現代アーキル文学を概観する

『現代アーキル文学を概観する』

著 W・E・メルカミヤン(ベーヴリ人文研究所研究員、KW出版社解説委員)
アーキル文学全集(カセッテ・ウェルタレーテ出版)第29巻(692年刊行)の前文として掲載

パンノニア文化圏の中のアーキル

 653年から655年にかけての一連の騒乱、特にパンノニアの連邦離脱の結果として、アーキルとパンノニアは、従来の関係を断ち切った。これらの出来事は、政治学の分野からは、アーキルが連邦の盟主であったことや、連邦設立に至る歴史的経緯を踏まえ、『パンノニアの独立』と呼ばれることも少なくない。しかし一方で、芸術の世界に限って言えば、これらの事件はアーキルのパンノニア文化圏からの独立も同時に意味していた。
 7世紀の前半まで、アーキルの芸術は、どれも少なからずパンノニアの影響を受けていた。なかでも特に詩や小説は、その多くがパンノニアの流行を模倣したものであり、独自性の点において他国に劣るところがあった。E・グッヂルクやS・リーフィなど、しばしば例外的な作家も現れたものの、彼らの系統を継ぐ作家は現れることはなかったため、以降のアーキル文学に大きな影響を与えることはなかった。
アーキル文学がパンノニアの影響を長く脱せなかった理由は、大きく分けて2つ考えることができる。一つはそれまでアーキルが持っていた文化力と伝統が、パンノニアが王国時代から持つそれらと比して貧弱であったことで、これは時代が下るにつれ、アーキルにも文学の伝統が根付いていったものの、作家たちを取り巻く環境は、5世紀以降北側世界の芸術の中心と呼ばれているソルノークのそれと比べるとどうしても霞んで見えた。
 第二の理由は、アーキルのみならず北東パルエ世界において、パンノニア語が知的階級における世界共通語として機能していたことである。現在でも生物学、天文学、哲学の分野では特に、パンノニア語が固有名詞などに頻繁に使われているが、文学の世界におけるパンノニア語の支配はより一層強烈であった。かつて、ラオデギア大学の言語学者G・ラガン=ヂドゥースは、『パンノニア語文法』の中で、『パンノニア語はアーキル語の10倍難しいが、アーキル語の100倍の表現力を持つ』と書いているが、この認識は多くの作家の間でも概ね共有されていたものだった。実際、L・デリダン、K・G・シェーレエル、V・カーデといった『南方趣味』のアーキル人作家は、主としてパンノニア語で執筆した。
 では、当時のアーキル人たちは、このようなパンノニアの『支配』に対して、何かしらの不満を抱いていたのか?――殆どの場合、そのようなことはなかった。その主要な理由は、アーキルという概念の曖昧さにある。『アーキル』の語一つで、自由パンノニア共和国も含むアーキル連邦そのものを指すこともあれば、アーキル人主体の(というのも歴史学的には不正確な表現であるのかもしれないが)連邦内国家、アーキル国を指すこともできる。この言葉の曖昧さは国家だけでなく民族に対しても同様であり、アーキル人という概念は、正確に定義されないままであった。そもそも、民族という概念自体が、それほど重視されてこなかったのである。勿論、『○○人』というぼんやりとしたイメージが持つステレオタイプというものは当時からあり、また出身や血筋というのは当然意識され、時には社会問題としての差別というものも確かにあったのだが、それらは現代におけるナショナリズムとは、やや性格の異なるものだった。このような雰囲気は、世界的に、630年代まで続いていた。
 多くの作家は、そのような時代背景の中で、自らの帰属意識を、アーキル人という曖昧な概念ではなく、何か別の、もっと彼らにとって明瞭なものに求めた。7世紀に入ってからの例を挙げるなら、L・K・リーグヴァンやU・セィシンは『連邦』に対する強い愛がしばしば語られる。一方でF・F・ルベリヤン、P・ルゼ、R・リミュッダ、Q・I・アエルバーベ、O・アフダンは、アーキル国全体というよりもむしろ、それぞれの故郷の街に対し帰属意識を持っていたようだ。H・レヴェレノは晩年をソルノークで暮らし、アーキルのどの都市よりもソルノークを愛していた。また、自分は『人類』そのもの以外には何にも帰属しないと宣言していたH・フュゼルのような例もあった。

『アーキル人』の誕生

 640年代に入り、いよいよ終戦かという時期になると、連邦はその価値を急速に失い始めた。各構成国の間では、連邦離脱の動きは、同時に民族意識の強化と自然に連結していた。それが最も激しかったのは、当時南北分断状態にあったパンノニアであり、過熱した民族主義は、しばしば流血まで招いた。そしてその行き着いた先がパンノニア動乱であり、パンノニアの連邦離脱に伴う連邦の最終的な崩壊であった。
 しかしこの時期になっても、なおアーキル人は民族意識を殆ど持たないままであった。批評家のE・テールヴェズは、自身の著書『新時代の芽』の中で、この頃のアーキルについて、『アーキル人は、連邦人であった。連邦人でないアーキル人を想像することもできなかった。我々は、パンノニアを失った時、一時的に、自身のアイデンティティをも失ったのである。』と書いている。これは概ね事実であった。私含め、連邦時代を生きたすべてのアーキル人が同意できるのではないだろうか。そして彼は同時に、『それはアーキルにとって大きな痛手であったが、しかし同時に、連邦の抜け殻から、自立した現代的な国家へと進化する為の、必要不可欠な通過儀礼であったのである。』と述べている。この『通過儀礼』という言葉は、しばしば思想史の上で語られるが、文学においても、この時代において、それは一つのテーマであった。
 実際、アーキルは連邦崩壊を期に、急激にアーキルという概念について考えるようになった。アーキル人とは何者で、どうあるべきか。――それがこの時ようやく議論されはじめたのである。
長く続いた連邦時代のために、アーキル国は『人種の闇鍋』としばしば喩えられる、曖昧な半多民族国家であった。このために、他国のように、生物学的分類の基づく『民族』という概念でアーキル人を定義する試みは機能しなかった。中にはそのような主張をするものも少数ながらいたものの、そもそもアーキル国民の中に純粋に古代アーキル人の血のみを引くような人間は殆どいなかった。
 別な共通要素をアイデンティティとして見つけだす必要があった。血でも、文化でも、容姿でも『アーキル人』を説明することは出来なかった。655年から660年にかけて、アーキルの作家や批評家たちは、この共通要素を探し、アーキル人とは何者であるかを定義するために、様々な実験を行った。そうして行き着いた最終的な答えは、言語だった。アーキル語を話す人間=アーキル人という概念である。これは概ね不満なく受け入れられた。かつての教育制度のために、連邦共通語であるアーキル語は、方言の差こそあれ、アーキル国民なら誰でも話すことができたからである。
 初期には多少の反発もあったものの、アーキル語をアーキル人のアイデンティティの核とみなす試みは、660年代に入る頃には一般に浸透した。アーキルの作家たちは、アーキル語を愛し、アーキル語で作品を書くべきであると考えるようになった。そして、それは同時に、ラガン=ヂドゥースが指摘したような、アーキル語がパンノニアと比して『劣って』いるという問題の解決を急務にしたのである。

『我らの文学』を目指して

 アーキル語改革運動の先陣を切ったのは、R・カタナンであった。彼は、658年に『新文宣言』を文学雑誌『アーキルの口』において発表する。アーキル文学の、パンノニアからの『独立宣言』を行ったのである。彼は、アーキル語の表現力が、パンノニア語のそれとくらべ文学に適していないことを認めた上で、これを乗り越え、独自の表現法を確立するために、大幅な語彙・文法の拡大を主張した。後に妻となる比較言語学・語源学者Y・サリアチノの協力もあり、659年の末にはその思想が概ね纏まったとされている。
 カタナンは660年、自らの言語改革の思想を取り入れた、画期的な長編小説『十三本の鉛筆』を発表した。この作品はあらゆる層から大いに歓迎され、詩人のR・メルミチェーラは『過去のアーキルのいかなる作品と完全に異なるが、しかし同時に最もアーキル的である。これほどにアーキル文学の道標となるに相応しい小説を、私は読んだことがないし、今後読むこともないだろう。』と評した。カタナンの思想を共有する作家達は一般に『新文派(ノーワェンテロギエ)』と呼称され、670年代末に至るまで、文壇の主流でありつづけた。
 一方、カタナンとは違った方向から、新しいアーキル文学のあり方を模索した人々もいた。その代表といえるのが、ベンヴィグルッグ兄弟だろう。彼らは、そもそもアーキル語がパンノニア語と比べ、文学に適していない、というラガン=ヂドゥースの指摘を、解釈しなおし、このような宣言をした。『パンノニア語が文学に適しているのではなく、既存の文学の概念が、パンノニア語に適しているのである。従って、我々に必要なのは、文学にアーキル語を合わせるのではなく、アーキル語にあった新しい表現媒体を構築することである。我々は文学を解体する。』
 ベンヴィグルッグ兄弟はこの新しい再構築された文学を、ノキル=イェツィルと名付けた。因みにこの言葉には特に何の意味もなく、それ自体が彼らの思想を体現するものであった。彼らは、660年代に、『白い黒』『きらめき』『土』などの短編を発表した。彼らの思想は本来はカタナンの新文派とはまったく無関係に、並行して生まれたものであったが、兄弟の信奉者の殆どは、カタナンの理論に反発する形で同調したものが多く、660年代の末には、ノキル=イェツィルは、新文派と比べやや数的に劣るものの、それに次ぐ規模を誇る対抗勢力であった。
 この2つの思想の他にも、様々な思想があったが、その全部をここで紹介することはできない。ただ少なくとも、それらの思想は、特に受け継がれることなく、後の文学にそれほど影響は与えていないものが殆どである。唯一の例外は、P・E・アレリアーグの提唱した遡帆古典主義(ペリエパンノニトレヴィチェヅツィエ)である。これは、パンノニアの文化がアーキルに流入する以前の古典作品にこそ、真にアーキル的な文学の根源があるという考えで、主要な作品を残したのは彼とその唯一の弟子といえるG・ペルントゥクのみであるが、アレリアーグの代表作『レムグドィンの駅舎』は極めて高い評価を受け、新文派にもノキル=イェツィルにも影響を与えることに成功した。
 まとめると、660年代のアーキル文学には、3つの系統があったことになる。アーキル語の文学への適応手術を提唱するR・カタナンの新文派、文学の解体・再構築を主張するベンヴィグルッグ兄弟のノキル=イェツィル、パンノニア文化流入以前のアーキル古典に範を求める遡帆古典主義(ペリエパンノニユトレヴィチェヅツィエ)である。

シュールィヴァンとプレダリョン派

さて、ここまでで述べたように、アーキル文学は、パンノニア動乱から660年代中頃までの、十数年の間に、その形態という点において、パンノニア文学からの『独立』を果たした。しかし、中身においては――文学の再構築を主張したノキル=イェツィルたちでさえ――実際にはパンノニア的な要素が未だに色濃く残っていた。パンノニア的な修辞法やモティーフは、すでにアーキル文学の中で定着しており、知らず知らずのうちに、アーキルの作家たちは、それをアーキルのものであると思いこんでいたのである。
 そこに初めて気づいた作家の一人が、G・K・シュールィヴァンである。貿易商の家に生まれ、幼少期をしばしばパンノニアで過ごした彼は、ソルノーク外事学校でクランダルト語を学び、659年にS・ゼベルドゥルップ(6世紀半ばのクランダルトの作家)の『小庭』のパンノニア語訳を発表し、以後数作品の翻訳を行った。彼が母語であるアーキル語ではなく、パンノニア語へ翻訳したのは、彼がパンノニア語の方が表現力の点でより優れていると考えていたからである。しかし、662年、シュールィヴァンはカタナンの『忘れられた崖』を読み、その考えを改めることになった。『私はこれまで、アーキルの文化と言葉とを、ひそかに蔑んでいた。だが今にして思えばそれは、甘くみずみずしいフルーツを、ガーリックソースで炒めたものを不味いと言っているようなものだった。カタナンは、わがアーキルの芳醇な実を、練乳とトゥーリャヂ(南アーキルの伝統的なクレープ)で包み、同じものとは思えないほど、豊かな味を生み出したのである。私はその日のうちに旅券を買い、プレダリョン(南アーキルの小さな町)の祖母の家へ飛び、2ヶ月の間、ずっと部屋に閉じこもって、これまで訳してきたすべての作品を、カタナン流の調理法でアーキル語に訳しなおした。』と書いている。彼の翻訳作品は、瞬くままにアーキル全土に広まった。
 クランダルト作品の翻訳を何度も行ったシュールィヴァンは、両国の作品を比較する中で、665年ごろにはすでに、アーキル文学が内容の面においてパンノニア的であることに気づいていたらしい、ということが、カタナンとの往復書簡の記述から明らかになっている。シュールィヴァンは、アーキルの中に、それも古典作品ではなく、現代の、連邦消滅後のアーキル社会が抱える諸問題の中に、『アーキル人』の『民族性』や『文化』を見出し、それらをモティーフとして、作品を書こうと試みた。この試行は難航し、何度も原稿を破棄しながら、執筆を続け、671年についに『倒木と船』を発表する。今度は、カタナンが彼を絶賛する番であった。
 シュールィヴァンの作品は、彼が信奉するカタナンの新文主義の中に、当時クランダルトで流行していたゼベルドゥルップ派レアリスムの要素を隠し味のように含むことで、独特の新鮮さと深みがあった。クランダルトやネネツ等の南側の文学的特徴を取り入れる試みそのものは、510年代にはすでに亡命文学からの影響という形で始まっており、パンノニア文化からの独立という概念が生み出される以前から存在していたために、当時すでにそれほど珍しいものではなかったが、シュールィヴァンは、それを単なる模倣としてではなく、ある種の鏡として用いることで、アーキルらしさを引き出してみせたのである。
 シュールィヴァンが『倒木と船』を発表した翌年、カタナンはテルスタリ風邪で亡くなった。それ以降、多くの新文派の人々は、シュールィヴァンをカタナンの次の師とし、新しい文学の系統を生み出していったのである。一般に、この系統はプレダリョン派と呼ばれており、その代表的な作家として、A・グルーンベリー、S・S・ブィコ、そしてP・レーフタンなどが挙げられる。またアーキル随一の翻訳家と名高いG・E・リューレンペィは、オリジナルの作品を残していないため、通常プレダリョン派に分類されることはないものの、翻訳にあたってはシュールィヴァンの影響を強く受けていると度々語っている。

『黒い霧』の時代

 シュールィヴァンたちによって見つめ直された、現代のアーキル的なモティーフとは具体的に何であったか。彼らは、歴史的なものからではなく、むしろ、今現在起こっている問題にそれらをもとめた。
 670年代のアーキルは、積み重なった様々な問題のために、リューリア以来と言われるほどに困難な時代であった。多くの政治学者や経済学者は、その主な要因として、連邦崩壊に伴う様々な法・経済の再整備がうまく行っていなかったこと、650年代の相次いだ経済危機からいまだ立ち直れていなかったこと等を挙げるが、シュールィヴァンら当時の作家達にとって、それらは問題の表層に過ぎなかった。
 『戦時中にはあった自由さが失われたこと、あるいは失われたと人々が幻視していることが近年のアーキルにおける精神上の諸問題の根源である。』とシュールィヴァンは随筆『ラオデギアの夏』で記している。戦争という巨大な環境は、若者特有の、蛮勇にも似た、底知らずの情熱を、いくら注ぎ込んでも決してあふれる事がない、巨大な受け皿として彼らの精神を支えた、とシュールィヴァンは考えていたのである。南北の対立構造は、単に連邦の存続を支えているだけでなく、その中にいる人間も支えていたというとである。
 シュールィヴァンは、さらにこう考察する。『連邦崩壊後の各国の急速なナショナリズムの発展とそれがもたらした様々な事件、騒動、とりわけ、パンノニアの諸紛争は、間違いなく、この情熱が、戦争の代わりにナショナリズムに注がれたが為である。それらの国々では、時として、何の意味もなく何千人の人が、同胞の手によって死ぬことになった。一方、我々アーキルはどうだったか?彼らのように、ナショナリズムが情熱の受け皿となることはなかった。(中略)その結果として、アーキルの若者達は、行き場を失った。』
 行き場を失った若者達は、レーフタンがしばしば小説の中で用いる表現を借用するならば、『黒い霧』の中に包まれていた。それは、ある種の『諦め』であると同時に、それを強制するものであった。他国のように代わりとなる理想はどこにもなく、情熱は冷ましてしまうか、あるいは無為な行いに投じるしかなくなった。――非行が流行し、安直な恋愛が標準化された。時として、その情熱を、芸術のために、あるいは思考のために投じるような人間も存在し、彼らによって戦後アーキルの芸術は飛躍的な進歩を遂げたのもまた事実ではあるが、彼らの多くは、社会に対して、また未来、更には人間そのものに対する漠然とした不安や不信を持ち、そのために、しばしば発狂した。またこの時代の人間の中には、社会の頽廃に耐えかね、それに反発することによって社会不適合者とみなされた人々も少なくなかった。この種の人間は、しばしばレーフタンの小説の中でよく題材とされている。
 レーフタンは、『《アーキル人》とは《曖昧さ》(プレーヴィリヂ)の民族である』としばしば語った。この『曖昧さ』について説明するのは困難であるが、この表現は、実に簡潔にアーキル人とその中にある問題の根源を言い表しているといえよう。情熱が過熱することもなければ、一つのもののもとへ集まらなかったのも曖昧さであれば、またその結果として生まれた社会の不安、不信が漠然としているのもまた曖昧さであり、そしてそうした状態に対して、何一つはっきりとした対策をすることもなく、また何から手を付けてよいかわからないのも曖昧さなのである。思い返せば、アーキルの定義がはっきりとしなかったのもまた、その曖昧さであったし、かつての『陽気なアーキル人(パンノニアの慣用表現、ペレトゥリャネ・アーキリェツィ)』はその曖昧さ故のものだった。そして、レーフタンは実際にそのように断言したことはないものの、このような曖昧さの下にある問題は、法律による規制や慈善活動による救済のような、明瞭な手段によっては決して解決することはなく、同様に曖昧な、不可視の力、即ち芸術の力によってこそ救われうると考えていたようである。
 シュールィヴァンも同様に、『ラオデギアの夏』の中でこのことを力強く主張している。『多くの人々から道徳が失われ、貞操も、倫理もなく、無為に過ごしている。それは果たしてその本人に罪があるのだろうか?彼らは、時代の圧力によって押し潰されそうになっているだけである。我々作家は、世界における文学の役割、作家の役割について、見つめ直さなければならない。ことばは人間が人間であるための唯一無二の必要条件であり、その持ち得る力は、あらゆる芸術やその他の思想伝達手段の中で最も巨大である。ことばを操る人間は、ことばが人を操れてしまうこと、またそれゆえにいかにその力を扱わねばならないかについて、よく考える必要がある。』
 シュールィヴァンやレーフタンの主張に賛同する、プレダリョン派の中心的な作家たちは、アーキルの社会問題の根底にある、心の問題に焦点をあて、それをモティーフとして多くの作品を残した。シュールィヴァンの『小包』、レーフタンの『日時計』『夕暮時のペーベリュメン通り』、ブィコの『小さな花畑』はその代表的な作品である。

 

もう一つの潮流:アーキル耽美主義

 ある思想が生まれると、かならずそれに異議を唱える思想が生まれてくる。文学を通して、そのままでは見ることの出来ない社会の問題を見つけ出し、人々を導き、精神を救済する――それを文学の意義であると主張した、シュールィヴァンらプレダリョン派に対抗して、もっと芸術は自由でなければならないと主張した人々がいた。これをアーキル耽美主義と呼ぶ。このエッセイでは、このアーキル耽美主義について軽く説明して終わりにしようと思う。
 アーキル耽美主義は、パゼル六人会派の影響を強く受け、そこから独自の発展を遂げる形で成立した。その主要な思想は、『芸術は人間から独立するべきである』である。これは極端に前衛的かつ抽象的で理解しづらいが、これは要するに、プレダリョン派のような、何か社会に対して干渉しようとする芸術というのは、同時に社会から干渉されているものであり、芸術としての純粋さを失っている、という考えから生まれたもので、芸術とは本来、単に美しさのみを求めるべきものである、という主張である。
 文学の破壊・再構築を訴えたノキル=イェツィルもまた前衛的であるが、アーキル耽美主義はその主張を引き継がなかった。かれらは文学の表現手法に対して一切の興味をもたなかった。それがパンノニア的な形態で書かれていたとしても、カタナンの新文派的な技法を利用していたとしても、またノキル=イェツィルのような極端な表現方法を用いていたとしても構わなかった。彼らはあくまで、芸術の純粋さというこの一点にだけこだわった。そのために、彼らの中に、一つの傾向や系譜を見出すことは困難であり、彼らの中でもしばしば意見が割れた。
 代表的な作家はU・I・リーレブック、O・カイェック、Z・S・デルベドーリ、K・リーファーなどである。
 プレダリョン派が現実の、現代のアーキルを題材としたのに対し、彼らの作品の多くは、幻想的で、非アーキル的である。それゆえに彼らの作品は、読者を選ばないある種の普遍性を有しており、プレダリョン派の諸作品は比較的似通った状態にあったクランダルトを除き、ほとんど国外で評価されることもなかったのに対し、アーキル耽美主義の諸作品は、国外で大いに歓迎されることとなった。そのために国外の文壇に非常に大きな影響を与えた。パンノニアにおいてはソルノークの復古主義的で保守的な文芸運動に反発する形で生まれたカルタグ派に大きな影響を与え、遠くネネツではネネツ耽美主義というあらたな流派を形成した。更にメルパゼルにおいても逆輸入され、メルパゼル宇宙主義の誕生の一つの要因となったのである。
 彼らの中で指導的な立場にあった、アーキル8世紀芸術家同盟は673年に集団としてその活動を始めたが、その3年後にはその方針を巡って2つに分裂した。リーレブックやカイェックたちは、非アーキル的であることによる汎世界性に注目し、一種のコスモポリタニズムへと発展したのに対し、デルベドーリらは、更に進んで、非世界的な、より抽象的な作品を目指した。
 前者の代表的な作品としては、リーレブックの『輪』、カイェックの『パルエ、パルエ、パルエ!』、S・B・ベベジュの『直線と曲線』があり、後者の代表的な作品としては、デルベドーリの『在れ』『ヤヤヤヤヤ』、K・リーファーの『○●●○○●○●○○』が挙げられる。
 アーキル耽美主義は、世界的には評価されたものの、国内においてはそれほど大きな勢力を作ることもなく、ここ数年ではほとんど消えかかっている。しかし、彼らの作品の持つ普遍性は、民族という概念を相対化させる効果があり、カタナンによって獲得され、プレダリョン派によって煮詰められたアーキル人というアイデンティティ、民族性を、今一度、より大きな視点から見つめ直す機会を作った、という点は評価されなければならない。

 

 

 

最終更新:2019年05月01日 04:19