に飲んでいる。

「仕方ないだろう。わたしらだってもうちっとマシなお給料もらえりゃ密売なんかやらないよ。」

署長は右手で持ったカップの中で湯気を立てるシーバを眺めながら、ゆっくりと言った。

「それも北から内燃機が流れてこなくなりゃ終わりだろうが。・・・ほれ。」

フラーケは先程整備したばかりの循環器を右足で軽く蹴った。
途端に機械の動脈が震えはじめ、部屋の隅にあった大きな透明のボトルに黒い液体が流れ込み始める。

「やるなぁ!流石は専門家だ。」

署長は心から感心したように言った。

「だから俺は専門でも何でもねぇよ。どっちかって言やぁ苦手な方だ。」

フラーケは機械から出る管を踏まぬよう、足元を見ながら慎重に歩いてきた。

「それでも帝国軍ってことは生体機関とお友達みたいなものだろう?」

署長が手渡した高級煙草の箱を受け取ると、フラーケはその髭面を少しばかり綻ばせた。

「ただの兵隊だよ。何十年前の話をしてんだ。」

包みを破って一本を取り出すと、茶色い紙で巻かれたそれを咥えた。
そのまま外套の胸ポケットに入っていた金属製のライターを取り出し、火打石を回して着火した。
随分と年季の入ったその側面には、帝国陸軍の徽章が彫られているのが見えた。

「何にせよ助かったよ。・・・前々から言おうとは思ってたんだが、ティルのとこ辞めたらウチに来るといい。あんたみたいな頭の切れる奴がいてくれると助かる。」

廊下を歩きながら、署長は話を切り出した。

「・・・無理だよ。だいたい俺みたいなのにお役所勤めが出来る筈はねぇだろ。」

フラーケは濃い紫煙をゆっくりと吐き出しながら答えた。

「それでもそんな用心棒紛いなことは長くは続けられんだろう?きっともっといい暮らしだって・・・」

署長の言葉は突如轟いた雷鳴のような音に掻き消された。
建物全体が激しく振動し、廊下の天井に吊り下げられていたガス灯が床で割れた。
辺りに舞った凄まじい埃にむせ返りながら、二人は事務所に駆け込んだ。

「何だこれは・・・。」

呟いた署長の視線の先には、部屋を埋め尽くす瓦礫の山があった。
天井があった筈の所には晴天の午後の空が広がっていた。

「何か落ちてきたんだ。」

フラーケは注意深くその瓦礫を睨みながらゆっくりと近づいていった。
埃の中からでも、煉瓦や木材に混じり、何か赤黒い液体が床に流れているのが分かった。

「まずい・・・。ギュンター!どこだ!?」

フラーケは例の恰幅の良い憲兵の名を叫んだ。
ところが、次の瞬間には彼は戸口から間の抜けた顔を覗かせていた。

「おいおい・・・。あんたがやったのか?」

憲兵は状況を全く掌握できていない調子で尋ねた。

「馬鹿は面だけにしろ!さっさと助けるぞ!」
 
署長は先程までとは異なる鋭い声で憲兵を怒鳴りつけると、瓦礫の山に駆け寄った。
そして血の海の上にあった大きな煉瓦の塊に手を掛けた。
 
「あんた、手伝ってくれ。」
 
そしてフラーケを見遣って言った。
彼は当初こそ署長の言わんとすることを汲み取れない風に呆然としていたが、やがて塊に駆け寄り一辺に手を掛けた。
初老の男二人が懸命にそれを脇にどかすと、その下にあった割れた煉瓦の群れから白い手が顔を覗かせた。
その妙に整った形をした手の甲をみて、フラーケはその場に似つかわしくない言い知れぬ嫌悪感を抱いた。

「こりゃ酷い・・・。ギュンター、手を・・・」
 
「触らねぇ方がいい。」
 
憲兵に支援を求める署長の言葉をフラーケは遮った。
署長は怒りに燃える瞳で彼を睨みつけた。
 
「馬鹿を言うな!汚い仕事ばかりやる内に良心まで腐ったか!?」
 
署長が自らの浅黒い右手を白いそれに伸ばそうとした時、憲兵とフラーケは頭上に広がる空を睨みつけていた。
普段は決して耳にすることのない、鋭い生体音が辺りに轟いていたのに気づいたからである。
そのため署長がいきなり甲高い悲鳴を上げても、注意の対象をそちらへ向けかえるのに少し時間を要した。

「あッ・・・、助けてくれ!」

署長の細い右腕は瓦礫の山から伸びる手に掴まれ、骨が軋むほどに締め付けられていた。
フラーケが彼に駆け寄ろうと体勢を入れかえた時、元々骨粗鬆症の疑いのあった腕の骨は木の枝でも踏むような軽い音と共にあっけなく折れた。
六十路の男の絶叫があたりにこだまする。
それに満足したかのように、白い手は署長の腕に込めていた力を緩めた。
彼が有り得ない方向に曲がったその右腕をもう片方の手で抱え、泣き叫びながら部屋を走り去った時、瓦礫の山が激しく揺れた。
 
再び辺りに舞い散った埃の中で、異様に生白い男の上半身が瓦礫から姿を現すのをフラーケは見た。
歳にして30かそこら、長い赤褐色の髪の下にある顔は仮面を張り付けたかのように無表情で、ただ同様に赤黒い瞳が輝いていた。
しかしながら、何よりフラーケの目を引いたのはその男の側頭部にあるぱっくりと開いた傷口であった。
抉り取られた頭蓋骨の隙間から流れ出ていたのは大量の血だけではなかった。
この国の朝食としては一般的であった低質の栄養塊に似た、何か薄い色をしたものも同時にあふれ出していた。
呆然と目を見開いている二人をよそに、それは上体を起こし、下半身を瓦礫から引き摺りだした。
それは道化師が履くような、星とクルカの模様があしらわれたカラフルな下衣に包まれており、足は便所草履のような粗末な突っかけに突っ込まれていた。

「あ・・・、あんた。」

ようやくの思いで憲兵が口を開いた時、強烈な風と衝撃が部屋を襲った。
天井すれすれを通過していった航空機の尾翼をフラーケは睨みつけた。
再び彼が男に目を向け直した時、その白い人形のような左手には小さな拳銃が握られていた。
帝国の将校が好んで使う自動式である。
男はゆっくりとフラーケの眉間に銃口を向けると、声とも音ともとれない無機質な波を口から発した。

「ここにある最も大きな火器を出せ。」
 
フラーケが何か応えんとした時、既に憲兵は分署の奥の部屋へと駆け出していた。
そのまま十秒と経たずに、人の背丈はあろうかという巨大な対物小銃を抱えて戻ってきた。
そして男の足元の床にそれを投げつける。
その時、先程までの生体音とは全く異なる、粗野で残酷な高音が辺りに轟いた。

「まずい。」
 
その音の何たるかを知るフラーケは、憲兵の腕を掴むと分署の裏口へ向け一目散に駆け出した。
その二人には目もくれず空のある一点を見つめていた男であったが、やがてその大きな銃を抱え上げると、玄関の向こう、通りへ向けゆっくりと歩き出した。

こちらへ向け鋭い降下角度で接近してくるストレガの翼下では、2発の100㎏爆弾が太陽光を反射してその弾殻を鈍く輝かせていた。
胴体の下には小さなプロペラを回転させる妙な装置が吊り下げられており、耳障りな高音はそこから発せられていた。
操縦士はその鋭い視力により目標が建物から出たのを認めると、射爆照準器のレティクルを修正するべく方向舵を僅かに右に踏んだ。

男は細いが筋肉質なその右腕で、対物小銃の側面から突き出した槓桿を引いた。
既に初弾は装填してあったのだろう、口径13㎜の巨大な弾が排莢口から飛び出した。
心なしか満足気な表情でその様を眺めると、男は銃身の先を空に向けた。
左手はしっかりと握把を握り、右手はその金属製の被筒を下から保持している。
そのままだんだんと大きくなりゆく黒い点を照門に見出し、照星をその予測進路に重ねた。
 
轟音と共に空気が激しく揺れ、石で舗装された路面から粉塵が舞い上がった。
音速の3倍の速さで撃ち出された弾丸の質量と、銃口から吹き出した凄まじい量のガスの勢いなどものともせず、銃身は全く跳ね上がることはなかった。
男はその視界の中で、航空機の中心にあった思考の波が一瞬にして消えたことを感じ取った。
そのままそれが力なく機首を下に向けたのを認めると、対物小銃を路上に放った。
300m程先で上がった火柱と破裂音など意にも返さないように、男は踵を返して通りを歩き出そうとした。

「このバケモンが!」
 
フラーケは短機関銃の銃床で、男の頭部の傷口を思い切り殴りつけた。
むき出しになった脳が揺さぶられ、男の視界に激しいノイズが走る。
その左端にあった自己診断プログラムの簡易表示が点滅していた。
首を不自然な角度に傾けたまま、男はの思考は一瞬停止した。
その間隙を逃さず、フラーケは彼の白い首に掴み掛ろうとした。

次の瞬間には、仰向けに倒れたフラーケの目には青い空しか映ってはいなかった。
蹴り飛ばされた腹がやや遅れて鈍い痛みを発し始める。
右手の短機関銃は既になくなっていた。
男は何かを確かめるかのように自分の掌を眺めると、やがて彼の傍らに屈んだ。
そしてえづきはじめた彼の髪を掴み、男はフラーケの青い瞳を覗き込んだ。

「・・・ない。ありえない。」
 
そして無表情に呟くと、そのまま動かなくなってしまった。

「・・・何だよ腐れ人形め。あの女の差し金か?どうなんだ。」
 
フラーケは言うと、瞬き一つしない男の顔目掛け左拳を叩き込んだ。
のけぞった男の表情に、今度は何かしら明確な感情が浮かんでいることを認めると、フラーケは立ち上がり再びその首を掴もうとした。

突然、無数の機銃弾が彼らの足元で跳ねた。
一瞬遅れて、連続した破裂音が彼らの耳に届く。
フラーケは反射的にその源の方に目を向けた。
一両の浮遊戦車が大勢の歩兵を伴って通りをこちらへ向け前進してくるのが見えた。
再び男に目を戻した時、彼は既に影も形もなくなっていた。
短機関銃は10m程先で歩道に転がっており、フラーケはただ今しがたの出来事を脳内で懸命に咀嚼しながら立ち尽くす事しかできなかった。
 
75㎜砲の長い砲身をこちらに威圧的に向けたまま、戦車はフラーケの目の前で停止した。
二車線道路をほぼ占有するほどの全幅をもつそれを、両舷の巨大な機関が地上30㎝程の高さに一切の揺らぎもなく浮かせている。
車体にも砲塔にも標章と呼べるものは見当たらず、その黒い有機的な姿は一層けったいなものに思われた。
周囲を取り囲む兵士たちの装いには一切の無駄もなく、ただ病的なまでの機能性と利便性の追求だけが感じ取れる。
妙に高い位置、胸の高さでサスペンダーに吊られた弾帯に、隙間なく括り付けられた幾つもの弾嚢。
本来それがあるべき腰の高さには簡素な帯革が巻かれており、小銃兵の象徴とも言うべき銃剣がただ無造作に吊り下げられている。
極力肌を晒さぬよう努めるかのように布や防護面で顔を覆った彼らの周りには、ただ無機質で冷然たる、どこか事務的な無味乾燥さが漂っていた。

フラーケはこの感じを知っていた。
かつて何よりも親しみを持ち、それ自体が彼にとってただ一つの世界であった集団。
帝国陸軍特殊作戦群。
目の前でこちらへ小銃の先を向ける男の半長靴を睨みつけながら、フラーケは自らの置かれた状況を改めて悲観した。
体中を高度に生体改造されたこの男たちが最も得意とするのが、他ならぬ市街地戦闘であることを彼は誰よりもよく承知していた。
もはや薬に頼らなければ、ガタのきた人工臓器のもたらす慢性的な痛みすら抑えられない体では、この殺意の権化のような連中を相手に立ち回ることなど天地がひっくり返っても不可能だ。

「糞が・・・。」

苦々し気に呟いたフラーケに、目の前の兵士は小銃を指向したままゆっくりと歩み寄った。
そして1m程の間合いを保って立ち止まると、やがて声帯から絞り出すような掠れた声で言った。

「奴と何を話した。」

フラーケは一瞬呆気にとられた。
こいつらは20年前に仕留め損ねた裏切り者を処理するために、わざわざ帝都からやってきたわけではないのか?
その疑問に答えるかのように、周囲の黒衣の兵士たちの目線は自分にではなく、先程あの化け物が逃げ込んだと見られる3階建ての庁舎に向けられている。
そうだとすれば、まだこの場から逃れる望みはある。
やがてフラーケはその声に極力震えを生じさせぬよう、痛む腹部に力を込めながら口を開いた。

「・・・何も喋っちゃいねぇよ。ただ脅されて鉄砲を貸しただけだ。」
 
分隊の長と見られるその正面の男は、しばらくそのゴーグルの下の目でフラーケの喉をただ見据えていただけだったが、やがて周りの部下たちに対し身振りで何か合図をした。
歩道の向こう、庁舎の開いたままの門戸近くの塀へと走る分隊をよそに、長はフラーケの左腕を強引に掴むと、通りの反対側の歩道へと引き摺っていった。
空けられた道を再び前進してきた戦車に阻まれ、二人の位置からは庁舎は見えなくなった。

「お前が見たのは北パンノニアの諜報員だ。我々は南と協力して奴を追っている。」
 
分隊長はフラーケの腕から手を放し、小銃の排莢口に付いた塵を指で払いながら言った。
その声は目の前の戦車の生体音に半ば掻き消されそうになっていた。

一先ず危機は去ったといういい加減な解放感に後押しされたのもあったが、フラーケは思わず吹き出しそうになってしまった。
こいつらはついに脳味噌まで作り物にされたのか。
一体どこの世界にあんな浮世離れしたナリの諜報員がいるというのか。
その軽蔑と嘲弄を悟られぬよう、フラーケは極力無表情を装って答えた。

「・・・了解。仲間にも変なもん見たら報告するよう言っとくよ。」

そして分署へ戻ろうと踵を返した。

「動くな。」
 
その短くも威圧的な単語に混じり、小銃の切替軸が回される微かな金属音が後ろから聞こえた時には、フラーケは飛び上がらんほどの衝撃を受けた。
しかし、その嘔吐寸前のクルカのようなかたちで固まっていた表情は、やがて徐に失望に染まっていく。
左手から、何か生暖かいものが地面に垂れているのが分かった。
意識を集中させると、肘の辺りが妙に痛むのに気づいた。
大方、先程あの化け物を殴りつけた際にアクチュエータのシリンダが割れたのだろう。
それは模造品の皮膚を突き破り、生体義肢用の青黒い組織液をそこから垂れ流す。

自らの迂闊さに対し、小さな溜息を漏らしたフラーケの右膝の裏を、分隊長は思い切り蹴り飛ばした。
そのまま石の路面にうつ伏せにすっ転んだ彼のうなじに、小銃の消炎制退器を押し付ける。

「・・・どこでそれを着けた。言え。」
 
ゴーグルの下の黒い瞳を疑念と敵意に歪めながら、彼はフラーケの生来の右手を踏みにじらんと右足を持ち上げた。

唐突に轟いた重苦しい爆音が二人の内臓を掻きまわす。
75㎜砲の装薬の燃焼は辺りの空気を拉げさせるかのように歪めた。
続いて同軸機銃による連続した甲高い発砲音が続く。
揺れと粉塵により曖昧になった視界の片隅で、フラーケは分隊長の左耳の耳輪を認めた。
それはつまり、彼の視線がこちらではなく、道の反対側に向けられたことを示している。
だしぬけに思考を支配した闘争心に身を任せ、フラーケは転がすようにして急速に体を捻った。
そして目の前の男の腰から吊られた銃剣の握把に左手を伸ばす。
男は再びこちらに注意を戻した。
小銃の先が物凄い速さで然るべき位置に、自らの胸に指向されるのをフラーケは直感で知った。
そしてその銃身を右手で受け流すようにして脇に逸らすと、彼は片膝を不安定についた姿勢のまま、今しがた鞘から抜き取ったものの刀身を男の胸目掛け突き込む。
あばらを覆うようにして皮膚の下に仕込まれた生体装甲膜は、刺突には大して強くない。
心臓を止めるという確固たる意志の元、フラーケは突き刺したままの刀身をねじるようにして何度も捻った。

自らに覆いかぶさるようにして倒れ込み、やがて力なく首を傾けた兵士の身体を、フラーケはゆっくりと払い除けた。
そして目の前で機銃の射撃を続ける戦車の砲塔が背を向けていることを確認すると、やがて背後に開いていた狭い路地を駆け出した。


船窓に切り取られた空は、既に赤みを帯び始めていた。
二つの木製の長机とその周りの金属製の椅子たち。
本来ならば将校たちのブリーフイングに用いられるのであろうその重巡空艦の一室は、整然としてはいるものの、空気は異様に濃い紫煙に満たされていた。
部屋の中央、長机の一つの真ん中に気怠げに腰かけた女の仕業であることは明確であった。
肩のあたりで切り揃えられた黒髪に灰緑色の瞳。
太腿の脇にはバケツのような大きな灰皿が置かれており、中には吸い口ぎりぎりまで燃えた吸い殻がぎっしりと詰まっていた。
陸軍将校用の制服をそのまま黒く染めたようなものに身を包んではいたが、下襟にあるべき所属徽章は見当たらなかった。
 
女はその白い紙で巻かれた煙草を咥えたまま、左手で持った図嚢から一束の情報用紙を取り出した。
表紙の左上にあった署名と小さな印は、その内容が一将校が肩から提げて持ち歩いていいようなものではないことを確かに示していた。
しばらくそれに目を通していた彼女であったが、やがてクルカの交尾でも見たかのように眉を顰めると、無造作に後ろに放り投げてしまった。
クリップが外れ、十数枚の高級紙が床に舞い散る音など気にも留めないかのように、女は深々と煙を肺に吸い込んだ。

「入ります。」

扉を叩く軽い音と共に、異様に低い男の声が聞こえた。

「入れ。」
 
女は今しがた吸い込んだ紫煙をゆっくりと吐き出しながら言った。
開いた扉の向こうから姿を現した長身の男の手には小さな紙袋が握られている。
身を包むのは女と同様の黒い制服であったが、それは男の歪なボディラインを隠しきってはいなかった。
脊椎に沿うようなかたちで盛り上がる背中に、不自然に張った胸板。
そして何より、帯革のバックルの脇に付けられた小さなボトルは細いチューブを男の喉元まで伸ばしており、彼がもはやそれらなしでは生命活動を続けられないことは明確であった。

「・・・取り逃がしました。依然、目的も行動原理も掴めないままです。」

男はゆっくりと女に歩み寄りながら言った。
無感覚を装ってはいたのだろうが、女は彼の声に滲む明確な感情を逃さなかった。

「誰が死んだ?」

そして煙草をバケツの中に突っ込み、男の方にしっかりと体を向けて尋ねた。
 
「・・・動員した南パの操縦士が一名、そして・・・。」

男の声は、今度は確かに震えていた。

「そして?」

女はその大きな目を見開き、男の顔を見据えた。

「・・・ユング少尉です。」

掠れるようにして懸命に単語を並べた男とは対照的に、その名を耳にしたところで女は眉一つ動かさなかった。
むしろその瞳には、大抵は投げやりなまでの好奇心と無責任さからもたらされる、僅かな輝きが見て取れた。
やがて、俯いたままの男の手に握られた袋を見遣った。

「それは?」

そして何の邪気も籠められていないかのような純粋な声で尋ねた。

「これは・・・、奴の死体の傍にありました。しかし、奴の義手のものじゃありません。」

女は袋の中身を自分の掌に落とした。
メッシュ状の合成繊維でつくられた、直径5㎜程のチューブの切れ端であった。
所々に、青黒い液体による着色が残っている。
当初こそ、指で弄ぶようにしてそれを確かめていた女であったが、唐突にその切り口を長い舌で舐めた。
男は何も言うこともなく、女の目に様々な感情が浮かんでは消えていく様子をただ眺めていた。
やがて彼女が憑き物がついたかのように大声で笑いだしても、ただじっと、仏頂面で沈黙を貫いた。
嬌声にも悲鳴にも似たその不気味な音は、かなり長い間部屋に響き渡った。
空間的には船室の真上にある筈の生体機関の重苦しい駆動音すら、掻き消さんばかりの調子であった。


その朽ち果てた繋留塔は行政区から東に20㎞、廃墟となった旧工業地帯の真ん中から突き出していた。
高さにして150mほど、錆に覆われた外郭はその3割ほどが失われ、所々から同様に錆びついた鉄骨がむき出しとなっている。
その最上部の繋留器に右の舷側を捕われたまま、一隻の貨物船が浮いていた。
全ての武装を取り払われてはいたものの、元となったガルエ級駆逐艦のシルエットを所々に残したそれは、もはや死に瀕した生体機関の装甲を二つの月光に鈍く反射させていた。

繋留器の真下、電力供給用の配線を覆う太いパイプにしがみつくようにして、男は塔を昇っていた。
左の側頭部に開いていた筈の大きな傷は姿を消していたが、その白い背中の各部には無数の裂傷が見えた。
下衣の右腿の辺りは小さく焦げ付き、もはやチヨコのような色になった星に、その下のクルカの模様が喰らい付いているようだった。

パイプを登りきると、男は繋留器の天井から貨物船の甲板へと続く小さな橋を歩き始めた。
彼が一歩を踏み出すたびに、その粗末な木製の足場は上下に激しく揺れた。
手摺の一部、30㎝程の長さの鉄の棒がそこから千切れ、下界へと吸い込まれていった。
もっとも、男はそんなものには手もかけずに歩いていたため、その様子になど目もくれなかった。

甲板に横たわっていた5本のコンテナの内、ひときわ大きな緑色のそれに男はゆっくりと歩み寄った。
高さ3m程のその軍用コンテナの観音扉は、既に小さく開いていた。
男はそこに手をかけ慎重に引いていき、自らが通れるほどの空間を作った。
中を覗き込むと、翼を折りたたまれた状態の小さな航空機が、その生体機関を何本ものワイヤーでコンテナの内壁に固定されているのが見えた。

「ボゥナム・・・。」
 
旧文明、南半球で使われていた言語で「良い」を表す単語を呟くと、男はそれに歩み寄った。
そして機関を締め付けるワイヤーの内の一本に手を掛けた。

途端に、生身の人間ならば5回死んでも足りない程の凄まじい電流が男の体を駆け巡った。
自己診断プログラムが停止し、網膜にびっしりと表示されていた情報がすべて消えた。
全身の筋肉を不自然に振動させながら倒れ込んだ男の頭が、目の前にあった生体機関の装甲とぶつかり、鈍い金属音が空間に反響した。

「残念だったな糞人形よう。そりゃ俺が唾をつけてたんだ。」
 
コンテナの入口からおどけたような声が響いた。
姿を現したフラーケの肩からは大きな雑嚢が提げられている。
彼は男に歩み寄り、うつ伏せに倒れたその白い体を眺めた。
そして蹴り飛ばすようにして強引に仰向けに転がすと、開いたままのその口に拳銃の銃身を突っ込んだ。

「そんな格好してりゃ簡単に追える。『プログラム』だっけか。それで分からなかったか?」

クルカの吐瀉物を眺めるような目で男の赤黒い瞳を睨みながら、フラーケは尋ねた。

「・・・私は人間だ。人形じゃない。」

銃口で押さえつけられた舌のせいで不明瞭な発音ではあったが、男は分署で発したような無機質なものではなく、何らかの意思と感情を伴った声色で言った。

「お前があの女の作品じゃねぇってことは分かった。・・・だとすりゃ旧兵器か、そうじゃなきゃテルスタリの魔境の妖怪しかありえねぇ。」

フラーケは空いた方の手で男の長い前髪を掴み、持ち上げた。

「私は・・・、ヴァディーモヴナ・ツォマス・ヒッタヴァイネン。タルヴィキ・ヴィエナの研究者だ。」

口の中の銃身に込められていた力が少し緩んだため、その複雑で難解な発音もはっきりとなせた。
視界の霞が晴れ、身体に力が少しずつ戻ってきた。
男は右手の指を少しだけ動かしたが、それはすぐにフラーケの長靴の底に踏みつけられた。

「・・・何言ってるか分かんねぇよ。頼むから分るように言え。」

当惑と苛立ちに震える声でフラーケは言った。
その顔を下から覗き込むようにして、男は同様に困惑に満ちた目でフラーケを見返した。

「本当に何も覚えていないのか?お前は・・・」

突如、無数の小さな穴が線をなすようにしてフラーケの背後の壁、彼の頭上50㎝程の辺りに空いた。
同時に互いに繋がるようにして連続した破裂音が辺りに轟き、男の言葉を遮る。
反射的に身を屈めたフラーケの顔を、彼はまだしっかりと見据えていた。
弾は反対側の壁も貫通していったため、コンテナの中で跳ねることはなかった。

「年寄りは殺すな。人形の方だけだ。」

銃口から薄く白煙を上げる軽機関銃を抱えたその兵士は、後ろの5人程の仲間を見遣って言った。
そのまま繋留器から甲板へと続く粗末な橋を駆け出す。

「この糞馬鹿が!俺まで見つかっちまったじゃねぇか!」

空いた穴の一つから外を覗く男をよそに、フラーケは怒鳴りながらその小さな航空機の操縦席によじ登り始めた。
手を掛けた際に、その側面に後付けされた小さな循環器が装甲から音を立てて千切れて落ちた。
彼は構わずその狭い空間に身を潜り込ませた。

「さっさとワイヤーを切れ!腐れ道化が!」

そして胸のポケットから取り出した折り畳みナイフを外に投げた。

「銃を貸せ。あの数くらい・・・」

「黙って紐を切らねぇか!奴らはお前みたいなのを殺し慣れてる!」

フラーケは男の言葉を怒鳴り声で遮った。

昨年マグネトーと人工感覚装置を付け替えたとはいえ、もう十年は飛んでいないであろうこのマコラガの機関を始動できる自信は彼にはなかった。
それでも慣れない手つきで計器盤の右端にある主循環器の電源を入れる彼の瞳には、明確で強烈なまでの生への執着が燃えていた。
 
男は床板の上の折り畳みナイフを拾い上げると、不思議そうにそれを眺めた。

「どう使えばいい?」

そして頭上の操縦席を見上げて尋ねた。
 
フラーケはしっかりと機関に血液を送り始めた主循環器の、静かながらも頼もしい振動に満足気な笑みを見せていたが、下からその無機質な声が届くと表情を一変させた。
名状し難い形相で、彼はコンテナの空気が震えるほどの大声を発した。

「後ろの板バネを押し下げろ!そんで刃を引っ張り出せ!」
 
そして左腿の脇にあった燃料水供給バルブを両用に入れ換えた。
本来ならば循環器の電源を入れる前にやるべき作業だが、そんなことは今のフラーケの頭からは抜け落ちていた。
伝聞と書物から得た不確かな知識を実践するには、あまりにも緊迫した状況であることに対しフラーケは怒り狂っていた。
 
特殊炭素鋼の刃は、錆び付いた鉄のワイヤを切るには十分な切れ味をもつはずだったが、男は只々手間取っていた。
刃を動かすこともなくただ闇雲に力を込めていたのだから当然である。
ようやく最後の一本を引き千切るようにして切った時、開いたままの扉から無数の銃弾が飛び込んできた。

「やめろやめろ!あの糞ババァ!」
 
生体機関の装甲で弾かれたために潰れた小銃弾は、その油臭い空間の中を縦横無尽に跳ねまわった。
一発は喚き散らすフラーケの目の前にあった光像式照準器の反射板を粉砕した。
割れたガラスの破片の一つが彼の額に小さいが深い傷を作った。
 
しっかりと肩に小銃の床尾板を押し付けたままコンテナに飛び込んだその兵士は、こちらへ左拳を叩き込もうと急速に距離を詰めてくる男の白い胸に小銃の照星を重ね、引鉄を引いた。
3発分の空薬莢が床に落ちる金属音と共に、男は前のめりに転んだ。
流れ出た血はすぐに床の窪みに溜まり、錆の浮いた小さな赤黒い湖をなした。
動かなくなったそれの背中を睨みつけながら、兵士は慎重に足を進めた。

そして銃口をその赤褐色の髪に覆われた後頭部に押し付けた時、耳をつんざく甲高い悲鳴のような生体音がコンテナの中に轟いた。
途端にマコラガの機体は宙に浮かび始める。
機関の装甲の激しい振動は辺りの空気を揺らがせた。
畳まれた主翼の上に置かれていた潤滑油の缶が床に落ちた。
兵士はその小銃の先を男の頭から離し、機関の心臓近く、丸い整備用扉の辺りに向けた。
操縦席から身を乗り出すようにしてこちらに拳銃を向ける髭面は目に入っていなかった。

「さっさと乗っかるなり掴まるなりしろ!」
 
今しがた撃ち出した拳銃弾による煙を掻き消すように、フラーケは唾を飛ばしながら叫んだ。
男は眼前で仰向けに倒れた兵士を一瞥すると、その白い身体を床から起こした。
そしてマコラガの操縦席と機関を結ぶ結合部の真下にあった吸気口を睨むと、それを掴むべく駆け出した。

「よぉし・・・、そのまま。」
 
フラーケは左の方向舵の脇にある推力偏向ペダルを慎重に踏み込んだ。
機首が僅かに下を向き、マコラガは少しずつ進み始める。
そして彼は操縦桿の人差し指に当たる金属製の引鉄を引き込んだ。
 
機首に埋め込まれるようにして載せられた砲の太いパイプのような砲口から、一発の榴弾が飛び出した。
前進していたマコラガの機体が、強烈な反動により停止する。
榴弾はその弾体の先をコンテナの反対側の扉にぶつけた。
爆圧で鉄製の二枚の扉が拉げて吹き飛び、その向こうにあった星空が姿を現した。
粉塵と爆煙の中で、フラーケはその星の一つ、セレネの左下の青白いそれを睨んだ。
20年前にこうして逃げ出した時にも、同じ星が輝いていたような気がした。
追憶を振り払い、彼は風防の上の枠に括り付けられた後写鏡に目を向けた。
黒衣の兵士が二人、こちらへ軽機関銃を向けるのが見える。
再びコンテナの中で跳ねまわった無数の銃弾に顔をしかめながら、フラーケは左手で出力槓桿を押し込み、ペダルを目一杯踏み込んだ。
主循環器の下部で床を擦るようにしながら、機体は強烈な加速度を伴って扉の向こうに飛び出した。
そして前に広がっていた甲板の上を20mほど進むと、貨物船の左の舷側から下界へと転落していった。

慌てて駆け出した兵士の一人が、甲板の縁、突き破られた手摺の傍で止まり、工業地帯に吸い込まれていくその小さな機体を睨みつけた。

「阿呆なジジィだ・・・。」

そして小さく呟いた。

「ド畜生がぁっ!飛べってんだよ!」

脊椎を走る不快な浮遊感に睾丸が縮み上がるような感覚に襲われる。
フラーケはようやくの思いで体を座席の然るべき位置に持ち上げると、計器盤の中央下部、狂ったように回転する水平儀の真下にあった幽宙翅制御盤を右拳で思い切り殴りつけた。

マコラガが地上20m程でようやく主翼を展開し、滑空し始めたのに気付くと、兵士は驚きと動揺に目を見開いた。
やがて仲間と共にそれに対し自らの機関銃を向け、射撃を始めた。
数発の曳光弾が掠めたように見えたが、マコラガは何事もなかったかのように機首を北に向けると、そのままどんどんと小さくなってしまった。

「・・・大佐に報告しろ。目標は二つとも逃げた。」
 
兵士は右にいた、無電を背負った仲間を見遣って言った。
そしてその目標が飛び去った北の空を一瞥すると、例の粗末な橋へ向け歩き始めた。



真っ白な下地を抉るようにして描かれた幾何学模様が、視界の全てを支配していた。
モチーフは判然としない。
それらはある見方をすれば動物の骨格図のようにも思えるのだが、また別の思考を伴って観察すると、複雑高度な回路図をある種の審美眼を以て解釈したような、ややこしいものにも見える。
そうした細く黒い線の群れが、一定の法則のもとに目の前のセラミックの壁の上を這い回っていた。
 
男は視線を廊下の奥に向けた。
そして木材を模した色合いと模様のリノリウムの床を歩き始めた。
天井から一定の間隔で吊り下げられた華やかなシャンデリアが空間を光で満たす。
しかしその暖かく淡い輝きの群れは、あとひと月もすれば失われることを彼は知っていた。
統治局がこの地区への電力の供給を停止することは以前から噂されていたが、こうしてそれが現実の重圧となって目前に迫るとなると、彼は胸にしこりを抱えたような心持だった。

男はその分厚い石の扉の前で立ち止まった。
長く伸びた赤黒い髪を手櫛で整え終えると、彼は扉の右にあった、目をあしらったレリーフのようなものに顔を近づけた。
その小さな紋章の中心にあったレンズが彼の瞳に青白い光を映し、その網膜を走査した。
音もたてずに上に開いたその扉の向こうには、大小様々な火成岩と色とりどりの草花で彩られた、立派な庭園が広がっていた。
しかし、彼が中庭と呼ぶこの空間で生きる全ての植物は、それらの培養元となったものが育ったように自然の太陽光を浴びるのではない。
確かにその庭に天井と呼べるものはなかったが、都市それ自体が地殻にすり鉢状に抉られた空間の内側にへばり付くようにして増殖していったのだから、地下500mに位置するここに日光が届く筈もない。
じきにその素っ気なく不健康な光すらも失うであろう、頭上からこちらを見下ろす人工太陽を一瞥すると、男は失望と焦燥感の混沌といったような疲れた表情で庭園の奥へと歩み始めた。

「・・・教授、ここにおられたのですね。」

樹齢100年は超えるであろう、バリオーの巨木の前で佇む老紳士の背中に男は言った。
濃緑色のジャケットを羽織り、右手には精巧な蛇の彫刻が彫られた杖が握られている。
決して華美ではなかったが、その格好には皺によれた作業服に身を包む男にはない気品があった。
彼はすぐには振り向かなかった。
しかし足元に落ちていた小さなバリオーの実を拾い上げると、やがて男に体を向けた。

「おかえり、ヒッタヴァイネン。収穫はあったかい?」

70を過ぎてなお、その顔立ちにはかつて数々のゴシップを生むこととなった若き日の面影が残っていた。
やや掠れてはいたものの、その声は穏やかながら明瞭なものだった。

「いいえ、教授。残念ながら、テーベの連中もお手上げだそうです。」

今朝まで、男は5000㎞離れた街にいた。
しかし、遺伝基の分析と改変においては他の追随を許さないテーベ社領区の研究員でさえ、彼らの課題には匙を投げていた。
長旅による肉体的な疲労と失望に疲弊した精神を隠せない声で言う男の顔に、老紳士は優しく微笑んだ。

「仕方がないさ。ダメで元々だったんだ。・・・それより、あの子に顔を見せてやってくれ。」

彼はバリオーの木の向こう、ラインダースの黄色い花の中に立つ彫像を指差した。
それは長いローブを纏った若い女の姿をしていた。
背中からは一対の大きな翼が生えている。
大陸南西の沿岸部で語り継がれる神話の中の戦乙女のようにも見えたが、その両手に抱えられていたのは戦士の首などではなく、沢山のバリオーの実だった。
男はそれに歩み寄り、女の足元、台座に彫られた文字に目を遣った。

「そんな・・・!」
 
そして草の上にがっくりと両膝をついた。
しばらく呆然と目を見開いたまま動かなかったが、やがて打ち寄せる感情の波に肩を震わせた。

出征の話すらも聞いてはいなかった。
しかしその碑文は、陸軍航空隊に昨年入隊したある女が東部戦線で殉職し、その彫像の下で眠ることを確かに示していた。
アルヴィナ・ホッセ・ラトバラ。
男の恩師のただ一人の娘にして、彼自身の恋人。

「夕べ、やっと帰ってきてくれたよ。」

その大きな赤褐色の目から涙を流し始めた男の背後から、老紳士は静かに言った。
そして花を掻き分けるようにして進みながら、彫像に歩み寄った

「何よりこれが好きだったからな。・・・ここならいつでも食べられる。」

そして先程拾ったバリオーの実を彫像の下に置いた。

「何故ですか!?・・・どうしてあの子が殺されねばならないんですか!?」

男は拳を地に叩きつけながら喚いた。
流れ落ちた涙と鼻水が、草の上で人工太陽の青白い光を反射していた。

「アーリャを殺したのは北の兵士でもなければ、・・・無能な参謀本部でもない。」

ゆっくりと男に歩み寄りながら老紳士は言うと、彼の震える肩にそっと右手を置いた。

「じゃあ何だって言うんですか!?」

男はその細い腕を掴むと、下からその穏やかな顔を睨みつけた。
老紳士は何もせず、ただじっとその青い瞳で男の赤いそれを見据えた。

「ヒトだ。・・・それ自身の根源的でどうしようもない、生物種としての性質だ。」

そして静かに、しかし明確な意志と感情を伴った声で言った。
腕を掴む男の力が次第に緩んだ。
やがて再びゆっくりと彫像に視線を向けると、彼は蚊の鳴くような声で呟いた。

「性質・・・。」

老紳士はそれを聞くと、心なしか満足気な表情で穏やかに微笑んだ。

数分後に男が立ち上がるまで、老紳士はただ彼の顔と彫像を交互に見つめていた。
そして彼が再び何かを考えるだけの気力を取り戻したのを見て取ると、やがて静かに語り始めた。

「・・・近い将来、この世界は必ず滅ぶ。彼女を死に追いやったものと同じ要因によってだ。」

老紳士はその杖の先で彫像の奥にあった小さなイーゼルを指し示した。
それには女が幼い頃に描こうとし、未完成のまま終わった彼女の父親の似顔絵が掛けられていた。

「ヒトはその文明をある程度発達させた段階で、その原始的で攻撃的な、・・・遺伝基に規定された低俗なものを捨て去るべきだったんだ。」

そしてもう一度だけ彫像を見つめると、やがて体を中庭の入り口の方に向けた。

「我々の研究を完成させること、・・・ヒトという種を根底から作り変えること。それこそがあの子へのたむけになると、私は信じている。」

青白い光に照らされた草花が輝く道を、二人は歩き始めた。

「数百年、いや数千年かかるかもしれない。それでもいつか世界から怒号も悲鳴もなくなり、芸術こそが全ての人間の生き甲斐となるならば、我々のちっぽけな人生を捧げる価値はあるんじゃないか?」

前を歩く老紳士の金髪を見据える男の目からは、もう涙は流れてはいなかった。



「・・・い、起きろ馬鹿垂れ!爆発しちまうぞ!」

瞼の向こうから届く強烈な太陽光により、視界は灰色とも白ともつかない、只々鬱陶しい色に支配されていた。
その不快な知覚の中で、ここ2週間で半端ながらも学んだ言語による怒鳴り声が鼓膜を震わせる。

「おっさん、どう見てもそいつはもうダメだよ!さっさと離れよう!」

聞き慣れたしゃがれた低い声に、若い女のものが混じる。
ようやく自己診断プログラムが動き出し、白い線と文字で構成された情報の群れが視野に流れ込んだ。
背骨をはじめ、身体のあらゆる部位の骨格が損傷を受けていたが、行動不能に陥る程のものではなかった。

「馬鹿言え、こいつは簡単にゃ死なねぇ!俺はよく知ってんだ!」

機首を砂の中に埋もれさせるようにして腹を見せて倒れるマコラガの主翼の上で、男は額と背中から大量の血を流しながら、仰向けに倒れていた。
その白い体は東の空からこちらに照り付ける眩い陽光を受け、輝いているようだった。

「早よ目ぇ開けろ糞人形!」

フラーケは怒鳴りながら、男の顔を平手で打った。
その外套の表面の至る所には、彼の血と共に義肢から吹き出した青黒い組織液が付着していた。
ようやく知覚域が完全に復旧し、男はゆっくりとその目を開いた。

「嘘・・・。」
 
フラーケの背後から様子を眺めていた女は、その赤黒い瞳が自身に向けられたのを見て驚愕した。
帝国陸軍で一般的に支給される曹士用戦闘服に身を包んではいたが、袖をゴテゴテと飾るワッペンの類や幾度も穴を塞いだとみられる継ぎ接ぎの跡は、妙な胡散臭さを醸し出していた。

「・・・おい、これお前が繋いでてくれたのか?」

男の両手に、千切れた太い金属製のケーブルがしっかりと握られているのを見て、フラーケは呟くように尋ねた。
右手のものは主循環器の後部から、左手のそれは両翼の間の胴体下部、操舵信号受信装置の整備口から伸びてきていた。
それは明らかに操縦者の意思を生体機関に伝える、飛行において最も重要な配線の一つであった。

「カルタグから6時間以上ずっとか・・・?」

フラーケは屈むと、男の顔をしっかりと見据えた。
その声は様々な、何か激しい感情の群れにより震えていた。

「どうということはない。これが切れては飛べないのは見れば分かる。」

男は両手からケーブルを放すと、例によって無機質な声で答え、ゆっくりと体を起こした。
摩擦によるものとみられる生々しい傷は男の掌を抉り、そこから骨が覗いていた。

「撃たれた時か・・・。すまねぇ、もっと早く気付いてりゃ・・・」

「さっさと逃げるよ!」

フラーケの弱々しい言葉を、女の叫び声が遮った。
踵を返して駆け出した彼女に続き、フラーケと男は主翼から飛び降りた。
彼等が機体から20m程離れた時、主循環器の切れた動力系から出た火花が、満載された60㎜榴弾に引火した。
その炸薬の爆発は可燃性の古い潤滑剤に猛烈な熱を与え、爆轟した生体機関の装甲の一枚が、上空50m程にまで飛び上がった。
前のめりに転んだフラーケの身体を助け起こすと、男は彼の青い瞳を覗き込んだ。
そして複雑な感情をありありと自らの赤黒いそれに浮かべた。

「・・・なんだよ。」

風で流れてきた黒煙にむせ返りながらも、フラーケは当惑と疑念の滲んだ声で尋ねた。

「気にしないでくれ。何でもない。」

男は目をそらすと、無表情に答えた。


「・・・お前もよく知るように、私は死が恐ろしくて堪らない。」

左手で持った煙草の火に顔を近づけ、それがゆっくりと白い巻紙を焦がしていく様子を眺めながら、その黒髪の女は呟くように言った。
4m程の距離を保ち彼女の背中をただ見つめている長身の男は、昨夕の制服の代わりに、その異形のシルエットを覆い隠すだぼついた戦闘外衣に身を包んでいた。

その薄暗い空間は重巡空艦の戦闘指揮所と呼ぶには余りにも禍々しく、浮世離れしていた。
人の姿は佇む彼女たち二人のもの以外に全く見えない。
代わりにあらゆる設備の受像機や操作卓を覆うのは、無数の配線と血管が表面に走る触手のような生体機械だった。
それらは部屋の床の所々から突き出した、高さ1m程の巨大な陰茎のようなものと接続されていた。

「だからこそ、奴をあそこまで突き動かすものが何であるのか、誰よりもよく分かる。」

やがて女はゆっくりと振り返り、男の顔を見据えた。

「20年前もお前はそれに負かされたんだ、・・・アレキシ。」

無数の縫合痕を境として、男の顔面の皮膚の色は至る所で僅かに異なっていた。
眉や髭といったものはほんの僅かにしか見当たらず、皺が捉えにくいのも相まって、男の年齢は何か悍ましげなものによって隠されていた。

「・・・本能、でしょうか。」

10秒程の沈黙を破り、男は掠れた声で言った。
女は足元に置いていたバケツを拾い上げると、僅か2㎝程を残して燃えた煙草をそれに突っ込んだ。
そして男の方に完全に体を向けた。

「あの出来損ないすらまともに始末できなかったお前を、未だに私が飼い続ける訳を考えたことがあるか?」

女は感情の読み取れない、毒に塗れながらもどこか無垢な声で尋ねた。
仏頂面を貫いていた男の眉間に、一瞬ながら険しい色が浮かんだ。

「・・・ソマヴィラ大佐。お言葉ながら、フラーケは出来損ないなどでは・・・」

言い終える間隙を与えず、女は手にしたバケツを男の顔面目掛け投げつけた。
凄まじい量の灰が舞い散り、彼を中心として煙のように周りの空間に広がった。
同時にぶちまけられた大量の吸い殻がその足元に散乱する。
射撃指揮装置の受像機の一つに空になったバケツがぶつかり、甲高い金属音が辺りに反響した。
電探に喰らい付いていた触手の一本がその喧騒を厭がるかのように、小さく身じろぎした。

「いつの間にか口の利き方すら忘れたようだな。」

女は呟きながら、灰に包まれた男に歩み寄った。
そして腰の帯革に吊っていたホルスターに右手を突っ込み、小さな拳銃を抜いた。
男はむせることもなく、ただその灰に汚れた顔で自らに向けられた銃口を睨みつけていた。

「入ります!」

女がその若い声に応える暇もなく、その兵士は扉を勢いよく開き、指揮所に飛び込んできた。
舞い散った灰によりあらゆるものの輪郭が不鮮明な空間で、黒衣の女が自分より二回りは大きい影に銃を向ける様は、彼の目にはこの世ならぬけったいなものに映った。

「何だ?」

口を開けたまま動かないその上等兵を一瞥し、女は冷然たる調子で言った。
そのまま3秒程思考を停止させていた彼であったが、やがて慌てたように右手に持った図板を睨みつけた。

「ヴァイカート隊が見つけたようであります!」

そして姿勢をしっかりと正し、腹から声を出して明瞭かつ簡潔に報告した。
女は彼に図板を寄越すよう左手で促すと、右手の銃をホルスターにゆっくりと戻した。
受け取ったそれに数秒程目を通すと、女はクルカでも追い払うかのような調子で左手を振り、上等兵を追い出した。
逃げるようにして駆け足で去った彼が扉を閉めるのを聞くと、身じろぎ一つしなかったために未だ灰にまみれたままの男の顔に目を向けた。

「四肢を千切ろうが金玉を潰そうが構わん。だが奴の頭と脊髄だけは、必ず生きたまま持ち帰れ。」

そして図板を男の胸に押し付けながら、囁くように言った。
男がそれを両手で抱えるようにして受け取るのを確かめると、女は足早に扉へと歩み始めた。
しかし、ノブに手を掛けたところで、女は踵を返して再び部屋の真ん中へ向かった。
床に転がったバケツを拾うために屈んだところで、女はただ立ちすくむ男の方へもう一度目を向けた。

「それと・・・、奴に息子が元気か聞いておいてくれ。」

やがて、夕餉の買い出しでも頼むかのような軽い調子で言った。
その声には、もう先程のような狂気じみた鋭い何かは滲んでいなかった。
最終更新:2019年03月25日 00:39