開幕戦或いは契機

-パルエ歴628年1月20日ザイル砂漠西部-

快晴の青空を一機の飛行機が突き進んでいた。
その飛行機は、全体的に鏃を思わせるような細長さと滑らかな流線型のシルエットで何より浮遊機関動力機特有の碧色の発光部と回転するプロペラを両方持つ姿が特徴的であった。
この機体には当然ながらそれを駆る操縦士と偵察員の2人の飛行士が乗っていた。
「なぁグーリ、何か見つけられるか?」
「暇だからておっかないことを言うなよ。定期哨戒なんて何も見つからない方が平和なんだからさ」

彼ら2人の駆る機体の名は、"スパルナII"。
高性能ながら乗員を1名としたことは流石に運用側から不満を持たれた"スパルナ"を複座へと改めた偵察機である。
単座機を最低限の改修で複座機へと改めたことによるコクピットの狭隘さへの不満は有ったものの性能そのままに飛行士への負担が大幅に減じられたことは概ね運用側に歓迎される機体であった。

「……シェル、7時方向の下方に艦隊。空母みたいな奴も混ざってる。機体を傾けてくれ」
「空母を含む艦隊?分かった」

戦いが偶発的な要因により発生することは、古来より往々にしてよく有ることであり珍しいことではなかった。
戦闘経緯の詳細な記録が残される最初の戦いとなった伝説的存在の古代オデッタ帝国とパンノニア人の祖とされるリュリ族の決戦であるリルロイの戦い。
史家の中には、これもまた偶発的な両軍の遭遇により発生したと主張する者も居る程である。
そして、定期哨戒任務に付いていた彼らの"スパルナII"――護衛空母<ナーヒュール>所属の偵察飛行隊3番機が帝国軍の空母機動部隊を発見したのもまた偶発的な要因と呼べた。


雪化粧に飾られ一面真っ白の砂漠という何とも矛盾した地の上空を進むアジフ船団は、アーキル本国最大都市のグラルールを発ちテナー西部の工業都市ギリィシへ向かう途上であった。
船団の主な積荷は、寒さに強いとされ事実、今現在も安定した収穫量を保っていたアキエン麦を主軸にした穀物と保存食の数々。
これは、618年から10年間掛け進行しつつあるパルエの寒冷化は最早、氷河期の様相でありグランパルエ河の恵みから豊富な食糧生産量を誇る旧テナー首長国領域であってもカノッサ戦域の兵站線を維持する為の糧食を必要にしていた為である。
冬季戦は多くの陸軍にとって悪夢であり冬の齎す補給と兵站の致命的不足というものは容易に陸上戦力を壊滅せしめる要因となる。
カノッサ戦域に展開するアーキル陸軍を主とした連邦加盟国の各陸軍も冬季戦を行うことの愚かさを理解していたことから越冬を行っている最中であったが例え戦っていなくとも軍隊の維持には多くの糧食が要るのだ。
実の所、旧テナー首長国領域での食糧生産だけでカノッサ戦域の維持は可能であるとの試算も存在したがテナーの食料は、まずテナー市民の生活の為に消費されるべきであり戦争遂行の為に市民を弑逆するに等しいテナーからの食料徴発は当然許されていない。
こうした要因から来る戦略上の重要性故にアジフ船団の護衛隊は、12月にエルデアの機動部隊駐留体制を確立した"クラドス船団"程ではないが強力なものとされていた。
その陣容は護衛空母<ナーヒュール>、重巡空艦<クイゼラ>、エミュライ級空防艦6隻により構成されるナーヒュール支隊。
それからエルデアに向かう事から途中まで護衛隊と編入されることになった第4航空戦隊の軽空母<エリクセ>、護衛空母<ジプシィ・メルシィ>、重巡空艦<シャウラ>、フロリテラ級軽駆逐艦4隻で合計3隻もの空母を保有するある種の航空艦隊である。

そして今現在、件の護衛隊の旗艦である<ナーヒュール>の作戦室には、護衛隊の基幹要員が集結していた。
「ここがクランダルティンの空母を含む艦隊が発見された座標です」
基幹要員の一人である作戦参謀がエルデアを中心に据えた巨大な空図のある一点に赤い駒を置いた。
空図にはアジフ船団の予定航路、航行中であろう他船団の航路、周囲の友軍艦隊の展開状況等が様々な矢印で書き込まれている。
「まず連邦情報局からの定期情報によると現在、作戦行動中の帝国艦隊は5個。其内、4個は空母を含まない筈で残りの空母を含む1個はもっと東――メギド南方の40ゲイアス付近で行動中です。その為、この機動部隊は展開中の敵艦隊に空母が合流したか連邦情報局が出撃を見落とした未知の艦隊の可能性が高いです」

「敵の正体を推察するのは後からでもいい」
誰かが訊いた。
「兎に角、目的も分からぬクランダルティンの航空戦隊が船団の近くに居る現状で我々は、どうするべきなんだ?」

「我々のするべきことは、既に空軍総司令部から指示されている」
髭面で大柄な体躯の絵に描いたような軍人然した男が口を挟む。
その男こそ護衛隊の司令官であるサンザル・ハージー一銀翼士官であった。
「参謀長。その事について頼む」

「は。作戦としてはナーヒュール支隊は、引き続きアジフ船団の護衛を継続します。一方で第4航空戦隊は、分派し敵航空戦隊に対し攻撃を加えます」
にわかにどよめきが起こる。
「空軍総司令部としては、敵機動部隊の目的が何れにしても先制攻撃を加えその意図を挫く事を我々に求めています」

「第4航空戦隊としてもクランダルト軍の意図を挫くという方針は、同意することです。しかし戦力の分派は如何なるものかと。私達は良いですが、それで手薄になったアジフ船団が叩かれてしまっては戦略的な大損失です」
当の第4航空戦隊司令官であるアヂン・ワイヤーク一銀翼士官は、最もな懸念を示した。
連邦艦隊の役割として今やヒグラート渓谷戦と並ぶ程、重要視されるようになった船団護衛任務の方針は、623年事変による再開戦から今まで一貫して何よりも商船を守り通すことが優先されていた。
だが今回は、方針を徹底させてきた総司令部の方からそれに反するような命令が下されているのだ。

実の所、事の真相は単純であった。
メル=パゼル共和国の要請である。
当然、カノッサ戦域にも通報された新たなクランダルト空母の情報は其処を通してメル=パゼルのカノッサ方面軍司令部を通し共和国国防委員会、更には国防推の共和国国防総省へと伝わった。
突如として空母が銃後のすぐ隣に現れたことに対し共和国国防総省の対応は早く連邦軍総司令部へ直ちに対応するよう働きかけた。
彼らは、今までメル=パゼル領上空に進出することの無かった通商破壊部隊がメル=パゼル諸都市に直接攻撃を加える可能性に恐怖したのだ。

そして、連邦軍総司令部にそれを拒否する事も出来なかった。
リューリアの大敗に623年事変の発生と二度の失態を犯した彼らにとって加盟国政府からの要請というのは、事実上の命令であったのだ。

「結局、総司令部からの指示により既に決まったことだ。行うならば迅速に行わなくてはならん。でなければ先制攻撃が先制ではなくなる」
そう発言したのは、第4航空戦隊の航空司令である。
そしてこれは、この場の誰もが否応なく受け入れなくてはならない事実を端的に表した一言であった。
アジフ船団の各空母で航空隊の準備が開始されるのと同時に第4航空戦隊がアジフ船団から分離したのは、この航空司令の発言から30分後のこととなった。


アジフ船団にて作戦会議が行われる数刻前、ある1隻を中心に陣形を構成した艦艇の一団がザイル砂漠西部を北上していた。
中心の1隻は、遠目から見て非常にシンプルな姿をしている。その艦艇の艦上物と言えばその殆どが巨大な箱の様な一体の構造に占められその上部は完全に平ら――飛行甲板しか無い。
その巨大な艦上物から遠目からシンプルであっても見た者に重厚な印象を強く与えるこの空母こそがネネツ艦隊の誇る1隻目の空母<サンクトウラスノルクス>であった。

そして、この<サンクトウラスノルクス>の先頭を行く1隻の艦艇。こちらはシンプルな護衛対象とは真逆に大量の細やかな構造物で構成させる複雑な姿をしており特に下部に設けられた巨大な吸気口の張り出しが目立つ。
<サンクトウラスノルクス>が堂々と構えた巨大な城塞の様であれば此方は、正しく戦うために生まれてきた軍艦であると誰もが思うだろう印象をしている。
この艦の名は<クトリャフカ>。ネネツ艦隊があらゆる航空機から艦艇を守るべく作り上げた最新鋭の防空巡空艦で15cm連装両用砲4基を主兵装としている。

それから<サンクトウラスノルクス>の後ろに続く2隻の大型艦。この2隻が掲げていたのはネネツを表す黒白青の三色旗では無く白い海月のような意匠の描き込まれた赤い旗――クランダルト帝国軍旗を掲げていた。
直後に続いている殿よりも大型の方は、先程の2隻に比べ酷く不格好な姿をしていると言える。というより今の帝国中を探してもこれ程、垢抜けない艦艇は存在しなかった。
第三紀帝国艦らしい流線型でもなければ第二紀の帝国艦らしい有機系でもない。ナイフの様に鋭い艦首に双垂直翼が取り付けられ船体中央部の大部分はバルジ構造が占め艦尾は角ばった形に切り落とされた姿は昔と今の帝国艦が融合した過渡期の様にも見えなくはない。
理由は簡単だった。この不格好な艦――<テレジア>は、アルバレステア、バリステア、フレイアと言った第二紀初期から中期に竣工した艦級を全廃した帝国艦隊に於いて最早、最古参の一角と言って良いイアベイル級に属しているのだ。
580年台にあのグレーヒェン級が送り出される数年前にヴィマーナ造船所が竣工させたこの旗艦型艦艇は帝作戦後その多くが後方に回され<テレジア>は、生体機関の成績が特に良好なことから近代化改装を受けつつ前線に留まる数少ない1隻だった。

<テレジア>とは、打って変わり殿を務める<アスペルン・エスリンク>は、第三紀帝国艦らしいスマートな印象の艦である。
グレーヒェン工廠の船体設計を完成させたガリアグル級に非常によく似た船体の防空巡空艦グライン級に属している。
その兵装の大部分は大小様々の長砲身両用砲で飛行士が見れば誰もが震え上がるような存在であった。
以上の4隻が1列に並び航行しその左上と右下にそれぞれ2隻のアリクシィ級駆逐艦が並行し航行していた。

この艦隊の中心たる<サンクトウラスノルクス>の飛行甲板直下に設けられている艦橋でシェリノフ・ポポフツキ中将は、憂鬱の表情を浮かべていた。
ねずみ色とも茶色とも言えるくすんだ色彩の髪の毛と整った顔に四角縁の眼鏡を掛ける初対面に如何にもエリート然した印象を与える彼は、ネネツ艦隊の内部でアナスタシアの懐刀の一人であると実しやかに囁かれる人物であった。
そんな彼は、運命のリューリア戦役では、軽空母<サンクトウラスノルク>の艦長を務めていた。
その後もリューリア後に推し進められたネネツ艦隊の規模拡大に合わせるように昇進を重ね、現在の彼にとっての<サンクトウラスノルクス>は、艦隊司令官としての座乗艦にまでなっていた。
第三者からすれば正しく軍人としての経歴の絶頂期にあるシェリノフ中将だがしかし、彼本人にとっての認識は違った。

南北戦争を通してクランダルト帝国にとってのメル=パゼル共和国とはここ数年になるまで存在感が無い国家で有り続けていた。
そもそも南北諸国のファーストコンタクトとなった北半球征服に於いて大陸の最西端となるメル=パゼル共和国の存在した地域は、さほど重視されずエウル・ノアに侵攻した帝国軍第1艦隊は、其処からグランパルエ河を超えることすら無かった。
第1艦隊は、エウル・ノア征服直後にメル=パゼル共和国へ侵攻するまでもなく再編され真逆の地域――大陸、最東端のパンノニア王国へと転戦していったからである。
その後の南北戦争もこのファーストコンタクトと大差は無かった。
メル=パゼル共和国の方から小規模な軍隊を戦域へと派兵することは多々有ったがクランダルト帝国がメル=パゼル共和国へと直接的な軍事的行動を起こすことは今まで無かったのである。
そしてカノッサ湿地で巨人戦車が帝国の大口径主義者の威信を賭けたドーゼック戦車の部隊を壊滅させようがそれは変わらない。
幾ら共和国軍が帝国軍に対し局地的な勝利を重ねようと必ず派兵という形で戦域に現れる共和国軍の戦略的な存在感は、帝国軍本部にとってほぼゼロに等しかったのだ。
事が変わったのはやはり帝作戦で新たな帝国の指導者となったラツェルローゼと未だに多くの史家を悩ませる連邦議会が行った停戦交渉――それによるカノッサ湿地の実質的なクランダルト帝国への割譲であった。
猛反発するも強行されたこの停戦交渉をメル=パゼル共和国は"カノッサの屈辱"とまで呼び停戦から623年事変までの間、対帝国強硬派の最先鋭となる。

一方、カノッサを手に入れたクランダルト帝国であったが初期段階では、実の所その軍事的には軽視されていた。
帝国軍の中では早期のカノッサ拠点化を唱える者も存在したがそういった軍部内の一部意見は、停戦交渉の次の段階――南北和平の実現を目指す帝国政府。即ちラツェルローゼと皇女派により意図的に無視されていた為である。
もしアーキル連邦との再びの戦争が余儀なくされる事になってもヒグラート渓谷を突破するだけで問題なく勝利する事が可能であるとする意見も存在した事から結局、カノッサの軍事拠点化が推し進められたのは、ヒグラート渓谷戦が起こり――無視された一部意見が予言から現実となってからになった。

帝国軍本部の中でメル=パゼル共和国の存在が重視されるようになったのは、南北戦争を通してこれが初めてであった。
グランパルエ河北岸のクラッツ寒帯林に軍事拠点を構える共和国軍がカノッサ湿地への輸送を脅かすのは、明らかな為である。
その時、ある若年の参謀士官が大胆な意見を帝国軍本部へと持ち込んだ。
「蛇口を締めてしまえば問題にはならない」
意見を提唱した参謀は、リューリア後急激に影響力を増した帝国軍内の航空派。所謂、空母マフィアの一人であると知られていた人物で空母を多数投入しクラッツ寒帯林の航空基地を片っ端から叩いてしまえば良いと提唱したのだ。
最もこの提唱は、一時は真剣に検討されるも第1次輸送船団への攻撃を行ったメル=パゼルの航空艦隊が呆気なく阻止され其処までする必要無しとされてしまう。

再び"蛇口を締める"という提唱が検討されるようになったのは625年4月某日、カノッサ湿地への輸送船団の1つが共和国軍の投入した無線誘導空雷により壊滅的な損害を被った事がきっかけとなった。
この無線誘導空雷は専用の誘導母機に搭載された誘導電波照射装置に従って目標へと飛来する方式でその命中率は低いものであったが機関砲の射程外から飛来する空雷を前に帝国船団は、パニックに陥り船団司令官は散開命令を下してしまった。
そして散開した輸送船団は各個撃破されカノッサまでたどり着いた輸送艦は僅か2隻――という事の顛末を迎えたのだ。

"蛇口を締める"提唱の実現が決定的になったのは、その2年と半年後、共和国軍がメン・カリナン級と呼ばれる新型空母の建造を推めているとの情報を諜報部隊が掴んだことによる。
以前から共和国軍が軽空母"ライカク"を運用していることは知られていたがその数は1隻に過ぎず所詮軽空母相応の航空機運用数なのも合わせ脅威度は限定されていた。
しかし、其処に新たな空母が加われば共和国軍は複数空母による機動部隊の運用が可能になる。
これが輸送船団にとって既に大きな脅威となっていた航空艦隊と合わせてカノッサ湿地への輸送阻止へ動けば帝国軍の基幹戦略となっていたカノッサ戦域の維持は極めて困難なものになると帝国軍本部では予想された。

(理解は出来るがやはり――)
それならば共和国軍が空母機動部隊を編成する前に航空艦隊を地上で奇襲的に叩いてしまえば良い――それこそがシェリノフ中将の指揮する特務派遣艦隊に与えられた作戦なのである。
"ヴァサハン作戦"と名付けられたこの作戦には、3つの艦隊が参加していた。
まず作戦の大前提として攻撃は、奇襲である必要性から本土の遠さ故に北半球陣営の諜報網に存在が余り認知されていない存在であるネネツ艦隊から空母部隊――即ちポポフツキ艦隊をカノッサへと進出させザイル砂漠の最西部からクラッツ寒帯林の北部へ迂回。
ここに存在するメル=パゼル共和国の主要な航空基地に空襲を加え素早く撤収する。
またレウラグル級軽空母<ルクテルス>と護衛の駆逐艦4隻からなるラインヴェーバー艦隊がアナンサラド方面へと進出し陽動を担うものとされていた。
そして最後の艦隊が"ホルスト艦隊"。この艦隊の役割はポポフツキ艦隊の指揮下で護衛部隊として行動を共にし可能ならば攻撃目標へ対地艦砲射撃を行うものとされていた。

以上が作戦の全容であったが――(やはり無茶があったとしか思えない)
端的に言って"ヴァサハン作戦"は、1時間程前に連邦軍の偵察機に発見された事により殆ど失敗したも同然の状態になっていた。
幾ら艦隊が比較的少数でカノッサ湿地への進出が北半球陣営に探知されないうちに出撃したとしても偶発的な要因――運悪く連邦軍に発見されることは、防ぎようがなかった。
当然、戦場の霧に頼り切った作戦であることは、帝国軍本部も重々承知していた事であり奇襲前に艦隊が発見され作戦遂行が困難だと判断された場合、そのまま作戦目標を通商破壊の実行に切り替えることが許可されていた。
しかし、シェリノフ中将にはどうにも泥縄的にしか思えなかった。
幾ら少数の艦数で北半球に察知されない素早い作戦行動であろうとも空中艦隊という存在自体が遮蔽物が雲位しかない大空じゃ余りにも目立ちすぎる存在。
故に発見されたら作戦目標を許可する程ならただの通商破壊作戦と何ら変わりがない。

(クランダルト軍の連中、事を急ぐばかりに作戦の詰めが甘くなってるのではないだろうか?)
確かに将は拙速を尊ぶとも言うがあくまでもそれは、戦術の範疇で無くてはならないし戦略に基づいた作戦計画でそれは許容されるものではないというのがシェリノフ中将の持論であった。
だが軍隊という組織に於いて上からの命令もまた絶対的なものであり幾ら気に食わない作戦であろうと実行しなければならない。
ならばせめて作戦が当初の予定通り行く事を期待するしかなかったのだがそれも無理となった。

だがエルデアからは遠いザイル西部空域に連邦の空中艦隊が居るとも思えない。
此方を発見した艦載機は、おそらく船団に参加する護衛空母から飛んできた定期哨戒機だろう。
そもそもラインヴェーバー艦隊がアナンサラド方面に進出してる以上、注意はそちらに向けられている筈である。
それに戦闘機しか載せない護衛空母が此方に積極的に攻撃を試みることは、今まで連邦軍が行ってきた戦略方針からしても考えにくい――ならば作戦通りに近くに居るだろうその船団を叩き特務派遣艦隊は、さっさと引き上げる。
よし、これで行こう。

「偵察機を準備。それから<テレジア>に通信を。作戦目標を敵船団攻撃へと切り替える」


船団の最後尾に位置する貨物船"サンスール"の船長ボヂル・イヴォは、1時間前に第4航空戦隊が船団から離脱していく姿を最も長時間見ることになった人物の一人であった。
(全く、これで例の敵空母とやらに発見されたら我々がどうなるか船団司令部は考えているのか)
第4航空戦隊の目的地はエルデアであり最後まで護衛として着いてこない事は、事前に知らされていたことだがまさか敵空母撃破の為に予定より1日も早く離脱していくことはボヂル船長――というよりアジフ船団を構成する貨物船の船長、ほぼ全員とって衝撃的に受け止められていた。
船長たちにして思えば元から第4航空戦隊は臨時の護衛でそれが離脱しても護衛空母筆頭の<ナーヒュール>とトリコイゼイ級の<クイゼラ>もまだ護衛には残ってるが護衛戦力が半減したというのは覆しようのない事実であった。
(ハッキリ言ってアレだけの護衛が付いていればどんなクランダルティンだって襲撃を諦めるんだらわざわざ敵空母撃破の為に船団を二分しなくていいだろうに)

特にボヂル船長は、護衛隊半減という事実は重く受け止めていた。
彼の指揮する貨物船"サンスール"はリューリア後に建造が推し進められた150メルト級標準気嚢貨物船の1隻で船団の中でも最も新しく最も高性能な貨物船であったがそれ故に穀物が主な積荷だった船団の中で唯一の弾薬輸送船に指定されていたのだ。
"サンスール"に乗務する104名の船員の命は、被弾1つで瞬く間に吹き飛んでしまう――最悪の予感が彼の頭の中で過っていた。

突如として後方から重苦しい発砲音が船橋の中へと響き渡る。
間髪入れずに若い船員が船橋へと飛び込んできて殆ど悲鳴のようにあらん限り叫んだ。
「船長!クランダルティンの偵察機です!」
各自発砲を許可されていた高射砲付きの船員が対空戦闘を開始したのだ。

「伝令、敵機発見の信号を」
あぁクソッたれ。

最悪の時間が近い内に訪れることが決まったことに対しボヂル船長は呟いた。
船長が悪態をついたことが周囲に知れれば船橋の中の雰囲気は少なからず不穏なモノになったであろう。
だが幸いなことか対空戦闘が齎す砲音、叫びの轟音の中でかき消されたその呟きは誰にも届くことはなかった。


ソナが頂点へと昇る時刻、群青の大空を28の鋼鉄の鳥達が突き進んでいた。
そのうち12機は、鏃を思わせるスマートなシルエットを持つ鳥である。
上面が黒く塗りつぶされたその機首には合計8門もの連発銃が陽光を浴びギラギラとその銃口を輝かせている。
残りの16機の機体は、削り出したかのようなゴツゴツと角ばった形状で背負う形式で装備される浮遊機関には上部だけを覆うように板が取り付けられ前者とは対象的に力強さというものを印象づけられる。
機体の下面には、黒光りする砲弾状の物体――平たく言えば爆弾を抱えそれは、投弾アームで固定されていた。
それぞれアーキル連邦軍の艦載戦闘機"ギズレッツァ"と急降下爆撃機"グラハ"であった。
"ギズレッツァ"は、単純明快なバテンカイトス製の連邦主力戦闘機であり618年に採用されあのリューリア戦役に参加した先行量産型が多大な戦果を収めたとも言われている。
実際、熱風を意味する名を冠されたこの機体は628年現在パルエに存在する戦闘機の中でも最有力な戦闘機の一角を占めていた。
何と言っても特徴的なデルタ翼と無尾翼から織り成された空を突き抜けるシルエットは、解析の進んだ浮遊機関による高度な姿勢制御の賜物と呼べた。
"グラハ"の方は、前者よりも込み入った経歴の持ち主である。
幾分洗練されていないように見える先細りに真っ直ぐ伸びたテーパー翼にV字型の尾翼という不釣り合いにも思える造形の本機は、元を辿れば陸軍機であり帝国軍のグラァグに誘発され開発された存在なのだ。
この機体の艦載機化が図られたのは619年の事でありリューリア戦役で奮戦したとされている第5艦隊司令部の意向とも言われているがともあれ戦闘機からの転用機種を除けば連邦空軍、唯一の急降下爆撃機である。

<<此方ジベル02 ジベル02 方位5時の下方 艦影複数視認>>

<<サージ01 此方でも視認した 各機、編隊を崩すな 突撃するぞ>>
サージ01こと惑星級軽空母<エリクセ>の飛行士長であるアル=ジスト・レガスピ三鉄翼士官は、愛機である"グラハ"からガラス越しに下方を見据えていた。
その勇敢な猛禽類を思わせる鋭い眼の視界には幾つかの黒い艦影が映っている。
(あれはクランダルティンの奴じゃないな)
艦影のうち後ろの2隻以外はレガスピ飛行士長には、どうにも見慣れない形をしていた。
ここ最近の帝国艦というのは、一様に尖った流線型の艦体を持つと航空士官学校で習い艦影識別表でもどれもコレもその特徴に当て嵌まるモノだったが今、攻撃を加えようとしている敵艦隊は違う。

<<パタ01 パタ01 敵直掩機を確認 交戦する>>
しかし、レガスピ飛行士長に敵艦の正体を長考する暇は与えられなかった。
(ま 相手が空母なら当然か)
彼にはエリクセが搭載する航空隊28機全機の指揮権が委ねられている。
故に攻撃を成功させ1機1人でも多くの部下を生還させる――それが最優先な以上、余計な思考は抹消するの一択であった。


「直掩機が交戦に入りました!」「対空戦闘配備急げ!手遅れになるぞ!」「何故、なんでだ!」
<サンクトウラスノルクス>の艦橋は、怒号に呻きに考えうる戦場の混乱全てに満たされ、その喧騒はインダストリアリーゼにも負け劣らぬ様相を呈していた。
「ロイジフ大尉が発艦許可を求めてます!」
「直ちに発艦させろ。1機でも多くの"グランバール"を空に上げるんだ」
シェリノフ中将は、短時間のうちに戦場の混迷の真っ只中へと転落した<サンクトウラスノルクス>――と言うより特務派遣艦隊を良く指揮していると評せた。
たかだか惑星級軽空母1隻だけの全力に過ぎない航空攻撃にも関わらず彼の艦隊が大混乱へと陥っている原因は、ただ一つの要素へと求められる。

(想定外だ)
623年から行われるザイリーグ砂漠の戦争で連邦の輸送船団が逆襲を加えてくる等、先例が存在しなかった。
そもそも護衛空母は、戦闘機しか載せてない筈なのに何故だ?

(何故、何故この空域に連邦の機動部隊が遊弋している?)

発見した輸送船団への攻撃隊の準備中に攻撃を受ける。若しくは直掩機の交代中に攻撃を受けるという最悪の事態だけは危ういタイミングで免れている。
それ自体が幸いなのは言うまでもないが分からない。これだけの数の攻撃隊を送り込める空母機動部隊が一体何処から湧いてきたというのか。
(まさか"ヴァサハン作戦"が最初から筒抜けだったというのか?)

その時ふとある戦闘報告がシェリノフ中将の脳裏へと浮かび上がった。
カノッサ方面軍の指揮下となることが決まった時に読み漁ったザイリーグ砂漠の戦いの無数の報告の中の一つ。627年14月21日に行われた第7次ヨリス空域会戦――重巡2隻を撃破し空防艦を複数撃沈したことから記録上は勝利とされた戦い。
その実、肝心の商船団を無傷で取り逃がし単艦で交戦した我が方の巡空戦艦も大破した事から誰の目にも戦略的敗北であることが明白である戦い。
敗因は、想定外に強力であった船団護衛部隊による逆襲である。

(アーキル人共は、船団護衛戦の方針を転換していたのか?そうなればこの状況――船団が撒き餌か)

シェリノフ中将の中で一つの状況を説明出来る理由が組み立てられた。
今までアーキル人の船団護衛と言えば哨戒網、諜報網に頼り其処に来ている筈であろう帝国軍の通商破壊部隊を更に強力な戦闘部隊で追い回していた。
だが連中は、やり方を変えたのだろう。
最初から船団に強力な護衛を伏せておき此方がまんまと船団襲撃に動けば即座に逆襲する。
これに引っかかった最初の艦隊が第7次ヨリス空域の当事者であるラインヴェーバー艦隊で2つ目の艦隊が――この特務派遣艦隊。

(帝国軍本部め!)

シェリノフは、血が滲むほど唇を強く噛みしめ心の中で罵る。

(奴らがあのたった1ヶ月前の戦いを勝利なんてことにせず敗因を検討していれば防げた事態じゃないか!)

チリチリと騒音を鳴り響かせるアラームが艦橋の喧騒に加わると共に片舷2基装備された14cm単装砲が唸りを上げる。
特務派遣艦隊の対空戦闘は、対空砲火によるものへと移行したのだ。


レガスピ飛行士長率いる<エリクセ>航空隊は、茶色一色の機体色に黒白青のトリコロールがマーキングされた帝国らしからぬ"グランバール"との交戦でその数を25機まで討ち減らしていた。
"グランバール"の数が6機に過ぎず後から上がってきたものを含めても10機だけなのに関わらず3機もの"ギズレッツァ"が撃墜されたのだ。
数で優位であり更には"ギズレッツァ"の空戦能力は"グランバール"を上回るとされているにも関わらずである。

<<パタ01よりサージ01 敵機を4機撃墜 残存機は撤退>>

<<サージ01より艦爆隊全機へ――>>
レガスピ飛行士長の思考は、再び敵機動部隊の正体へと向けられる。
敵直掩機が帝国軍のものではない――母艦である敵空母も帝国軍ではないのは、最早明らかであった。
確証が得られれば長考する必要もなかった。
相手は、ネネツ艦隊だ。

ネネツ自治管区、連邦内ではネネツ国と呼称され帝国の同盟国と看做される存在が注目されたのは、リューリア戦役で第1艦隊を葬り去った帝国軍の一角がネネツであると報じられた事からである。
にもかかわらず連邦軍情報局にとってこのネネツは、未だに未知の存在であった。
原因は、単純にネネツがあまりに遠すぎる為だった。

そうしたネネツ本土からの乏しい情報と数少ないネネツ艦との交戦記録を突き合わせレガスピ飛行士長は、判断を下す。

<<敵機動部隊の半数以上は、ネネツ艦だ 敵空母への攻撃を避け先頭艦と3番艦を目標とする>>
ネネツ艦は、強力な対航空火力を有している――交戦記録の1つで記されたこの一文が彼の頭の中で浮かんでいた。

<<ネネツ艦に正面から挑んではならない 外側から突き崩すぞ>>
16機の"グラハ"は8機づつへと別れ2つへの目標へと向かい始めた。

敵機動部隊の先頭艦――ネネツの誇る新鋭防空軽巡<クトリャフカ>の上空へ向けレガスピは、愛機を突撃させる。
彼の"グラハ"が大きくバンクを取り放たれ始めた対空砲火の間を縫うように飛び続ける。
ふとしたタイミングで敵艦隊が爆発したかのような弾幕が張られた。
かつての王者(スカイバード)が優雅に飛んでいてこそ絵になっただろう空が黒き高射砲弾の炸裂と幾多もの赤い火箭で染め上げられていく。
殷々と響き渡る砲声が大気を揺るがすのに混じり金属の引き裂かれる音と揺さぶりがコクピットのレガスピ飛行士長へとまで伝わる。
だが本来は、対地襲撃機として設計されていた彼の愛機は相応に頑丈であり何とか対空砲火の洗礼に堪えている。

だが部下達、全員が全員幸運に恵まれた訳でも無い。
<クトリャフカ>の150mm高射砲弾に間近で炸裂された"グラハ"が1機、爆炎へと呑み込まれ打ち砕かれて消えていく。
更に1機が翼が殆ど千切れ飛び独楽のように廻りながら堕ちていく。
爆弾を投棄し上空へと離脱していった"グラハ"もあった。

遂に対空砲火を潜り抜け<クトリャフカ>への投弾位置へとたどり着けた"グラハ"は、5機だった。
レガスピ飛行士長は、機体と自己を一体化させ操縦桿が目一杯引かれる。
機首を天上へと突き出すように掲げてから真っ直ぐに伸びた翼が翻り逆落としになった機体の照準レティクルへと<クトリャフカ>が捉えられた。
多数の穴が穿たれたフラップと浮遊機関上方のダイブブレーキが展開され5機の"グラハ"が一直線へと急降下していく。
永遠にも思えた降下の途上、照準レティクルの中に<クトリャフカ>の姿が一杯に溢れるのを見てレガスピは投弾レバーを引いた。
部下の死を目の前で見せつけた敵艦への彼の怒りと共に胴体下の投弾アームが展開され1発。それから両翼に1発づつ懸吊された小型爆弾2発の計3発が中空へと投げ出される。

上部に備えたダイブブレーキが仕舞い込まれ5機の"グラハ"はそのまま<クトリャフカ>の左舷側を掠め去り――それと殆ど同時に衝撃と爆炎が<クトリャフカ>を揺るがした。


空襲が終了した時、<サンクトウラスノルクス>艦橋に置かれた特務派遣艦隊司令部は重苦しい空気へと包まれていた。
其処に居る艦橋要員達の視線は、一様にある一点へと向けられている。

「<ラズーヌイ>が沈みます!」
シェリノフ中将は、対空戦闘の成果として最終的にギズレッツァ3機、グラハ11機の撃墜を報じられていた。
報告が本当ならば実に敵機の半数を撃墜したことになるが対空砲火による戦果の確認は難しくグラハ11機撃墜が事実なのかは些か怪しい。
対して特務派遣艦隊が受けた損害は、直掩機であったグランバール4機の撃墜と着艦失敗事故による2機の大破。
そして爆弾を2発被弾した<クトリャフカ>の中破と――今、目の前であらゆる艦上物を焼かれ篝火同様の姿を晒しながら横転しつつある駆逐艦<ラズーヌイ>の損失である。

<ラズーヌイ>は、本来ならば<クトリャフカ>の側面へと展開するアリクシシィ級の1隻であった。
しかし空襲を受け<サンクトウラスノルクス>を守るべく展開位置を後退させた所を一番、近い攻撃目標として攻撃を受ける結果となったのだ。
旗艦を守るべく矢面へと立った形だが敵機が最初から厳重に守られる旗艦への攻撃を避けた事からそれが裏目となっていた。

敵機の狙いが自艦である事を察知した彼女の艦橋要員達が回頭を命じた時には、既に手遅れであり漸く艦首が右へと向き始めた時に直撃弾の衝撃が艦そのものを揺るがす。
被弾した爆弾こそ1発だけであったがその1発は、この小型駆逐艦最大の弱点とでも言うべき中央部の空雷発射管を貫きそのまま船体のほぼ真ん中で炸裂したのだ。
艦が揺れてから数刻遅れて全てを焼き尽くす爆炎が<ラズーヌイ>の中央部から吹き上がった。
大気を歪ませながら立ち昇る紅蓮の炎が高射砲弾を誘爆させまた新たな炎が全長111メルトに過ぎない小型駆逐艦を繰り返し突き刺し、その度に特徴的な曲線の艦橋、シンプルな造りのマスト、多連装噴進弾発射機と言ったものが木っ端微塵に打ち砕かれていく。
爆発が収まった時、直ぐ様僚艦の<ワフロボヌイ>が駆け付けるも既に無残な燃え上がる残骸と化した<ラズーヌイ>の命運は決まったも同然であった。

「作戦を中止する」
多くの乗組員達が完全に横倒しになり停止しながらその高度を徐々に失いつつある<ラズーヌイ>の最期を固唾を呑み見る中、シェリノフ中将が静かに述べる。
その表情は、この場に居る他の者達と大差なく陰鬱を通り越して真っ青に染まっていた。
作戦の継続を意見具申しようとする者は、誰一人居ない。
未だに煙を上げ被弾で生じた火災と必死に戦う<クトリャフカ>の姿とたった800メルト先で<ラズーヌイ>が身に受けた惨劇を見せつけられ誰もが"ヴァサハン作戦"を継続する事の無意味さを理解していた。


特務派遣艦隊が作戦の中止を決定した頃、アジフ船団もまた受難に見舞われていた。
レガスピ飛行士長による第4航空戦隊の攻撃が終了してから大凡30分後、入れ替わるように特務派遣艦隊が放った攻撃隊が商船隊相手に忠実に作戦任務を遂行しに来たのだ。

「通信士、各船舶へマニュアル通りの一斉回頭を行うよう通達しろ。対空戦闘だ」
<ナーヒュール>の艦橋でハージー司令官が吠える。
数分のラグを置いてアヂン船団を構成する各艦船が一斉に右舷方向へ船首を回頭させ多くの砲身、銃身が仰角を付け天へと向けられる。
そして上空を旋回する"ギズレッツァ"8機が我先にと迫り来る敵機へと躍り出しそれに続くべく飛行甲板上の"ギズレッツァ"も順次、空へと飛び立っていく。

<<カーテン02 敵攻撃機はグランダルトに非ず 属領の新型機の模様>>
一番最初に接敵した直掩隊の1機を駆るコーペル飛行士の視界に映る攻撃機と思しき敵機の姿は、明らかに見たことがない形をしていた。
確かに胴体に梁を渡し2基の生体機関を懸架する姿は、典型的なグラン系列の生体航空機のそれである。
しかし機首が帝国機らしくなく尖ってるしそもそも図体が護衛の"グランバール"に比べて一回り位大きいが"グラァグ"程でもなくその中間と言った趣だ。
何より敵機は、攻撃機も護衛機も全て黒白青のトリコロールが生体機関に記入され自らがクランダルトではないと主張している。

だが空戦というモノに於いてそれを良く観察している暇も無い。
敵機も気がついているようで"グランバール"が三叉のシルエットを翻し此方へと向かい来る。
操縦桿を傾け左斜め前方を飛行する――つまりペアであったジトアルム飛行士に軽くバンクを打つ。
敵機接近の報を受けたジトアルムの機体が大きくバンクを返し続いて機体を倒し降下へと移りコーペルもそれに続いた。

敵護衛機は、此方より数に劣る。今は8機だが続々と発艦した友軍機が全て加わればその数は24機――敵護衛機の倍近い。
船団が対空射撃を行うまでもなく敵攻撃隊の撃退だって不可能じゃない。

だが空戦の最中、目まぐるしく天地の廻る風景にコーペル飛行士は、信じられないものを見てしまった。
「莫迦な」

敵攻撃機が早くも船団へと肉薄し守るべき輸送船舶達が頻りに対空砲火を放っていたのだ。


"ヴァサハン"作戦参加時に<サンクトウラスノルクス>に搭載されていた航空機は"グランバール"が22機、"ゴリッツァ"が16機の計38機。
シェリノフ中将がアヂン船団へ差し向けたのは、そのうち"グランバール"12機と"ゴリッツァ"14機だった。
コーペル飛行士達が目にした新型攻撃機である"ゴリッツァ"は、"ムリーヤ"の後継機としてネネツがインペリーア・デニアマジャルからの技術導入を受けながら開発した機体である。
その"ゴリッツァ"の原型となった"グランダルヴァ"は、不幸な戦闘機と言えた。
この機体は"グランビア"を代替する新時代の帝国軍主力機として様々な新技術の導入が試みられたことで知られている。
当時の帝国戦闘機を象徴する榴弾砲には、ライフリングが彫り込まれ生体艦艇の循環器同様の空冷式体温調節機能を採用。
そして左右の生体機関に展開式の空戦鰭を備え複雑なマニューバ機動を実現する――筈であった。

完成した"グランダルヴァ"の空戦能力は、当時の戦闘機として驚異的な性能を発揮した。
しかしながら空戦能力を実現する為に導入された多くの新技術は、同時に信頼性と整備性等の運用性能の低下という兵器として致命的弱点を"グランダルヴァ"に与える結果となっていたのだ。
更には、直後に"グランツェル"がロールアウトしたことが追い打ち――というより帝国軍に於ける"グランダルヴァ"という機体にトドメを刺してしまった。
生体機関そのものを可動させるという全くもって新しい試みから開発された"グランツェル"が発揮した数々の高性能は、帝国軍本部の"グランダルヴァ"への興味を失わせるに十分であった。

「劣悪な運用性能から兵站に多大な負担を与える"グランダルヴァ"の生産を打ち切り予算は、全て"グランツェル"へと回す」
この命令に対し"グランダルヴァ"開発陣は「数々の初期不良は新技術故に仕方ないものであり時間が解決する」「整備性の劣悪さは、新技術に整備士が慣れていないのが原因なのでマニュアル等の改定で対処可能」等々あらゆる反論を行い反発したが無駄であった。
かくしてクランダルト帝国に於ける戦闘機"グランダルヴァ"は、僅か十数機という増加試作機程度の調達数だけで生産が打ち切られてしまう。
"グランダルヴァ"を切り捨てられた理由たる"グランツェル"が"グランビア"9機分という余りの高コストから42機だけで調達が断念されたのは、"グランダルヴァ"開発陣にとっては慰めにもならない皮肉であった。

その後、クランダルト帝国軍での居場所を失った"グランダルヴァ"がネネツ自治管区に目をつけられたのは、622年。
"ゴリッツァ"が艦隊へと実戦配備されたのは627年となった。
機体が大型化され機首は、南パンノニアの技術導入がされたことを示すように嘴のような尖った形状とされたが全体的に太く寸詰まりのように見える外観から余りスマートさは、感じられない本機の性能は、正しく驚異的と言えるものとなっていた。
特にその最高速度は、直進し続けるだけなら"グランバール"をも超える程であり正に高速攻撃機と呼ぶに相応しい。
コーペル飛行士達は知る余地もないが16機の"ゴリッツァ"が悠々と直掩機を振り切りアジフ船団へと肉薄しつつある最大の理由がそれであった。


船団の輸送船舶は、右へ左へそれぞれに廻り回避運動に務めていた。
敵機のアプローチを阻害する為に行われた一斉回頭は、いざ敵機にアプローチされつつある現在、最早意味は無く今はただ自分の船が生き残るために必死であった。
それでも決して航行高度を変える船舶が存在しないのは、それをしてしまえば三次元的に陣形を組む各艦船が空中衝突する危険性がある故に禁止であると徹底的に周知されている為である。

直掩機による迎撃が想定外の不徹底に終わり不本意な対空戦闘が行われる中で特に気を吐いていたのが護衛隊の旗艦たる<ナーヒュール>だった。
リューリア戦役直後の619年に竣工した前リューリア型艦艇の最末期に属するこの護衛空母は、艦隊防空艦としての役割も担う艦として計画されておりその防空能力は、船団でも随一のものを持っておりそれが"ゴリッツァ"に対して猛射を浴びせていたのだ。
<ナーヒュール>の艦首と艦尾に1基づつ備え付けられた85mm連装高射砲が砲弾を送り出す度に"ゴリッツァ"の周囲に黒々とした爆煙が巻き起こったかのように見えた。

「敵機尚も突撃してきます!」「ダメだ信管の設定を変えろ。敵新型機、速いぞ!」
アジフ船団に――アーキル連邦軍にとって"ゴリッツァ"が初めて確認する新型機だったのが不運と言えた。
真っ黒な絨毯を空に敷いたかのような熾烈な対空砲火の殆どは虚しく敵機が先程まで居た空中をかき乱すだけとなっていたのだ。

「高射砲じゃ間に合わんパンパン砲で阻止しろ!それから後は――」
船団の指揮と<ナーヒュール>の防空戦闘を同時に行わなくてはならないハージー司令官は、現状を正確に把握し更なる指示を下していた。
実の所、この時点でも未だにアジフ船団の防空戦闘が破綻した訳では無かった。
寧ろ特務派遣艦隊の攻撃を十分失敗させうる可能性も残されている。
アジフ船団は、合計8隻の護衛艦艇に更に船団を構成する輸送船舶も付け焼き刃とは言え対空兵装が施されていた。
特務派遣艦隊が8隻だけの小艦隊かつ結果的に奇襲攻撃を加えることに成功していた第4航空戦隊とは違い16機の"ゴリッツァ"がこの船団の対空機関砲の間合いにまともに突っ込もうものなら相当な被害を出す結果になった事だろう。
しかも"ゴリッツァ"は、16機が一斉に同じ目標へ突入した訳でもない。
1隻でも多くの船舶を沈める事を目的にする船団攻撃のセオリー通りに2機づつのペアでバラバラの目標へと狙いをつけているのだ。
これは艦隊防空としての対空砲火こそ分散するが代わりに相手側の個艦防空火器――航空機にとって最も危険な機銃、機関砲をフル稼働させることになり相手が輸送船団だからこそ許容されうる危険な攻撃方法である。
だがその時、8グループに別れた"ゴリッツァ"のうち1つのグループが機体下部に吊り下げた物を切り離した。
ただの空雷であれば機関砲の射程外から発射しても直進性の悪さ故にまず命中は、望めない代物である。
しかし、その空へと投げ放たれた物は折り畳まれていた二枚の細長い板状の部品が取り付けられていた――その部品が横へと広げられ物は空雷に翼を取り付けた様な形態へと姿を変化させると漸くロケットブースターを点火されアジフ船団へと射掛けられていく。

「巡航空雷!」
見張員が悲鳴のように声を上げる。
「全艦転舵、右!右急げ!全艦だ」
殆ど反射的にハージー司令官は、回避命令を叫ぶ。だが慣性に縛り上げられた"ナーヒュール"の動きは、苛立つ程に緩慢だった。

輸送船団の比較的前方に位置していた貨物船<トルムルVII>が最初の犠牲になった。
船団全体の運動を制限すべく前方に位置する船舶から狙うセオリーにより標的とされた哀れな貨物船には、"ゴリッツァ"のグループ2機が1発づつ巡航空雷を発射しそのうち1発が船体のど真ん中へと突き刺さる。
眩い閃光を発したかと思えばその次には、<トルムルVII>は大炎上するかつては、貨物船だったモノへと成り果てていた。
今では爆発性のドブルジャガスに代わり緩やかに燃え上がる液化ドブルジャが気嚢空中船の主流になったとは言え可燃物であることに変わりは無いのだ。

次に被弾したのは、エミュライ級空防艦の<スペルドII>。
迫りくる"ゴリッツァ"相手に身を挺して貨物船の前へと立ちはだかり盾となった故に推進機、垂直尾翼等を艦尾諸共丸々吹き飛ばされ航行不能の大損害を被ってしまった。
結局<スペルドII>に命中しなかった空雷のうち1発は、この艦が盾となった後方の貨物船へと命中しするも、マストを煙突と周囲を吹き飛ばすだけで致命傷には至らず結果的に被害を抑えることに成功した。

だが当然、全ての船舶に<スペルドII>が付いている訳では無く3番目に巡航空雷を投下した"ゴリッツァ"のグループに狙われた貨物船は、<トルムルVII>と同じ最期を迎えさせらる。

アジフ船団全体がそういった戦況に置かれる中でボヂル船長と彼の指揮する貨物船<サンスール>は、比較的運良いと言える。
弾薬運搬船に指定されいるからこそ空爆に対しては、最も安全であると考えられた船団最後尾に配置された<サンスール>は難を逃れることに成功していた。
船団に襲いかかる敵機は、セオリー通り比較的前方の貨物船を叩き船団航行の陣形を崩しかかっているのだ。

(ここからが正念場だ)
ボヂル船長は、険しい表情を浮かべこれから起こるだろう事を思い浮かべる。
2隻の僚船が仕留められ度重なる回避運動で船団の陣形は、大きく乱されている――そろそろ此方にも仕掛けてくる。

彼の予想通り4グループ目の"ゴリッツァ"が狙いを定めたのは、船団の中央に位置する貨物船であった。
落伍した<スペルドII>との衝突を避けるべく敵機への回避運動を中断した貨物船に容赦なく巡航空雷が投下され2発が立て続けに命中する。
先に沈んだ2隻よりは、幸運に恵まれたようでドブルジャ管の破損とそれによる火災は、起こらなかったようだが船体が折れる寸前にまで抉り取られたこの船の最期が間近だろうことは、誰の目にも明白である。

5グループ目の攻撃で更に1隻貨物船が燃え上がる。
次に6グループ目が突入してきたがこれは、2発とも目標を外した。

「4隻……4隻やられた」
ボヂル船長は、船員たちに気が付かれぬ小声で呟いた。
ここまでの攻撃で4隻の貨物船。それに積み込まれた物資、そして何よりも船員達が――空の仲間の命が喪われた。
彼らは、無情にもこの十数分の悪夢だけでこの世から消え去ってしまった。
だが悪夢ももう少し……もう少しだけで終わる。頼むからこれ以上、攻撃が成功しないでくれ。
そう思い続いて突入してくる敵機を見たボヂル船長は、その先にある艦艇を見て絶句した。

あぁダメだ!それだけは、ダメだ!そいつがやられたら――船団は終わりだ。
「旗艦に敵機が迫ってるぞ。警告急げ!」


船団の後方に位置し一目で空母であると分かる特徴的なシルエットの連邦艦には、2グループ4機の"ゴリッツァ"が迫っている。
アジフ船団の使用可能な高射砲のほぼ全てが旗艦であるこの艦を守るべく対空砲火を浴びせるが大体の炸裂は、敵機の後方か全くの見当違いの場所で発生していた。
<サンスール>も高射砲を備える船舶の1隻として連射し続けていたが1発も有効弾を得られていない。
対空戦闘が開始されてからずっと船橋の後ろで吠え続ける砲声をボヂル船長は、聞いていたが余りにも敵機に有効打を与えられない事から船員の技量に疑問すら持ち始めていた。
実の所、<サンスール>に備え付けられた高射砲は、余りにも長時間連射し続けたことから加熱された砲身は、摩耗しきりどんなに優秀な兵員だろうがまともに対空戦闘を出来る代物ではなくなっていたのだが空襲による極度の緊張と恐怖により誰もその事に気がついてはいない。

効果の薄い高射砲弾幕を悠々と潜り抜け"ゴリッツァ"が4発の巡航空雷を投下する。
多くの機関砲が向かってくる巡航空雷に砲弾を浴びせに掛かるが航空機とは、比べ物にならない速度かつ的も遥かに小さい為に無駄と言って良かった。
どちらかと言うと船団の中で最も下されるのが早かった回避運動の方が功を奏している。
漸く慣性を振り切り右舷へと曲がり始めた<ナーヒュール>に相手に"ゴリッツァ"のうち2機は射角を外された状態で巡航空雷の投下を余儀なくされたのだ。
しかし残りの2発は、殆ど装甲の施されていない船体右舷へ易々と突き刺さり信管を作動させた。
閃光と爆炎が<ナーヒュール>を包み込みそれは、船団旗艦が呆気なく爆沈してしまったかのように見るものを錯覚させた。

あぁクソ終わった!これで俺たちは全滅だ!
<ナーヒュール>の被弾を目の当たりにしたボヂル船長は、この世の終わりかのように悪態を付く。
実際、船団旗艦を失った後の船団航行は、更なる帝国軍の攻撃の前に商船の半数以上を喪いバラバラに最寄りの港へ逃げ込み崩壊するという事態もかつて発生しておりボヂル船長以外の乗員達も同じ様な絶望感に苛まれていた。

だが黒煙の中から船団をフライパスする"ゴリッツァ"を目掛けこれまでの仕返しかのような銃砲弾の嵐が襲いかかった。
燻る黒煙から肉切り包丁を思わせるパルエ全体でも珍しい位まで寸詰まりで重厚な艦体が姿を表す。
被弾した右舷側は、二箇所に大穴が穿たれた無残な姿を呈し側面に備えられた14cm砲等は、全て砲身がへし折られていた。
それでも<ナーヒュール>は、軍艦である。
装甲が無に等しかろうが軍艦は、軍艦でありその抗堪性は、貨物船とは比べ物になるものではなく彼女は、2発の被弾にも屈せず戦闘を継続していた。
リューリア戦役前の輝かし連邦艦隊に加わるべく設計された空母は「私は、まだ沈んでいない」と主張するかの様に、遂に対空機関砲の間合いへと捉えられた"ゴリッツァ"を叩き落しに掛かった。
タールをぶち撒けたように立ち昇る黒煙の間隙を抜けていく1機の"ゴリッツァ"に砲弾が突き刺さる。
左側の生体機関にパンパン砲の直撃を受けたこの"ゴリッツァ"は最早大きくスピンしながら地面へと機首を向け落ちるしか無かった。

「旗艦より発光信号!<<我、沈マズ 船団、戦闘ヲ継続セヨ>>です!」
<サンスール>の船橋が歓声に包まれる。
それが漸く散々空の仲間を奪った敵機を1機落したからなのか旗艦が健在であり船団の崩壊が避けられたからなのか。
それともこの<サンスール>がこの空襲を無事、沈まずに乗り切ったからなのかボヂル船長には、分からなかった。
(もしかしたら全部なのかもしれない)
そう思った所で歓声に水を差す様に不快な甲高い音が後方から鳴り響いく。
彼が振り向くと、高射砲の赤熱した砲身が中途半端な所から裂けて折れ曲がっていた。


定時報告 498/01/23/0800

宛 帝国軍本部
発 カノッサ管区軍

内容
"ヴァサハン作戦"戦果及び損害報告

本文
先月に決定された戦略方針及び既発命令に基づき、カノッサ方面艦隊(在ディレニア・クランダル泊地)はポポフツキ中将旗下特務派遣艦隊によりメル=パゼル本土攻撃を実施するも連邦軍の索敵により断念
代わり第二軍事計画に基づき敵船団襲撃を実施した後、ホルスト艦隊を分派しポポフツキ本隊はディレニア泊地へ向け帰還中
ホルスト艦隊は、低空より浸透襲撃を実施しパレオ飛行場(メル=パゼル軍所管)への艦砲射撃に成功
第一軍事計画の一部目標を達成せり
概要下記に記す

撃沈
輸送船舶4隻乃至5隻

撃破
護衛空母1隻(ナーヒュール級と推定)
空防艦1隻

撃墜
アーキル機10~20機

地上撃破
メルパゼル機30機以上

これに対する特務派遣艦隊の損害は、以下の如くとの報告
撃沈
駆逐艦<ラズーヌイ>

中破
巡戦<テレジア>
軽巡<クトリャフカ>

損失
グランバール10機
ゴリッツァ4機

以上、損害は決して少なからずも特務派遣艦隊は、ヴァサハン作戦の第二目標を達成せり
また低空よりの空中艦浸透による飛行場襲撃の成功は、特記に値する
我がカノッサ管区軍は、より大規模な艦隊の投入によるカノッサ方面の敵飛行場の"殲滅"は、大いに有意義な結果を確信す
帝国万歳


-パルエ歴628年1月25日カノッサ湿地ディレニア・クランダル泊地-

618年から始まったと言われるパルエの寒冷化は、ここ数年特に著しく苛烈なモノになりつつあり本来熱帯雨林であるカノッサ湿地でも例外ではなかった。
帝国領カノッサ地区の南西部のある地域は、数日前に初の降雪が確認され一面を雪化粧に染めらられ、身を休める多くの帝国軍艦艇もそれらの一部となっている。
帝作戦で帝国の実権がクランダル帝室へと取り戻された事を記念して帝室家の再来の意であるディレニア・クランダルと名付けられてた、この地域こそがカノッサ戦域に於ける帝国軍最大の拠点にして泊地なのだ。
そういった泊地を賑わす艦艇にホルスト艦隊が加わったのは、つい先日のことである。

その旗艦を勤める艦が港湾労働者、貴族、軍高官と言った多くの群衆に囲まれ壮麗なるラッパと共にシャンパンを叩きつけられたのは、実に43年もの過去の出来事であった。
燦爛にして絢爛、端正にして壮観に洗練された新時代の戦艦であると当時のヴィマーナ造船所の高官が語ったイアベイル級――<テレジア>は、今は外見に言及すれば不格好の一言で片付けられる存在であった。
その横にはもう1隻、同じく不格好なイアベイル級が停泊していたが此方は、どうにも戦艦とは呼べない更に不格好な姿に変貌していた。
本来、主砲塔があるべき場所には代わりに巨大な起重機が鎮座しているのだ。
艦隊工作艦<オルデニア=マジャル>。それがこの艦の名である。

ヒグラート渓谷の長期戦化が最早避けようのない事態となったクランダルト帝国がカノッサ湿地に艦隊泊地を設営する際に最大の課題が艦艇の修繕、整備であった。
立地、気候等がどんなに恵まれた環境であっても設営部隊と物資、資材を現地に運び込めば一夜にして艦隊泊地が完成する訳でない。
だが近衛騎士団からの"提案"によりアーキル連邦に対する通商破壊戦の実行が既定路線とされていた以上、彼らは一日でも早くカノッサ湿地に根拠地機能を設営する必要に迫られていた。
しかし、最も厄介な問題であった設営するに当たっての最初の荷降ろし場の確保。つまりは、資材搬入の為の寄港設備の新規建造は幸いにも既存の物で直ぐに目処が立った。
アーキル連邦により建造された各地に点在する港湾設備がそのまま利用可能であると判明したのである。

計画の青写真が出来上がった官僚組織の行動とは、常に恐ろしく思えるほど素早いものでありクランダルト帝国軍もそう言った官僚組織の代表的存在と呼べた。
設営部隊が進出し資材が搬入が始められてから最初の通商破壊任務を帯びた帝国艦が新たな根拠地――ディレニア・クランダルに進出したのは僅か2周間後のことである。
だが組織が如何に素早く物事を推し進めようとも計画というのは、元より想定外と表裏一体の代物でもあった。
カノッサへの輸送路の維持が想定より遥かに困難だったのである。
特にグランパルエ河下流の南岸領域こと南エウルノア地域へメル=パゼル軍が積極的に進出を図った事が彼らの頭痛の種となった。
これにより根拠地化の遅延、特に修理設備の建造が大幅に遅れた事は、代わりに多数の工作艦と浮きドックを進出させうる決断に十分なものであり元巡空戦艦かつ艦名の通りパンノニア方面へと配備されていた<オルデニア=マジャル>がこの場に存在するのもその決断の一端である。
結局の所、"ヴァサハン作戦"もそういった現状の打破の為に実行に移されたと言って良い。

「いやぁ<テレジア婆さん>も随分、手ひどくやられたもんだね」
「メルパンの飛行場に突っ込んだって話だ。寧ろよく戻ってこれたもんだな」
ディレニア・クランダルへと新たに進出する帝国艦隊が多くの者から目視出来る距離までやって来たのは、その彼女の乗組員である同郷の帝国兵2名が当直ではない事を理由に艦尾甲板の一角を占拠している時であった。
「おいディー。あれを見ろ」

そう言って彼の指さした大空には、件の帝国艦隊が地上から上空待機を命じられ減速しつつあった。ここまでは、狼の巣に新顔が加わったというだけで特段、気に留めることも無い戦場の日常風景である。
しかし、その陣容は彼らの日常とはかけ離れている。
精々1、2隻も編成に居れば小艦隊を成り立たせるに十分であろう大型艦艇――それも戦艦級が14隻その艦隊には含まれていた。

「ふむ。広さの割には、随分と閑散としてるな。ディレニアという場所は」
その戦艦級達のうち1隻の航行艦橋。そこでは、クランダルト人にしては珍しい藍色の髪に金縁の眼鏡を掛けた女が指揮を執っていた。
「それも今日までですよ閣下」

「違いない」
大佐の階級章を身に着けた壮年の男――艦長である彼の返答に藍髪の女は、不敵とも取れる笑みを浮かべる。
彼女の名は、クルメ。階級は、帝国軍の艦隊司令官として当然ながら中将。
クランダルト帝国へと亡命したメル=パゼル人が祖父母の所謂メルパ系帝国人でリューリア戦役では、駆逐艦戦隊を率いグレーヒェン艦隊、アナスタシア艦隊と共に連邦軍第1艦隊を撃破した名指揮官――である以上に帝国軍きっての猛将として認識される人物である。
その彼女が立つ航行艦橋の景色は、壮観なものであった。
エグゼィ連合艦隊と呼称されるその艦隊の内訳は、帝国正規軍艦隊に限らず近衛騎士団、果には南パンノニア艦隊まで含まれ其れ等が空中待機する様は、さながら観艦式の様であった。
正しくクランダルト帝国がカノッサ戦域へと投じた決戦戦力と呼んで良い。
「さて、艦長。停泊してからの方が忙しくなる。準備頼むぞ」

帝国軍本部、パンノニア属領王立総司令部、ネネツ管区軍司令部、それから近衛騎士団等々と言ったクランダルト帝国の各上級軍事司令部へとエグゼィ連合艦隊のディレニア・クランダルへの進出が完了したとの報が伝わったのは、"ヴァサハン作戦"の完了が宣言されたのと同日――翌日の1月26日の事であった。
帝国の各所からの兵力をかき集め編成されたエグゼィ連合艦隊は実の所、一度に大戦力をカノッサ戦域へと送り込むために編成されたものに過ぎず到着と共に解隊が宣言され各小艦隊は、通商破壊任務へと就く筈だった。
連邦軍が保有する戦艦より多数の戦艦を一度に通商破壊へと投じれば最早、連邦軍も船団を守り切ることは出来ない――そう言った計画であったがしかし、"ヴァサハン作戦"の作戦報告が帝国軍本部へと報じられた事が急遽の計画変更を彼らに決断させていた。
理由は、まずもって偶発的な連邦機動部隊との交戦で予想を遥かに超える損害をポポフツキ艦隊が被った事が彼らにある懸念を生じさせていた。
多数の小艦隊を送り込んだ所で戦艦でなくとも――小艦隊程度ならば航空機だけで撃破されうるのではないのか。
次にホルスト小艦隊がメル=パゼルの飛行場への砲撃を成功させた事。無論、2隻のみでの低空侵入という戦術により成功した面もあるがこれをより大規模な艦隊で行えばカノッサ戦域への補給路を脅かすメル=パゼル飛行隊を尽く壊滅させる事が出来るのでは無いだろうか。
それでカノッサ戦域への補給路の安全が確保されたのならば後は、通商破壊作戦等しなくても良い。近衛騎士団を進出させエルデアの地を連邦艦隊の終の地にしてしまうことも不可能ではない。
この2つの意見を根拠に帝国軍本部や近衛騎士団の多くの作戦参謀達が1つの大艦隊としてエグゼィ連合艦隊を運用する様に主張しそれが承諾されたのだ。

エグゼィ連合艦隊に連邦は、対抗する術は無い。エグゼィ連合艦隊を決戦を挑んできた時こそが戦争の終わる時なのだ。と帝国軍上層部は、一様に考えていた。
後の結果からこの判断を大きく批判する声も後世には、存在したがそれが何を呼び込むのか、戦史上へ何を刻み込むのか未だ誰もが知らない故にそういった批判は、酷なモノであるとの反論もある。
ただ確かなのはカノッサへと訪れた戦争の冬は、最初の吹雪を迎えようとしていた事だった。

後の戦史家達は、"ヴァサハン作戦"若しくは"アジフ船団の戦い"をパルエ歴628年3月9日を頂点とした一連の連続した艦隊戦――シルクダット戦役の最初の戦闘であると記録している。


-パルエ歴628年1月26日カルログラード-

"ヴァサハン作戦"の顛末がカルログラードに設置されたネネツ軍司令部へと伝えられた時、これがネネツ軍に与えた衝撃はリューリア戦役や帝作戦の比では無かったと言われている。
その理由が駆逐艦<ラズーヌイ>の撃沈と軽巡<クトリャフカ>の被爆に有ることは明らかであった。
艦隊防空に於いては、クランダルト帝国を抜き去り南半球――それどころかパルエ一であると自負する彼らにとって航空攻撃の阻止に失敗したどころか艦艇の損失まで発生した事は、あまりにも信じがたかった。
これには、新型機である"ゴリッツァ"が狙い通りの高速性能を発揮し連邦直掩機を振り切り攻撃を成功させた事すらさして重要ではない。
同じ様な事が再び発生し母艦が沈んでいるようなことがあれば艦載機は、帰る場所を喪うのだ。
『SCV-1B計画艦』――後にアドミラル・ツァレン級航空母艦として知られる2隻の空母の建造計画が承認され実質的にネネツ空母機動艦隊が産声を上げたのは、それから1ヶ月後の事だった。


付録
アジフ船団の戦い(帝国側名称:ヴァサハン作戦)参加兵力

アジフ船団
ナーヒュール支隊(サンザル・ハージー)
護衛空母<ナーヒュール>ギズレッツァx20 スパルナIIx2
トリコイゼイ級<クイゼラ>デズレリアx4 レイテアx3
エミュライ級x6

第4航空戦隊(アヂン・ワイヤーク)
惑星級<エリクセ>ギズレッツァx12 グラハx16
メルティオール<ジプシィ・メルシィ>ギズレッツァx12 スパルナIIx4
トリコイゼイ級<シャウラ>レイテアx7
フロリテラ級x4

特務派遣艦隊
ポポフツキ艦隊(シェリノフ・ポポフツキ)
軽空母<サンクトウラスノルクス>グランバールx22 ゴリッツァ重雷撃機x16
クトリャフカ級<クトリャフカ>
アリクシシィ級x4

ホルスト艦隊(ウムラウフ・ホルスト)
イアベイル級巡空戦艦<テレジア>
グライン級<アスペルン・エスリンク>
クライプティア級x5※作戦不参加

最終更新:2019年07月22日 20:58