コンタークトの記憶

「わざわざ遠いところからいらしてくださいましたこと、まことに感謝の極みでございます」

「私も目的があってのことだ。気にするな」

「承知いたしました。あなた様のことはなんとお呼びすればいいでしょうか。あまり言葉を知らないものでして」

「私のことはエルカと呼べばいい。言葉など、あまり気にしないことだ」

「わかりました。エルカ様」

「さて、私がここに来たのは友人たちの紹介を受けてのことだが、君は素晴らしい腕を持っているそうじゃないか」

「お褒めいただいて光栄です。軽食屋と銘打ってはいますが、実のところ皆様にご愛顧されているのは酒の方なのです」

「このご時世に品質の高い酒を出せることは誇れることだ。私の友人のためにも、その敏腕を振るってくれたまえ」

「そう言っていただけると光栄です。これからも手を抜かず、腕を磨きます」

「……前置きはこれくらいでいいだろう」

「はい、エルカ様」

「さっそく本題に入ろう。エルセール、君には多少なりとも素晴らしい素質があると聞く」

「どの部分をお褒めいただいているのかは存じかねますが、巷では私の記憶力と目のよさを評価されることが多いのではないかと愚考します」

「まさにそこだ。君は頭と、特に目に関しては非常に能力が発達しているそうではないか」

「あまり他人と比べたことがないので、エルカ様がおっしゃるならその通りなのでしょう」

「軽食の余興に、その才を見せてはもらえないだろうか」

「私のささやかな特技でよければ、恐縮ですがお目汚しにお付き合いください」

 

 

「こちらに一冊の本があります」

「南方の繊維で織った黄紙の整版本か。しかも袋綴とは、港には新しいものがあるようだ」

「輸出入によって様々なものが過不足するところではありますが、その歪みが新しい文化を興すこともあるようです」

「なるほど、どこを見ても新鮮というわけか」

「ええ。……私がこちらの本を読むのは二度目を終えたところです」

「すでに厚い本の内容を憶えているというのだろう」

「ご明察です。私は、エルカ様がおっしゃった部分を、そらんじてみせましょう」

「大した自信ではないか。ではそうしてみるとしよう」

「どの部分でも構いません。指の止まる場所のどこでも」

「これは、私もよく知る作品だな。『海原に咲く雪』か」

「はい。量の関係で、今までは活字版の一点ものしかありませんでしたが、整版の完成と黄紙の普及により、分冊ではありますが市井でも手が届くようになりました」

「そうか……。『雨が青く降り注ぐのだと思っていた』。これはどうだ」

「エルカ様、私を試されるおつもりですね」

「ただ憶えているだけならば奇術師でもできることだ。君はそうではないだろう」

「その通りです。その文言は三章『凪の海と帆』七節と……著者の前作品『水溜りの街』の五章十五節に登場するものです」

「素晴らしいな。記憶力も抜群なら、機転の利かせ方も」

「そのような出題の仕方をされるエルカ様も、私などでは比べ物にならないものをお持ちのようです」

「知っていたからできるだけだ。君と同じように。ではもう一つ行こうか」

「なんなりと」

「先と同じ逆引きではつまらないだろう。『尾根を見下ろし、カンバスに緑青の顔料を垂らした季節の到来を待つばかり』」

「九章『朝焼けの季節』六十三節」

「そのなかで、違いがある場所はどこにある」

「かなり難しい質問ですね。違い、ですか。どのように答えましょうか」

「君の分析が聞きたいだけだ」

「わかりました。……その一文は『尾根を見下ろし』と、それ以降とで文字の質が明らかに違っています」

「確かに、そのようだ」

「また、その節は他の節よりも全体的にインクの付き加減が薄いかと思います」

「そこから導き出されることはなにかね」

「なにかの理由で、この節全体が削り取られ、版木が入木によって修正されたのだと解釈しました」

「他にはあるかね」

「入木の文字の違いから、この文章を掘り直した人物は最低でも二人以上はいるということがわかります」

「素晴らしい。私の望む答えだ」

「ありがとうございます」

「次はなにを見せてくれるのかね」

「エルカ様のお付きのものが見ている懐中時計の柄を当ててみせます」

「ほう、そのようなガラス一枚隔てて、なおかつ遠くにある小さなものが見えるのかね」

「私には見えます。天方へ伸びる竜骨模様を地とする銀に、茎を絡めた高原雪花の蕾の金細工が、とても綺麗な型押しの蓋ですね」

「その通り、彼はあれが気に入っているらしくてな」

「昔から変わらない、いい柄だと思います」

「そうか。そう言ってくれると、彼も喜ぶだろう」

「それに、彼の懐中時計は型押しが緩んでいるようです。大切にされてきたのですね」

「そこまでわかるとはな」

「どうでしょうか。私のささいな余興でお楽しみいただけましたか」

「とても満足だった。私が最初に下した評定は間違っていなかったようだ」

「それは、嬉しい限りです」

「いや、言い直すべきだろう。君は特に頭と目がいい、と。」

「お褒めにあずかり、光栄です」

 

 

「エルセール、北へ帰ってくる気はないかね。」

「エルカ様、私の帰る場所はここ以外にはございません」

「君の才能はまだ衰えていない。それどころか、ますます利発さを増しているようだ」

「私の教養と体では、もはや上界へ戻ることはできないでしょう」

「元より、君の身体では、社交界での活躍など期待してはいない」

「では、なぜ私を呼び戻されようとしているのでしょうか」

「私が後に声をかけるものより、君が愚かではないからだ」

「さようでございますか。しかし、誰の命によって、私がここで生活しているかをご考慮されますよう、切にお願いいたします」

「力の均衡は、これからますます崩れていくだろう。その前に、誰かの庇護を受けておくことは、いいことだとは思わないか」

「たとえそうであっても、私の任務を放棄することはできません。また、任務を遂行しながら他の任に就く余裕もございません」

「ふん。この時期を選んで君に声をかけたのは、正しい選択だったようだな」

「私はエルカ様の想像の範疇を出ることはないでしょう」

「そのようだ。さて、この店の土産はなにかあるかね」

「でしたら、上等な『秘蔵酒』があります。皆様にもご愛顧いただけている、自信のある一品です」

「ああ、友人も絶賛していたよ。ここに来たなら、一度は飲まねばならぬ、とね」

「あまり数が多くないもので、差し上げられるのは箱一つか二つ分になってしまうのですが、よろしいですか」

「ああ、かまわない。家でじっくりと楽しむことにする」

「是非ともそうなさってください。『秘蔵酒』は温めて酒精を鼻腔に含む飲み方も推奨しております」

「我が家で試してみるとしよう」

「裏口に用意しておきますので、どうぞご利用ください」

「付け人に取りに行かせる。では、さらばだ。次に来る友人たちにもよろしくと言っておいてくれ」

「さようなら。またのご来店を。……ハル、もう出てきていいわよ」

「……ああ、そんなに俺と奴を会わせたくなかったのかい」

「とてもじゃないけれど、会わせたくはないわ」

「そのせいで、俺はエルセールが連れ去られるんじゃないかとひやひやしたよ」

「安心して、私がどこかへ行くということなどないわ」

「それを聞いて安心した。エルセールのことを知っているようだったし、他の奴らよりも情熱的にエルセールに迫るもんだから」

「彼に情熱などないわ。儀礼的に聞いただけでしょう。それが彼の礼儀なのかもしれないわね」

「出された軽食の、水の一滴すら口に入れないのも奴の礼儀なのかい

「そうよ。彼、とても臆病だから」

「エルセールは奴をよく知ってるんだね。奴の愛想が悪いのは、いつもああなのかい」

「いつもそういう人だったわ。さて、父も帰ったことだし、私たちも遅めの昼食にしましょう」

「ああ、エルセールの手の温もりが嬉しい……って、あれ君のお父さんだったの」

「血のつながりはないけれど、父だったわね」

「ああ、そういえば奴はエルカって姓だった……。ちょっと待ってよエルセール」

 

 

「もったいないなぁ」

「父に出した軽食を捨てたことかしら」

「そうだよ。手を付けてないなら俺が食べようかと」

「死にたいなら別に構わないわよ」

「うそ、あれってそんな危ない代物だったの」

「私が毒でも入れたと思っているのなら、大きな勘違いだわ」

「じゃあなんでさ」

「ハルが殺されるかもしれないからよ」

「俺、俺だって。すごい発想の飛躍だね」

「私の任務はハルを監視することよ。監視対象がいなくなったら、私は他の任務に就かされると考えなくて」

「そうか。俺を暗殺すれば奴はエルセールを好きにできるんだな」

「そして、もしそうなったら私はひどく動揺するでしょうね。安易に父の提案に乗ってしまうくらいには」

「あー。つまり奴は俺たちを謀ろうとしたかもしれないってことなのかな」

「今回は、その価値があるのか測られただけみたいね」

「もしエルセールが食べて死んじゃうってことは考えるくらいするだろう」

「父は失望するだけでしょうね。私が聡明でなかったことに」

「毒が入ってないとは思いたいけど、どっちにしてもすごく怖いよ」

「ええ、父は怖いわ。そういったことを平気でするもの」

「でも、エルセールに直接会いにくるなんて、すこしは君のことを心配してるんじゃないのかな」

「いいえ、ただ手放したことを惜しんでいるだけでよ」

「そりゃあ、まあ、最初のころのセルデはひどかったからね」

「……ハル。私はエルセール、そうでしょ」

「あ、ごめん」

「いいのよ。私はエルセールだから」

「わかったよ。でも、君の、元、お父さんの来訪に感慨とかはないの」

「私をこうしたのは父だもの。父も本望でしょう」

「ずいぶんと薄情だね」

「ええ、情がなくて、鬼畜で、人を道具としか思わない人だったわ」

「セルデ……」

「でも、嬉しいこともあったわ」

「どんな」

「それなりの誠意で私に接してくれたこと」

「あれが、それなりだってのかい。俺には到底そうは見えなかったけど」

「父が誰かのところを直接訪れるのは、とても珍しいこと。私にたいしてそうしたということは、私にその価値があると思われているの」

「そうじゃないのは使者でも寄越すんだね」

「それか、相手を自身の領域まで踏み込ませるように仕向けようとするの」

「策略家だね」

「だからこそ、絶対に一人で行動しない父が、一人で私たちの家まで堂々と来て、直接言葉を交わせたことが嬉しかった。初めてだった」

「じゃあ、奴のパートナーとして認められたってことだよね」

「どちらの意味かしらね」

「え」

「なんでもないわ」

「気になるよエルセール。……ところで、俺に隠れているように言ったのって、俺がいると不都合なことがあったのかい」

「不都合だったわ」

「バッサリ言うね。『主人は出かけております』なんていう嘘をついた理由を教えてくれないかな」

「嫉妬したのかしら」

「ば、馬鹿言わないでくれ」

「ハルは私と父が話しているところを覗き見していたわよね」

「なんでそれを」

「私は目がいいのよ。ハルが心疚しい表情をしていたのも見えていたわ」

「エルセールに見られていたことよりも、俺がそんな顔をしていたことの方が衝撃的だ」

「私を連れ戻そうとするところで、さらに表情が変化した。そこに反感を覚えたのであれば、嫉妬と表現してもいいのでなくて」

「じゃあ、俺は嫉妬していたと素直に認めるよ」

「嬉しいわ。でも安心して、ハルの知っている本当の私は、ハルにしか見せたことがないから」

「そう言ってくれると俺も嬉しいよ。それで、不都合の理由を教えてよ」

「憶えていたのね」

「嫉妬心が消えるようなものを頼むよ」

「あの場でハルがいたら、下手なことを言って私たちがハメ殺されていたからよ」

「また殺されるのかよ」

「私と父のやり取りを見ていたでしょう。父を相手にあれくらいの応答ができないと、十日とかからずに窮地に陥るわよ」

「わかったよ。お貴族様と違って、平民の俺じゃ無理だって言いたいんだろう」

「そう。ハルじゃ無理なこと。私でもあれ以上踏み込まれたら危なかった」

「貴族界で昔から上位にいる理由がわかるよ。あれはたしかにキツい」

「もっとも、父がその気なら、とっくに『そう』せざるを得ない状況に持ち込まれていたでしょうね」

「温情をかけられたとでも」

「あるいは、不必要に敵を作らない処世術でしょうね。中立のものをいじめ殺しても美味しくはないでしょうから」

「そのぶんだと、俺がいたのを知っていてああいう態度だったって言われても驚かないな」

「よく気づいたわね」

「……本当かい」

「父は人の言葉を安易に信じるようなことをしない。今日の私たちの行動も、事前に調べたでしょう。指摘されなくてよかったわ」

「怖え、それこそ温情じゃないか」

「裏を返せば、私たちへの重要度は高くないということよ。安心しなさい」

「いつも世話にはなっている軍人さんたちはいるけどさ、ああやって露骨にちょっかいをかけられると肝が冷えるんだよ」

「何回もあるものではないわ。たぶん、父も旧ガルゼラルがどのようになっているかを視察に来たついでなのでしょうから」

「本についてしつこく聞いてきたのはそういう目的だったのか」

「エルカ家は国外からの防諜と同時進行した、内地への間諜で今の地位を築いたのよ。熱心だったでしょう」

「俺たちを巻き込まないでくれるかな」

「本当に。ところで、明日の『郵便配達』はどこまで行くつもりかしら」

「ん、港だよ。『速達』が溜まっててね、日の出前には出るよ」

「宛先は『ハルの友人たち』にかしら、それとも『港湾労働者』宛てなの」

「どっちも。それに『転職した友達が港で働いてる』らしいんだ」

「あら、それは大変ね。『海が荒れ』なければいいけれど」

「港は『住所が滅茶苦茶』だけど、それを寸分の狂いもなく『配り分ける』のが『郵便配達員』ってもんさ」

「頼もしいわね。私の夫は職を失わずに済みそう」

「エルセールの応援あってこそだよ」

「……。熱い言葉は嬉しいけれど、おしゃべりで昼食が冷めてしまうわね。急いで食べましょう」

「たくさん食べるようになったエルセールをいつまでも見ていたいよ」

「キザな男ね。きっと他の女にも同じようなセリフを言っているの」

「お、嫉妬かい」

「独占欲と殺意で混沌としたもの嫉妬と呼ぶのなら、そうかもしれないわね」

「でも、本当にエルセールは最近よく食べるようになったと思うよ。それが心の底から嬉しいのは本当さ」

「そうなの、気付かなかったわ。……本当ね、私たちが暮らすようになったときよりも、多く食べているようだわ」

「体つきも、だいぶよくなった気がするよ。エルセールのお尻に脂肪がついているなんて驚きだよ」

「自然な動作で私の座面に手を差し込まない。きっと、それは増える家族のぶんも食べるようになったからでしょうね」

「え……」

「どうしたのかしら」

「今、すごいことを聞いたような気がするよ」

「そこまで驚くことかしら」

「いや驚いた。騙されたよ。これはきっと君のお父さんも出し抜いたはずだ」

「たしかに、父が知っていたら『社交界での活躍など期待してはいない』とは絶対に言わなかった。父でも知らないことがあったのには驚いているわ」

「そんなことは実際どうでもいい。セルデ、いつからなんだ」

「……。ついこの間よ、ハル。出たのも、止まったのも」

「そうか、嬉しいな。後でお腹に耳を当ててもいいかい」

「馬鹿ね。膨れないうちから動くわけがない」

「そうだね。でも、俺はセルデにこうしていたいんだ……」

「……ハル。あなたが私に抱きついて泣き崩れるのは、これが初めてよ」

「……情けない姿でもいい。目に焼き付けていてくれないか」

「言われなくても一生忘れないわ。だからハレルも、五感すべてで感じる、今という瞬間が体に染み込むまでは、もう少しこのままでいさせてほしいの……」

最終更新:2019年06月03日 21:49