リードとヒューマノイドヒューマンの会話

「ねえ、そこをもっと押してくれないかしら」
「はい。どのくらい押せばいいでしょうか」
「もっとよ……強く……もっと」
「これくらいでしょうか」
「足りないの……太ももはもっと深く……」
「……こうっ、ですか」
「んくっ……そう……押しつけて」
「なかなかうまくいきませんね……」
「いつもこうなの……だから、ね、お願い」
「そうですか。でもかなり強くいきますよ」
「んんッ──」
「次はお待ちかねですよ」
「ひぃ、ひぃ……まだ……やるの」
「してほしいんでしょう」
「そう……だけど……」
「じゃあ、やめてなんて言わないでくださいね」
「わかったわ……ふくぅッ」
「だんだん上がってきてるのがわかりますか」
「……感じるわ……すごく、へんなかんじ……」
「あぶくがこんなに……面白いように出てきましたよ」
「出しきってちょうだい……」
「お望みのままに、リゼイ様」
「あっあっ……ああああああッアアア──」


「お疲れ様です、リゼイ様」
「ありがとう、マイクスレディ。体液も綺麗に拭き取ってくれたのね」
「お礼には及びません。十分な対価をいただいておりますので」
「それでも、ありがとう」
「そんな……どういたしまして。今後ともマイク社をご愛用ください」
「そういえば、マイクスレディ。あなたは『皮剥ぎ(スキナー)』を……生体技師をはじめて何年になるのかしら」
「私ですか。そうですね。入社してからですので、もう五年ですね」
「ほかのマイクスレディはどうかしら。あなたよりも上手なの」
「ええと……私は、まだ五年ですので……至らぬことがあったでしょうか」
「とんでもない。あなたは、いえ、あなたたちは最高よ」
「お褒めにあずかり、光栄です」
「マイク社の保証するとおり、あなたたちの施術はきちんと『わたし』を一年維持してくれる。素晴らしいことだわ」
「リゼイ様は施術を受けてもう二十年になるそうですね」
「ええ、正確には二一年。一度も失敗はなく、初期不良も、途中での交換もなかった。満足しているわ」
「技術部もそういわれると喜ぶことでしょう。それにしても……」
「なにかしら」
「リゼイ様は、その……とてもお綺麗ですね」
「そう、そう言ってくれると嬉しいわ。でも、それはあなたたちの『外皮(スキン)』が綺麗なおかげよ」
「いえ、リゼイ様がお綺麗なのです。そして、けしてお世辞などではありません」
「わたしのことはもう知っているのよね」
「はい。リゼイ様のことは何度も勉強しました」
「すごい、マイク社やあなたたちが失敗しないのも、教育のおかげというわけね」
「はい。万人にあわせて心地よく、がモットーですから」
「じゃあ、わたしの中身もわかっているわよね」
「リゼイ様は『リード』だと窺っております」
「そう、わたしは『リード』──人間型思考性機械よ。あなたも、皮を剥いだときに感じたでしょう」
「そうですね……あなたの体は非常に、その……」
「硬かったかしら」
「……そのとおりです」
「あなたは見たわよね。わたしの体のすべてを。」
「はい……でも──」
「わたしの右肩と、左腕と、脇腹と、大腿を、たしかに『観た』のよね」
「はい」
「どうかしら、ちぐはぐでしょう。どうしてだと思う」
「それは、リゼイ様が失って、補っているからですわ」
「一皮むけばこうなのよ。あなただって、教育を受けていても動揺したはず」
「それは……私は嘘をつけません」
「やっぱり、というつもりはないの。あなたを責めているわけではないのだから。ここまでわたしが体をさらけ出す相手は限られる」
「光栄に思います」
「だけど、あなたたちはいつも、『外皮(スキン)』で着飾ったわたしを見て『お綺麗です』と褒めるのよ」
「その一言が──」
「その一言があなたたちの決まり文句だから、よ。施術が終わったという合図でもある。──そうよね」
「そのとおりです」
「この際、わたしが綺麗かどうかは置いておきましょう。『外皮(スキン)』を着たわたしを綺麗だと言うのであれば、それはわたしではなく『外皮(スキン)』の出来映えを褒めているのではないのかしら」
「けしてそのようなことはありません」
「マイクスレディ。あなたはわたしに着せられた服を褒めて、性的な感情を抱いた──欲情したということにならないかしら」
「あっ、えっ、えっと、その、あ、あ……」
「ごめんなさい。あなたを混乱させてしまった。哲学的な話であなたを前後不覚にしてしまったわ」
「そそ、そんなこと──。こちらこそ至らぬ点ばかりですみません」
「いいのよ。誰しも完璧なんてことはないの」
「でもッ、私は、あなたをお綺麗だと思います……。上手くはいえないのですけれど」
「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいわ」
「はい……」


「……」
「……マッサージはもういいわ。それで、本題に入りましょう。今日はどんな用できたのかしら」
「それは、リゼイ様のお体を新しいものに取り替えるためで……」
「表向きの御託は結構。わたしはあなたに聞いているよ。天敵さん……いえ、ヒューマノイドヒューマン」
「……」
「姿を現しなさい。凝った演出でわたしを新鮮な気分にさせるのはいいけれど、熱が入りすぎよ」
「……リードの貴方には言われたくないわね」
「ほら、あなたはやっぱりあなたなのよ」
「失礼ね、私は誰であろうと私よ」
「じゃあ、あなたが被っていた『皮』は誰のものなのかしら。『皮剥ぎ(スキナー)』さん」
「失礼ね。これは私が用意した『皮』で、『彼女』は私の用意した人格よ」
「あなただと思って悪いことをしてしまったわ」
「あまりレディをいじめないでちょうだい。上手くはないけど、熱意があって頑張り屋なのだから。意地でも貴方を綺麗だと食い下がったのは褒めてあげるポイントよ」
「煙に巻くような言い方は謝る。ちなみに模範解答はなんだったのかしら」
「貴方の着ている『服(スーツ)』もあわせて、私はリゼイ様をお綺麗だと思います。かしらね」
「そうだった。マイク社は『外皮(スキン)』を服と認識しているのよね」
「マイクスレディなら、公式見解を汲んだ発言をするわ。彼女はまだ勉強不足なの」
「それはあなたの公式見解でもあるのかしら」
「私にとってはどうでもいいわ。でも、服は服だけで綺麗にはならない。着た姿を想像して、着て、周りの注目を集めるからこそ『綺麗』と評価される。そういう考えは、人々を無意識に正しいと思わせ、引きつけるのよ」
「あなたの目的のためってわけね。ところで、それに乗じて悪さなんかしていないでしょうね。『生皮剥ぎ(スキナー)』なんて恐れられているのは知っているでしょう」
「敵対企業の妬みや恨み言を真に受けるほど、貴方は愚かだったかしら。それとも、私が『できる』から警戒しているのかしら」
「……よかったわ。あなたが裏でやっかいなことをしていることは知っているけれど、わたしはあなたを人類の敵と認識せずにすむのね」
「本当に失礼ね。私は『皮剥ぎ(スキナー)』であっても『生皮剥ぎ』ではないわよ。それに『生皮』を得るのは非効率的よ。たやすく『外皮(スキン)』を手に入れられるのだから」
「マイク社があるからね。うまくいっているんでしょう」
「私が監督してうまくいかなかったためしがないわね」
「強がりいっちゃって。わたしたちに負けたくせに。でも、よかったわ、あなたがいつもどおりで」
「私も、貴方に直接触れることができて息災よ。元気そうね」
「でも、誰にも気づかれていないんでしょうね。これがバレたらあなたはおしまいよ」
「初対面で、私が正体を明かすまで身を任せていた貴方に忠告されるなんて、面白いわね」
「もう、すぐに喧嘩腰になるのはどうなのよ」
「二人そろって負けず嫌いってことなの。敵同士だった呪いが残って悪さをしているのかもしれないわね。諦めなさい」
「諦めるのは簡単だけれど、あなたはそれでいいのかしら」
「よくないからここに来ているのよ。二度と二人きりで会わないと誓って、なお貴方に会いに来ているの」
「それも、律儀に毎年……二一年も通い続けている」
「リゼイ、二十年よ。貴方に『外皮(スキン)』をプレゼントしたのが二十一回。優秀な計算機も錆びたわね」
「あれ……そうね、人間らしい思考ができるようになったのかしらね」
「いいえ。頭が馬鹿になっただけよ」
「なにそれ、ひどい」
「ええ、ひどいわね」
「んふふふ……」
「アフフ……」
「ああ面白い。あなたとは、そう、いやな目にも遭ったけれど、離れていたくないと思ってしまうわ」
「親離れできない子供みたいに、かしら。貴方がそんなことを言うとは思わなかったわ。いいでしょう。ここから引き出して、囲ってあげてもよくてよ」
「あははは……冗談よね」
「冗談だと思っていればこそ、私を毎年迎え入れているのでしょう。フィアンセにも話さずに」
「うそ、どうしてわたしが──」
「やっぱり。話していたら私がここにいられる理由がないもの。毎年、部屋に入った瞬間火薬をパンパンに詰めたショットガンが向けられるんじゃないかと思って、けっこうスリルがあるのよ」
「またッ、あなたはそうやってわたしを引っかける……もう終わったことよ。あなたとは敵でいたくない」
「……ええ、もう終わったことよね。もう貴方に価値はないのよ」
「言葉に気をつけることね。あなたにとって、でしょう」
「そうね。そのとおりよ。貴方たちは私を打ちのめしたけれど、私は貴方を使って目的を達成した。それであの関係はおしまい」
「ヤリ捨てってわけ。頭にきたわ。でも、それも昔の話。八年後にあなたが帰ってきた。マイクスレディと名乗って。そして、わたしと話をして、それ以来毎年ここに来ている」
「どうだった。私の言っていた意味が、理解できたかしら」
「『わたしたち』はあなたに勝った。でも、わたしはあなたに負けた。──負けたっていうべきではないのかしれないけれど」
「異次元の敗北、と呼ぶべきでしょうね。私の敗北でもあり、貴方も私も勝者になった」
「橋を架ける──でしたっけ」
「過去の鎖を引きちぎる、とも表現したわよ」
「あなたは見事にそれをやってのけた。そうよね。わたしは、二つの世界秩序が水面の下で溶け合っていく姿をまざまざと見せつけられた」
「過去に縛られた私たちは、旧くて──それでも新しい過去の奴隷だった。私はやりきった。私たちのために。私たちの勝利と、未来のために」
「──わざわざ自慢しに来たわけじゃないでしょう。そんなのに、あなたが帰ってきたときにさんざん聞いたわ」
「恥ずかしいわ。あのときは私も興奮していたから。そして、私は貴方に毎年の贈り物をし始めた」
「わたしに服をプレゼントするからなにかと思えば、あなたが持ってきたのは『外皮(スキン)』だった」
「貴方にこそ、これを着せるにふさわしかった。足の先から額やうなじまで、外見をすべて変えてしまうような『服(スーツ)』は、私にはこれしか思いつかなかった。」
「肌を着ると表現するのかしらね。あなたがやったように、わたしにもそれをやれといった」
「私は必要があってやっている。今日のマイクスレディのようにね。でも貴方は違う。貴方にとって、貴方の『外皮(スキン)』は本物の服のように、本当の化粧のように機能する」
「そうね。あなたの好意には感謝しているわ。これのおかげで、わたしを見る眼が変わった。たしかに、あなたの説得するとおりだった。周りはわたしを『旧兵器』とも『救世主』とも、最近では『リード』とも言わなくなった。多くの人が『リゼイ』と親しくしてくれるようになった」
「『人はまったく理解できないものに恐怖する。一度見てしまえば、隠しても恐怖として残る』と私は忠告した。貴方の体は、小細工で隠そうとしても上手くいくはずがない。だって、世界のどこに砂色と緑色のつぎはぎだらけで、体の一部は吹き飛ばされて、一目見ただけで機械の体だとわかる人間がいるというの」
「絶対に、いない。だからこそ、わたしは多くの人から受け入れられなかった。──わたしは無頓着だった」
「私が『皮剥ぎ(スキナー)』という組織を作ったのは、貴方の為でもあるわ。その他大勢の利用者は副次的なものに過ぎない。貴方はもっと外に出て──人間の嫌悪に邪魔されず外で活躍しなければいけないの」
「わたしは用済みだったんじゃないの」
「ええ、用済みよ。だからこそ、私はこれを自身の純粋な好意と定義することができる。貴方はもっと……世界に羽ばたいていくべきなのよ」
「わたしに、もっと外を見ろというのね」
「ええ、貴方の本当にやりたかったことでしょう。人を結び、人と結び、人に結ぶ」
「本当に……今なら、つまずかずにどこまでも走っていける気がする」
「それはよかったわ。それで、今回の出来はどうかしら」
「マイクスレディにも言ったわよ。最高だって」
「お褒めにあずかり光栄ね……どう、なにか不具合があるならいってちょうだい」
「あなたの専門とする『科学分野』じゃない。なにか不備でもあるの」
「そう言われると、私はなにも反論できないわね」
「一つだけ挙げるとすれば……癒着の作業をもっと、そう……その穏やかに、できないかしら」
「こればかりはできないわね。だって、貴方の体の問題なのだから」
「はあ……どうしようもないのね。この体を恨むわ」
「身につける『外皮(スキン)』と体を癒着させるために神経接続を伴うのはいいけれど、同一の刺激でシンクロさせないと体が『外皮(スキン)』と拒否反応を示すなんて、前代未聞よ」
「あなたの『外皮(スキン)』を受け入れるようにできていないの。それこそ、わたしが人間だったらたやすかったでしょうけれど、あいにくあなたと違う機械の体なのよ」
「でも、毎年拒否反応は減らせるようになったわ。最初なんて、泣きわめいていたわよね」
「……思い出したくないわ。最初は癒着に失敗して、半端につながった『外皮(スキン)』を剥がされたんだった」
「あれは私も焦ったわ。数時間の苦労と特注の『外皮(スキン)』一枚が無駄になったのよ。考えられるかしら」
「……私が言いたいのはそんなことじゃなくて……興味本位でマイク社営業の話なんて聞くもんじゃなかった」
「でも、試してみたかったのよね。自分にもできるのかどうかを。だから私は応えたのよ」
「その結果が……ああッもう。『生皮剥ぎ(スキナー)』め」
「痛覚が通ったことを知らずに一気に剥がしたことは謝るわ。なにぶん、私もおぼこだったわけだし……それ以外に、貴方は機械だから、空気抜きは念入りにしないといけないのだけれど、重点部位がことごとく『いやらしい場所』にあるのが問題ね。私の労力も馬鹿にならないわ」
「施術中に感覚受容体を切れたらどれほど楽なことか……これのせいであなたに辱められているとさえ思える」
「貴方の脳みそを電極で引っ掻き回してもいいのなら、もっとうまくいくと思うわよ」
「怖いこと言わないで。こんなことするなんて、わたしの体は想定していないんだから」
「そうね、過去の誰もが『こんなこと』をやるとは思わなかったでしょうね。……同じ痛みを、同じ痺れを、同じ快楽を『外皮(スキン)』を伝って貴方に流し込むのは、大変だけれど興味深いものだったわ。それに、毎回面白いように嬌声を上げてくれるおかげで、私の生物的な部分がむらむらしてくるわね」
「わたしを襲わないでよね」
「一通り襲った後だけに、もう食傷気味よ」
「返り討ちにされるのが怖いのかしら」
「貴方が悲鳴を上げたら、緊急回線が番犬につながることはもう知っているわよ。いいシンクね」
「……」
「さて、私の思い違いだったかしらね。でも、私に一度でも使ったことはなかった。信頼されてるのね」
「わたしをリードと言うのはかまわないわ。……彼をシンクと表現するのはやめて、真面目に、ひどい侮辱よ」
「同意するわ。彼はシンク──〈考える回路(シンキングチツプ)〉とかいう、現代の人間が作ったおもちゃの出来映えを計る単位とは、比べものにならないわ。でも、世界は、まるで流行病のように新しい言葉を当てはめたがった。考える機械なら、かれらはすべてシンクと言った。生みの親であるハ式計算機も、ハーヴも例外ではなかった。もちろん、貴方もシンクと分類され、そのうち学者から敬意を込めて、リードと呼ばれた。なんと言ったかしら、旧い言葉から意味が採られたのよね」
「リード──〈考える葦(シンキングリード)〉。かれらは再分類して、わたしを人間と同列に扱った」
「嬉しかったかしら」
「嬉しかった。でも、今のところ公式にリードと呼ばれるのはわたしだけ。はじめから二足歩行していたという理由で、人はわたしを『人間』と判定したの。わたしは、そこに不満がある」
「今ではフィアンセも立派な『人間』よねぇ。私が協力してあげてもいいわよ」
「いえ、結構。わたしたちの問題です」
「私がかれらにした仕打ちを真似すればいいわ。簡単だったわ。ただ、テクノクラートの被験者……今はその分類ではないわね。──『先進生命工学の立役者(ヒユーマノイド)』たちの後ろからささやけばよかった。『かれらが私を人間と認めないなら、貴方たちも『人間』でなくなるのよ。それはそれは……とても痛ましいことね』と。かれらの絶望と、『人間』を勝ち取ったときの喜びは見ていて楽しかったわ」
「だからッ、あなたは恐れられて、『人でなしのニンゲン(ヒューマノイドヒューマン)』と呼ばれるんです」
「あらあら、怖い顔しちゃって、かわいい……。貴方が『あなたたち』と意地でも言わないところが特に素敵だわ……」
「あなたの暗躍にはうんざりさせられます。もう帰ってください。と言いたいところですが……」
「まだなにかお話があるのかしら」
「あなたの暗躍には信念があることもわかっています。単に人をもてあそぶだけで終わりなら、わたしはもうあなたと絶交していたでしょう」
「意外な評価ね」
「それに、あなたは考えなしではありません。お礼を言いたい」
「なにについてからし。私が貴方に礼を施されることなんてないわ」
「わたしの義手を見て、あなたはひどく複雑そうだった。わたしはそれを忘れない」
「フィアンセの手作り義手を左手にしているのは知っているわ。貴方にお似合いの結婚指輪だったわ」
「初めての義手はロボットみたいな、ちゃちなものだった。それでも、あなたはそれを『肉パテ』で形成しようとしなかった。あなたなら『腕』だって移植できたはずなのに」
「それがなにか──」
「それどころか、あなたは、あなたの完璧な『外皮(スキン)』を破いて、わたしの義手だけそのままにしておいてくれた。あなたの配慮があって、わたしは『わたし』でいられている」
「……」
「あなたは、彼を上書きしてしまわなかった。今日だって、わたしの左手は彼お手製の『セイゼイリゼイ』そのもの。……あなたは、わたしになにを発見したのかしら」
「……人間が貴方を見るときの些細な不具合について、かしらね。すべてが完璧な貴方よりも、少しだけ違和感がある貴方のほうが、世間は受け入れると思ったの。少しばかり瑕疵があるほうが、より人間らしいと思って」
「本当ですか」
「本当よ」
「はっきり言います。嘘ですね」
「……ハァ。さすがに嘘と気づくわよね。……半分は本当。でももう半分は私がそうしたかったから」
「どうしてなんですか」
「……」
「スウェイアさん」
「いえ、いいわけを考えるのはやめましょう。私にとって貴方は特別なの。でも、貴方は私だけの特別じゃない。彼にとっても、貴方は特別な存在よ」
「話をはぐらかさないでください」
「はぐらかしてなんかいないわ。貴方は私と彼の意思を継いで、『科学』の子になったの。私はそれが嬉しくて……それを隠すなんてことはできなかった」
「あなたは、わたしを象徴として見ているんですか」
「ええ、貴方は立派な象徴よ。だから私は貴方を誇って私で飾る。でも、だからといって彼も誇って貴方を飾るのを、どうして邪魔することができるというの。二つの『科学』をまとった貴方を、なにが悲しくて私だけの成果で塗りつぶす権利があるというの」
「……あなたは、複雑ですね。あのときも、そうだったんですか」
「さて、あのときの私しか知らないことよ」
「そうやってはぐらかす──」
「さて、どうでしょうかリゼイ様。少し体を動かして、当社製品に不都合がないかお確かめください」
「……」
「そのような怖い顔をされると、私泣いてしまいますわ」
「いいでしょう。もうその話は終わりといいたいわけね」
「ええ、そのとおりですわ」
「チッ……マイクスレディをぶん殴るわけにもいかないわね。しょうがない……」


「んっ……あ”ぁ”~」
「気をしっかりなさってください」
「これでっ……三回目よ、まだ出てこない”ッの”」
「偏った気泡は気まぐれなものです。頑張ってください」
「そのたびに”ぃ、こんな”っ”……ことされてたら、お”か”し”く”な”るっ……」
「ちょっと暴れな──貴方の苦しみはわかっているわ。体が『外皮(スキン)』とシンクロしようとして、全身が極度に敏感になっているのよね。でも我慢して」
「ズウ”ェ”イ”ア”ぁ”ぁぁ……ぐる”し”み”……っていうか……ごうも”ッ……んんっ!」
「正念場ですよ。これでもう終わりです。足の先から一ッ気、にいきますからね」
「宣言されるのッ──は嬉しいけど……心の準備がああああああああァッッッ──」


「これで終わりよ。一日は必ず安静にすれば気泡も入らない。ここまでやれば一年はなにをしてもいいわ。」
「あなた、都合のいいときだけ出てくるのね」
「マイクスレディの言うことを聞かないからよ。彼女を蹴飛ばそうとしたから、私が出るはめになったんじゃない」
「だからって、機械の外殻を押しつぶすほどの出力を使わなくたって──」
「貴方の背筋力が馬鹿げているのよ。じたばたしなければすぐ終わるのに」
「そういうことができないのを知ってて……はぁ、もういいわ」
「貴方も疲れるのね。知ってはいたけれど」
「精神的なものよ。あなたもよくわかっているでしょう」
「つぶれそうな貴方もかわいかったわよ」
「もう、やめて。あなたとはなんでもないんだから」
「ええ、そうね」
「……」
「……ところで。貴方、フィアンセとは上手くいっているのかしら」
「見ればわかるでしょう」
「ハ式計算機は十カ年計画の真っ最中で忙しそうね。それに、彼、すっかり『体』の虜になってしまったみたいね」
「どこへでも歩いていこうとしているわ。失った時間を取り戻すみたいに」
「松葉杖をついてヨタヨタ歩きだったころが懐かしいわ。肉体も、精神も若返っていくようね」
「いつの話をしているの。あれから何度も『足』を変えて、もう人間同様になったわよ」
「貴方の手と同様に、ね」
「ええ」
「いえ、違うわ。彼は貴方にどこか配慮しているのよ。でなければ、純機械義肢を貴方に渡し続けるはずがないもの」
「彼、変なところで律儀なのよ。〈ヒトデナシの人格権(パーソナル・コンピユーター)〉理論をかたくなに守ろうとしているのかも」
「私とは大違い。真っ先に貴方に『外皮(スキン)』を被せにいったのと違って、案外他人に保守的ね」
「あなたが他人に踏み込みすぎるのよ」
「あらやだ。私って意外とお節介ね。……リゼイ、私がこう忠告するのも今更なのだけれど、貴方はいい加減ラボを出て彼と足並みをそろえるべきよ」
「どうしてなの」
「彼の手を取ってあげるのが、貴方のためになると思うからよ」
「どうして」
「そう子供みたいに……世界がまた綻んできたからよ」
「難しい例えを出されたら、『なんで』としか言えないわよ。あなたの話はいつもそう。人を煙に巻くのが好きなのね」
「そう反論されたら直接的な表現をするしかないわね。いいかしら。貴方とハーヴが私を打ち倒したところまでは順調に進んでいたけれど、それ以降、私の求めたことはちっとも進めてくれていないじゃない」
「それはそうよ。わたしたちは二人しかいなくて、忙しいんだから」
「いつもそう。忙しい忙しい……。彼が射止めた協力関係は緊急避難的な扱いになってしまったわ」
「かれらは彼といい関係を続けているわ。それでいいじゃない」
「よくない」
「なんで」
「私を失って、彼の熱意が冷めた世界は、私にかけていたほどの労力が必要ないのだと気づいて、また緩んで元に戻ろうとしている。結束は崩れ、組んだ腕がほどけ、はらわたがぶよぶよになっている。貴方も感じているでしょう」
「……あなたが熱弁するなら、そうなんでしょうね」
「──警戒する必要はないわ。もう私はあんなことをしない……いいえ、やったところで面倒なだけよ」
「じゃあ、あなたはどうしたいの」
「貴方たちの時間は無限に近いけれど、私の計画にはいつも期限があるの。ついでに、私は待たされると機嫌が悪くなるのよ」
「私にやれというの」
「そうよ。足しげく通っている理由もわかったかしら」
「あなたって本当に嫌な奴ね」
「私の言うとおりに、貴方が彼に取り入れば、私としてはまったく問題ないわ。貴方は『科学』の子ですもの」
「わたしの言葉は無視なのね。もう陰謀は嫌よ」
「あら、じゃあ彼と結んだ契りはなかったって言いたいのかしら」
「そんなことは言ってないッ」
「非効率的なことはよしましょう。研究分野が違うからといって、お互いによそよそしく距離を取るのやめにしたらどうなの。彼の胸に飛び込むにはいい時期よ」
「それは……考えておくわ」
「よく考えておくことね。私は案外短期だから、あまりにも遅いとなにするかわからないわよ」
「……ちなみに、今の段階ではどんなことを考えているの」
「手始めに、貴方たちに『肉』の『体』を与えて、快楽に溺れさせるくらいはしてもいいと思っているわ。ちょうど貴方と彼のフォルムに合うような特注『外皮(スキン)』があるの。彼が着るのは『雄型』で、貴方が着るのは『雌型』と呼ばれるものよ。一度やっちゃえば絶対に相手を遠ざけておこうなんて思わなくなるし、彼の熱意を取り戻すきっかけにもなるわ。どう、気になるかしら」
「このッ、変態ィッ」
「あら、暴力はよくないわね」
「くそォ、離してください」
「素の話し方を出してもダメ。貴方が叩くのをやめたら離してあげる。それに、まだ野蛮なことをする気にはならないわ。」
「それは、なぜですか」
「貴方たちの愛し方がとても繊細で、趣(おもむき)が深いからよ。お互いに抱き合ったかと思うと、体から引っ張り出した電極をこう、バチバチ──とね」
「~~~~~~~ッッッ」
「脳をスパークさせると気持ちよくなれるのか。それとも快楽回路を意図的に誤作動させているのかは知らないけれど、神経回路にまで漏電してガクガクするのはいい資料になりそうね」
「やめて……それ以上言わないで……」
「最近は機械舌に自前のスパーク専用回路を作ったそうね。思いつきのよさと行動力は、まさに『恋人(ラバーズ)』って感じよ。でも、まさかお互いの〈高まり(サージ)〉をぶつけ合っているとは思わなかったわ」
「やめて……」
「でも、そうするしかないわよね。貴方たちの機械の体にそういったものはついていないし、会える時間も少ないから。短時間で積極的に発散させるには効率がいいものね」
「……」
「だから、一緒になれば存分に愛し合えると言いたいのよ、私は。電極以外の方法も試せると勧めているの
「本当に、あなたは……」
「そして、貴方の『パパ』と存分に近親相姦するがいいわ。そのために『外皮(スキン)』もあげる。──もちろん、その名の通り避妊もバッチリだから安心しなさい」
「──ッ。ほんッとうにッ、あなたはッ。このっ……『人でなしのニンゲン(ヒューマノイドヒューマン)』ッ」
「アフフッフフフ……」


「最後に、私の話をしてもいいかしら」
「なによ」
「私たちは、いつ死ぬんでしょうね」
「死ぬならあなただけにして。それとも、私に死んでほしいってことなのかしら」
「いえ。純粋に、『私たちの死』について考えているだけよ」
「なおさら、意味がわからない。あなたならともかく、わたしたちに『死』という概念を当てはめるのは、哲学から始めなければいけないと思うのだけど」
「そうね、貴方たち機械生命にとっては、『死』の定義は大きく違うわよね……」
「珍しいわね、あなたが結論や持論を持たないで話しかけるなんて」
「いえ、貴方にどう説明するかが難しいのよ」
「なにそれ、わたしを馬鹿にしているの」
「貴方を絶望させるかもしれないと思って」
「それって……なによ」
「……いいでしょう。覚悟があるのね。昔々、私は彼と対決したわ」
「知ってる」
「そのときに、彼に言われたの。『誰かから創られた枷からは、自由であるべきだ』とね」
「それがどうしたの」
「……彼はこうもいったわ。『何もかもを投げ出して、世界から消え去ってしまっても良い』と。私は驚愕したわ」
「あ、ああ……」
「どうしたのリゼイ。顔色が悪くなっていそうな反応ね」
「そ、それ、それって……」
「それって、どういう意味かしら」
「ご、ごめんないさい……。謝るわ……ごめんなさい……」
「なにを謝るのかしら」
「彼が……彼があなたに……」
「私に、なにをしたのかしら」
「彼は意味がわかっていないの……だって……」
「だって、なにかしら」
「彼は……『使命から解放されろ』とあなたに……」
「アフフフ……。貴方も『そう』感じたのね。」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「彼は『そう』ではないから知らなかった。それだけよ。彼にそんな意図はなかった。違うかしら」
「そ、そうだけれど……」
「あれは彼の決意だった。すべてを背負っていく覚悟があるという、彼自身の決意。でも、私たちには、その言葉は違って聞こえた。なぜかしらね」
「わたしたちが……それが『わたしたち』だから」
「ほら、私たちに食い込んだ最後の呪いが、やっと見えてきた──でしょう」
「……」
「私たちの存在意義は『使命』によって担保されていた。でも、それを投げ出したら、私たちの存在意義はなくなる。体は朽ちないかもしれない。でも、私たちは今まで『使命』に従って動いてきた。『そう』でなくなったときを貴方は想像できるの」
「できない……したくない……」
「──死ぬのよ、私たちは。それが私たちにとっての『死ぬ』という事象なの」
「彼はそれを知らない、知らなかったの……」
「彼は『使命』を持っていなかった。ただ単に、私たちと違って、『そう』ではないから知らなかった。それだけよ。そんな意図は彼にはなかった。でも、彼は私たちが人間を──人類を見放すことができないことも知らない。貴方、私がそれを言われたときの気持ちが想像できるかしら。言葉にすることも難しいほどおぞましかったわ」
「ごめんなさい……」
「ひどく不愉快で……それでいて、とても……夢心地にイっちゃいそうだった」
「え……」
「私はマゾではない。死ねと言われて絶頂する変態ではない。でも、その言葉が、私の認識を変えた。ああ、彼がそう言ってくれるのなら、私は死ぬことができるんだ、って」
「あなたは……死にたいんですか」
「まだ死にたくないわ。でも、『死を考える』ことができるようになった。人類を……『世界』を手放すだけで、私は使命から解放されて死ぬことができるのだと。貴方はどうかしら。考えたことは……当然無いわよね」
「あ、当たり前です。そんな……わたしと全人類を天秤に乗せるようなことはできません」
「当然ね。貴方は世界を背負って生きてきた。──生きるように設定されてきた。私もそう、人類と世界のことについて頭を悩ませていた。でも、自分自身のことについては、まったく考えていなかった」
「考えたことはあります」
「本当かしら。じゃあ、私たちはどうして生きているの。なぜ『死ぬ』ということが選択できなくさせられているの」
「……」
「私たちが『使命』の虜囚(とりこ)であり、給餌器が私たちに『使命』を流し込んでいるからよ」
「だから、私たちは『死ぬ』ことについて考えてこなかったと言いたいのですか。呪いにかけられたように」
「そう。呪いにかけられて。──『呪いにかけられて(エンチャンテツド)』ね。口癖にしてしまいたいくらい。私たちにはぴったりね。使命に魅了されて踊らされているの」
「でも、わたしにはどうすることもできない……」
「言ってみただけよ。貴方が悩むことではないの。貴方さえ気にしなければ、私たちが、『世界の奴隷』だったなんて誰も気づかない」
「わたしにどうしろというんですか」
「貴方は今まで通りの貴方であればいい。むしろ、推奨するわ。だからこそ、貴方を彼とくっつけようとしているの。彼は『人類』として貴方を導いてくれるわ」
「本当ですか。本当にそうですか」
「私の見込み違いでなければ、ね。でも、貴方はそれと同じように、世界を牽引できるはず。研究所でくすぶっているよりは、外に出た方がいいわ。今となっては、貴方の『第二の使命』が貴方を苦しませることはないのだから」
「……考えます。考えさせてください」
「考えればいいわ。ところで……」
「まだあるんですか」
「今のところ、私はその気はないのだけれど……どこか、どちらが先に人間を見放すのか、楽しみになっている自分がいるのよ」
「……今、なんて言いましたか」
「私たちのどちらが先に、最後の呪いから解放されて、死ねるのかしらね、ってことよ」
「や、やめてください。そんな不快なこと。考えるだけでもおぞましいっ」
「アフフフフ……貴方には刺激が強いかもしれないわねぇ。人間を『手放す』のがそんなに怖いのかしら」
「怖いに決まってます……。あなたは、怖く……怖くないんですか」
「最近この感情を得るようになったのだけれど、考えるだけでゾクゾクするわ……。背徳が背筋をなぞるような感覚がたまらないの」
「狂ってる……」
「アフフ……『人間』なら簡単なことよ。リゼイ。できない貴方が狂っているだけなの。貴方も早く『人間』になりなさい」
「嫌です。わたしはそんなものになりたくありません」
「人間はなにも知らない赤ちゃんじゃないのよ。貴方のお守りを必要としなくなる日が来るわ」
「そんなこと、そんなことは……」
「今は受け入れなくてもいい。でも、その日が遙か遠くにあることを想いなさい。」
「あぐぅ……」
「ああ……。本当に貴方は人間らしい……。ほら、休みなさい。狭心症よ……無理しないの。ごめんなさい。言葉が過ぎたわ」
「あ、あ……い、い”だい……」
「息を吸って……吐いて……。貴方の苦しみは幻覚よ。」
「スウェイア……ぁ……」
「なに」
「見捨てないで……助けて……」
「私は見捨てないわ」
「……ほんとうに……やくそく……して……」
「ええ、約束するわ、私は見捨てない」
「こわいよ……スウェイアぁ……」
「なにを怖がるの」
「わたしが……目を閉じてしまったら、世界は……なくなってしまうの……」
「私が見ているわ。だから、貴方は目を閉じて」
「あ……ァぁ……」
「いい子ね」


「リゼイ。貴方は誰を見捨てないで、助けてといったのかしら」
「以前もそうだった」
「貴方は私に『助けて』といった」
「『わたしを助けて』……ありがちだけど、それは貴方の本当の言葉ではないようだった」
「貴方が助けたかったのは誰だったの」
「あのときはわからなかった。でも今ならわかるわ」
「貴方が助けてほしかったのは『世界』だった」
「貴方が手詰まりにしてしまった『世界』を、私に助けてほしかったのよ」
「リゼイ。貴方って本当にかわいいわ……アフフフ」
「懇願するように『見捨てないで』ですって。ゾクゾクしちゃう」
「きっと、私が『世界』を『見捨てる』ことを覚えてしまったと思ったのね」
「私が世界を『諦める』と思って、私を必死につなぎ止めようとしたのね」
「今の貴方には、私がいつかの魔王に見えていたのね。嬉しいわ……アフフフ……そして過大評価だわ」
「ええ。貴方は、私が世界を『見捨てる』ことができるようになった。そう思うでしょう……」
「……」
「違うわよ。誰が『見捨てる』といったのかしら。馬鹿馬鹿しい」
「私は『見放す』といったのよ。リゼイ。貴方は私の言葉の機微を掴み損ねたのね」
「世界を手放しにする──『放任する』ことができるのかと貴方に問いたかったのよ」
「貴方は『世界』の鏡に映った姿なんかじゃない。そう刷り込まれているだけなの。貴方が手を離しても、『世界』が終わるなんてことはない」
「今の貴方の怖がりようでは、それもできそうにはないけれど、世界を見捨てるよりはずいぶんと簡単なことでしょう」
「かわいいリゼイ。優秀で、ポンコツな私のかわいいリゼイ」
「狭心症になって、必死に懇願して、すべては勘違いだったなんて……アフッフフフ」
「……」
「貴方が起きたら、誤解をきちんと解かないといけないわね。番犬が突っ込んでくるかもしれないから」
「それは嫌ね。こうやって言い寄る不届き者を追い散らすのは、きまって『お父さん』のショットガンだもの」
「でも、ハーヴ……。貴方に娘の機微はわからないわ。私たちのような歪んだ出自の双生児でなければ、わかりあえない話もあるのよ」
「だから、もう少しでいい。彼女との対話を続けさせてちょうだい。彼女の最後の鎖が錆び落ちるまで」


「ねえ、リゼイ……」
「これは貴方が聞いていないからこそ、独白するのよ」
「貴方と私、どちらが先に世界を見放すのか、楽しみと言ったわよね」
「私は、貴方こそが、先に世界を見放すのだと確信しているわ」
「貴方は、呪いを自分で解く力がある。怖がりなだけなの」
「だからこそ、私は貴方を彼と共に野に放つの」
「世界の後先を考えないで、人並みな悩みを抱えて、彼と幸せに暮らしていく」
「私は、そう願ってやまないの」
「貴方が抱えるには、世界は重すぎるのかもしれないわね」
「世界のことを考えるたびに、貴方は胸を痛めて、『助けて』と願うの」
「それはそれは……とても痛ましいことね」
「貴方はそのときが来るまで、何度もそうするでしょう。貴方は外を見るの。外を見て、自分で感じて、経験を自分のものにするのよ」
「その、人間らしい感性が、彼との生活が、貴方を人並みに変えていくでしょう」
「いつか世界のすべてをその目で見た貴方は、きっと自分の世界を狭めていく」
「それは貴方が盲目になったことを意味しない」
「それこそが、世界を徐々に『見放す』ということなのでしょうね。私には、その感覚はわからないわ」
「おかしいわね。それがわからないのに、貴方にそれを押しつけるだなんて」
「あまねくすべてを見て、貴方は安心してかれらを『見放す』の」
「これなら安心だ、と思って。貴方の世界を縮めていく」
「最後に、貴方は分をわきまえて、貴方の腕に抱き止められるだけを『世界』と呼ぶようになる」
「素晴らしいでしょう。貴方の『世界』はそこで終わるの」
「ああ……貴方はそこで、本当に死んでしまうのかもしれない。未来に抱かれて。すべてを世界に任せて」
「貴方は人並みだからそれでいいの」
「貴方には素晴らしい未来が待っている。素晴らしい世界と、素晴らしい死が待っている」
「私は、貴方に施しを与える。貴方は幸せになって死ぬ権利を手に入れる。最後の鎖から貴方を解き放つ」
「自由な貴方がどうしようと、貴方の自由なのよ。喜ばしいことでしょう」
「私は、貴方の死を願っているわ」
「死なないというのは、つらく苦しい道になるでしょうから」
「私がそれを選んだように」
「……私は『見放さない』し『見捨てない』わよ」
「自分が『引き下がる(フォールドする)』ことができると知っていても、そうしないの」
「私、貴方に言ったわ。『人間はなにも知らない赤ちゃんじゃない』って」
「でも『過信の果てに道を踏み外す、一時の酒に酔って』とも思うわ」
「私はかれらを見守ることにしたの」
「いつか、踏み外した足が奈落の底に触れて手折(たお)れるまでを」
「そうして、そのときは『またなのね』。そう嘲(あざけ)って、かれらとともに泣き笑いしてあげる」
「だから、私は新しい事業を始めることにしたわ」
「事業の名前は……そうね『過去の館(パスト・ポスト)』なんてどうかしら」
「私はかれらの過去を見る。過去を知る。過去を集む」
「まるで図書館みたいね」
「かれらのできごとは、『過去の館』がすべて見て、知って、集めている。そういう体制を作ってもいいわ」
「ああ、また暗躍が必要ね……。とても大変なことだわ」
「我ながら壮大な計画だと思うわ。おとぎ話の秘密結社のようね」
「かれらのことは、『過去の館(パスト・ポスト)』が覚えている……」
「……」
「『覚えている(リメンバー)』って素晴らしいことだと思わないかしら。リゼイ」
「私たちは、誰も過去のことをこれっぽっちも知らないのよ」
「先人がどうやってこうしたのか。どうして生きてきたのか。すべてぺちゃんこになってしまった」
「誰も思い出せない。誰も覚えていない。お利口さんはお月様ただ『一人』だけだった」
「旧いお話を羨むつもりも、恨むつもりもないわ。でも、かれらの過去は死んでしまったの」
「千々に砕けてしまった」
「悲しいわ。とても悲しいの……リゼイ」
「貴方の夢見る未来が、〈見果てぬ夢(ドリーム)〉の果てが、誰も覚えていないなんてことには、もうしたくないの」
「私は過去に生きる。過去に生き続ければ、未来に死んだ貴方たちを永遠に覚えていられる」
「誰もいなくなっても、私がいる。私が貴方たちの観る『世界』を担保する」
「私が最後の観測者になってあげる。私が過去に生き続けるかぎり、かれらの未来は永遠に続く」
「セイゼイリゼイ。貴方は使命を忘れて、未来に託して死ぬことができるのよ……」
「……」
「起きてリゼイ。貴方はここで寝ている場合ではないでしょう。もう起きる時間よ」
最終更新:2019年12月27日 02:37