Meddler log.2

Log.2 Evil Warning


先程まで鬱陶しくぎらついていた太陽は、分厚い雲の向こうに姿を消した。
鉛色の空の下、遥か西方に壁のようにそびえる山並を除き、見えるものはただ砂とまばらな緑だけであった。
国の西端を無人地帯たるエゲル盆地と隔てる山脈に沿うようにして、その車両は北東に進んでいた。
50m程の全長に比して、その高さはまるで地にへばり付くように低い。
その地で一般的に「レリィグ」と呼称されていたその生体車両は、無数の体節を支える数千本もの歩肢によって、その百足のような体を前進させていた。
深緑色に塗りたくられたその車体の最前部、百足の頭部に当たる辺りには幾つかの対空機銃が備えられており、それらの長い銃身はさながら触覚のように思われた。

操舵室はその真下にあった。
分厚い装甲をくりぬくようにして嵌められた巨大な硝子は傷に覆われ、各部の厚みがまばらなことも相まって、歪んだ景色を中の者たちに与えていた。

「やってることは賊と変わらねぇな、それじゃあ」

配管の這い回る壁にもたれ掛るようにして座ったフラーケは、操舵輪を握る男の横顔を眺めながら言った。
歳にして彼と同じほどだろうか、立派な口髭を蓄えたその男は彼の言葉など気にも留めないかのようにただ前方を見つめていた。

「口の利き方に気をつけな、おっさん。あたしらが拾ってやらなかったら、あんたら今頃干物になってただろうに」

反対側の壁に背中を預け、帳簿を睨んでいた若い女がぶっきらぼうに答えた。
不時着したマコラガから二人を助け出して数時間。
女は既に自分たちの生業と行き先を、大まかながら彼等に語り終えていた。

「そりゃあ感謝してるよ、嬢ちゃん。それこそケツが緩くなるほどにな」

戦闘服に包まれた女の体を下から舐めるように眺めながら、フラーケは長く甲高い屁をこいた。
途端に女の眉間に途轍もない嫌悪の色が浮かぶ。
それを愉しむかのように、彼はその髭面に微笑を湛えた。
やがて、外套の胸ポケットに右手を突っ込み煙草の箱を取り出そうとしたが、昨日憲兵署長から受け取ったそれは既にどこかになくなっていた。

「・・・だとしても釈然としねぇ。豚貴族共の意向がパンノニアの国境警備隊にも伝わってるってのか?」

小さく舌打ちをした後、フラーケは疑念をありありと伴った声で尋ねた。
帝国の諸侯の一部、前線に近い辺りを治める連中が、その領土で掘り出した発掘品をアーキルを始めとする北半球勢力に叩き売っているという話は聞いていた。
古今南北、私欲を肥やすことを第一の行動原理とする貴族が、本来の忌敵たる者たち相手に商売をするのは何もおかしな話ではない。
しかしながら、ごろつき同然の粗末な備えをした連中に、それも陸路でそうした莫大な利潤をもたらす筈の品物を運ばせるというのは余りにも粗末な話ではあるまいか。
ましてやその警戒範囲の狭さ故、前線よりも通過の困難な南北パンノニアの国境を越えさせるというのは、もはや金を溝に捨てるようなものである。

「・・・運ぶのはゾアまでだよ。今回はそこで受け渡しする手はずだから、警備隊の世話にはならない」

女はニルギス平原北西部、国境をまたぐ小さな街の名前を出すと、机の上にあった自分の煙草をフラーケに投げてよこした。

「おっ、ズィーベンじゃねぇか。ありがとよ」

受け取った箱のラベルを目を細めながら眺めると、彼は中から一本を取り出した。
そして一端を咥え、腿ポケットから取り出したライターでもう一端に火を点けた。
もう二十年は味わっていなかった古臭い辛めの紫煙が肺を満たす。
巻紙に含まれた燃焼剤はスカイバードの皮脂から作られており、老人の体臭を思わせる独特な風味は本国では受けが悪かった。
しかし、今の彼にとっては、それはある種の懐かしさと親しみを伴っていた。
ほとんど帝都でしか手に入らないこの銘柄を、運び屋の娘如きが日常的に吸っているとは考えられない。
恐らく雇い主からの差し入れであろう。
フラーケはもう二度ほどその重い紫煙を吸い込むと、やがてゆっくりと顔を上げた。

「・・・それじゃあ俺も品物の一つってことでよ、北にやってくれねぇか」

ばつが悪そうにぼそぼそと切り出したフラーケとは対照的に、女はあくまでその不躾な姿勢を崩さなかった。

「構わないよ。亡命の手伝いは前にやったことある。老いぼれ一匹向こうに逃がすくらい訳ないよ」

彼女は言うと、再び帳簿に視線を落とした。

「助かる、礼は後でするよ。・・・さて、問題はこいつだな」

隣に座っていた筈の男の方に目を向け、フラーケは絶句した。

「おい、・・・何やってんだお前」

生白い上半身を晒したその男は、屈んだまま両手で抱えたクルカの体を舐めていた。
唾液で光る腹を小刻みに震えさせながらも、体格の小さなその生き物は辛抱強くじっとしていた。

「・・・ゼルフィニの柔軟性とクーリアの頑強さを兼ね備えた皮膚だ。こんな生き物は見たことがない」

男は一度だけ振り返って呟くように言うと、今度はクルカの下腹部、生殖器のあたりを舐り始めた。
その赤黒い瞳は明確な好奇心に輝いていた。
見るたびにガラス玉のように無機質だとフラーケが気味悪く思っていたそれは、今ばかりは確かにヒトのものだった。

「気持ち悪りぃから今すぐやめろ。・・・お前、名前は何って言ったっけ?」

やがてその震えすらも止め、固まるように動かなくなったクルカを気の毒そうに眺めながら、フラーケは尋ねた。

「ヴァディーモヴナ・ヒッタヴァイネン、研究者だ」

「長ぇ、ヴァディムでいいな?」

顔も上げずに言った男の言葉を遮るように、フラーケは短く尋ね返した。
男は不服そうに背中を見せたままだったが、やがてクルカを床に下ろした。

「お前はどうするんだ?・・・俺はこのまま北に逃げる」

こちらに体を向けた男の喉を見つめながら、フラーケは独り言のように言った。
しかし彼の吐く紫煙を目で追うだけで、男は何も答えようとはしない。

「おかしくなっちまったか?・・・まぁ元々訳の分からん奴ではあるが」

フラーケは呆れ果てたかのように小さく溜息を吐くと、視線を操舵手の男の方に向けた。

「・・・私もついていく」

そう呟いた男の言葉は、直ぐにはフラーケの耳には入らなかった。
レリィグの歩肢が岩を粉砕した小さな衝撃に掻き消されたのである。

「おやっさんよう、こいつは・・・」

「私もついていく!」

操舵手に呼びかけるフラーケを睨みつけながら、男は鋭く怒鳴った。
その目は大きく見開かれ、染み一つない顔立ちも相まってさながら人形のようである。
男を除くその場の全員はしばらく唖然としたように固まっていた。
不自然に殺伐とした空気の中、やがてフラーケは左手で額を掻くと、男に向き直った。

「・・・分かったよ、でかい声出すな」

そして宥めるような、諭すような穏やかな声色で言った。
男はもう数秒ほどフラーケの顔を睨んだままであったが、やがて背後で床に転がるクルカに向き直った。

「だとよ、嬢ちゃん。こいつも、・・・ヴァディムもいいか?」

フラーケは女を見ると、決まりの悪そうに尋ねた。

「いいよ、一人も二人も変わらないし。ただ・・・」

「4時方向!機影だ!」

女の言葉を掻き消すように、フラーケの背後の壁から怒鳴り声が響いた。
慌てて振り返ると、無数の配管に混じって小さな伝声管の口が壁から突き出していた。
震えるそれは天井の上へとチューブを伸ばしている。
唐突に張り詰めた空気を感じ取り、腹を見せて横たわっていたクルカは迅速に計器盤の下へと潜り込んだ。

女に続き、フラーケは操舵室後部の天井から吊り下がっていた梯子を上った。
昇降口の蓋を女が上に跳ね上げると、砂塵を伴った風が部屋の中に勢いよく吹き込んだ。

「カルラ!アレだ、あの黒い奴!」

前方の天井の装甲版には銃架が粗末に溶接されており、その対空機銃の機関部にしがみつくようにして若い男が声を張り上げていた。
梯子を上り切った女の後ろから、フラーケは天井へと身を持ち上げた。
そして男の指差す先に視線を向けた。
レリィグは時速50㎞程で巡行していたため、砂塵を含んでいたのも相まって風で目が潰れそうであった。
必死に空を睨みつけると、右舷正横4㎞程を並進するかのように飛ぶ航空機の影が見えた。

「・・・ありゃまずい」

カルラと呼ばれた女は、強風の中でもフラーケのその呟きを聞き逃さなかった。

「機銃に付きな!全員!」

そして周りの男たちに怒鳴った。
彼等も彼女と同様に、帝国の戦闘服を雑に仕立て直したものに身を包んでいる。
航空機はやがて機首をこちらに向けた。
急速にその機影は大きくなり、そのシルエットが生体機関機のものであることが明白になった。

「嘘だろ、おい」

フラーケはそのグランビアの胴体に何か細長い円筒状の物が吊り下げられているのを認めると、砂塵にも構わず目を見開いた。

「撃て!近づけるな!」

どこから取り出したのであろうか、自らもその大きな対物小銃を目標に指向しながらカルラは周りに怒鳴った。
四門の機銃が眩い銃口炎と共に、凄まじい連射速度で口径20㎜の弾を吐き出し始めた。
金臭くなった辺りの空気が震え、曳光弾の描く軌跡がまっすぐにグランビアの前方へと伸びていく。
カルラの小銃から飛び出した薬莢の一つが、後ろにいたフラーケの外套の中に入った。
その下のシャツの胸は開けられていたため、それは彼の腹に吸い寄せられるように張り付いた。

「あぁっ!糞が!」

喚き散らしながら必死に身を捩るフラーケをよそに、男たちは機銃の射撃を続けた。
その大きな薬莢がシャツの裾から転がり落ち、ようやく彼がグランビアに目を向けた瞬間、それは既に500m程の距離にまで詰めてきていた。
斜め前方に横滑りするような機動を取っていたようであり、誤った見越し角で放たれた機銃弾は尽く掠りもしていなかった。
カルラが新しい弾倉を銃に嵌め込んだ時、グランビアは僅かに機首を右に、レリィグの進む先に向けた。

「伏せろ!」

怒鳴りながらフラーケはカルラに駆け寄り、その身を押し倒すかのように天井に叩きつけた。
その直後、進路上10mの位置で榴弾が炸裂したことによる途轍もない粉塵と爆風がレリィグの前部を覆った。
砲声と弾着の轟音はほぼ同時に彼等に届いたため、まるで一つの雷鳴のように鼓膜を襲った。
曖昧な視界の中で、たった今頭上を通過していった戦闘機の腹をフラーケは睨みつけた。
そこには先程確かに見たはずの物体は吊り下げられていなかった。
代わりに、ただ空を掴む懸架装置のアームが見えた。

「畜生が・・・」

フラーケの呟きは、西に遠ざかっていく戦闘機に再び射撃を開始した機銃の発砲音に掻き消された。
やがてゆっくりと立ち上がると、彼はレリィグの天井を右舷の縁まで駆けた。
そして車体側面を前から順に走査するように慎重に睨みつけていく。

「カルラ、そいつを貸せ!・・・あと、誰も後ろには遣るな」

最後部の右舷装甲から、何か小さなものが突き出していた。
フラーケはそれを睨みつけたまま言った。


レリィグの内部の空間は、体節それ自体の硬化鋼板と船室を形作る箱型の形状記憶合金に守られている。
しかし、噴進弾はその二枚の装甲を容易く破り、弾体を後部第一貨物室に突き込んでいた。
大きな木箱が幾つか吹き飛ばされ、中にあった旧時代の蓄電池が大量に床に散乱している。
だしぬけに噴進弾の弾殻が激しく振動し、一枚の厚い鉄板が中から弾き飛ばされた。
弾体に1m四方ほどの開口部が開く。
そこから這い出すようにして、一人の男がゆっくりと床に降り立った。
灰色の戦闘外衣に、丸い大きな弾嚢が三つ括り付けられた弾帯。
その背中側には大きな機械油の缶のようなものが付けられており、その口は太い金属製のチューブによって男の喉元と接続されていた。
彼は負い紐で吊っていた散弾銃の握把を右手で握ると、左手で銃身を後ろにスライドさせた。
薬室を兼ねた円形の弾倉が一発分だけ回転する。

男は大量の木箱が空間を占有する貨物室の奥を睨むと、やがて歩き始めた。
銃床はしっかりと肩に押し付けられ、照星は自らの進路に歪みなく重ねられている。
レリィグの体節が軋むと、その衝撃は合金の箱である室内に不快な摩擦音をもたらす。
一度だけそれに対し僅かに顔をしかめたが、男は淀みなく足を進めた。
やがて第一、第二貨物室を隔てる扉のノブに手を掛け、ゆっくりと引いた。
銃身は既に室内に向けられている。
その先の空間は今までの木箱の群れではなく、巨大な四つの発電設備に占有されていた。
薄い紫色のセラミックで覆われた、3m程の高さを持つ発掘品である。
それらはワイヤーとベルトで床と壁にしっかりと固定されていた。
男は照星をそうした積み荷の奥に向けたまま、慎重に第二貨物室に入った。

「よぉ、アレキシ。腐れ外道め」

唐突に左から響いた声の源を探し、男は迅速に体と銃をそちらに向けた。
しかし、そこにあったのは配管に埋もれるようにして壁から突き出していた伝声管であった。
呼吸が荒くなり、首元のチューブが震える。
再び男が空間の奥へと視線を戻そうとした時、積み荷の間を縫うようにして飛んできた一発の銃弾が彼の右耳の上、側頭部にぶつかった。
首が不自然な角度にがくりと傾き、上半身は大きくのけぞったが、その二本の脚は大きな体躯をしっかりと床の上に立たせたままであった。
徹甲弾に剥ぎ取られた頭皮と髪の毛の下から、複合装甲で覆われた頭蓋骨が覗いていた。

「死ね!茶坊主が!」

貨物室の奥から怒声が飛んできた。
男はのけぞったままの体勢で膝を折り、身を屈めた。
一瞬遅れて、彼の頭上10㎝ほどを先程と同じ大きな銃弾が通過していった。
それが背後の壁に穴を穿った瞬間、男は散弾銃の銃口を空間の奥へと向けた。

続けざまに放たれた二発分の散弾が、フラーケが左半身を掩蔽させていた壁、第二貨物室と機関室を隔てるそれにぶつかり、無数の小さな粒が空間を跳ねまわった。
三発目の一部が彼の右肩に当たった。
外套の下、劣化した生体装甲膜を貫き、それらは義手と彼の生来の神経を繋ぐ関節に入った。

「糞ッ垂れがァッ!!」

激痛を怒鳴り声で掻き消しながら、フラーケは身体を完全に壁に隠した。
そして外套のポケットに突っ込んでいた手榴弾の柄を左手で握った。
その間も散弾は絶え間なく壁を打ち鳴らしている。
小銃の握把を握る右手の代わりに、歯で弾体上部の螺子を回すと、彼は左手だけを暴露させるようにしてそれを敵方に放った。

足元に転がってきたその手榴弾は、長年扱い続けてきたその男にとっては親しくもあるその弾種表示のマーキングを彼に向けて止まった。
男は右足を軸にして体を勢いよく回転させると、最も近くにあった発電装置の裏へと飛び込んだ。

破片の幾つかはフラーケの壁にも飛んできた。
それらが空を切る不快な高音に顔をしかめながら身を屈めていた彼であったが、やがて炸裂の反響が収まると、銃口を僅かに壁から出しながら空間の奥を睨んだ。
最も奥の発電装置が横倒しになり、配管や発光体の密集した面をこちらに向けて転がっている。
その奥で、何か灰色のものがちらついていた。
フラーケはそれを睨みつけたままゆっくりと小銃を持ち上げ、照門の中に見出した。

轟音と共に飛んできた一発が、装置の天板に張り付くようにして掩蔽していた男の背中を掠めた。

「おい、アレキシ!まだソマヴィラの下で働いてんのか!?」

怒鳴り声に混じって飛んできた二発目が、彼の足元の床に大きな穴を穿った。
アレキシと名を呼ばれた男はしばらく死んだように動かなかったが、やがて顔を上げると大きく息を吸った。

「そうだ!・・・息子は、ラルフは元気か!?」

そして彼もまた貨物室の奥へ向け怒鳴り返した。
妙に長い沈黙が続いた。
時間にして十五秒程、ただレリィグの無数の歩肢が連続して砂を踏む音だけが小さく響き渡っていた。
しかし、空間を包む合金が立てる例の不快な音が一瞬だけ響いた時、対物小銃の重苦しい発砲音が再び轟き始めた。
半自動銃とは思えない凄まじい発射間隔で撃ちだされた無数の弾が、発電装置の外郭を打ち鳴らしていった。
最後の一発が跳ね上がり、天井でしぶとく輝いていたガス灯を粉砕した。

「お前が・・・、お前が殺したんだろうが!この尻穴野郎!」

無数の硝子の破片が床に落ちる音をすっかり掻き消すように、先程までとは比べ物にならないエネルギーを伴った叫び声が空間に響き渡った。
アレキシは数秒ほど目を見開いたまま動かなかったが、やがて疑念と苦悩にその継ぎ接ぎだらけの顔を歪ませた。

「・・・馬鹿な!」

二十年前の十月、真夜中の帝都での情景が昨日の事のようにアレキシの脳裏に浮かぶ。
技術省の所有する中では最も南にあった産業塔、その第一発着場。
浮上したグランヴィナスの操縦席から短機関銃をこちらに向ける黒髪の男。
アレキシ自身はその戦闘機の左翼の端にある生体機関に小銃の照星を重ね、引鉄を引いた。
しかし、それは何事もなかったかのように機首を回すと、やがて下界へと飛び去って行った。

「俺が撃ったのはエンジンだ。あの子を殺す気は・・・」

「その中にいたんだよ!隠れてたんだ!」

アレキシの弱々しい声は、フラーケの絶叫に遮られた。

「・・・リヴィスに着くまで、あいつは機関の動脈を繋いでてくれたんだ。鉄板をめくって引っ張り出したら、すぐに冷たくなっちまった」

途轍もない後悔と自責の念に精神を押し潰されそうになりながらも、アレキシはただ身を屈めたまま貨物室の奥から届く言葉を噛み締めていた。
自らをおじさんと呼ぶ、その年の夏にはフラーケの代わりに帝都博覧会に連れて行ってやった少年。
各省庁が粋を極めて展示する新型の生体機械やオブジェには目もくれず、ただ道化師の連れたクルカと戯れていた、その日七歳になったばかりの同僚の息子。

「さっさとツラ出せ、糞野郎。目ン玉ならぶちぬけるだろ」

囁くように流れてきたその声に従い、彼は危うくその体を発電装置の陰から出そうとした。
途端に、自分の中のもう一つの何かに行動を押し戻される。
それは強烈なまでの拘束力を以て、再び彼の精神を手中に収めた。

妙齢の黒衣の女が、目の前で微笑んでいた。
煙草を咥えた彼女の口から濃い紫煙が吐き出されるのを、彼自身はただ興味深そうに見上げている。
人工肺との適合に成功したばかりの幼い彼の小さな喉仏を見つめると、女はやがて彼の首筋を軽く撫でた。
その灰緑色の瞳は暖かな慈愛に輝いていた。
彼女からの称賛と承認を得ることこそ、自らの主たる行動原理。

天井から何か小さな連続した物音が響いていることにアレキシは気付いた。
すかさずその源の予測位置に散弾銃の銃口を向けた。

響き渡った発砲音に一瞬だけ身を強張らせたが、フラーケはその標的が自分ではないことに気付いた。
敵の頭上の天井に、無数の弾痕が穿たれていく。

「・・・何やってんだ、あの馬鹿!」

フラーケは苦々し気に呟くと、再び小銃の銃床に頬を付け、引鉄を引いた。
しかし撃針は何も打つことはなく、小さな虚しい金属音だけがその機関部で響いた。
名状し難い形相で小銃の排莢口を睨みつけると、彼はそれを脇に放った。
そして未だ散弾銃の発砲音が轟き続ける空間の奥へ向け、勢いよく駆け出した。

アレキシは弾倉を迅速に交換すると、再び頭上に銃を向けた。
無数の弾痕からは一滴の血も流れてこない。
彼はより後方、配管の少なくなった辺りの天井に目を向けた。
そして銃口をそこへ向け直そうと右腕に力を込めた時、散弾銃の銃身が蹴り飛ばされた。
眼前に、見覚えのない髭面が姿を現した。
しかし、その青い澄んだ瞳と尖った鷲鼻は確かに過去の記憶を思い起こさせた。

「相変わらず不細工な野郎だ」

フラーケは言い放つと、右手で散弾銃の銃身を抑え込んだまま、アレキシの喉元のチューブを左手で掴んだ。
そして渾身の力を込めて、それを下に引いた。
肘のアクチュエータは予備の一本しか機能していなかったが、そのシリンダが割れると同時に彼はそれを敵の喉から引き千切るのに成功した。
噴出した血がフラーケの顔に散る。
頬の肉を持ち上げて瞬時に目を細めると、人工声帯のピンク色の膜が穴の中で震えているのが見えた。

「叩き殺して、食ってやる!」

怒鳴り散らしながら、彼はアレキシの頬に右拳を叩き込んだ。
継ぎ接ぎだらけの面の皮の下で、相手の頬骨が確かに砕かれるのが、不快な衝撃として感じられた。
アレキシの大きな体が音を立てて床に転がる。
そして痙攣したまま動かなくなった相手の手から、フラーケは散弾銃を奪い取った。
首の傷口にその太い銃身の先を突っ込み、彼は引鉄を引こうとした。
しかし、それは予想よりもかなり遠い位置にあったため、人差し指はただ空を掻いただけだった。
いつだったか正確には分からないが、メデュラかどこかにいた時にアレキシの銃を借りた時のことが脳裏によぎった。
末端肥大症の気がある彼に合わせて調整された引鉄に指を掛けるため、フラーケが握把を握り変えた時、相手は渾身の力を以て彼の脇腹に蹴りを入れた。
壁に叩きつけられ、崩れ落ちたその体に、アレキシは一瞬の間隙もなく詰め寄った。

転がるようにして身を捻ったフラーケの頭が一瞬前まであった所に、巨大な拳が突き込まれた。
それは油圧系統の細い配管を潰し、合金の壁に大きな穴を穿った。
フラーケが跳ね起きの要領で素早く体を起こした時、引き抜かれたその拳がしっかりと見えた。
革手が裂けた所から、金属の中手骨が鈍く輝いているのが分かった。

「どいつもこいつも化け物みたいに・・・」

苦々し気に呟きながら身を屈めたフラーケの頭上で、手と同様に巨大な足を包む半長靴の爪先が空を切った。
彼は半ば見上げるような形で、相手の無表情な顔を睨んだ。
幾ら強靭な太腿のアクチュエータであっても、その質量を元の然るべき所に戻すには相応の遅れが生じる。
アレキシが体を捻って左脚を引く間隙を突き、彼は脇に挟んだ散弾銃の銃口を相手の胸の高さに向けた。
途轍もない衝撃波とガスを伴って飛び出した九つの粒の全てが、右の胸筋を吹き飛ばすようにして着弾した。
装甲膜で防ぎ切れなかった幾つかが肺を破るのが分かったが、アレキシはそのエネルギーを利用して半身を後ろに回した。
鉛の粒が体を喰い破る痛みに歯を食いしばりながらも、目論見通りの位置に右腕が届くであろうことに、彼は僅かに口角を上げた。
そして腰をばねのように使って、今しがた溜め込んだ反動を右手に乗せて解放した。

突き込まれた相手の拳により、自らの胃が潰されるのを感じた。
視界が暗く狭窄し、気が遠くなる。
数歩分だけ後ずさったが、フラーケは転倒だけはしまいと必死に足を踏ん張った。
胃の中身を口と鼻から噴出させながら、彼は闘争心に任せて散弾銃の銃口を相手の腹に押し付けようとした。
しかし、例によって銃は既にどこかになくなっていた。

「すまない、相棒。大佐の為だ」

喉元の穴から漏れる空気のため、極めて不明瞭な声ではあったが、アレキシは言った。
そして今しがた自らに血と吐瀉物を吐きかけた相手の首を右手で掴んだ。
フラーケの体を床から僅かに持ち上げると、彼は先程まで自分が掩蔽に使っていた装置に向け投げつけた。
緩く回転しながら飛んだその体は、背中を打ち付ける形で仰向けに転がった。
側頭部が装置の表面にあった突起に激しくぶつかり、甲高く有機的な雑音が頭の中で響き渡った。
生暖かいものが耳のあたりから流れ出しているのがすぐに分かったが、意識を集中させるとそれは全身から溢れ出ているかのような錯覚となった。
焦点が定まらない視界の中で、フラーケは灰色の大きな人影がゆっくりと歩み寄ってくるのを呆然と眺めていた。

「そのケツの穴、焼いて塞いで・・・」

もはや何の意味のないその呟きに続く単語すらも考え付かなくなったとき、フラーケは相手の背後の壁に、確かに何か赤いものを見た。
当初は自らか相手の血だと思ったが、それにしてはその配管の奥の印は綺麗な逆三角形をしていた。
その上下からは同様に赤く、細い直線が天井と床に伸びているのが分かってきた。
やがて相手がこちらを覗き込みながら、いつの間にやら拾っていた散弾銃の銃口を自らの右足に向けたとき、フラーケは渾身の力を振り絞って息を吸い込んだ。

「ヴァディム!天井のボコッとしたとこを撃て!」

もはや横隔膜もうまく動かなかったが、彼はどうにか声を張り上げた。
アレキシは一瞬だけ視線を頭上に遣ったが、やがて彼の太腿を再び睨んだ。

「四肢はもいでいいと言われてる。まぁ、玉は・・・」

「『ボコッと』ってなんだ?」

フラーケはアレキシの言葉になど耳を貸してはいなかった。
ただ今しがた天井からうっすらと聞こえてきた間の抜けた無機質な声に対し、憤怒の極みともいわんばかりの猛烈なしかめっ面をした。
そしてもう一度だけ、痛む腹を堪えて息を吸った。

「突き出てるところがどっかにあるだろうがァッ!」

下から装甲を伝って響いてきた怒鳴り声を聞くと、ヴァディムは砂塵の中で自らの足元に目をやった。
確かに体節の装甲の隙間から、何か角の丸い三角錐のような突起が突き出ているのが見えた。
彼は20㎝程の高さの金属製のそれに右手の拳銃を押し付け、引鉄を引いた。

フラーケの叫びを耳にしてアレキシはしばらく呆然としていたが、突然その頭上で甲高い破裂音が響くと身を強張らせた。
慌てて銃口を再び持ち上げた彼をよそに、フラーケはその背後にある例の印を見つめていた。
そのすぐ脇にあった小さな電球が、赤く点滅する。

逆三角形を中心にして、誤作動を起こした爆砕ボルトによる莫大な力が壁を引き裂いた。
舞い上がった白煙と粉塵が辺りを満たす。
続いて、アレキシの股の間を境として床が割れた。
途轍もない振動が、空間の全てのものを揺らがせる。
バランスを崩した彼の腰のあたりを、横たわったままのフラーケが蹴り飛ばした。
その間も床の亀裂は広がり、いつの間にか割れた天井から陽光が差し込んだ。
アレキシの大きな体が床にうつ伏せに転がった時、反対側の壁が引き裂かれる爆音が轟いた。
途端にレリィグの車体は完全に分断され、後部がどんどん離れていく。
体節がキャビンを内包する車体構造が、断面としてよく確認できた。

粉塵の中、必死に立ち上がろうとしたアレキシの顔に、フラーケは再び蹴りを入れた。
完全に重心を失った彼の重い身体が、隙間から見えてきた砂漠に吸い込まれそうになる。
アレキシは千切れかけた床材を右手で懸命に掴み、その身を宙にぶら下げた。

「ババァに伝えろ。俺はもうお前の玩具じゃねぇってな」

すぐそこで砂を蹴る無数の歩肢の駆動音に掻き消されながらも、フラーケは強い意志を伴った明瞭な声で言った。
そして自らは落下することのないよう慎重にその身を起こすと、彼は床材の端を掴むアレキシの四本の指を踏みつけ、靴底の糞でも除くかのように足を摺った。
やがて、引き千切られたレリィグの後部の歩肢に何か硬いものが潰される鈍い音が微かに聞こえた。

フラーケは標的が消えたことを確認するべく、何度も念入りに床の下を覗き込んだ。
そして確かにそれがいないことを認めると、彼は踵を返した。
切り離された後部が30m程離れたとき、いきなり猛烈な衝撃を伴って爆轟した瞬間には危うく前のめりに転びそうになった。
振り返ると、上部をすっかり失って、脚部と僅かに残った体節だけになった後部が、黒煙の中でゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。

「ざまぁ見やがれ、ろくでなしめ」

そして擦れた声で呟くと、フラーケは床に転がったまま残っていた散弾銃を拾い上げ、後ろに放り投げた。
砂漠に吸い込まれていったそれが地を転がり、弾倉が機関部から弾け飛んだ時には、砂塵はいくらか収まり始めていた。


その空間は重巡の艦底近く、巨大な循環器と分厚い壁を一枚挟んだところにあった。
営倉と呼ぶには余りにも広く、また乱雑としている。
緑色の難燃材で塗りたくられた床の上に、無数の情報用紙が散乱していた。
それらは、すぐそこにある生体機械の鼓動に同調するようにして震えていた。
机や寝台といった本来あるべきものはなく、ただその5m四方ほどの空間の真ん中には粗末な木製の椅子が置かれており、それに身をうずめるようにして若い男が座っていた。
アーキル陸軍において、将校が好んで制服の下に身につける灰色のシャツに、銀縁の分厚い眼鏡。
鼻は不自然な角度に曲がり、左の頬は内出血を伴った痛々しい腫れ方をしていた。

「・・・奴は北に向かっているそうです」

部屋の中に、アーキル語による女の呟き声が小さく響いた。
男に向かい合うようにして、その黒衣の女は壁に背中を預けて立っていた。
左手でゆっくりと燃える煙草は今朝の白いもの、アレキシに投げつけたバケツに吸い殻として詰まっていたものではなく、茶色い紙で巻かれた太いものだった。
やがて彼女は紫煙を口から漏らしながら、椅子に手足を拘束されたままの男に歩み寄った。

「あなたもそろそろ帰りたいでしょう、マクラル技術中尉?」

そして彼の震える肩に手を置き、その耳元で囁くように言った。

「・・・あんたらの目的がわからない」

薄っすらと微笑みを浮かべたままの女の顔を見上げ、男は掠れた声を喉から絞り出した。
その口の端からは赤黒い血が筋となって流れ出していた。

「双頭協定。・・・危なっかしい化け物を相手にするには南北の違いも糞もない、そうでしょう?」

女はゆっりと囁くと、男の短髪の下にある右耳をべろりと舐り始めた。
途端に、先程までとは比較にならない激しさで彼の身体は震え始め、椅子の脚が床材とぶつかりガタガタと音を立てた。

「・・・ソマヴィラ大佐!俺の部下を皆殺しにしたのも腐れ協約の一部だってのか、あァ!?」

男はその長い舌から逃れるために、必死に身を捩りながら喚いた。
やがてその眼鏡の下の小さな目から涙が溢れ出した。

二週間前にカノッサ湿地帯東部、ティアルゴの村に不時着したアーキル遺跡発掘局の実働部隊、通称パンドーラ隊の揚陸艇。
その積荷に関する情報を引き出すために生かしておいた、小隊唯一の生き残り。

カティア・ソマヴィラはしばらくじっとその男の泣きっ面を眺めていたが、やがて踵を返して再び壁際に歩み寄った。
そして大きな革袋を拾い上げると、口を結んでいた紐を緩めた。

「ほら、レムス。ろくでなしに挨拶を」

袋を男の方に向け、彼女は帝国語で言った。
中には小さな双眸の輝きが見える。

「おい。・・・何する気だ」

男は呼吸に肩を上下させながらソマヴィラを睨みつけた。

「こいつはこの間死んだ私のクルカの仔でしてね。ロムルスの子レムス、いい響きでしょう?」

やがて袋から床に飛び出したその生き物の体格は、並のクルカのそれよりもかなり小さかった。
何より目を引いたのは、紫色の縞模様で覆われた赤黒い皮膚だった。
それは両腕でゆっくりと床を這い、男の長靴の臭いを嗅ぎ始めた。
結束帯で手足を椅子に縛り付けられたままの身体を震わせながら、男は足元のクルカとソマヴィラの顔を交互に睨みつけた。

「所謂未熟児という奴で、生かしてやるには少し手を加える必要がありました」

ソマヴィラはいつのまにか燃え尽きかけていた煙草をバケツに突っ込みながら言った。

「クルカというのは面白い。少し弄るだけでとんでもない毒性を身につけました」

そして彼女が胸ポケットから真新しい煙草の箱を取り出した途端、クルカは男の右太腿に下から噛みついた。
金切り声でアーキル語の罵声を吐き散らしはじめた彼をよそに、その顎は男の半腱様筋に喰らい付いて離さなかった。

「この売女がァッ!やめさせろ!」

ソマヴィラは口元をニヤつかせたまま動こうとしなかった。
数十秒後、やがて男の怒鳴り声にその母親に助けを請う文言が混じり始めると、クルカは満足したかのように太腿から顎を放した。
床の革袋の中にそれが自ら戻っていった時には、男はもう何も喚いてはおらず、ただ涙と鼻水、そして口から流れ出た血に塗れた顔をヒクつかせていた。

「これを見てください」

やがてソマヴィラの声が再び部屋に響いても、男はしばらく呆然とその焦点の定まらない目で宙を見つめていた。

「見ろ」

簡潔で威圧的な単語が聞こえてようやく、男はソマヴィラの方に目を向けた。
彼女の右手に小さなガラス管のようなものが握られているのを認めると、男の瞳に何か明確な感情による光が戻った。

「それは・・・」

「血清です」

掠れ切った声で尋ねる彼に、ソマヴィラは短く答えた。

「ここから先はあなたの身の振り方次第です、中尉。」

やがて男に歩み寄ると、彼女はその注射器で彼の額を軽く叩いた。
渾身の力を込めてそれに手を伸ばそうとする男であったが、右腕を締め付ける結束帯はその努力を嘲笑うかのように小刻みに軋むだけだった。

「ほッ・・・、本当に何も知らないんだよ!」

「そう・・・」

男が必死に連ねる文言に、ソマヴィラはただ微笑を湛えながら相槌を打つだけだった。

「ウルで嫁さんが待ってんだ!頼む!」

「それで?」

ソマヴィラは男の顔の前で注射器を揺らし始めた。
意味のないやり取りはその後二分程も続いたが、やがて男は彼女の顔をやぶにらみしたまま動かなくなった。

「・・・二月前、アナンサラドの南東のはずれにある遺跡で、俺らは『墓』って呼んでた」

やがて単語の前後の繋がりが区別できない程の早口で語り始めた。
ソマヴィラはただその貼り付けたような微笑を崩さぬまま聞いていた。

「もともと、やべぇ思想に染まった旧人どもが赤道にいたって話は聞いてた。ネクル列島やらから掘り出した記憶媒体をアレするうちに分ったらしい」

男は記憶の糸を辿るかのように、時折目を固く閉じながら続けた。

「人と変わらねぇナリの化け物なんざ、俺は初めて見た。ありゃ地下五階か六階か、そのあたりで壁にめり込むようにして休眠してたんだ。学者連中が言うにゃ、あれはそいつらの使う玩具の兵隊だとさ。」

「・・・その『思想』というのは?」

やがて男が次の文言を連ねるまでの数秒程の間隙に、ソマヴィラは尋ねた。

「そりゃ知らねぇよ!遺伝基を弄りまわすような連中の考えることはあんたらしか理解できねぇだろうよ!」

男の怒鳴り声に対し、ソマヴィラは今度は何らかの実感を伴った、本当の微笑を湛えた。
そして彼に話を続けるよう右手を小さく振って促した。

「・・・とにかく、ありゃさっさとラオデギアに持って帰ってバラすべきだったんだ。あんたらに襲われる前にな」

語り終えた男がゆっくりと震える息を吐くと、ソマヴィラは左手の煙草を口で咥え、帯革から吊った短剣を抜いた。
右手を捕える二本の結束帯をその白い刃が千切るや否や、男は彼女の手から注射器を奪い取った。
恐慌に揺れる体を必死に落ち着かせながら、彼はその針の先を左の二の腕に、シャツの袖など見えていないかのように突き刺した。

シリンダの中の透明の液体がしっかりと男の腕の中に吸い込まれていったのを見ると、ソマヴィラは踵を返し、壁際のクルカの入った革袋を抱え上げた。

「・・・言っておくが、あれを飼いならすなんざできねぇぞ」

空になった注射器を床に力なく落とし、男は彼女の背中を睨んで言った。
顔から垂れたあらゆる液体が、灰色のシャツを凄まじい色合いに変えていた。

「あんな欠陥品に用はありません。私の目当ては奴の連れです」

ソマヴィラは男の方を見ることもなく答えた。
そして左腕で革袋を抱え、右手にバケツの取っ手を握って重い鉄の扉の方へと歩いていった。
ノブに手を掛けようとしたところで、彼女は思い出したかのように男の方に体を向けた。

「・・・それと、どうやら私の思い違いだったらしく、レムスは無毒でした」

そして愛おし気に革袋をさすりながら言った。
途端に男の表情が疑念と焦燥に歪む。

「おい、じゃあ・・・」

男は足元で割れた注射器を睨みつけた。

「リューリア産の炭酸水です。じきに心臓に回るでしょう」

ソマヴィラは再び扉に視線を戻し、ノブを回した。

「おい!待てや売女ァ!」

鉄の扉が閉じられる重苦しい音を掻き消すように、男は喚き散らした。
次第にそれは何の意味も成さない絶叫に変わる。
7㎝ほどの厚みの扉の向こうから自らの歩く通路に響き渡るそれを心から楽しむかのように、ソマヴィラは目を細めた。


日はすっかり西の山麓に沈んでしまっていた。
爆砕ボルトにより神経をやられたのか、三分の二程の長さになったレリィグの後部の歩肢はそれぞれを引き摺るような不自然な動きをしていた。
それでもゆっくりとした巡航速度は安定しており、真っ直ぐに航路を辿っている。
断面からは、貨物室の内部で横倒しになった発電装置を必死に応急修理する若い男たちの姿が見えた。

フラーケは操舵室でその身を床に横たえていた。
不健康に痩せこけてはいたが、元々の骨格がしっかりとしているのか、年の割には強靭そうな上半身を仰向けに晒している。
右肩や腹、そして左肘には傷口を塞ぐための治癒促進剤の塊が雑に塗り込まれており、血塗れの外套やシャツは傍に打ち捨てるようにして投げ散らかされていた。

「やってくれたね、糞ジジィ」

宗教絵画のように血色の悪い、死人のような髭面を見下ろしながら、カルラは言い放った。
そして目を閉じたまま動こうとしない彼の頭を半長靴の爪先で小突いた。
やがて、その疲れた顔にうっすらと生気が戻ってきた。

「・・・切り離したのは確かに俺らだが、その後で尾部が吹っ飛んだのは知らん」

呼吸の度に横隔膜を痛々しく震わせながら、フラーケはぼそぼそと答えた。

「あの蓄電池は衝撃に弱いんだよ。大方、あんたの友達が爆弾に乗って突っ込んできたせいさ。」

カルラは屈み、今度は彼の長い髭を憎々し気に引っ張りながら言った。

「ありゃ友達じゃねぇ。オコジョの糞以下の下衆野郎だ」

髭が数本千切られた痛みを、首をもたげてきたアレキシへの憎悪に変換し、フラーケはカルラの顔を睨み返した。

「あんたらの身の上なんてどうだっていいんだよ。客にゃなんて言えばいいんだい。本国の特務部隊に襲われたなんて説明すれば、あたしら商売上がったりだ」

カルラは怒鳴るとまでは言わずとも怒りに満ちた声で言うと、操舵手の男の横顔を一瞥した。
彼はただ黙って、硝子の向こうで暗闇に飲まれつつある砂漠を睨みつけていた。

「・・・俺が何とかナシをつけてみるよ」

短くも重々しい沈黙を破り、横たわったままのフラーケが掠れた声で言った。
カルラは、当初は彼の言わんとすることを汲み取れないといった風に口を開けたままだった。
やがて何かを思案するかのように眉間を掻くと、机の上にあった錠剤の瓶を彼の腹に投げつけた。

「少ししたらそれ飲んで上に行きな。見張りがあの白いの一人じゃ心配だし」

そして自らは機関室へと続く扉を開き、足早に去っていった。

「おやっさん、すまねぇな」

その軽い足音が聞こえなくなってしばらくしてから、フラーケは操舵手の横顔に言ったが、彼はただ前方を見つめているだけだった。
しかし、フラーケがその身を床から起こそうとして必死に体を捩り始めたのを知ると、彼は顔を硝子に向けたまま、左手を差し出した。

「・・・ありがとよ」

フラーケは操舵手の腕に体重の一部を預け、まずは背中をゆっくりと床から剥がした。
そして強烈な眩暈を堪えながら立ち上がった。
その時、彼は男の下顎に大きな傷跡があるのを認めたが、それに関しては何も言うこともなく先程受け取った錠剤を何粒か口に放り込んだ。


五感に何か濃い霞がかかり、彼の知覚は混濁していた。
イコライザで低域を馬鹿みたいに上げたようなくぐもった喧騒の中で、視界を完全に占める黄土色の壁。
その表面には判読できない程に擦れた文字列がびっしりとあり、男はただそれを懸命に頭の中で解析していた。

「立て、ヒッタヴァイネン!」

大声と共に、眼前に転がっていた積層紙の大きな箱が蹴飛ばされた。
男はしばらく身を横たえたまま、道の反対側へと転がっていく保存食の空箱を目で追っていたが、やがて傍らでこちらを見下ろす老紳士へと顔を向けた。
すっかりその輝きを弱々しくした人工太陽を後光として、細かい裂傷の群れに覆われた顔があった。
髭の一部は血に染まり、瞳は辛うじて本来の穏やかな調子を残してはいたものの、滲み出る焦燥感に揺れていた。
礼服のジャケットの上から防弾ベストを雑に身につけたその装いは、彼らを取り巻くこの状況の異質さを男に思い起こさせる。
途端に、彼は心臓が握り潰されるかのような感覚に襲われた。

「教授・・・!?」

左手を石の路面につき、必死に身を起こした。
それからどれほど経ったかは定かではないが、恐らく先程の雑踏の中で転倒したのであろう、後頭部に鈍い痛みが走っていた。
辺りには彼と同様に倒れたままの数人の姿だけが見え、群衆は既に消えていた。
つい数刻前まで自らがいた行政区の方からは、パルス小銃の特徴的な発砲音が散発的に届いてくる。
脚をふらつかせた彼の肩を、老紳士が支えた。

「行くんだ。もう時間がない」

言葉と共に自らの胸に押し付けられた図嚢を両手で受け取りながら、男は相手の顔を見つめた。

「あなたはどうされるのですか・・・?」

通りの先、発着場を指差したままの老紳士に対し、彼は込み上げる感情を押し殺しながら呟くように尋ねた。
腕に応える重量からは、相当な数の記録が図嚢の中にあることが感じられたが、それでもこの十年の研究の全てを持ち出すには絶対に足りない。
パウークなる電子通信網は、既に内包していた膨大な情報もろとも消滅していた。
もはや研究の完成が自分の記憶の信頼性と正確性に懸かっていることに彼が朧気ながらも気付いた時、行政区の真ん中から巨大な火柱が上がるのが見えた。
数秒遅れて、重苦しい破裂音が彼らの鼓膜を破らんばかりに震わせた。
かつてタルヴィキ市の華と称えられたフムバラシル記念塔が、2㎞程向こうでその150mの体を粉塵と共に崩れさせるのが見えた。

「・・・研究所にはまだ被検体が残ってる。私のミスだ」

内臓を震わせる轟音に掻き消されそうになりながらも、その自責の念に震える老紳士の呟きは男の耳に届いた。

「連中に我々のやってる事はわかりませんよ!・・・早く船に!」

自らの足下を睨んだまま動かない彼の腕を掴み、男は通りを東に駆けだそうとした。
いつの間にかその手は振りほどかれており、老紳士をそこに残したままであることに彼が気付いた時、男は既に20mほど駆けた後だった。

「何をしてるんですか!?」

男は足を止め、後ろに怒鳴った。
立ちすくむ老紳士の向こうに上がる黒煙は、さながら巨大な壁のように分厚かった。

「神にも等しい力だ。然るべきものの手になければ、アレは・・・」

「早く!」

研究室の中であるべき、その場に似つかわしくない調子で語り始めた彼の言葉を男は遮った。
石の路面が重いものに打ち鳴らされる鈍い音が次第に大きくなりつつあった。
通りの200mほど向こう、煙の壁を超えて何か大きなものが姿を現した。
無数の攻撃肢に支えられた巨大な甲殻類のような体をこちらに向けたまま、それはゆっくりと此方へ歩みを進めてくる。

「行け、ヒッタヴァイネン。お前が終わらせるんだ」

決して大声を上げていたわけではないものの、老紳士は大きなエネルギーを伴った明瞭な声色で言った。
そして男に背を向けると、右手で握っていた杖を脇に放った。

「教授!」

肺の中の空気をいっぺんに叩き出すような調子で、男は恩師の背中に怒鳴った。
多脚戦車が、その茸の傘のような形の砲塔をこちらに向けるのが見えた。


「・・・案の定、眠り被ってやがったな」

後頭部を叩かれる小さな衝撃と共に、掠れた呟き声が聞こえた。
ヴァディムはゆっくりと振り向くと、その不健康な声の主の顔を見た。
いつの間にかレリィグは停止していたようであり、周囲には先程までの砂ではなく丈の低い草で覆われた大地が広がっているのが分った。
頭上の二つの三日月には一切の雲も掛かってはいなかった。
後ろからこちらを見下ろすフラーケの腕には、大きな金属製の缶が二つ抱えられていた。

「体の修復が追い付いていなかった。許してくれ」

ヴァディムは胡坐をかいた姿勢のまま彼に体を向けると、微塵の謝意も感じられない無機質な声で言った。

「まぁ、俺はどうでもいいよ。・・・ほれ」

缶の一つをヴァディムの腿の上に投げて寄越すと、フラーケは彼の傍らに同様に胡坐をかいて座り込んだ。
そして自分の缶の側面にテープで留められていた粗末な匙を剥がし、外套の裾で拭った。

「糞みたいな塩梅でも、腹は減るもんだ」

いつの間に手に入れたのであろうか、弾帯から吊った銃剣を鞘から抜きながら呟いたフラーケの手の動きを、ヴァディムは目で追っていた。

「どうやって食べるんだ?」

そして猜疑心と好奇心の混沌といった表情で尋ねた。
合金の缶に入った食べ物など、彼はこれまで見たこともなかった。

「まぁ見てろ」

疲れた顔で溜息交じりに呟きながら、フラーケは銃剣の切先を缶の縁に当てた。
そのまま柄を義手の拳で叩きながら器用に開けていく。
やがて跳ね上げられた蓋の下から、人造肉を豆と煮込んだものが見えた。
帝国陸軍の二線級の部隊で支給される、一昔前の型の携行食である。

「・・・学者ってのが『やっせんぼ』なのは、どこの世界でも同じらしいな」

缶の縁を爪で引掻き始めたヴァディムの手からそれを奪うと、フラーケは彼の分も開缶してやった。
雑に湯煎されただけではあったが、辺りの荒涼とした空気には芳ばしい匂いが広がった。

「そんで、お前は本当は何なんだ?」

調味液の沁み込んだ肉の塊を噛みながら、フラーケは尋ねた。
匙の上の豆を興味深そうに見つめていたヴァディムであったが、その呟きに気付くと視線を声の主に向けた。

「タルヴィキ・ヴィエナの研究者だ」

「そりゃ何百回も聞いた。俺が知りたいのは、お前が人間なのかってことだよ」

簡潔に答えたヴァディムを見遣りもせずに、フラーケは更に質問を重ねた。

「体は代替品だが、個性も人格も移されている」

「そうかい。・・・何であのババァに追い回されてる?」

豆に混じって僅かに煮込まれていた根菜の切れ端を匙で掬い、フラーケは弾くようにしてそれをレリィグの装甲に落とした。

「目を覚ました時、私は彼らの船の中にいた。解析される前に逃げ出した」

「・・・何でもかんでもバラそうとする癖は治ってねぇらしいな」

咀嚼した肉を飲み込む音を喉から立てると、フラーケは呟いた。
そして中身が半分ほどになった缶を傍らに置くと、彼はヴァディムの顔をしっかりと見据えた。

「お前が旧人か原人だってことは分かった。・・・今更何がしたいんだ?」

そして疑念の中に警戒心と若干の敵愾心を思わせる、死の縁を幾度も経験した者にしかない声色で尋ねた。
ヴァディムは舌の上でペースト状になった肉を覗かせながら、ただ口を開けて聞いていたが、やがてその貼り付けた仮面のような顔を何らかの感情に曇らせた。

「・・・管理と改変こそがヒトを本来の形に保つ。我々は世界をあるべき姿にしたかった」

言い訳でもするような、どこか後ろめたさを感じさせる調子で、彼はぼそぼそと言った。

「わけの分からん事をウダウダ言うな。・・・具体的に言え。お前はこれからどこに行き、何をするんだ?」

うなだれるようにして長い前髪の向こうに顔を隠した彼の喉元を、フラーケは睨んだ。

「・・・まずは、ただ確かめたい。あれから何千年も経ってヒトが、世界がどう変わったのか」

ヴァディムが答え終わらんとした時、フラーケの背後で何か水の入ったバケツをひっくり返したような音がした。
慌てて二人がそちらを見ると、いつの間にか操舵室から上ってきていたクルカが、今しがたぶちまけた自らの吐瀉物を見つめていた。
恐らくは先程フラーケが捨てた根菜を口にした結果であろう、彼は気の毒そうにそれの頭を撫でた。

「『ついてくる』ってのはそういう訳か。・・・俺が思うに、人間はそう変わっちゃいねぇぞ」

フラーケは視線をクルカに向けたまま、独りごちるように呟いた。
やがて、後ろの方からカルラが男たちを怒鳴りつける声が流れてきた。

「・・・明日はちと面倒なことになる。お前は下で休め」

相手の持つ缶が空になっていることを見ると、フラーケは言った。
そして傍らで二脚を立てていた小銃に手を伸ばした。
ヴァディムはやがてゆっくりと立ち上がり、突っかけの底が天井を踏む間抜けで軽い音を立てながら開口部へと歩み寄った。
しかし、下へ続く粗末な梯子に足を掛けようとしたところで、彼はフラーケの背中をしっかりと見据えた。

「あなたは、何が人を人たらしめていると思う?」

そして質問よりもむしろ何かへの懇願に近い、必死さと切実さを僅かに伴った声で尋ねた。

「・・・そりゃ簡単だ。欲だよ、欲。お前だってそうだろ?」

汚れた外套の背を見せたまま、フラーケは答えた。

開口部の重い蓋が閉じられる音を聞くと、フラーケはいつの間にか咥えていた煙草に火を点けた。
そして抱えた小銃から弾倉を外し、ゆっくりと槓桿を引いて薬室の弾を取り出した。

「糞が・・・」

前歯で噛んだ煙草の先を揺らしながら、彼は呟いた。
背中を天井に横たえると、三日月の左下の大きな星が、青白く輝いているのが目に入った。
やがて小銃の銃床を肩に当て、照星の頭をその点に重ねた。
引鉄を引くと、撃鉄が撃針の尻を叩く小さな金属音が辺りに響いた。
煙草から熱い灰が首に落ちるのにも構わず、彼はただ星をやぶにらみしながら銃を夜空に向けていた。



「・・・冗談でしょ?」

初めてその娼館に足を運んだのは二十歳を過ぎた頃だった。
フラーケ自身が物心ついて直ぐに死んだ父は、その店の常連であったという。
禍々しい形をした初期型の義肢を身につけたそのけったいな体に比して、下腹部についていたものは余りにも貧相な大きさをしていた。
アルベルタと名乗ったその女は、それを見てただ苦笑しながら呟いた。

「うるせぇよ。調子が乗らねぇだけだ」

目を伏せながらぼそぼそと言った彼を見て、女が喉の奥で笑いを噛み殺しているのが分かった。

技術省の三つの収集小隊が「特殊作戦群」として陸上総隊の隷下に移ってから、仕事の中身はがらりと変わった。
それまでは義肢や義眼と言った生体技術のノウハウ収集のために前線をころころと回されるだけであった、穴掘りと戦闘以外に何も知らない男たち。
それがいきなり貴族共の政争の道具とされては、ギャップのもたらす精神的な負担はとんでもないものとなる。
まともな学もない連中であっても、それなりの倫理観は生きる上で身についていた。
時には五つにも満たない子供を含めた標的を次々と殺めねばならぬとなっては、隊の中に病的な何かが湧かない訳がなかった。

ソマヴィラは何も気にしているようには見えなかった。
自身もその部下であった彼の父の死後、フラーケを引き取り育てた女。
その目的も価値観も全く分からぬまま、ただ言われるがままに体を弄られた。
いつもの貼り付けたようなものではない、時折見せるその邪気の感じられない笑顔に魅せられながらも、フラーケは彼女の伴う何か根本的な違和感に早くから気付いていた。
皮肉を主たる原理とした棘だらけの言動に、思わせぶりな秘密主義。
巷で噂される省庁の官僚の気性そのままではあったが、その裏には誰にも見通せない黒い何かがあった。

それはまだ残暑の残る頃の夜だった。
ノイエラントの東端、バルテルス領にあるこじんまりとした邸宅に彼らは踏み込んだ。
シラフであれば躊躇ったことだろう。
しかし、薬で無理やり強化された知覚の中では、本棚の陰から飛び出したその少女に対し銃口を向けざるを得なかった。
発砲炎で一瞬だけ眩んだ視界が晴れた時、眼前で倒れていたのは三十路ほどの痩せた女だった。
娘を侵入者から庇うため、寝室から扉を突き破るようにして現れたのだろう。
うつ伏せのその背中を覆うカーディガンには三発分の弾痕が綺麗に空いており、やがてその体は血の海に浮かぶような様になった。
その後ろでピンク色のクルカのぬいぐるみを抱えたまま立ちすくんでいた少女は、その後すぐにアレキシかボロディン、同じ分隊のどちらかの奴の放った散弾に小さな体を吹き飛ばされた。
フラーケはただ小銃の先を下に向け、呆然と様子を眺めていることしか出来なかった。

「よくやった」

ソマヴィラは図板を眺めながら、ただ一言そう言った。
口の煙草から流れてきた煙が、妙に辛かった。
そして報告に来たフラーケに数枚の札を渡すと、追い払うかのように右手を振った。

部屋に案内されて寝台に座るなり、彼は泣き崩れた。
それまで三回ほどしか顔を合わせていない女の前ではあったが、外套を濡らす涙を止めることが出来なかった。
腹に力を入れても、頬の内側を噛み締めても、それは両目から溢れ出してくる。
アルベルタは当初はただ面食らったかのように彼を眺めるだけだったが、やがてその震える肩に小さな手を置いた。

「人間なんだから、泣くときは泣かないと」

そして諭すような、穏やかで明瞭な声で言った。

息子が生まれた事を伝えると、ソマヴィラは思ってもみなかった返事をした。

「おめでとう。何か要るものはあるか?」

煙草を咥えたままではあったが、それは明るい生気に満ちた、紛れもない人間の声色だった。
フラーケは面食らいながらも、丁重にその申し出の数々を断った。
しかし、駐屯地に近い中流階級向けの住宅の提供だけは受け入れた。
それからは、心なしか仕事も以前ほど凄惨なものではなくなったように感じた。
相変わらず国中を飛び回る必要はあったが、週に何度かはラルフと名付けた息子の顔を見るだけの時間と精神はしっかりと保つことができた。

「フラーケは唐変木の尻穴野郎だよ」

息子は五つになった頃から、口癖のようにこう言うようになった。
時折家にやってくるアレキシに対してはおじさんと呼ぶくせに自らを名で表すことに対し、フラーケは幾度も窘めた。
しかし、恐らくは凄まじく気の強い母親に似たのであろう、聞き入れることはなかった。

妻が台所の床下に隠した無電を相手に、時折アーキル語の暗号を話していたことをフラーケは知っていた。
しかし、それに気づいた素振りを彼女に見せることは決してなかった。
夕餉の時に戦局の話になると、強引にでも話題を変えることに努めた。
これでいいと心のどこかで確信していた。
ようやく手に入れた人並みの幸福を守り通す自信が、彼にはあった。

思考の片隅では必死に危険を喚起する自分がいたのも分かっていた。
それに耳を傾けるべきであったと知ったのは、息子が七つになって三カ月ほど経ってからだった。

「・・・潮時だな」

隊本部の当直室前の廊下。
扉の向こうから、ソマヴィラの声が伝わってきた。
彼女が電話の受話器を置いた音を聞くと、フラーケは扉を軽く叩いた。
何度やっても返事がないため、彼はやがてゆっくりとノブを引いた。
部屋の中を覗き込もうとした彼の目に映ったのは、極めて不穏なものだった。
眼前30㎝の距離で、その女は自分の胸に短機関銃の銃口を突きつけていた。

「すまんな」

一つの単語であってすらも、まともに呟ききらない内にソマヴィラが引鉄を引くのをフラーケは何度も見ていた。
それでも、必死に身を捻ってその小さな銃口から逃れようとした。
続けざまに放たれた二発の内の一発が、肺を抜けて肝臓のあたりを食い破るのが分かった。
鈍い波を伴った名状し難い不快感に歯を食い縛りながら、フラーケは左手で銃身を掴んだ。
そして、空いた右手で目の前の女の顔を殴りつけようとした。
しかしながら、突き出された拳に込められた力は拍子抜けするほど弱いものだった。
下手をすれば、息子の頭に喰らわせる拳骨の方がマシだったかもしれない。

今しがたの出来事に対し、二人はただ面食らったかのように顔を見合わせていたが、先に状況を掌握したのは結局ソマヴィラの方だった。
やがて、口元にいつもの笑みを浮かべながら呟いた。

「いい子だ」

フラーケは、自分の顔面から血の気が引くのを確かに感じた。
次にどう動くのが正解であるのか、もはや分からなかった。
しかし、ソマヴィラが何かを叫ぶために大きく空気を吸い込んだのを見て取ると、彼の左手は思考よりも先に動いていた。
銃身に再び力を込め、ソマヴィラの手から短機関銃を奪い取った。

何よりもまず、フラーケはその場から逃れたかった。
銃の握把を右手に握ると、彼はすぐにソマヴィラに背を向けた。
矢のように駆け出した彼は、その背後でボロディン達を怒鳴り付ける彼女の声を聞いた。
それでも警衛に通達が行くよりも早く、彼は衛門を抜けることに成功した。

家は駐屯地から400m東、無数の公営住宅を内包する小高い産業塔の中にあった。
異変にはすぐに気付いた。
地上五階あたりの西に面した壁から、もうもうたる黒煙が上がっている。
群衆の中に立ち止まって必死に目を凝らすと、その源たる大穴の中に炎が見えた。
フラーケは外套の裾で銃を隠しながら、群衆を掻き分けて進んだ。
頭の中の恐怖が体の激痛と合わさり、心臓が病的なまでの圧力で血を循環させるのを感じた。
頭上では夕焼けが次第に闇に染まっていく。

やがて、人混みが切れた。
上から降り積もったのであろう瓦礫の中には、まだ端に火が付いたものもあった。
そのうちの一つ、栄養塊を供給していた太いパイプの切れ端に、子供が座っているのが見えた。
茶色い長い前髪の下、切れた頬から流れた血が、シャツに大きな染みを作っていた。

「・・・ラルフ」

その名を呟きながら、フラーケは息子に駆け寄った。
群衆の視線が一斉に二人を捉えるのにも構わず、彼はその目の前に屈んだ。

「逃げるぞ、今すぐだ。母さんはどこだ?」

そして畳みかけるように言った。
しかし、フラーケの腹に空いた弾痕を虚ろな目で見つめたまま、息子は何も答えようとはしない。
幼子が受け入れ切れる凄惨さというのは、たかが知れている。
その限度を遥かに超えた現場に居合わせた子供がどうなるか、フラーケはよく知っていた。
最悪な結果を、彼は心のどこかでとっくに掌握していた。
しかしながら、それは出来事を納得し受け入れる事とは違う。

「おい、何があった!?・・・あいつはどうした!」

妻の身に起こった事など、態々息子の肩を揺さぶらなくても知っている。
それでも、こうして怒鳴り散らさねば腹の中で思考を喰らう感情の塊を抑えきれなかった。

やがて自らの右前方50m、産業塔の大通用口が開き、そこから数名の男たちが出てくるのをフラーケは視界の隅に認めた。
その兵士達の装いは、彼にとってあまりにも慣れ親しんだものだった。

渦巻いていた絶望が、一瞬にして何か明確なものに叩き潰されるのを感じた。
溶岩のような熱を伴った、強烈なまでの闘争本能。
先頭の男と目を合わせるや否や、フラーケは銃を裾から振り抜いた。
そして向こうが小銃を肩に居銃するよりも早く引鉄を引いた。

閃光と煙の向こうで、前にいた二人がのけぞるのが見えた。

「殺してやる!」

発砲音に混じらせ怒声を飛ばしながら、フラーケはゆっくりと射線を左に移していった。
強化された頭蓋骨であろうとも、高初速の完全被甲弾をまともに喰らえば中の脳は激しく揺れる。
最後尾の小柄な男が身を後ろに倒す直前、その右手の拳銃の先がチカッと光った。
自らの左肩を掠めて飛んだ弾が、後ろにいた息子の足元で跳ねるのが聞こえた。

途端にフラーケは腹の中にある溶けた鉄が、水をかけられたかのように冷たく固まる感覚に襲われた。
論理的な思考が数分振りに首をもたげ、行動を支配する。
もはや弾倉が空になった銃を足元に捨て、彼は息子に駆け寄った。

「大丈夫か!?」

大声で呼びかけながら、フラーケはラルフの体を頭から下へと順に軽く叩いた。
頬の裂傷の他には、大きな傷はなかった。
ゆっくりと、息子の瞳に光が戻っていくのが分かった。
やがて彼は両目から涙を溢れさせながら、啜り泣きを始めた。

「・・・母さんは」

「黙ってろ。逃げるぞ」

擦れた声で呟いたラルフの言葉を、フラーケは遮った。
そして息子の小さな体を両手で抱え上げると、いつの間にか遠巻きに此方を見ていた群衆の向こうに開く路地に向け駆け出した。


そのグランヴィナスの照準器には、緩衝材は取り付けられていなかった。
闇の中、上からは見えていなかった大きな岩が右の着陸脚を砕いた衝撃で、彼の額はそれとぶつかった。
それでも、機体はどうにか横転することもなく草地の上に停止した。
頭の中で火花が散るような感覚に襲われながら、フラーケは両足を方向舵と固定するベルトから引き抜いた。
右目の上を触ると、骨の一部が確かに陥没しているのが分かった。
四時間以上の巡行の中頃で、昇降舵の挙動がおかしくなったため、浅知恵と勘でどうにか操縦していた彼は何度も墜落しかけた。
その疲労が体中の激痛と合わさり、シートベルトのバックルに手を掛けた時点でフラーケの意識は飛びそうになった。
それでもどうにか重い体を操縦席から引きずり出すと、這うようにして左翼の上を進んでいった。

そして生体機関の装甲の一部に手を掛けたところで、彼はただ愕然とした。
小銃弾によるものと思われる小さな弾痕が二つ、そこに空いていた。
両繊月のために極めて曖昧な視界の中で、彼は必死に整備用扉の取っ手を持ち上げた。
不時着の衝撃で歪んだのであろう、それはなかなか開こうとしない。
装甲から引き千切るようにして彼がようやくそれを取り除いた時、中にいた息子はもはや呻き声も漏らしてはいなかった。
シャツは真っ赤に染まり、その口からはごく少量の空気が吐き出される音がただ聞こえた。
フラーケはもはや何も言うことができなかった。
切れかけた機関の動脈の一本を握り締めるその小さな右手に、彼は自らの傷だらけのそれを重ねた。

「・・・母さんが、フラーケはカス袋だって」

蚊の鳴くような声で呟いたラルフの口から、血の筋が流れ出た。

「そうだよ、俺はカス袋だ。だから喋るな」

自身も人工声帯から絞り出すような擦れた声で、フラーケは言った。
そして息子の胴体のどこかにあるであろう傷口を、手探りで探し始めた。

「僕は、・・・フラーケは違うと思う」

息子の琥珀色の瞳は、もはや何も見てはいなかった。
ただ、夜空の星々が無数の白い点となって映し出されていた。
傷が背中にあることをようやくフラーケが知った時、息子の肺はもう何も吐き出してはいなかった。

自らの両目から一滴の涙も流れ出ないことを不思議に思いながら、彼はラルフの亡骸を抱え上げ、機関から出した。
そしてゆっくりと戦闘機の左翼にそれを横たえ、隣に腰を下ろした。

「何も違わねぇ。俺は屑の中の屑だ」

そして、うっすらと開いたままの息子の瞼を、右手で閉じてやった。
やがて、フラーケは背中を力なく翼に倒した。
ようやく分泌され始めた涙に、星空が滲んで見えた。
何かを考えると、前頭部が酷く痛んだ。
腹の中でくすぶる何かを必死に抑え込むうちに、やがて水面の波紋のように静かな余韻を伴いながら、その意識は闇に沈んだ。


瞼を開くと、目脂が剥がれるような音がした。
白み始めた東の空が、妙に鬱陶しかった。
厚い外套を着ていたとは言え、冷たく硬い装甲版の上に何時間も横になっているべきではなかった。
フラーケは呻き声を漏らしながら、鈍く痛む腰を大きく捻った。
やがて、体中の骨から轢音を響かせながら立ち上がった。
鎮痛剤の効果はとっくに切れていたが、腹の大きな傷はほぼ塞がっていたため問題はなかった。

「出発するよ、おっさん」

後ろからカルラの声が飛んできた。
多少は疲れていたものの、それはしっかりとしたエネルギーに満ちていた。

「あいよ、すぐ降りる」

振り返って答えたフラーケの横顔を、カルラは訝し気に見つめた。

「・・・あんたら、二人とも妙な夢でも見たの?」

そして僅かに困惑を伴いながらも、笑いを押し殺したような声で尋ねた。
泣き腫らした目をぎょろぎょろと回すと、フラーケはばつが悪そうに足元に視線を移した。
流れてきた風は、確かに草の根の臭いがした。
最終更新:2019年06月12日 20:32