ユキハイトカゲの回想

戦争で一番驚いたことはなにかと言われれば、俺は間違いなく鉄トカゲを挙げる。

あれに遭遇したものなら、誰もがそう言うだろう。

運が良かったのか、悪かったのかは別にしても、貴重な経験だからな。

あの衝撃はなににも替え難く、かなり精神的に参っちまったよ。

前線で投入されていたら、俺たちはもっと悲惨なことになっていただろうぜ。

まぁ、だからといって、俺たちばかりが鉄トカゲに遭遇することになるなんて思ってもいなかった。

正直言って、まだ悪夢に出てくるよ。

雪原を這って、雪煙を上げて、俺たちの足元にかじりついてくる。

襲いかかって、氷を割って、鎧ごと水の中に引きずり込む。

誰も浮かんでくることはなく、いずれ氷が元に戻れば、俺たちは諦めるしかない。

あれには何十人もやられた。

俺も水の中に投げ出されたし、凍死しかけた。

とても厄介で、とても残忍で、とてもじゃないが太刀打ちできなかった。

 

 

まず、この話をする前に、ユキハイトカゲについて語らなくてはいけないな。

正式名称を聞かれても俺にはわからない。

学者がなんと言おうとも、俺たちのいた北東部じゃ、昔からユキハイトカゲと言われていた。

トカゲは知っているよな、ちょっと暖かいところに行くと家の壁に付いていたり、草むらの中をちょろちょろしたりする奴のことだ。

ユキハイトカゲも、トカゲというからにはそういうような動物だ。

普通のトカゲみたいなのとは、違う点が多すぎるだけで。

体長は、大人ともなれば腰の高さまである奴もいる。

猟師の話じゃ、もっと大きい個体もいたことがあるそうだ。

胴はかなり太く、尾にかけて細くなっていく体つきをしている。

異常に発達した前肢が特徴で、それに比べて後脚はあってないようなものだ。

胴に隠れてしまって、普段は見えないのも特徴だな。

前肢の付け根は胴の横に、つまり人間で例えれば肩の位置に生えている。

そこから伸びる腕も、飛行機の主翼みたいに太いんだ。

雪を掴む爪は、これまた指と一体化しているみたいに太くて長い。

その前肢を力いっぱい振るえば、人間だって簡単に足の骨を折られるだろうさ。

水かきも大きいのが付いているから、水の中が大得意。

そのおかげで、ユキハイトカゲは魚ばかり食べている。

 

顔はかなり特徴的だ。

鳥の鋭いくちばしを前に前に引き伸ばして丸く整えたような口をしている。

だが、その内周は獰猛な牙が光っていて、まさに肉食獣って感じなんだよ。

動物を捕食する時なんかはかなり大口を開けるように口の構造ができているらしい。

らしいっていうのは、俺があれに詳しい学者ってわけじゃないからだ。

とはいえ、猟師の話では、油断して頭を丸ごと口の中に抱えられたって話もあるくらいだ。

犬歯が若干広く、首の致命的な箇所を外れたおかげで、そいつは運良く助かったらしいがな。

なんていうんだろうな、あの形状はどちらかといえば魚の一種みたいだ。

頭は陸上動物みたいになっているわけではない。

くちばしの根本だろうか、そこに脳が位置しているおかげで、顔が魚みたいに見えるのかもしれない。

かといって、ユキハイトカゲは魚みたいにえらで酸素を濾し取っているわけじゃない。

肺呼吸をするから、陸上でも活発に動き回れる。

そう、例えるなら、クルカのお化けみたいな体型をしていると思ってくれればいい。

蓄えた脂肪分は、人間よりも効率的に寒さを跳ね返せるのか、沿岸部の寒村じゃ、「ユキハイトカゲに勝ってるのは胴回りだけか」なんていうからかい言葉もあるくらいだ。

 

生態は、もっぱら陸と海で生活する。

クルカとは違って、空は飛ばない。

飛ばれたらたぶん神様みたいに崇められていたかもしれないな。

卵生だから、子育ても陸上でやる。

主食は、さっきも言及したように魚だ。

小さければ追い回して丸呑みにするし、大きい魚だって群れでかじりついて取り殺す。

追い込まれて空に飛び出た魚を自慢の爪で引き裂いたところを見たなんて奴もいる。

じゃあ、「雪」「這い」なんて名前がついているのはなぜか。

あれは雪と氷がある場所なら、水のなかで泳ぐのと同じくらい速いんだ。

まぁ、同じくらいっていうのは言い過ぎにしても、雪の扱いは達人もびっくりだ。

ユキハイトカゲは自分の胴体を雪に浮かべて操舵する。

腹這いになって、前肢を使って「手漕ぎ」をするんだ。

人の骨を簡単に折る前肢と、雪と氷を深く捕まえる爪があるから、舟は簡単に前に進む。

腹の毛がよく滑るから、一度勢いがつくと勝手に滑ってどんどん加速する。

上り坂では腹の位置をうまい具合に変えて、滑らないようにすることでぐんぐん登っていく。

今と違って、ただの板を使って雪上で生活していた時代は、腹毛皮を得るためにユキハイトカゲを狩っていた時期もあったそうだ。

ユキハイトカゲの肉を食べて雪上での生活が上手くなるという話も、ちらほら聞く。

寒い地域の沿岸部では比較的見られる存在だが、それゆえに事故も多い。

魚を主食とするが肉食性だが、魚よりもトロい獲物がいれば陸上でも容赦はしない。

人間を見ればすぐに襲ってくるかといわれれば、そこまで凶暴ってわけじゃない。

三次元的な戦闘ができる水中では、体格差をものともせずに猛威を振るうが、陸上ではそうはいかないだろう。

動物の本能に従って、自分よりも大きい相手にはまず挑まない。

ところが、腰の高さしかない子供が一人でよちよち歩いてきたら話は別だ。

容赦なく食いついて、何年かおきにその地域を騒がして間引きされたり、教訓話が増えたりするんだ。

 

 

動物の講釈も終えたところで、本題に入ろう。

俺は東方鉄壁区で働く、根っからの軍人だった。

生まれも育ちもマルダルで、海風と共に生きてきた。

極地探索隊の集積基地が多いおかげで、仕事はいくらでもあった。

子供のときは大人に混じって荷役をしていた。

家族の稼ぎも合わせればそれだけで食べていけるほどだったが、十分じゃなかった。

そして、集積基地のつてを頼って、軍人になったんだ。

最初はそのまま、集積基地のなかで荷役の仕事を続けていた。

別に俺だけが特別だったわけじゃない。

そういうつてで軍人になったやつは見渡せばいくらでもいたし、都合が悪くなれば軍人じゃなくなることもできた。

今じゃ考えられないが、入るのも抜けるのも、帳面一枚だった時代だ。

規則なんてものはなかったね。

簡単に軍人になれるのも、軍人じゃなければ任せられない作業を肩代わりさせるためだったしな。

例えば、荷の検閲は補佐すら軍人でないといけない。

他にも、危険物の運搬は軍人でなければ。

重機の利用も、特定倉庫への出入りも。

軍人じゃなければ制限がかかるために、荷役を軍人に仕立てて仕事をしていたんだ。

すべてが人力で解決する時代のことだ。

これが模範解答だったんだろう。

 

そのうち、俺が集積基地に住み込みで長いことを知った誰かが、俺を本当に軍人と同じことをさせようと思いついた。

ちょうど性徴期だったから、身体は軍人にも負けないくらいになっていた。

一つ惜しいのは、荷役をするとどうしても身長が低くなってしまうことだ。

本当の軍人よりも一回り小さい背だったせいで、俺は簡単に見分けがついたらしい。

ある日、俺の上長から本当の軍人になるかと言われた。

給金は増えるが、もう除隊に関する紙は簡単に渡せなくなるぞ、とも。

それくらい、なんてことはなかった。

どうせここ以外に稼げる場所はないんだ。

なら、ここでずっと働いていたほうがいいし、もし転属になっても給料は安泰だ。

寒気のなかで水をかぶる漁師よりはマシか程度に思っていたが、後々のことを考えるといい選択だったとは言い切れないな。

ちょうど上長が声をかけたのが新兵募集の時期だったから、俺は基地で新兵に混じって訓練をするようになった。

俺はただの荷役をしていただけだったから、軍事訓練の経験なんて皆無だ。

ただ、訓練教官にしたがって、他の新兵と同じように軍人としての経験を積んだよ。

 

本当の軍人になって一番楽しかったことは、氷帆船の扱いが基地の誰よりも上手くなったことだろう。

氷結した場所でのみ使える個人帆船のことで、子供の頃から遊びで海に繰り出していた。

そのときの舟は本当におもちゃみたいなものだったが、軍の本格的な氷帆船は俺にぴったりの乗り物になった。

大重量の積荷を載せて、帆と竿が風を目一杯受け止めても破れも折れもしないなんて夢にも思わなかった。

風を受けるほど氷に舟の重みが伝わらない特性を最大限に発揮できる。

氷海を長距離偵察するために合理化された機体に、俺は夢中になった。

集積基地の悪い習慣を利用して、密輸した素材で舟を組むこともあったほどに。

港と集積基地があれば、密輸というものは非常にありふれたものだった。

諸島連合の雪事件ほど大それてはいないが、誰もが知っていてわざと見逃しているものだ。

俺が自分の氷帆船を組むというから、上司や同僚かが、様々な物資を持ち寄って試させてくれた。

聞けば、竿の素材は我が国の上質な冶金の賜物でも、帆を国外から輸入して氷帆船に仕立てているものが多かった。

これは諸島連合のどこの植物の繊維で、とか、こいつは自由パンノニアの由緒ある工房の、とか。

喧騒のなかで、皆がこれを密輸して手に入れていたことはなんとなく察していた。

手軽に輸入できるほど関税が低いわけではないのに、皆が持っている。

それなら、と独り言のように言葉を口ずさめば、悪い笑顔が俺に向けられていた。

手数料は悪いようにはしない、という誰かの言葉が酒精に香った。

 

荷は、忘れた頃にやってきた。

俺の家族宛の荷物がやってきて、集積基地のなかで受け取りの手続きを済ませた。

個々の配送をしていない場所では、手紙は郵便局が、荷物は集積基地が請け負うように体制が構築されていた。

本来ならそこから荷物をさらに配送する必要がある。

しかし、近隣の働き手が集積基地にいるおかげで、親戚程度なら代理として基地での従事者が受け取ってしまうのが慣例だった。

ささくれとスタンプだらけの木箱を開けて梱包材を外に出すと、驚いてしまった。

メル=パゼルのスクム糸で織られた、身体を覆うほどの操舵帆だった。

時間はかかったが、まさに俺の望んだものが転がり込んできた。

手口はこうだ。

我が国の西側関税を荷物が通れば、当然ながら関税に引っ掛けられて馬鹿を見る。

それに比べて、東側のマルダル関税は昔から、そういった規制が、諸島連合以外では緩いのだ。

だからこそ、かの諸島連合の雪事件なんていう事態に発展したわけだが。

しかし、免税と焼印の押された外箱は、本来の税金すら払っていないことを示唆していた。

どうやって税を免れたのかといえば、この箱がミテルヴィアから発送された宗教用品だと偽って免税の申告をされていたのだ。

うまいことを考えるものだ。

書類に薄く伸びる蝋やのりを広げておいて、後で不必要なスタンプを剥がして再配置したのだろう。

本当はメル=パゼルを出国してミテルヴィアを通過したはずなのに、ミテルヴィアを出国したという情報だけが乗った書類が荷物とともに届いたことになる。

内容物は壁掛けの織物となっており、ミテルヴィア発の宗教用品となれば、免税とするしかない。

追求しようとしても、相手が相手だけに下手な論争は起こせない。

少しの悪事を見逃しても、口を開かないほうが賢明とされれば見逃される。

裏道はどこにでもあるものだ。

そのおかげで、俺は氷帆船の操舵を快適に行えるようになったわけだが。

お前はユキハイトカゲだ、と言われたのが懐かしい。

氷帆船乗りにとっては、最上級の敬称だったから。

 

急激に小回りが改善されたおかげで、氷海の小道を難なく進めるようになった俺は、いつのまにか偵察部隊として海に派遣されるようになっていた。

偵察をする範囲は季節によって広がったり狭まったりしている。

氷帆船は氷の上だけを移動するために作られた舟だから、氷がある場所までしか行くことはできない。

冬はどこまでも行けるが、夏は散歩をするくらい、とは偵察部隊の皆が代わる代わる言う言葉だった。

しかし、今回は勝手が違っていた。

夏になっても水温が高くならなかった。

沿岸に設置された気象観測所も、南方の平均水温がゆっくりと下がり続けていると報告をしていた。

あかぎれまみれの手で密漁をしている諸島人を追い払ったり、氷で難破した船を助けたりをしているうちに、氷が南に伸びていった。

そのうち、夏なのに冬の初めみたいな氷の張り方をしたときは、寒さでげんなりした諸島人の船を見て笑ってやったものだ。

自然の力とはいえ、そのときは氷が我が国と諸島連合の国境問題を解決してくれるような気がした。

冬になれば諸島人の北上が止まるからか、諸島人は寒いところに来たがらないという迷信があった。

国境線の問題と、それに付随する「密漁」の問題が根深く海に広がっているマルダルでは、冬の季節は諸島人を追い払って快適な漁ができる季節だった。

ならずっと冬が続けばいい、春魚が取れなくなるからそれは困る。

酒場に入れば、漁師たちがいつも口に出す冗談としてそんなことを言っている。

それほど、冬の氷は魔除けのように諸島人から我が国の海を守ってくれていた。

 

状況がおかしなことになり始めたのは、そんな異常天候が何度も起きた後だった。

気象観測所が半年後にマルダル島との我が国の接続を予告した。

これは面白い言い方だろう。

氷を国土として換算する独特の言い回しによれば、我が国はマルダル島につながるんだ。

もちろん、この情報は一般に公開されなかった。

この頃になると、気象観測所は戦略情報として軍の統制を受けるようになっていた。

そもそも、マルダルに本格的な気象観測所が建てられたのも、軍とのつながりが強い特務部が入ってきてからだ。

諸島人が東方鉄壁区に出入りするようになった時期と重なっているところを考えると、なにかの対抗策で立てたものだったのかもしれない。

そして、翌月には。その観測所からの修正報告が届いた。

氷海範囲の大幅な上方修正、と書かれていたそうだ。

結果は、諸島が対フォウ管区と呼ぶ区域の半分を飲み込む寒波が襲うというものになっていた。

俺は、そして部隊はそのとき、とても困惑することになった。

なぜなら、マルダル島との接続が予告されてからすぐに、国境線を確定させようとする動きが活発になったからだ。

氷がある場所が我が国の動ける場所だ。

それがマルダル島まで続くのであれば、そこまでは進める。

なら、そこまで行こう。

冬は我が国の季節、氷は我が国の国土である。

そんな、寒さに浮かされた雰囲気があって、いつでも戦えるという流れができていた。

諸島人があまりの寒さに、東方鉄壁区の港という港から姿を消していて、誰も止めるものがいなくなったせいだったのかもしれない。

寒さが強まるほど、諸島連合が弱体化していることは誰の目に見えていた。

港で勃発する諜報戦や情報収集合戦は、我が国の防諜の勝利続きになっており、諸島連合は我が国の戦力の動向を測る術を失っていたようだ。

だからこそ、東方鉄壁区の集積基地を中心に、一大勢力が結集したとして、諸島人は研がれていく剣の、光のまたたきを察知し得なかったのだろう。

 

俺たちはといえば、長距離偵察任務が頻繁に発生するようになったおかげで、東方鉄壁区の動向なんて知る由もなかった。

氷の道が一面に広がっていくのだから、端まで見に行くのは偵察部隊の役目だ。

とはいえ、物資を点々と集積しながら、氷帆船を南へ南へと進めるんだ。

何ヶ月も氷海の上で生活することが増えれば、誰でも不満を持つようになる。

気晴らしに密漁船を追い回したりするのも、諸島人の船が一隻も見当たらないからにはどうしようもなかった。

さすがに寝不足気味になって変な気分で氷帆船を動かしていたときは、マルダル島付近で諸島連合の掃海艦相手に遊んで気晴らしをしていたくらいだ。

空の情勢がどうなろうと、海の情勢はあまり切迫してはいなかった。

もちろん、両国とも密漁船を追い回して拿捕もすれば、たまには本気で撃ち合うこともある。

ただ、氷帆船を用いる偵察部隊と、あまり氷にたいして深入りできない掃海艇の関係は穏やかなものだ。

氷と海。

自然が形作った国境に沿って、お互いに延々と並行して張り合って、疲れたら離れるというもの。

氷海の現状を報告するために始まった両者の行為は、罵詈雑言を交えた伝統になっていた。

風向きを読みながら、甲板に出てきた艦長と罵声の応酬をするのは楽しかった。

氷が張ったからって生意気してんじゃねえと言われて、寒さでろくに動けなくなるような船じゃおしまいだな、と言い返したりもした。

魚みたいに水を熟知している諸島人でも、薄い氷を砕きながら小舟を追い回すのは苦手なようで、最後には悔し紛れの空砲を一発だけ撃って戻っていった。

たまに、もしかしたらあれは礼砲だったのかもしれないな、と振り返って思うことがある。

簡単な船でもなんとか割れる程度の薄氷しかない環境だったんだ。

あの艦長も、氷帆船の性能は知っていたから、重装備の舟が走り回るなんて思ってもいなかっただろう。

少しでも速度を落とせば氷が割れるような環境で、度胸試しのように加速と急旋回を繰り返す俺は、かなり無鉄砲で肝っ玉なやつと思われていた。

次にあの船を見たのは、戦争が始まってからだった。

 

偵察範囲をマルダル島までと決めていたから、氷が水平線を地平線に変えていっても、俺たちがそこから先に行くことはなかった。

最近は諸島人にすら会わないな、と思いながらの退屈な毎日だった。

よく見るものといえば、我が国の戦闘機や偵察機の飛んでいく音が曇り空に響いていくくらいだった。

だが、状況はすぐさま大きく変わった。

パ型王偵がマルダル島の近辺を行ったり来たりしていると思っていたら、俺の頭上をタネマフタに護衛されたファーンの空対地揚陸編隊がマルダル島に向けて飛んでいった。

すべての航空機がマルダル島を目指して飛んでいくので、俺はその意味を考えるべきか悩んでいた。

結果はすぐにやってきた。

どんどん厚くなっていく氷の上を、悠々とガシリア機動戦馬が走ってきて、俺に戦争が始まったことを教えてくれた。

東方鉄壁区に戻った俺たちは、ずいぶんと様変わりした集積基地の面構えに驚かされた。

櫓が何棟も増設されていて、ご丁寧に土嚢と機関銃座で盛り付けられていた。

なかに入ってみれば、知らない顔が大量にそこにいて、その全員が完全武装だ。

物流を支える物資の集積基地は、戦時の兵站を維持する補給基地と化していた。

これが本来の姿だ、と言わんばかりに。

極めつけには、こんな状況でまだ軍人として荷役をやっている奴を見つけて問いただして、現状が逼迫していることを知ることになった。

彼らは、戦時への移行と同時に、除隊に関する書面が発行されなくなり、そのまま軍属として基地内で働かなければいけなくなっていたんだ。

 

俺たちは戦線の右翼陣営に参加することになった。

そんなことは聞かされていなかったから、ひどく混乱したよ。

後方勤務で偵察部隊の俺たちは、重火器の扱いなんて受けてはいなかった。

せいぜい倉庫で油の凍った機関銃を整備して、新しく引いた油の具合を試そうと、やたらめったらに弾薬を使ったときくらいだ。

一応の実戦部隊所属である俺でさえそれなのだ。荷役の管理をもっぱらの業務にしている基地内人員がまともに銃を使ったことがないことなどわかりきったことだ。

それを知っていたからか、極地探索隊の前線から引き抜かれてきた訓練教官が基地に配属されていて、その指導で短期的に銃火器の扱いを叩き込まれた。

だが、結局は精通とは程遠いもので、本当に形だけのものだった。

俺たちは一応の戦闘もできる後方要員であって、前線で戦うわけじゃないからだ。

主任務は兵站の管理業務で、せいぜい氷帆船を使っての偵察行動だろう。

偵察だって、氷帆船なんていう古臭いものじゃなくて、ガリシア機動戦馬が縦横無尽に駆け回れる環境なのだから、俺たちの仕事はないかもしれない。

そう思いながらも、マルダル島に急行するように命令されたときは、心臓が弾けるかと思った。

数ヶ月前に、俺の頭上を強襲揚陸機が飛んでいったことを思い出していたからだ。

まさか、あれだけ堂々と乗り込んでおいて、素人を最前線に投入しなければいけないほど苦戦をしているのだろうかと思っていた。

だが、現実は想像とは違っていて、俺はついにマルダル島で銃声の一発も聞くことはなかった。

それよりも、もっと壮絶な光景が広がっていた。

マルダル島は全部凍りついていたんだ。

諸島人の港も、漁船も、なにもかも。

島の南東部の海上で凍りつき、銃砲弾で穴だらけになっている掃海艦の墓場を見たときに、これは現実なんだと実感するようになった。

ここが水底だと言い聞かせるように、氷の大地に鉄の船が沈没していた。

榴弾に焼かれた船の一つに、俺と小競り合いをした艦の船体番号が刻まれていた。

甲板で白い息を手に当てながら、あの艦長はどこに行ったのだろうかと考えていた。

俺とあの艦長が直接戦うことにならなくてよかったと思うと同時に、この場にいない彼が心配だった。

諸島人のいない船のなかでは、誰もその答えを持っていなかった。

最前線は氷海の尖端を求め、青白い地平線はどこまでも南へと伸びているようだった。

 

前線の影さえ映らないなかで、俺たちはと前に前に進んでいった。

その間、まったく戦闘は起きなかった。

諸島人がいないのだから、戦闘が起きるはずもない。

絶好調なエンジンを唸らせたファーンが頭上を何度も飛んでいった。

新造されたグリディア戦車を前線まで運んでいたんだろう。

まさに快進撃というにふさわしく、俺たち基地勤務の出番はなかった。

唯一の仕事らしい仕事といえば、前線に続く補給基地の建設をすることだった。

氷海に立ち往生した戦闘艦や輸送艦を中心に、要塞を建設するんだ。

多少の深さまで氷を掘っても、水が湧き出してくるようなことはなかったから、ずいぶんと凝ったものだって作れた。

ただ、ちょっと作ったくらいですぐに前へ前へと押しやられるのだから、たまったもんじゃない。

我が国が勝ち続けているということがわかるので、嫌な気はしなかったがね。

 

俺たちが関わった船のほとんどは銃弾やら砲弾やらで穴だらけにされていた。

つまり、それは船が戦闘の結果、我が国によって奪取されたことを表していた。

どういう経緯でそうなっているのかを、凍傷で前線から外されたやつに聞いたことがあった。

戦闘の初期には、急速な氷海の広がりで為す術もなく氷に覆われた艦が多かったらしい。

諸島人は船を大切に扱うから、動けなくなった艦を捨てずになんとかしようとしていた。

そこで我が国の部隊と遭遇し、籠城戦に発展したということだ。

海上機動力と火力を持つ諸島連合の船は環境の変化に適応できず、あっという間に陥落したのだとか。

海という環境による恩恵をすべて失い、さらに寒冷な気候に慣れていない諸島人が、そういった環境で育った我が国の部隊に叶うはずがなかった。

船を船として扱えても、動かぬ要塞と化したそれを諸島人はどう戦闘に役立てられただろうか。

おそらく、あの艦長もその一人だったんだろう。

 

状況が伝わると、諸島人も対策を講じるようになってきたそうだ。

まず、氷漬けにされないように立ち回ること。

そうすれば諸島人は得意な海の上で戦っていられる。

机上の理論だということを除けば。

氷海は南下していて、我が国の部隊もそれに続いている。

諸島人が前線を下げてばかりではどうにもならない。

現場では、割れる範囲の薄氷を行動限界としながらも、大口径の艦砲を武器に一方的な攻撃をするという戦闘方式に落ち着いていたようだ。

それが諸島連合の艦と艦砲の強みで、遅滞戦術としては我が国の部隊はもっとも損害を被ったらしい。

しかし、諸島人は氷海の怖さを知らなかった。

潮目が変わり、諸島連合の艦に回り込んでくると、すぐさま船は氷に覆われた。

風が吹き付けて、積み重なった薄氷と水が結合し、厚い氷の板に変身する。

次の日の朝見てみれば、動けなくなった諸島連合の船が鎮座している光景がよく見られたらしい。

そうなれば、あとは地盤が固まるのを待っての攻城戦が待っているだけだった。

艦砲による応戦で多少の被害は出たものの、諸島連合にとっては動けない船になんの優位性もあるはずがなかった。

 

そうして得た船を俺たちが補給基地として再利用しているというわけだ。

我が国としてみれば、この船ほど優位性の高い代物はない。

船はまさに要塞だった。

ずいぶんと柔らかいものだが、要塞と呼ぶにはふさわしいものだ。

この手の建築を初めからしようとすれば、戦争が終わってしまうだろう。

しかし、ありがたいことに諸島人が完成した状態でここに置いていってくれているのだ。

使わないという選択肢はなかった。

氷漬けの船は、精神的な支柱にもなった。

諸島人だって負け続けるのを許容しないから、どうやっても戦線を押し返そうとしてくる。

歩兵を上陸させて戦線を膠着させようとしたり、まだ凍っていない海の上から砲撃を繰り出したりする。

砲撃が一番やっかいなもので、補給線を砲撃で混乱させる戦術によって、しばしば前線が停滞させられた。

諸島人の正確無比な海上砲撃は、射程距離に入ってさえいれば動けない補給基地を叩き潰すことも難しくない。

実際に、武器弾薬を野ざらしで貯蔵していたある例では、艦砲の数十発だけで全損させられたこともあったそうだ。

その教訓として、積極的に座礁船を狙い、物資を詰め込んでの基地運用をするようになっていたのだとか。

諸島人も遠くから氷漬けの船一隻に当てるような技術は持ち合わせていないので、諸島人の船が俺たちを艦砲の至近弾の脅威から守ってくれるというわけだ。

仮に当たったとしても、地面に船が乗り上げているような状況では、沈没のしようもない。

砲撃で氷を割られるんじゃないかという不安も、船底まで凍って動かない船を見せつければ、その場にいるものを安心させる格好の材料になった。

まぁ、俺たちは行けども行けども前線にたどり着くことはなかったから、そういった被害を受けることもなく、ただ船を切ったり貼ったりして次に行くだけだったが。

 

 

氷海の伸びしろが止まってから、戦争の天候は大きく変わっていった。

諸島連合の首都が陥落したとか、左翼が徒歩で首都に乗り付けたとか、そういった話が聞かれるようになった時期だった。

右翼側だった俺たちは、あまり役得のようなものがないなと愚痴りつつ、そこそこに平和な前線暮らしをしていた。

アーキルとパンノニアに挟まれた地中海管区所属の戦闘艦と正面衝突したのも昔の話だ。

右翼側の氷が海を渡りきったおかげで、地中海管区の艦隊は地中海に閉じ込められていた。

また、中洋管区の艦船が首都防衛に駆り出されてしまったらしく、地中海の戦闘艦は右翼に二正面作戦を強いる展開を放棄していた。

かといって、こちらとしても氷海の端がどこにも伸びていかないのだから、右翼側の進撃は実質的な攻勢限界地点まで来てしまっていた。

最前線は砲撃戦から打って変わって、諸島連合の上陸作戦を防衛する形態に移行していった。

といっても、諸島人も氷の上で戦うことは初めてだから、適当にあしらっておけば散り散りに逃げていく有様だ。

ただ、深追いだけは禁物で、待っていたとばかりに沿岸に待機していた艦砲が狙ってくる。

地中海管区の諸島人がたまに上陸して、逃げ帰っていく散発的な戦闘がいつまでも続いていた。

俺たちはどこにも行くことがないから、毎日を拠点の改修に時間を費やしていた。

戦争が終わるのに、やることがないからって無駄なことで時間を潰しているって笑い合っていた。

ずいぶんと平和だったよ。

前線から補給で帰ってきたやつに、戦闘中に氷が割れて戦車がハマったと愚痴を言われるまでは。

その一件から遠くないうちに、気温が急激に上昇し始めた。

曇り空が雪を降らせないまま通り過ぎて、寒気が徐々に駆逐されているのが肌でもわかるようになった。

このまま気候が回復すれば、右翼陣営は地中海の艦隊の封鎖を抑えられなくなる。

そういった話が飛び交って、ちょっとした話題になっていた。

右翼側はパンノニアまで氷が張ったせいで、溶けるとしたら最初に溶けるとは言われていた。

地中海管区の連携が回復することは、対左翼陣営の戦力として合流されることを意味していた。

機動力では船に勝るものはないので、俺たちが慌ててそれを追っても、左翼側の加勢にはなれない。

輸送機を全力稼働させても、そうそう大人員を動かせるわけでもない。

戦力配置を見直そうという話が持ち上がって、誰がどこに行くという予想が飛び交った。

 

そして、事態は予想と対策を超えて、最悪の状況に転がった。

今までの気候を巻き戻すように、急激に温暖化が進行したんだ。

地中海の艦隊は悠々と中洋管区と合流してしまった。

それに対して、割れた氷によって横のつながりを喪失したからには、右翼陣営には撤退しか道が残されていなかった。

日に日に増えていく諸島連合の戦闘機が、旋回しながら俺たちの後ろをどこまでも付いてきて、俺たちは負けているんだと肌で感じるようになった。

左翼陣営も同じように撤退していて、戦闘機による戦闘は一段落ついているのだろう。

最初はエトーピリカが一機だけ遠くを大きく旋回しているだけだったのが、そのうち何機もの編隊が近くに寄ってきた。

諸島連合に余裕ができている証拠として見せつけられているようで、士気の低下に直結していた。

規律は乱れていたが、俺の周りは戦争が終わることを静かに話しているだけだった。

戦争に参加していてさえ、俺たちは前線から遠く離れていたから、戦争は他人事だったんだ。

 

氷漬けの船たちが俺たちを出迎えた。

あの艦長の船が見えた瞬間、俺たちはマルダル島まで帰ってきたんだと思えた。

ただ、それらは船と呼べるかも怪しいほどに、物騒な建造物になっていた。

俺たちが最後に見たときとは様相を大きく変えており、頑強な要塞と、城下町のような雰囲気を漂わせていた。

甲板には持ち込まれた対空砲が据え付けられ、修復された艦砲が遠くの海を睨んでいた。

銃砲弾によってできた穴はすでに鉄板で塞がれていたが、なにより俺たちが驚いたのは内装だ。

発動機はスクリューから外されていて、持ち去られたようだった。

代わりに、我が国の燃料を使う発動機が据え付けられていて、いい音をさせながら発電機を動かしていた。

船内は細く、狭く、とてもではないが発動機を撤去したり持ち込んだりするようなことができる環境ではない。

時間をかければ分解した部品でそういったことはできるかもしれないが、あまりに労力がかかりすぎてしまう。

ところが、この船にたいしては、それを惜しまなかったのだろう。

底冷えしないよう、船底の金属板に特殊鋼板を敷き詰めてあったのも驚いた。

船としての機能が必要なくなったとはいえ、陸上にある我が家のように改造していたんだ。

聞いてみれば、マルダル島を諸島人から守る最後の砦となるために、この座礁船郡が指定されたからなのだという。

もちろん、マルダル島にも防衛戦力は配置されているのだが、そこでなにもかもを賄うには、あまりにも非効率的すぎる。

それに、マルダル島はそこまで大きい島でもないわけで、補給基地と戦闘部隊の基地を同じ場所に配置しては敷地の奪い合いになるだけだ。

そうするよりも、島の延長として船を見立てることで戦闘部隊の基地を分散させる狙いがあった。

 

ただし、俺がマルダル島に上陸できたのは、ずっと後になってからだった。

船の墓場で少し補給してから、また戻るのだろうと思っていたが、いつまでたっても移動の指示はかからなかった。

小休止で少しはくつろげるかなと思っていたのに、予想よりも長い期間留め置かれていた。

戦争は負けているんだろう。

ここ最近は寒波が戻ってきたとはいえ、海氷は次々と砕けて海が迫ってきているというのに。

いつまで待たせるのかと、逆に不安になっていた。

ここで顔見知りになった部隊の連中もそれは同じのようで、不満そうにじっと耐えているようだった。

それでも、戦闘部隊から優先的にマルダル島までの移動支持が出るのを見て、羨ましくなかったといえば嘘になる。

俺たちは知り得なかったが、そのときには、もうマルダル島との氷の接続は切れていたらしい。

それどころか、俺たちの乗っていた氷はすでに海に浮くだけになっていたんだ。

どうりで、なかなか俺たちが下がれないわけだ。

下がらせようにも、陸伝いにいけなくなっているんだ。

なんとか海を渡らせるにしても、それほど手段を用意しているわけでもない。

極端に機動力が落ちて、前線付近にいた俺たちには軍の動きが止まっているように見えていたというわけだ。

 

砲撃や銃撃の音がだんだん近くなってきたことで、要塞はにわかに活発的になった。

武器弾薬がせわしなく動いて外へ出ていくようになった。

ついに諸島連合に追いつかれた。

直感的にそう思った。

恣意的な引き抜きで補給部隊が異常な比率を占めている基地が前線になろうとしている。

抗いがたい事実だったが、それにたいして有効な対策を立案、実行できるものは、すでにいなかった。

俺たちができたのは、集積基地出身の人間らしく物資の整理を指示することと、見張りとして地平線を眺めては、氷のかけらがきらきらとまとわりつく黒煙を眺めていることだけだった。

それすらもできなくなると、爆発の衝撃波が船の外殻を叩いて響き渡るのを聞いていることしかできなくなった。

俺たちの知らない戦闘はすぐ近くに来ていたが、子供に悪いものを見せないようにするかのように、俺たちは目隠しをされるように閉じ込められていた。

船のなかで砲弾を運んだり、船の横に開けた穴から物資をやり取りしたりはした。

外へ出ても船の影で作業するだけだから、戦場の方面は全く見ることができない。

ただ単に、足手まといな非戦闘部隊を押し込めておいただけだったんだろうけどな。

見せてくれないからこそ、なにが起きているのかわからず、それゆえに怖いものだ。

船に据え付けられた艦砲が発射される音が腹に響くようになった頃は、戦闘はすぐ近くで起きているということくらいしかわからなかった。

敵はなんだ。

艦砲が使用されているなら、その範囲に敵がいるということだ。

もし諸島連合の戦闘艦と戦闘しているんだったら、向こうも応射しているはず。

つまり、艦砲は諸島連合の上陸部隊を狙って撃っていることになる。

それくらいしかわからなかった。

ただ、たまにとても大きな爆発音が響いて俺たちをびっくりさせることがあった。

普通の砲弾や爆弾とは違った、鳥かごを蹴りつけたような衝撃が船体を揺らした。

氷に固められているのに、本当に揺れたんだ。

突風にあった木が根を千切られるような音が船底から響いたのを全員で聞いた。

船が倒れるんじゃないかと思ったし、そのときに誰か助けに来てくれるだろうかと怖かった。

何度もひどい衝撃を経験するうちに、規則性があることに気づいた。

その爆発があるときは、いつも対空砲座が全力射撃を行っているんだ。

うるさい連射音が響き渡って、とてつもない衝撃が船殻を揺らす。

ある日、誰かが航空爆撃だと言った。

状況を突き合わせれば、航空機からの爆撃というのも頷ける話だ。

ついに爆撃のできる航空機が右翼陣営に投入されたのかもしれない。

俺たちにまともな航空戦力がないことを確信したのだろうか。

マルダル島の戦闘機隊はなにをやっているんだ。

鬱屈した船内で味方へのいらだちが募っていった。

 

船の見取り図を自分たちで作成して、いつでも脱出できる準備を始めた頃だった。

船の外に出て物資の受け渡しをしていた。

切り取られた外殻に背中を預けて、渡される箱を次に渡す作業だ。

重苦しい砲撃音が腹に響くなかの受け渡しをしていると、ふと砲撃音が止まった。

そして、突然船の機銃座が全力射撃を始めたんだ。

どこに爆弾が落ちるんだ。

前にいる戦闘部隊だろうか。

それとも、船に落としてくるのか。

船の日陰から見た空は青くて、なにもない空に吸い込まれそうだった。

なのに、ジェット機が全速力で進むような、すべてを塗りつぶす轟音を聞いていた。

俺はその瞬間をまったく覚えていない。

瞬間的に大きな衝撃があると、人はその出来事を記憶することができないとされている。

放心状態から立ち直ったときに聞かされたのは、俺が籠もっていた船は爆撃で沈んだということだった。

仲間と一緒に水底へ真っ逆さま。

俺だけが船から放り出されて、砕け散った氷と、海が混じる水たまりのなかから救出された。

もちろん、俺以外にも助かったやつは何十人といた。

だが、俺と一緒にいた物流基地の面々は、船と一緒に沈んでしまったんだ。

 

悲しみよりも混乱が俺を支配した。

なぜ、要塞が沈む。

なぜ、航空爆弾だけで沈む。

氷の厚みは十分にあって、徹甲爆弾でさえ小さな穴を開けるだけなのに。

まさか、航空爆弾が船を直撃したのだろうか。

弾薬庫や燃料庫が誘爆して、燃え尽きるまでに発生した熱量で氷が溶けて沈んだのだろうか。

なんで、どうやって、という俺を、戦闘部隊の誰かが真実まで連れて行ってくれた。

氷の上に、大きななにかがいくつも転がっていた。

それにしても大きかった。

諸島人の小型船舶を陸上げしたような大きさのそれは、形は様々だったが塗装はすべて緑を地に採用したものだった。

こいつにみんなやられたんだ。

忌々しいものに呪詛を投げかけるような口調で言われて、初めてこれが爆弾なんだと気づいた。

これが空から降ってきたのだろうか。

それにしては、形状が大きく異なっていた。

航空爆弾は、空気抵抗にたいして均一の負荷を求めて円筒形を基本としたものになる。

この爆弾は、ちょうど円筒形を縦半分に切り取ったような形をしていた。

どうやっても空から落ちてくるような形状ではない。

鉄トカゲだ、と兵士は言った。

名前を聞きたいわけじゃない。

俺は、こいつがどうやって俺たちを殺して、船を沈めたのか聞きたかった。

 

皮肉にも、次に乗った船は、あの船長のものだった。

仲間を殺された怒りで燃え上がっていたから、俺は甲板の上で銃を構えていた。

立場が逆転したように、地平線から諸島連合の上陸兵かがぞろぞろとやってきていた。

ただ、いつもどおり、要塞から放たれる艦砲の殴打が有効に作用して、相手もにじり寄ってくることしかできていない。

音さえ聞けば、いつもどおりの戦いをしているんだと気づいた。

一撃で船を沈められたことが嘘のように、戦場は比較的優勢に見えた。

ただ、要塞の防衛が有利になるほど、周りの緊張は増していった。

まるで、これからなにかが起きるのか、すでにわかっているかのように。

彼らはすでにわかっていたんだ。

誰かが、小さな声を発した。

きた、と。

動揺が伝播して俺を通り抜けていくと同時に、甲板は一気に騒がしくなった。

鉄トカゲだ、鉄トカゲがくる。

その声と同時に、対空砲座が窮屈なギアを全力で回して躍動し始めた。

砲は下を向いて回っていた。

俺はとっさに鉄の甲板に身を投げだした。

それでも行動は遅かったらしく、鉄の床に跳弾した爆音が俺の耳に当たって、瞬間的に耳が聞こえなくなった。

代わりに、研ぎ澄まされた目はすべての出来事を捉えていた。

大口径機銃が撃ち出す曳光弾の先には、噴煙を上げてなにかが地平線からこちらへ突進しているのが見えた。

それが鉄トカゲだった。

鉄トカゲは雪の上を滑ってきた。

平らではない氷面を、まるで雪板を履いたように飛び跳ねながら。

不規則な動きが機銃座を惑わせて、俯角の不足で機銃座が沈黙するまで、一発もそれに当たりはしなかった。

邪魔が入らないと確信した鉄トカゲは、飛び跳ねるのをやめて、目標を品定めし終えたかのように、一直線に滑ってきた。

下では、雪の上に建てられた陣地から鉄トカゲに向けて応射しているが、果たしてそれが効果を及ぼしているのかわからなかった。

わかるのは、あれが俺たちめがけて突っ込んできたということだ。

あの速度では、なにか壁に当たるまで止まるまい。

そう、例えば船の外殻のような──。

思考が核心にたどり着いた瞬間、鉄トカゲから金属が捻じ曲げられる嫌な音がした。

雪を盛って作った弾除けの坂に弾頭を引っ掛けて、勢いのままに打ち上がったんだ。

頭をひしゃげさせながら、尾を空高くもたげた鉄トカゲは、地面と垂直になった瞬間真っ白になった。

床とヘルメットの隙間は光に溢れて、前が見えなくなった。

 

我が国はそれに長距離滑走弾という正式名称を与えた。

兵士の声は、それを「鉄のユキハイトカゲ」と絶叫した。

「鉄トカゲ」

前線の兵士に恐れられたそれは、陸上での戦いに不利な諸島連合が持ち出した、自作の攻城兵器だった。

後の調査で、あの弾頭がアーキル連邦の戦略空雷投射艇に搭載されていた、空対空誘導噴進空雷を転用したものだと判明した。

氷でどこにも行けなかった地中海管区の海軍が、アーキル連邦との貿易で手に入れた軍需物資の放出品。

製造年が古い弾薬の処理として放出したアーキル連邦の市場には、ランツァー級の搭載する最大重量の弾頭がいくつも転がっていた。

空を飛ぶように設計された弾頭を氷上で進むように改造したものが、鉄トカゲの正体だったんだ。

元々の設計からして、沈まずの航空艦相手に馬鹿げた威力を叩き出して致命傷にするための装備だ。

半分に切ったからって、その威力がそうそう落ちるものでもない。

ヒグラート渓谷の巨岩をも砕く弾頭は、戦場で次々と氷を砕いてまわった。

雪原を滑走させ、我が国の陣地に飛び込ませて起爆する。

運用は至極簡単で、それゆえに我が国も物理的阻止以外の対策のしようがないものだった。

拠点まで前線を下げ、諸島連合に食いつかれたとき、諸島人は鉄トカゲの有効性を座礁船への攻撃に効果的だということを実感したらしい。

どれだけ厚い氷でも広範囲に割れる爆薬を搭載しているんだ。

もしそれが運良く船の近くで起爆すれば。

いや、船に直撃すればどうなるか。

船を取り戻そうとして奮闘することをあきらめれば、簡単にフォウ王国を撃退できるとしたら。

船を愛する諸島人の矜持を代償として、作戦は実行に移された。

 

吹き抜ける風が俺を船のへりから引き剥がした。

垂直になった弾頭が起爆して、爆風が四方にぶちまけられた。

黒煙に包まれた地上がどうなっているのかなど、聞かずとも察せられた。

たとえ生きていたとしても、氷が割れて足場をなくし、冷たい海に命が撒き散らされてされていることだろう。

船は爆圧によって外殻がへこんだが、その程度で持ちこたえていた。

迎撃に成功して、起爆した鉄トカゲが放つ轟音。

俺たちが船のなかで聞いた音はこれだったんだ。

記憶と現実が一致すると、理解は早かった。

もしあれが船に当たっていたら。

考えた瞬間、抜け落ちた記憶が想像力に補完されて怖気が走った。

俺が前の船で体験した記憶が流れ込んでくると、夢のように曖昧で、しかし現実に即したような実感を伴って、身に起きた出来事として記憶に定着していった。

ちゃちな爆撃では、要塞と化した船を沈めることはできない。

沈まない船だからこそ我が国に船がいいように要塞化しているのだから。

なら、喫水線に大穴を穿ち、船の周囲の氷すら破壊するような兵器が直撃したら。

船は本当の水底に真っ逆さま。

戦場は煙が晴れるのを待っているかのように静かだった。

撃った敵方でさえ躊躇して進軍をのろまにさせるほどの威力。

一気に諸島人がなだれ込んでくればまだ良かったのに。

防盾に破片が直撃して、あらぬ方向に向いていた対空砲座が復活した。

噛み込みがうまく行かず、歯車がぎこちなく削られる音をたてながらも、向き直った砲座が射撃を再開した。

銃声の束が次第に艦砲を交えた大轟音に変化する頃には、諸島連合の上陸部隊は滅多打ちにされて撤退していた。

今日を生き延びた。

顎を引けば、砕いた氷に様々なものが浮いている、海面に様変わりした陣地が見えた。

果たして、生き残れたことはいいことだったんだろうか。

絶望的な状況下でさえ戦力は拮抗し、戦争は予想外に引き延ばされていた。

 

諸島連合の戦術は力押しそのもので、上陸部隊を同じ方向から突っ込ませてくるだけだった。

ほかに戦術のとりようがないんだから仕方ないのかもしれないが。

それだけならよかったが、鉄トカゲも愚直に突っ込んでくるものだから、陣地がいくつも潰された。

叩き割られた氷は自然と氷海に戻るとはいえ、派手に吹き飛ばされた陣地は氷の厚さがある程度まで形成されるのに時間がかかる。

重量級の装備を置くことはできなくなり、自然と戦力は低下する。

そして、再構築している最中に轟音とともに巨大なロケットが突入してくる。

何度も突入阻止策を講じて、それでもやってくるから、不毛そのものだ。

しかも、不発になって転がされた鉄トカゲを見るたびに、どんどん小型化しているようだった。

爆薬も減っているのだろうが、そのぶん相手の持ち駒としては増えることになる。

そのせいで、鉄トカゲの出現回数が増えて、俺たちは疲弊させられていた。

諸島連合は以前のような大型弾頭を使い渋って、船に直撃させられると判断するまで、障害物除去のために小型化した鉄トカゲを用いていた。

それでも、人の高さより若干小さいくらいで、辺り一面を海に還すほどの威力だ。

障害物とはすなわち、船の前に置かれた陣地のことで、吹き飛ばして更地にし、そこに本命をねじ込むつもりだった。

それを防ぐには、無理にでも陣地を構築して出血に耐えるしかない。

また、対空砲座はともかく、補給を失った艦砲の弾薬が尽きかけていたから、戦況としては大きく劣勢に傾いていた。

それでも善戦を演じられているのは、相手が諸島連合の歩兵相手だからだ。

相手からすれば、無限に弾薬を持つ難攻不落の要塞に見えていたに違いない。

艦砲の発射される頻度がいつの間にか落ちていても、相手は気づいて猛攻を仕掛けてくるようなことはなかった。

 

数々の仕掛けも、仕掛けた人員ごと弾頭に吹き飛ばされて、何度もなかったことにされた。

そして、最後の時がきた。

鉄トカゲだ。

最初に叫んだのは俺だった。

ロケットに点火した噴煙が地平線から立ち上がったのを見逃さなかった。

対空砲座が全力で射撃を開始した。

雪から顔を出した敵戦車の砲塔を牽制していた曳行徹甲弾の光が、横薙ぎに氷を縫った。

俯角の限界まで追いすがって、やっと鉄トカゲに追いついた一発が、推進剤の入っている尾部に吸い込まれた。

ロケットが均等に機能しなくなった弾頭は、縦にギザギザと掘られた誘導路の溝のなかで暴れまわった。

侵入者を放り出すために生み出されたそれを、溝の壁をひとしきり跳ね回ったところで、飛び越えてきたんだ。

安定翼の部分から推進剤を破裂させた鉄トカゲは、尾を失った衝撃で塹壕も障害物も飛び越えた。

緑色の外板を雪原に飛び散らせながら地面に不時着した弾頭の先には、俺の乗っていた船があった。

甲板から身を乗り出して真下を見たときには、腹を空に向けるように回転しながら突入してきた鉄トカゲが、船の腹に大穴を開けて突き刺さった。

金属があらゆる音を響かせて、俺は耳をふさいだ。

その瞬間、ロケットの燃料が燃焼する音が小さく響いて、目の前が真っ黒になったんだ。

実は、あの弾頭は不発弾だったんだ。

直撃した時点で爆発する仕様の爆弾だから、突き刺さるなんてことは本来起きない。

だが、そのときは偶然にも違う事象が起きていた。

最初の阻止射撃で、曳行徹甲弾が運良く予備推進剤の区画に飛び込んだ。

諸島連合は、機体制御のために、強力な推進能力を持つ予備推進剤を使用していなかった。

暴発した予備推進剤は本来の機動を狂わせたが、それが原因で運悪く船に直撃した。

運良く信管は作動せず、本当ならそのままで終わるはずだった。

ただ、弾頭に搭載された予備推進剤と爆薬を兼用していた区画が問題だった。

着火した予備推進剤と爆薬は隔壁を挟んで隣接するように設計されていた。

設計では、突入の衝撃で隔壁は破壊され、信管が不発だった際の補助機構として機能するようにできていた。

その設計どおり、直撃して壊れた隔壁越しに、予備推進剤の火が入って爆薬が誘爆したんだ。

 

意識が戻ったときには、俺はマルダル島にいた。

傷病者として優先的にマルダル島まで下がることができたんだ。

あれだけマルダル島まで下がりたかったのに、傷だらけになってやっと帰ってこられたのは皮肉のようだった。

病院の窓から青い海を見て、海が海だったことに驚いた。

そのまま、船が浮かぶ氷をかき分けて行き来する異常な光景に、呆然と眺めているしかなかった。

マルダル島と戦線の接続がなくなったことを知ったのはこのときだ。

体の節々が痛くて、起き上がれるようになるころには戦争が終わっていた。

結果は引き分け、痛み分け。

俺のいたマルダル島は停戦まで持ちこたえたから、我が国の領土になった。

代わりに、東方鉄壁区は激しい上陸戦の末に、諸島連合に噛みつかれたままになった。

結局のところ、マルダル島は主戦場にはならなかった。

氷が艦砲の交戦距離まで後退したのをいいことに、艦隊の圧倒的な機動力で翻弄された船の要塞は、すぐに陥落した。

次はマルダル島だろうとの見立てに反して、諸島連合の船団は通り抜けざまに艦砲で沿岸砲台と応戦しただけだった。

戦線はマルダル島を孤立させたまま、我が国の沿岸部に移動していた。

そして、ついに諸島連合は東方鉄壁区に上陸戦を仕掛けたんだ。

下がり続けた左翼を押し続けて、東方鉄壁区の左翼から上陸した。

本土でも鉄トカゲは猛威を振るったらしいが、あまり大活躍とはいかなかったようだ。

氷は割れても地面は割れないからな。

ただ、マルダル主戦車は鉄トカゲの猛攻もあってかなりの損害を出したらしい。

一点集中の大攻勢の結果、俺のいた補給基地は敵の領土になってしまった。

放棄される間もなく占領されたというから、なお悪い。

俺の働き口がなくなっちまったよ。

 

戦争が終わって、俺は軍をやめた。

元いた場所がなくなってしまったんだから、軍にいる理由もない。

致命的な外交で、我が国が一方的に伸されるかたちで戦後の取り決めが集約されたことさえ、俺には関係のないことだった。

マルダル島以南の、我が国の領海が認められなかったとか、「内地」での貿易においての大幅な関税の撤廃だとか、様々なことが起きた。

ああ、「内地」っていうのは、諸島連合が進出した我が国の領土のことだ。

外国なのに内地と呼ぶのは、まあ察してくれ。

複雑な心象の結果、あの土地はそう呼ばれるようになったということだ。

それが今でも続いているだけさ。

それすら、運輸業に再就職した俺にはあまり関係のないことだった。

長い間触っていなかったから、体のリハビリも兼ねて雪帆船を操っていたら、荷を運んでいたいかつい男たちに目をつけられた。

彼らは雪帆船での輸送を専門にしているところで、沿岸部を疾走する小型貨物快速便として有名な業者だった。

俺の雪帆船の腕前が活きる仕事だと思ったし、もしだめでも基地での経験を生かして倉庫の管理くらいはできるだろうと思って快諾した。

それに、「内地」から逃げてきた家族も養わなければいけなかった。

実質的に負けたというのに、なぜか街は活気づいていた。

諸島連合が接収した集積基地が、そのまま商用倉庫として払い下げられたんだ。

極地探索隊向けの物資が民間に格安で放出された結果として、物が市井にあふれるという事態になった。

税を免れるという特権を持つ「内地」の品々は、国境を超えて我が国の民間貿易の一部になった。

その際に整備された市場は、そのうち諸島連合から入ってきた物資をやり取りするための市場に様変わりした。

諸島連合は商人気が強く、ただ国土に居座って維持費を浪費するだけの存在にはならなかった。

当面は貿易による税と手数料を徴収して運営に充てるようになったんだ。

そうなると、我が国の民間人は大切なお客さんというわけだ。

関税障壁が解除された結果、我が国向けに大手を振って商売できるようになっていたから、それに水を差すのも合理的ではない。

戦争の惨禍とは裏腹に、経済はうまく回り始めていた。

俺も恩給を使って、陸の諸島人から免税特権で入ってきた布を買い漁って、さっそく雪帆船を組み立てた。

メル=パゼルのスクム糸ほどじゃないが、風に負けないいい帆だった。

 

貿易のおかげで、快速便は大忙しになった。

上流から水が流れるように、ものの流れは南下の一途をたどった。

日用品の大量流入で、氷帆船は初期から大活躍した。

倉庫に戻ってくるたびに、なんでもいいから荷物を海沿いに南下させろ、という指令書が押し付けられる日々だ。

荷物を降ろしたら降ろしたで、北まで戻るのに軽い手紙でも載せるかと思っていたところに、荷を運んだのと同じ給金を積むから、空荷で北へ向かえと言われ続けた。

特に需要が高まったのは砂糖だ。

砂糖だけを積載重量いっぱいまで積んだことは何十回と経験した。

関税がなくなったことで、大量の砂糖が我が国に流入したんだ。

最初に砂糖を運んだ場所は、今でも覚えている。

なにせ、今でもそこに馴染みの顔として通っているからな。

「ホールエルシー」っていうんだ。

ガルゼラル地区にある小さな軽食屋で、もとは密造酒を作って販売していた老舗だった。

海沿いの路地に近かったおかげで、直接乗り付けて荷降ろしできるのがとても楽だった。

乗り付けた俺を見て、ユキハイトカゲみたい、といった夫妻との最初の出会いを覚えているよ。

笑顔でそういわれたのは久しぶりで、とても懐かしい気分だった。

砂糖は乗せれば乗せるほど金になったから、過積載もお構い無しで滑らせてきた。

自信があったから、操舵にたいする反応が悪くても、ねじ伏せられた。

驚いたことに、雪帆船の荷物は全部砂糖で、全部二人が頼んだものだった。

予想より早く着いたことに気を良くした二人は、俺を軽食に誘ってくれた。

最近は眠る暇もなかったから、小休止にいいかと思って、荷降ろしを終えたところで店の中で休憩をしたんだ。

 

軽食と一緒に酒を出されて、心底驚いたね。

そこで、ここが酒蔵に併設した軽食屋だったことを知らされたんだ。

酒は美味かったね。

味のない純粋な酒っていうのは飲んだことがなかったけど、好きになったよ。

気分を変えたければ自分で足せるのもいい。

内装はちょっと薄暗い掘っ立て小屋っていう感じだったけど、演出の一つなんだろうな。

明かり自体は十分な数が設置されていて、わざと多く付けすぎないようにしているみたいだった。

それに俺のいる間、店にやってきた客は年配のものばかりだった。

扉を開けた第一声が、砂糖が入ったんだって、というものだ。

なるほど、ここは身内のための、知る人ぞ知る店なんだろうなと予想するに十分だった。

本来の軽食の値段を聞いて、他の店とあまり変わらないことを確認した俺は、次もここに配送をしようと心に決めていた。

ああ、また酒をご馳走してくれるかもしれないという打算もあったよ。

案の定、「ホールエルシー」の夫婦は気前よく、来るたびに軽食と酒を一杯出してくれた。

何度も通ううちに、客層がなんとなく把握できるようになる程度になってきた。

客層は大きく分けて二つだ。

老人と、厚手のコートで元の服装をごまかしている現役の軍人だ。

どれだけ素人を装っていても、ガタイの良さは隠せないもんだ。

裏路地の人間かとも思ったが、体幹がいいのか姿勢が崩れない。

話の内容からして、軍人はみな極地探索隊に所属しているようだった。

とすると、年配の老人は軍人の親世代かなにかだろう。

そんな古強者ばかり通っている店は、はっきりいって異常だ。

なにか繋がりのある店なんだと思わせるには十分だった。

最後にそれを確信したのは、場が砂糖の話で盛り上がって、話を振られたときだった。

いつ来ても、そこは砂糖の話で持ちきりだ。

すごいことなのはわかっていたが、やけに砂糖の話が持ち上がるから、気になって口を出してみたんだ。

軽食屋に砂糖がそれほど大事なんかね、ってな。

当てずっぽうに言った俺の言葉は、全員の琴線に触れたみたいだった。

反論、というよりもこの店の凄さのような自慢話が耳になだれ込んできた。

ここの酒は昔から砂糖を主原料にして作っているんだそうだ。

要約すれば、原料の砂糖が安く手に入るなら、酒も安くなる。

これほど酒飲みにとって嬉しいことはない、という話だった。

嵐が過ぎ去ると、開設百周年が近いということで、記念行事でなにをしようかという話で盛り上がっていた。

話を整理しながら、俺は勘定が会わないんじゃないかと思っていた。

百年前の糖類の価格はいくらだったか。

計算しなくても、それを酒のためだけに使う馬鹿がどこにいる。

昔から変わらない製法でやっているんだったら、なおさら砂糖水で酒造をしていたことになる。

加えて、今でさえやっと砂糖の価値が暴落したところなんだ。

それまで、この店はこうやって客に安価で酒を出し続けていたことになる。

それこそありえない。

この夫婦の家系は変態的な趣味人の貴族かなにかだったんだろうか。

昔の価値で酒を計算しようとしたとき、老人がすいすいと寄ってきて、俺に酒を注いでくれた。

まあまあお若いの、難しい顔をせんで飲もうじゃないか。

たしなめられるように酒を飲まされて、喉を通る熱とともに考えは蒸発していった。

まあ、どこだって泊をつけるために多少の嘘はいうものさ。

変なところをつついて心象を悪くしても損しかしないしな。

そう思うことにした、というわけだ。

 

 

思い出話はこれで終わりだ。

酒のつまみに話したっていうのに、みんな酒飲まないで聞いてやんの。

さっさと飲んでおかわりでも注文しなよ。

話だけたらふく食ってるようじゃ店が潰れちまうぞ。

そうだ女将さん、エリーゼ嬢ちゃんはもう寝かせなくていいのかい。

そろそろ時間だろう、寝物語でも聞かせてやんなよ。

ああ、あとは亭主が俺たちのお守りをしてくれるってさ。

おやすみ、いい朝を。

さて、それでだ旦那さん。

いい加減教えてくれよな、この店の秘密をさ。

前振りとしてさんざん話してやっただろう。

ここにいるには俺以外は軍人しかいないんだ。

ほら、こいつらもニヤニヤしてるだろう。

絶対になにか心当たりがあるって顔だよ。

こいつらがなにか噛んでるのにはなさないもんだから。

しかたなく、あんたに聞いてるっていうのにさぁ。

どうやったら教えてくれるのか、みんな考えてくれないかね。

ああ駄目か、口が堅いっていうのは困った。

おっと、酒を注がれたってそうそう潰れはしないからな。

今日はとことん、といきたいところだが、明日があるからな。

潰れそうなところまでは我慢比べにつきあってやるよ。

え、艦長とは会えたのかだって。

ああ、もちろん会えたに決まってる。

話してなかったか。

本当だ、どこかで話の順序が崩れたんだな。

よしわかった、あんたが砂糖の出処を話してくれるんだったら、話してやるよ。

卑怯だって、卑怯なもんか。

ほら、こいつらは乗り気だろう。

面白い話が聞けるんだったらそれくらいいいじゃないかって顔をしてる。

どうやら俺の粘り勝ちみたいだな。

今から話してやるが、一つ聞いてもいいか。

本当に俺が聞いてもいい話なんだろうな。

軍人の笑顔は怖えんだよほんとに。

いいか、俺は酔っ払ってるんだ。

間違っても我が国の知られざる暗部の、とかを話すような馬鹿はやらないでくれよ。

やっていいところとだめなところの見境はつくよな。

よし、じゃあ話してやる。

あの艦長は…………

最終更新:2019年07月23日 00:37